<結ぶ>   2001年

「『かざり』−この言葉は現在、二つの意味合いで使われている。一つは言葉本来の意味に則したものとして、もう一つの蔑視の感情を含んだものとして、そして現在では、後者の場合が多い。『ほんのお飾り程度』とか、『ただの飾りでなんの役にも立っていない』とかいった具合にである」(辻惟雄 『「かざり」は生きている−日本の装飾文化』)。と辻は述べているが、同様なことが、「つくる」−「つくりもの」という言葉にも言える。しかもこのような蔑視は、けっして現代に限られるニュアンスではなく、かなり奥が深いように思える。例えば祭りやハレの場で神々を迎える場を準備し、依代ともなるそのような「かざり」を「つくりもの」ともいい、日本では「つくる」という言葉が、このような「かざり」−一回性の(終ると壊す)、刹那的ニュアンスと深くつながっているのである。ゆえに「つくる」という言葉はどちらかというと非本来的な、人為的な、作為的な、表層的なニュアンスであり、不自然な行為なのである。それは先きほどからふれているように、日本人が元来自然信仰的体質だからであり、反自然的な大掛かりな人工力自体を「聖」とする感性に乏しい。それゆえ日本の造形はつねに、「大掛かりな人工力」を全面に押し出すものではありえず、いままでふれてきたように「自然−外部」を保管する二重性の造形に終始してきた。このような造形の在り方を考えると、「つくる」という言葉の負のイメージは、あらためて、今までふれてきた二重性の造形の内実とかけ離れていることが解る。むしろここであえて「ムスブ」という言葉でそれを考えてみたい。

 

 「ムスブ」行為は何ものかを何ものかで縛り付ける、もしくは何ものかと何ものかが結合する、「自由−拘束」あるいは、「分離−結合」といったニュアンスが強い。例えばエリア−デは次のように述べている。「つまり縄策は、法の運営、行政、王権と民衆の安寧、『権力』と呼ばれ、族長によって保存されるあの神秘的な力すべての象徴なのである」(『イメ−ジとシンボル』)。結ぶことは呪力であり力であり何ものかの生成を意味する。同時に、結びがほどける時、呪力は解かれもとの戻る。結ぶことで生まれる結合では、あくまで結ばれる各々は、各々として「保存」され残るのであって、化学変化的に各々の固有性が溶解して一つに融合されるものではない。だからこそ、結び目がほどければもとのバラバラに戻るのである。
 仮面やマスクはとれるし(入れ墨はとれないが)、依代やシャーマンは一時的に憑依するものであるし、しめ縄も縛られている間、それ(木、石、空間、森)は聖別され、ある力を持つが、しめ縄が外れればただのそうしたものに帰ってしまう。このように「ムスブ」という言葉は、「二重性」の表現のリアリティーにとても当てはまるように思える。「外部」を自らのものに同化したり材料としない。「外部」をそれ自体保管しつつ一時的に、あるいは半永久的に結ばれる。そのような構造においてのみ、自然信仰型の体質では、内発的に造形ができるのではないだろうか。
 西洋的な意味での造形は、日本の場合すべてが外来から入ってきたものである(シンメトリーな都市計画、仏教、近代文明、美術など)。外来のものに対して日本人は、つねに自分の外の「外部」を神とする心理構造のため、自然信仰と同様に、それを「聖」とすることができる。しかしその外来物の規範を取り入れ模倣、改良はできるのだが、外発的なので自ら大きな展開を企てることができないし、することに価値を感じない。それら外来の文物は、長年かけてしだいに自然信仰的体質にかえられ、脱構築されていくか、技巧的に細密化して悪い意味での工芸的なものになっていく場合が多い。