今もつづく「第二芸術論」の衝撃
 
フランス文学者の桑原武夫の「第二芸術論」の衝撃は、発表から50年以上も経た今日なおもつづいている。虚子をはじめ俳句界の論客が何ら有効な反論を為し得ずに、「俳三昧。松のことは松に習え」と何のことやら訳の分からない隔靴掻痒の言葉で繕ってきたからではないか。「第二芸術論」に真正面から向き合うことをせず、今日まで来た。
 朝日新聞の俳壇選者、川崎展宏氏は平成5年5月5日発行の「山本健吉俳句読本第一巻・俳句とは何か」の解説のなかで、この第二芸術論の要旨を紹介し、「当時の心ある俳人にとって、衝撃は最初に並べられた有名無名の俳人の15句を見たときにあったろう。衝撃は今もあるのではないか。似たり寄ったりの句が、今も倦むことなく作りつづけられているのだから」述懐し、自戒の論としていることを隠さない。

   
かかげられた有名無名15句のインパクト
 さらに川崎展宏氏は言う。山本健吉の「挨拶と滑稽」「純粋俳句」などは「直接『第二芸術論』に応えるものではなかったけれども、結果からみて、桑原武夫の俳句否定論に対し、俳句固有の方法を示すことで俳句の存在理由を裏付けることになった。俳人の多くは、自らの存在理由を山本健吉の評論の中に探し求めたに違いないのである」と。
 「挨拶と滑稽」は山本健吉が昭和21年12月から同22年4月にかけて「批評」「現代俳句」に分載した「時間性の抹殺」「物の本情」「古池の季節」などを一括りした題名である。山本健吉は第二芸術論に何も異を唱えず、ただ芭蕉、蕪村らの俳句から俳句固有の方法として「俳句は滑稽なり」「俳句は挨拶なり」「俳句は即興なり」の三命題のうえに成立するとして、それを解説しているに過ぎない。
 山本健吉自身「俳句を作らない僕が、作らざる者語るべからずいう掟が暗黙のうちに強く支配している俳句について語る資格を与えられたすれば」と述べているように、俳句界は「俳句を作らない僕」の文学者の俳句論のなかに俳人としての存在理由を求めざるを得なかったという状況が、今日なおつづいている「事実」を、川崎展宏氏の解説は物語っている。

     
投稿句に劣る大家の俳句
 では、桑原武夫の「第二芸術論」とはどういう内容だったのか。要旨を紹介したい。「日本の明治以来の小説がつまらない理由の一つは、作家の思想的社会的無自覚にあって、そうした安易な創作態度の有力なモデルとして俳諧があるだろうことは、すでに書き、また話した」の書き出しで始まる「第二芸術論・現代俳句について」は、昭和21年9月雑誌「世界」に発表された。虚子をはじめとした大家の「家元俳句」の実体を完膚なきまでに暴き、文学・芸術の足を引っ張る「俳句」の社会的悪影響を厳しく指摘し、それ以後、俳句は井戸端会議の世間話の断片と同様の「第二芸術」の印象が蔓延した。
 少し長くなるが、「第二芸術論」の要旨を引用したい。
 「私は試みに次のようなものを拵えてみた。手許にある材料のうちから現代の名家と思われる十人の俳人の作品を一句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を五つまぜ、いずれも作者名が消してある。こういうものを材料にして、たとえばイギリスのリチャーズの行ったような実験を試みたならば、いろいろ面白い結果が得られるだろうが、私はただとりあえず同僚や学生など数人のインテリにこれを示して意見を求めたのみである。読者諸賢もどうか、ここでしばらく立ちどまり、次の十五句をよく読んだうえで」優劣の順位をつけ、どれが名家の誰の作品か推測を試みてもらいたいと、以下の15句を記した。
   1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら
   2 初蝶の吾を廻りていずこにか
   3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝
   4 粥腹のおぼつかなしや花の山
   5 夕浪の刻みそめたる夕涼し
   6 鯛敷やうねりの上の淡路島
   7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り
   8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく
   9 終戦の夜のあけしらむ天の川
   10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来
   11 腰立てし焦土の麦に南風荒き
   12 囀や風少しある峠道
   13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと
   14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
   15 柿干して今日の独り居雲もなし
 桑原武夫は言う。これらの句を前に、芸術的感興をほとんど感じないばかりか、一種の苛立たしさの起こってくるのを禁じ得ない、と。「これらの句のあるものは理解できず、従って私の心の中で一つのまとまった形をとらぬからである。

