<仕方/媒材/対象>  


 「なおす」いとなみを考察するにあたり「仕方」、「媒材」、「対象」の三つのポイントを顧慮したいと思う。この三つの複雑な関わり合の中で、様々な「なおす」いとなみが形成されて行く。これは、芸術の原点が、人間本来の欲求である「ミメーシス」(模倣、再現、描写)にあるとしたアリストテレスの『詩学』に依拠するものである。しかし先に触れたように「ミメーシス」と「なおす」いとなみは本来的に異なるので、あくまで分析の視点を提供するに止まる。

「仕方」とは「ミメーシス」を行う技術であり形式、あるいは様式である。「なおす」行為では、復元の精度がどの程度になるか。手作業か機械製造か。手作業でも手技を消そうとするものか、その逆か。以下の「媒材」、「対象」の如何にも関わってくる。また、それが平面としての形態を取るのか、レリーフか、立体か、あるいはインスタレーションとなるのか。これらの問題を「ニュートラル/非ニュートラル」、「平面/レリーフ/立体/インスタレーション」と単純化してとらえておく。

 「媒材」とは「ミメーシス」を行うメディウムがどういうものかということである。音楽、美術、文学をはじめ様々な媒体がある。「なおす」いとなみでは、なおされる対象に従うので、範囲は狭い。例えば土器の断片を音や文字でなおすことはしない。なおされる断片の素材に強く影響される。例えば以下のようなパターンが考えられる。断片と同じ素材。断片よりも高価な素材。断片よりも安価な素材。断片よりも身近な素材。断片よりも高貴な素材、、、。これを単純化して「ハイ/同等/ロウ」、「身近なもの/同等/距離のあるもの」ととらえておく。これらはあくまでも相対的なもので、その「なおされるもの」と「なおすもの」差異は、「なおされたもの」に様々な意味を付加して行く。

 「対象」とは「ミメーシス」を行う場合、「何を」、「どの部分を」題材とするかということである。アリストテレスの『詩学』では、普通よりも上等なものの模倣が悲劇に。下等なものの模倣が喜劇になるとされる。「なおす」いとなみではもとになる欠落した断片のどこを、どのように観るか。本来あった全体像をどのように想像するか。によって修復の処方箋がまったく異なって行く。社会的意味合いから一元化されているさまざまな事物は、欠落し、破棄され、風化されるにともない、一元的な「用」の意味合いを失う。意味付けから解放された事物は、「もの自体」の次元に開かれていて、多元的な可能性を有している。それは解釈の仕方ひとつで、どこが、どのように、欠落しているか、いないか、様々な完全像があり得る。  つまり一つの断片であっても「対象」はいくつもありうるわけである。そして後述するように、一つの断片ではなく、複数の断片による「合体」、「集積」になると、さらに沢山の「対象」が同時並列的に並び立ってくる。いくつもある中から一つを選ぶのか?いくつもの相和として導き出すのか?いくつもある多義的な側面をそのまま最後まで維持しつつ、ひとつのまとまりに導くのか?様々である。それは「基底面」の生成、複合性、勢力争いなどとして、各単元ごとに後々触れて行きたい。 (「社会的意味合い/もの自体」、「単一/複数、共生/競合、等」)。