破損した廃棄物や漂着物を素材にして「なおす」こと。仙台市在住のアーティスト、青野文昭はこれまでさまざまな物を組み合わせ、融合させ、新たな造型をつくり出してきた。それらの多くは接合面がじつに滑らかに処理されているため、物と物とのあいだに主従関係を確定することが難しく、それゆえあたかもそのような物として最初から自立していたかのような風格が漂っているのが特徴だ。
新作と旧作をあわせて発表した今回の個展で注目したのは、2点。ひとつは、青野の作品がこれまで以上に垂直的な志向性に貫かれていたこと。タンスや机などを合体させる点は同じだが、それらを垂直方向に組み上げているので、記念碑のような構築性が強く感じられる。もうひとつは、以前とは対照的に、接合面が鋭角的な作品が現われてきたこと。おそらくは震災で打ち壊された看板やタンスなどが連結していることに違いはないのだが、その繋ぎ目が見えないほど滑らかというより、むしろ破壊された物の凹凸のある質感を活かしながら連結している。それゆえ物に加えられた暴力的な力の痕跡が、いままで以上にはっきりと伝わってくるのだ。
明らかな構築性と暴力性の痕跡。今回発表された新作には、青野による「表現」を明確に見出すことができる。物と物とを一体化して「なおす」という造形の身ぶりを隠していないと言ってもいい。現代美術のなかには必要最小限の手数によって作品を成立させることが美徳とされる風潮が依然として根強いが、今回の青野の表現は、第一に、そうした主流に対する批判的な応答として考えられるだろう。
だが、それだけではない。青野がそのような造形の身ぶりを前面化させたのは、おそらく物に打ち振るわれた暴力を正面から受け止め、それを造形として反転させようと試みたからではなかったか。暴力の痕跡を残した接合面は、青野自身がそれと対峙したことの現われであり、さらにそれを造形として反転させるためには、古今東西、人類による造形物の多くがそうであるように、垂直方向に力強く立ち上げる必要があったのだ。あえてそうしなければ、造形は決して成立しないということを、青野は直観していたにちがいない。
なぜなら、あの震災以後、あらゆる造形は視覚的な強度を根本から問い直されているからにほかならない。とてつもない力でねじ曲げられた鉄骨や粉砕された家屋などを、直接的であれ間接的であれ、目の当たりにしたいま、それらに太刀打ちしうる造形でなければ造形が造形である必然性は失われてしまう。ほぼ同時期に、銀座のエルメスで催されたモニカ・ソスノフスカによるねじ曲げられたゲートを宙吊りにしたインスタレーションが、当人の狙いは別として、いかにも人工的で軟弱に見えたように、私たちの眼はある意味で造形に対して非常に厳しくなってしまったのだ。暴力を忘却するのではなく受け止め、それと拮抗しうる造形を立ち上げること。青野が示した造形のありようは、ポスト3.11のアートにとって、ひとつのモデルであると言えよう。

2015,3,6(福住廉)artscapeレビュー  (gallery αM・パランプセスト―記憶の重ね書き