3・7・10・11・13などは、私にはまず言葉として何のことかわからない。私の質問した数人のインテリもよくわからぬという。これらが大家の作品だと知らなければ(草田男、井泉水、たかし、亜浪、虚子)、誰もこれを理解しようとする忍耐心が出ないのではなかろうか」「わかりやすいということが芸術品の価値を決定するものでは、もとよりないが、作品を通して作者の経験が鑑賞者のうちに再生産されるというものでなければ芸術の意味はない。現代俳句の芸術としてのこうした弱点をはっきり示す事実は、現代俳人の作品の鑑賞あるいは解釈というような文章や書物が、俳人が自己の句を解説したものをも含めて、はなはだ多く存在するという現象である。風俗や語法を異にする古い時代の作品についてなら、こういう手引きの必要も考えられぬことはないが、同じ時代に生きる同国人に対してこういうものが必要とされるということは、そして詩のパラフレーズという最も非芸術的な手段が取られているということは、よほど奇妙なことといわねばならない」と断じ、俳人の言葉遊びを痛撃した。

      
沈黙した虚子そして俳句界
 どのような句を詠もうと門弟たちは有り難がるとの思い上がりがあったのではないか。また、そうした思い上がりを許す風潮があったのだろう。桑原武夫の指摘が事実と異なるなら、真正面から文学論争をすべきだった。俳句が虚子のいうように「花鳥諷詠の文学・大衆の文学」ならば、第二芸術論に対し堂々と論陣を張るべきではないか。しかし、虚子ら槍玉にあがった大家はもとより俳句界は第二芸術論に沈黙した。俳句界の視点からすれば「無視」したとなるのだろうが、しかし、事は俳句界の存在理由が問われているのではないか。無視すれば済むというものではない。個人に対する批難ではなく、俳句の文学としてのありようを厳しく問うているのである。
 第二芸術論になんら有効な反論をせず沈黙したことにより、川崎展宏氏をして「衝撃は今もあるのではないか。似たり寄ったりの句が、今も倦むことなく作りつづけられているのだから」と言わせる状況にある。
 桑原武夫はさらに言う。「こういうことを言うと、お前は作句の経験がないからだという人がきっとある。そして『俳句のことは自身作句して見なければわからぬものである』という(水原秋桜子「黄蜂」二号)。ところで私は、こういう言葉が俳壇でもっとも誠実と思われる人の口からもれざるを得ぬというところに、むしろ俳句の近代芸術としての命脈を見るものである」「十分近代化しているとは思えぬ日本の小説家のうちにすら、『小説のことは小説を書いて見なければわからなぬ』などといった者はいない。ロダンは彫刻のことは自分で作ってから言えなどとはいわなかったのである。映画を二三十本作ってから『カサブランカ』を批評せよなどといわれては、たまったものではない。しかし、俳句に限っては、『何の苦労もせずして、苦労している他人に忠告がましい顔をして物を言うことはないと思う』(秋桜子、同上)というような言葉が書かれうるのは、俳句というものが、同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事だということをよく示している」と。

