幻肢痛、または、あらかじめなかった身体の記憶
これは、what's art galleryで行われた『ALTERATION 2003』(青野文昭個展)のために書いた文章である


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切断されて失われたはずの腕が痛む。もはや存在しない腕が痛むというのは奇妙なことであるが、病気や事故によって身体の一部を切断せざるを得なくなった人々のなかに、その痛みに悩まされる者は少なくないらしい。すでに失われているのだから、痛み止めが効くということはない。神経の断端からの刺激が在りし日の記憶を呼び起こすのか、人には精神の上で本来その人それぞれの十全たる「形」があり、肉体として失われようとも精神の形の上で痛みは続くものなのか。おそらく人が四肢を失いつつも生きることが可能になった時代から、この不可思議な疼きは続いている。ところが、さらに奇妙なことには、先天的に失われている部分が痛むという症例もあるらしい。ハードウエアとしての人体と向かい合うことを生業とする外科医は、消失した、あるいは、はじめからなかった肉体の痛みと向き合わなければならないときがしばしばある。

「ALTERNATION」と題された青野文昭の個展は、一目で見渡せるほどの広さのギャラリーに、いずれも長方形をした6点の作品が展示されていた。

壁に掛けられた作品は、これまで彼が試みてきた多くの作品と同様に、半ば朽ちた廃物をもとにつくられている。たとえば、「sekiyama 11/07/2002」は、左から眺めていくと「Coca Cola」の文字の断片に始まり、右に移るにしたがって、ゆるやかに看板であったものからそうでないものに近づき、右端は木材を継ぎ合わせたような赤い表面に仕上げられている。見る人は、左から右へ視線を移すことで、「残骸」から「作品」への変化を体験する。廃物がおかれていた場所や元の姿を夢想し、それが作 品に生まれ変わるのに要した時間を想像する。映画のなかでキャメラがパンしていくような視線的時間のうちに、作品自身が持っている過去の記憶から現在の姿という物語的時間が二重写しになる。物体として固定されたもののなかに、「時間」という固定され得ないものが埋め込まれていることに気がつく。

彼に拾われた廃物たちは、その損なわれた部分を修復されるかのように、少しずつ、しかし、まったく別のものとして作り直される。拾われたときの姿に近い部分をじっと見つめていると、モノも意識があったのなら、彼/彼女たちも幻肢痛に悩んでいたのだろうか、などという考えが浮かんでくる。すでに失われたはずの部分が疼き、見えない腕をさすることもできないまま放置されていたのだろうか。そうだとすれば、ギャラリーの片隅に立ち、物静かに語る作家は、頼る当てのない患者たちを治療する医師のような人物にも思えてくる。

しかし、壁を一巡し、もとは「ファミリーレストラン」と書かれていたのだろうが、拾われてきたのは「ファミリーレス」までの看板から作られた作品を眺めているうちに、穏和な表情にだまされているのではないかという声が頭の片隅に響いてくる。実際には、もとのままに修復しているのではなく、色が変わり、大きさが変わり、別の物へと作り直しているのだから、彼は、拾い上げた廃物をじっと見つめ、それが使われていた記憶を想像しながら、その想像される記憶とは別のモノを生みだし、もとの役割からほど遠い場所につれだしてしまう、穏やかな表情の裏に狂気を隠した医師かもしれない。

10年あまりまえの彼の個展では、「修復」という言葉がキーワードとなっていた。しかし、彼が行ってきたのは、壊れたものを作り直すこととは言えない。無論、作り直そうとしたが拙さのあまり元の形と異なるものになっているわけでもない。廃物を拾い上げ繰り返される、修復というには結果的に原形から逸脱する行為には、一言「修復」と片付けることができない慎重な姿勢がある。

美術作品の現代修復理論の基礎を築いたと言われるチェーザレ・ブランディは、修復の対象を美術品に限定することからはじめ、また、修復とは物質的側面に対してのみ許され、美的価値を損なってはならないとしている。この時点で、青野が行う行為は現代的な修復とは意味においてもまったく異なるものである。さらに、宗教改革の時代のように、教義的動機に基づいて過去の作品の上に新しい絵が描かれるのとも違う。むしろ、古代ローマから中世の欧州でしばしば行われていたような、もとの作品を分解したり組み合わせたりする材料としながら、別の新たな作品を作ることにやや似ている。

その点から言えば、彼の作品は「修復」というよりは、「壊すこと」と「作ること」とのせめぎ合いのなかに現れた結果であるといえるだろう。失われた部分を補完するかのようにみえる作業は、修復でも、医師が行うような治療でもなく、視線を向けられることもなくなっていたモノたちを凝視し、それらが持っていたであろう元の形を想像しながら、その記憶を一度壊していく。そして、新しく、かつ、作家による本来の姿を取り戻す、あるいは、生み出す行為なのである。だが、芸術の伝統にならって、それを「創作」という言葉だけで済ませるのは、「修復」と同様にいささか乱暴なことなのかもしれない。記憶と想像、破壊と創造のはざまで揺れ動く、見る人によっては中途半端と非難するような位置に、青野は作品とともに静かに立っている。そして、ギャラリーで作品を目の前にするとき、それを見る人も彼と同じ位置に立たされるのだ。


      小川正人

初出:what's art gallery catalogue_青野文昭 [2003/11/11]