「多にして1なるもの/1にして多なるもの」

 森の奥深さは、一つにその多様性から来ている。各々の存在が各々に緻密に関係し共存し、総体をなしている。目に見えるものは常にその総体の部分でしかない。
 人間が造り出してきたこの世界もよくみれば同様な複雑さを有している。一つの地域の歴史、神社の由来と経緯、ある家の家系図、その土地の所有者の移り変わり、、、、。様々な異なる要素が複合的に折り重なっているのが解る。一人の個人、一つの事象の中にはこれらの複雑な時空が埋まって隠れている。
 多くの歴史建造物でも、よくよく見れば同様である。法隆寺も当初の部分はほんの数%で、後は歴代の修理、補充でその時代時代の材料、技工が合成されている。いわば新陳代謝しながら今日のあの姿がある。部分部分は別々の時間、行程、意志を宿している。新陳代謝といえば我々自身の身体も同様な入れ代わりが日夜行われている。法隆寺といわず、ある程度の時間のあいだ継続してきたものはたいがい、家だろうが塀だろうが庭だろうが村だろうが同様なことが言える。別な時間、別な趣味、別な様式、別な素材、別な技法、、、が複合的に折り重なり合成している。そうしてそれらは終りがなくこれからも続いて行く。続いて行くからには形状も性質も少しづつ変容されうる。  このような実際的な事物の存在のしかたは、造形美術の基本的な理念と大きく食い違っている。というよりも長い間、造形はそのような多様性、分裂を隠ぺいし、抑圧しようとしてきた。「形象化」とは本来的にそういうものであって、多様で不鮮明な複雑さを一元的に集約化、視覚化しようとするものであったと思う。実際のところこの問題は造形表現の原点に深く根を下ろしている。だから造形の伝統的理念はその根本に置いて、実際のリアリティーと対立し遊離していく運命にあるといえる(現代の高度資本主義都市環境も同様に「実際的」な事物の在り方を隠ぺいしようとしてきた。そこでは古いもの、破損したもの、汚れたものはすぐに新しいものに丸ごととって変わられる。複合的重層、雑多な多様性、危険な他者性、分裂、後天的な付加物、修正、変更は、だらしなく汚いもの、見苦しいものとして視界から遠ざけられ排除される。「なおすぐらいなら新しく買い替えよう」とするのがあたりまえになる。その意味でこの従来の複雑な「実際の事物の有り様」はその根本に置いて高度資本主義社会にも対立する)。
 実際のリアリティーと対立しない、そこに根を下ろす「造形」がありえないだろうか?
 おそらくその造形は造形である以上、伝統的な造形理念とも、現実そのものとも別の新たな理念を必要とするだろう。  「1なるもの」はどのようにして同時に「多」でありうるのか?あるいは「1なるもの」がいかに本来的に「多」、および「他」に負っているのか。自己と他がいかに「造形」として関係をつくっていけるのか?「多」、「他」がいかに各々自立しながら「1なるもの」として共存できるのか?そういったもろもろの問いに、その新たな造形は立脚していなければならないはずだ。  ものづくりをあえてそういう現実の実際的な地平で志向することで、ものづくりと人間に希望を見い出していきたいたい。

                              2004、8、14 青野文昭