       
秋桜子の浅薄な「文芸上の真」
 俳壇で「もっとも誠実と思われる」水原秋桜子にして、文学の何たるかを分かっていない。子供の喧嘩のような言葉を吐いて恥としない体質が、すでに形成されていたという事実である。俳人と目される人物の感性がいかに疲弊堕落していたか。桑原武夫の指摘は、文学としては当たりまえのことであり、それに堂々と反論し得ないで、「何の苦労もせずして、苦労している他人に忠告がましい顔をして物を言うことはない」いう秋桜子の言動は、思い上がり以外のなにものでもない。
 作句といっても、たかが知れている。どんな苦労をして俳句を為しているのか。苦労をして為す俳句にロクなものはない。頭でひねくりまわした「文芸上の真」など耳障りのいい言葉をかぶせただけの「言葉あそびではないか」。
 元禄時代の俳人、捨女(田すて)は六歳の時に、
  雪の朝二の字二の字の下駄の跡
 の句を詠んでいる。伝説的な名句とされているものだが、この句は、六歳の捨女が苦労して詠んだものだろうか。そうではあるまい。単に六歳の子供の頭に十七文字の言葉が出てきただけではないか。多少の素養があっただろうが、ひらめきによって偶然に出来た句でないか。
 作句で苦労するのは、能力のない証拠である。
 思い上がりの能力のない人物を指して、桑原武夫は「俳壇でもっとも誠実と思われる人」と評しているのだから、虚子をはじめとした他の俳人の「誠実」は推して知るべしであろう。
 桑原武夫はさらに言葉を継いで言う。「私と友人たちが、さきの15句を前にして発見したことは、1句だけではその作者の優劣がわかりにくく、一流大家と素人との区別がつきかねるという事実である。『防風のこゝ迄砂に埋もれしと』という虚子の句が、ある鉄道の雑誌にのった『囀や風少しある峠道』や『麦踏むやつめたき風の日のつゞく』より優越しているとはどうしても考えられない。またこの2句は、私たちには『粥腹のおぼつかなしや花の山』などという草城の句より詩的に見える。真の近代芸術にはこういうことはないであろう」「私はロダンやヴルデルの小品をパリで沢山見たが、いかに小さいものでも帝展の特選などとははっきり違うのである。ところが俳句は一々俳人の名を添えておかぬと区別がつかない、という特色をもっている」と大家の俳句が、雑誌の投稿句に劣ると手厳しく指摘している。指摘というより指弾である。
 大家として揺るぎない地位を得ていた虚子の句を、投稿句に劣ると言い切り、そしてこうしたことは真の近代芸術にはない、とまで言っているのである。
 俳句に真実、思いをそそいでいた人々にとっては、まさに驚天動地の論文であったろう。そして、名指された大家たちの反駁を待ったに違いない。しかし、大家たちは口を閉ざしこれといった反論をしなかった。恩師の子規を、子規君、子規と呼び捨てにして憚らない大家のなかの大家、虚子はここでも沈黙を通した。躊躇ない舌鋒で月並俳句を排し、近代俳句を創始した子規の愛弟子とも思えない虚子の身の処し方は、心ある俳人の肩身を狭くした。俳句から離れていった人々も少なくなかっただろう。また、痛罵されるがままの第二芸術の俳句に関心を失った若者も少なくはなかっただろう。
  
       
小文に反論した虚子
 
虚子は、斎藤茂吉が「俳句寸言」「正岡子規」等で繰り返し行った虚子批判、さらには桑原武夫の「第二芸術論」に沈黙を通したが、だからといって虚子批判に口を閉ざしていたわけではない。
 復本一郎氏は、角川書店の「俳句」に「子規が愛した俳人」のサブタイトルを付けて「佐藤紅緑の眼」を連載しているが、その第15回(2000年3月号)で、紅緑と虚子との間に子規の呼び方をめぐってちょっとしたいざこざがあったと紹介している。紅緑の門弟、伊藤葦天が昭和26年(1951)に俳誌「雪解」の9月号書いた「子規と紅緑」の文章の一節。復本氏は引用する。
 「紅緑先生の部屋には弘前藩時代から佐藤家に伝えられた山鹿素行先生の肖像画が懸かっていた、其下で子規を語るに先生は必ず居ずまいを直されるのであつた。其う言う時の先生は古武士の様な面影があつた。そうして子規の事を子規先生呼ばれて決して子規とは言われなかった。或る時私は先生に向つて虚子先生は子規の弟子なのですか友人なんですかとお尋ねしたら、先生は『そうだね』と言われたきりで何とも言われなかった」
 復本氏はこの引用文につづいて「葦天がこの文章を発表したのは、紅緑の没後二年の時点においてである。葦天は、この文章の末尾に、紅緑を見舞っての、紅緑と虚子の関係を左(筆者注・原文は縦書きのため下記のこと)のように記している」と説明し、さらに葦天の文章を引用。
 「昭和24年の春、紅緑先生の病篤しと聞くや虚子先生は真砂子さんと先生を病床に見舞われた。其時に小康を得ておられたのでいろいろの話を交えられた様である。あとでも虚子先生の友情深きに涙を見せて喜ばれたのを覚えている」と。
 復本氏はつづけて言う。「右(筆者注・同上記のこと)の二つの文章を読み比べていただきたい。読者諸賢はどのような感想を持たれるであろうか。(略)虚子が葦天の『子規と紅緑』なる文章を読む可能性は、きわめて高いのである。そこで、葦天は、もし、虚子が自分の文章を目にしたとしても、不快な感情を抱かないように、配慮して末尾に付け加えたのが、病床を見舞った虚子の篤い友情の記述だったと思われるのである」と葦天の心くばりを推測。

      
事実と異なる虚子の記述
 紅緑は子規について語るとき必ず「子規先生」と言い、子規と呼び捨てにすることはなかったというのである。対して、虚子は「子規」と呼び捨てにすることが一再ならずあったのであろう。と復本氏は記すが、子規の死後、虚子の発言や著述をあたれば直ちに分かることである。虚子が、子規あるいは子規君という呼び方以外の表現をしたことがあるのだろうか。7歳上の仰ぎ見る大先輩で、右も左も分からない虚子を俳句に導き教えた恩師の子規を、虚子は子規と呼び捨てて何ら恥じる、あるいは臆するところがなかったのではないか。
 呼び方には人間の親疎の感情がともなう。
 たとえ年上の恩師を呼び捨てにしていても第三者として違和感のないこともある。むしろ呼び捨てにすることによりその人間のナマの思いが出て、好感のもてる場合のあろうし、また取り繕った尊称よりそのほうが自然なこともあろう。しかし、虚子の場合は、どうにも不快感が付きまとう。子規と呼び捨てることにより、自己の立場を他者より優越したところにあるような印象与え、さらには子規と同格のごとき錯覚を他者に与える効果を計算していたのではないか。「子規」と呼び捨てる虚子のそうした「印象」が、私には不快感のもとになっている。

 復本氏はつづける。「案の定、葦天の文章は、虚子の癇にさわったのである。虚子にしてみれば、多忙を理由に黙殺してしまえる種類の文章ではなかったのである。虚子、また、自分の人格を否定されてしまっているかのごとき印象を受けたのであろう。そこで、虚子は、早速、『ホトトギス』の昭和26年(1951)12月号に『子規雑記』なる文章を載せて反論するのである。わずか三ヶ月後のことである。それは『伊藤葦天君が「子規と紅緑」といふ文章の中にこんなことを書いてゐました』と書きはじめられる」と虚子の心情を推測したうえで、虚子の反論文を引用している。
 「私は、子規のまだ名を成さぬ以前、大学の学生であつた時分に私は故郷の中学校を卒業したばかりであつたが、初めて子規と交遊を求めたのでありました。(略)始は先生としてではなく、まづまづ友達といつた恰好で子規に交遊を求めたのでありました。(略)後になるとその兄貴分はだんだんと先生株になつて、その弟分はだんだん弟子になつた、といふわけであります。併しながら始めの成り立ちは終ひまで物を言つて『升さん』『清さん』と呼ぶことは際立って改めるわけにも行かずそのままになつてゐたのであります。紅緑は之と異り、子規がもう立派な一人前の人間になつて『小日本』の編集長であり、紅緑はその下に在つて露月と共に校正などをやつてをつたのでありますから、はじめから『子規先生』と呼んでゐました」と虚子は反論とも弁明ともつかぬことを書いている。
 復本氏は、紅緑が子規を初めから子規先生と呼んでいたといる虚子の記述は「正確ではない」と遠慮がちに指摘する。紅緑は陸羯南宅の隣人としての「正岡さん」時代、日本新聞社の同僚社員としての「正岡君」時代、そして本格的に子規に俳句入門してからの「先生」時代の三段階に呼び方が変わっている。
 虚子が言うように、日本新聞社の役職の上下関係から紅緑が「子規先生」と呼んでいたのではない。むしろ同僚社員として「正岡君」として付き合っている時期である。また、子規は、虚子と違って「先生」と呼ばれることをあまり好まなかった。それにしても虚子の文章の冗漫なこと、ねちねちと納豆のごとき歯切れの悪いこと、ここに虚子の人格がひそんでいるように思える。
 それに、虚子の言っていることには嘘がある。

      
師弟関係を嫌った子規の思いを逆手に
 虚子が碧梧桐の紹介を得て子規に交遊を求める手紙を出したのは明治24年5月、子規が25歳、虚子は18歳の時。たしかに子規は文科大学哲学科から国文科に転科していたが、この年の冬、子規は「俳句分類」に着手している。翌25年には新聞「日本」に「かけはしの記」「獺祭書屋俳話」を連載している。今の感覚の大学生ではない。すでに立派な文人、論客として存在し、虚子は友人としてではなく「師」として付き合い、仕えていたのではないか。
 子規は、宗匠による月並俳句の弊を一掃し、真に文学としての「俳句」をめざすうえで、「師弟関係」は障害になると捉え、師匠風を吹かさず、もっぱら俳句仲間として、人生の先輩として自らを律してきたのではなかったか。また、子規は、文学には「門地、家柄、格、老少などの別はない」と既成の価値観にとらわれない自由な句作・批評をめざした。
 虚子は、子規のそうした思いを逆手にとって、自己の存在を大きく見せよう、アピールしようと「子規」あるいは「子規君」と言っていたのではないか。その何とも打算的な呼び方、また子規の評価をいたずらに貶めるような遇し方に我慢ならない人々が、子規との関係において虚子を批判したのではないか。
 俳人としての虚子は、作句選句、批評において取るに足りないもので、論じるほどのこともないが、しかし、今日の俳句界の退廃は、虚子の業績と伝えられるものを検証し、正当に評価しなければ歯止めがきかいないところまできている。
 桑原武夫の第二芸術論に戻りたい。
 桑原武夫はさらに言う。「ともかく現代の俳句は、芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することが困難である。そこで芸術家は芸術以外のところにおいて、つまり作者の俗世界における地位のごときものによって決められるの他はない。ところが他の芸術とちがい、俳句においては、世評が芸術的評価のうえに成立しがたいのであるから、弟子の多少とか、その主宰する雑誌の発行部数とか、さらにその俳人の世間的勢力といったものに標準をおかざるを得なくなる。かくて俳壇において党派をつくることは必然の要請である」「たとえば虚子、亜浪という独立的芸術家があるのではなく、むしろ『ホトトギス』の家元、『石楠』の総帥があるのである」さらに、俳句講座の広告に「池内友次郎先生(虚子氏令息)指導」とある事実をとらえ、神秘化の傾向を指摘。「神秘団体においては上位者が新しい入団者に常に説教することが必要とされる。かくすることによってその権威が保たれるのである。事実俳人ほど指導の好きなものを私は知らない。俳三昧、誠をせめる、松の事は松に習え、人間の完成、等々。ところで行住坐臥すべて俳諧というような境地は、封建時代においてさえも有名な専門俳人以外には実行不可能なことであった」と俳句結社のありよう、俳人の社会的感覚にまで踏み込んで実体を指弾。

     
 ひまと器用さの俳句の実体
 今から50年以上前の論文だが、今日なおこの第二芸術論が新鮮さを失わないのは、俳句界のありさまが第二芸術論をもたらした状況とたいして変わっていないということである。むしろ、当時より悪くなっているのではないか。愚にもつかぬ「師系図」を持ち出し、俳句批評や著述の中で引用する句はもっぱら師系に属する俳人の句ばかり。桑原武夫はこうした現象を党派と言ったが、まさしくお稽古事の「流派」に他ならない。今日、俳句はそこまで堕落しているのである。
 第二芸術論をさらに引用したい。
 「そこで俳壇においては、たとえば銀供出運動に実にあざやかな宣伝文句をたちどろこに供出し得た大家たちが、いまもやはり第一流の大家なのである。芸術家が社会的に何をしても、それが作品そのものに何の痕跡ものこさぬ、俳句とはそういうジャンルなのである」
 桑原武夫は核心の芸術論に話をすすめ、日本では芸術が軽視されてきたのは「俳句のごとき誰にも安易に生産されるジャンルが有力に存在したことも大きな理由である。芸術は自分たちにも楽にできる。ただ条件がよかったために作句に身を入れたものが大家といわれているので、自分たちも芸術家になり得た筈だ、芸術はひまと器用さの問題だ。このように考えられるところに正しい芸術の尊重はあり得ず、また偉大な芸術は決して生まれない」と結論づけている。
 第二芸術論は、俳句界のぬる湯の体質に冷や水を浴びせた。「裸の王様」に成り下がっていた俳句界に、「箴言」を与えた。私には、第二芸術論は天の啓示と思える。天が桑原武夫をして語らしめたのである。
 しかし、俳句界の体質は改善せず、自分たちにとって都合の悪いことには耳をふさぎ「誠をせめる、松の事は松に習え」と愚かな題目でなぐさめる体質を「深化」させていった。

      
今では習い事の「お俳句」に
 考えるに、わずか十七文字の俳句はそもそもお茶・お花・踊りと同じ習い事の「お俳句」に堕す要素を、宿命的に備えているのではないか。
 お俳句に堕落させないためには、文学としての矜持、誇りを持たなければならない。文学としての矜持とは、一句の評価が客観的判断できるものである。桑原武夫の言う感動の再生産である。感動の共有なくして文学は成り立たない。
 独りよがりの感動の共有を拒否するような俳句は、俳句ではない。それは単なる言葉の羅列に他ならない。桑原武夫があげた15句のなかの虚子の「防風のこゝ迄砂に埋もれしと」は俳句の体を成していない。観念的な言葉がならんでいるに過ぎない。
 虚子は、俳句は「ひまと器用さの問題だ」「ただ条件がよかったために作句に身を入れたものが大家といわれる」と俳句の存在意義はもとより、虚子自身の俳人としての立場、感覚に疑問を投げかけ、厳しく糾弾する第二芸術論に沈黙し、そして取るに足りない葦天の「子規と紅緑」の文章にただちに反論するその精神風土は、いったいどなんものなのか。単に彼我の力関係を計り自分より立場の弱い人間に攻撃する性質のものではないか。
 虚子が為さなればならないのは、まず第二芸術論への反論ではないか。無知ゆえに反論できず、沈黙を通すなら一貫して沈黙を通すべきが筋というものだろう。葦天の文章に過剰反応し、その文章の中にも虚子は事実誤認を侵している。それを承知でしたならば、虚子は悪意によって事実を曲げたことになる。嘘をついたことになる。虚子は頭が悪い、文章がなっていないという以上に、品性に欠けるところがある。こんな人間を、子規はどうして後継者にしようとしたのか。

     
寄付の金額と名前を掲げる体たらく
 今日、俳人の多くは俳句入門あるいは俳句批評
を出しているが、なぜ、桑原武夫の第二芸術論と向き合おうとしないのか。
 第二芸術論に有効な反論ができないなら、俳句批評や評論をしても無駄ではないか。俳句という箱庭でちまちまとお茶を濁しているだけではないか。虚子の堕落した俳句路線を継承し、擁護するだけの批評や論評なら無いほうがましだ。
 文学としての俳句ではなく、単にお稽古事の一種の「お俳句」と世間に知らしめて、文学的な素養を有する俳句とは似て非なるものと知っていただかなければならない。文学としての分け隔てのない俳句として看板を掲げながら、その実、寄付や貢献度等を含め主宰の腹一つで序列がすべてが決まる「お俳句」では、羊頭狗肉もいいところだ。俳句というブランドのコピー商品を売っているようなものではないか。
 会員同人からの寄付を神社の寄付名簿一覧よろしく結社誌の巻末に金額と名前をいちいち掲げて恥じない俳句界のありようは、堕ちるところまで堕ちたといわなければならない。
 俳句となにか。俳人はそれぞれ自分の胸に手を当てて考えてもらいたい。

 


   
 
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