民俗と複製技術2001年

 

 依代を見立てることを可能にする日本の土壌では、石や木にとどまらず、空の器や、紙切れ、量産されるお札などが、神や精霊になることから、コピーがオリジナルに、しいてはコピーもオリジナルも違いがなくなってしまうということが大変多い。

 ベンヤミンは『複製技術の時代における芸術作品』で、複製技術の芸術(写真や映画など)と元来の芸術を比較しながら、「本物」が発する「アウラ」という特有の価値を指摘する。それは、本物だけが持つ「いま・ここ」しかない一回性という性格によってつくられ、それが元来の芸術作品を支えてきた重要な力であるとする。そして彼は、このような「アウラ(オーラ)」を放つ「『ほんもの』の芸術が比類のない価値を持つ根拠は、ほかならぬ儀式性にあり、芸術作品の本源的な第一に利用価値もそこにあった」とのべる。

 私は以前ある霊媒師から、私の自宅に神棚がないのに驚かれ、すぐそろえるように指導されたことがある。その辺の店で売っている大量生産の安物をひとつ買ってきて、それに「しん」を入れればいいのだという。「しん」を入れるとは、「しん」入れの儀式をして、どこかの神を分けてもらって入れることらしい。これなどまさにコピーが「儀式」によって「ほんもの」としての根拠を手に入れる例であろう。「しん」が入った神棚はしだいに、オーラを発し、取り替え不可能な(取り替えたりすると罰が当たりそうに思える)ものになっていく。そのことで言えるのは、例えば依代は、「いま・ここ」のある儀式において、霊が憑依すると思われることから、それ自体は、コピーではなく「ほんもの」なのだということになる。つまりそれは本物とコピーの差が無効になるのではない。ということはここでは、「ほんもの」が複数存在することになる独特の物であると言える。

 どこかの神社(オリジナル)から霊を分けてもらい(分霊)、自宅の神棚に持ってくる。それは例えばオリンピックの聖火を分けてもらうようなイメージが当てはまるように思える。どちらも本当の聖火であり、ほんもので、同時にいくつにもなるし、どこにでも持っていくことができ、あるいは燃やし方によって炎の様子を変えることもできる。

 このような複製の在り方は、単純な意味でのオリジナルとコピーの関係ではなく、いわゆるプラトン的なイデアと現象の関係とも異なっているといえよう。それでは、複製技術の氾濫した現代世界のそれと比べる時、それはどのような違いがあるのだろうか。

 「芸術作品の技術的複製の可能性が芸術作品を世界史上はじめて儀式への寄生から解放する、という決定的な認識を用意することになる」と、来るべき期待を込めたベンヤミンの言葉は、二重の意味で理想論でありすぎたとしかいいようがない。つまり、ひとつは、今日の複製技術の支配によって結果的に生み出されてしまった、オリジナルとコピーの対比自体無化したシュミレーション世界の虚無的現実。そしてもうひとつは、石子順造が『模型・模造の美学』で次のように指摘しているところのものである。「複製技術時代には、アウラが失われるというより、複製作品にも独自なアウラが発生する、といいかえるほうが、適当ではないだろうか。本物と贋物という言い方でなら、贋物が本物になるのではなく、贋物は贋物として本物になる、すなわち贋物には贋物なりのアクチュアリティが生じる、ということである」。(この中で石子は量産されるスターのブロマイドが、私有されることにより、アウラが発生するという例をあげている)。

 その30年以上後の今日になって東浩紀が『存在論的、広告的、キャラクター的』で、次のように述べる時、あらためて石子の仕事の重要性が浮かび上がる。「それで僕の考えでは、キャラクター文化の謎は、ベンヤミンの指摘と深く関係している。というのも、『キャラ立ち』とは、『複製技術時代のオーラ』と言えるものだからです」。

 ここでしばらくコピーのコピーとしてのオーラ「複製技術時代のオーラ」について東の言葉にそいながら考察し、あらためて本論の文脈、日本の固有な表現の視点からそれを捉え返してみたい。
「複製可能なものを複製不可能にすること、コピーをコピーのままでオリジナルにすること、これがキャラクター文化の核にある欲望だと思います」。「ここで重要なのは、トロにオーラがないということを知っているのに、あえてそこにオーラを見い出すということです」。
 と、このキャラ立ち、キャラ萌え文化の特徴を述べつつ以下のようにその内面を語る。「しかし実際には、すべてがオーラのない等価なものになった時こそ、人はそこに自分なりの価値をつけなければ生きて行けない。もはやオリジナルとコピーの境が崩れてしまったからこそ目の前のシュミラークルの中に、強引に『オリジナルっぽいもの』を見つけ、自分なりの感情の段差をつけていくしかない」。

 そしてそれを可能にするのが「交換可能なものと交換不可能なもの」が「そんなにスパットは分かれていない」日本の体質にあると述べる。
 これは一面で納得するのだが、これでは、なぜコピーをコピーのままオリジナル化したいのかという欲求の説明にはならない。例えばたんにオーラが欲しいなら、自分でゼロからキャラをつくったり、身の回りのものを手造りしたりすればよいのである。そのような現代特有の心の乾きそのものに理由を求めるのは、ちょっと的がづれているように思う。

 その後、東は『動物化するポストモダン』において考察を進め、その問題に答えている。彼によれば、今日のシュミラークルの氾濫を、オリジナルとコピーの無化の結果としてだけ捉えるのではなく、新たな、データベース/シュミラークルの二層構造への変化として捉えるべきだと主張する。そのうえでもともと、キャラのキャラ化−二次制作の欲望は、背景のオリジナルストーリーの世界に、身近なキャラクターやキャラクターグッツを通してつながろうとする欲求として理解し、さらに今日のシュミラークルの世界にあっては、オリジナルストーリー(大きな物語)が解体し、かわって「データベース」がその位置についたと考察している。彼によればキャラ萌えもキャラ萌え要素がデータベース化され、データベースにもとずいて二次的創作(シュミラークル)によってキャラが生み出されてくる。データベースは効率よく人々の欲望が消費できるように、つまり売れるようにあらゆる情報が差異化され、分類されている。
 それはオタクカルチャーだけにいえることではなく、現代の市場に出回る商品のほとんどがこのような仕組みで差異化され競わされながら生み出されている。

 たしかに今日の日本においては、「よくわからない」マイナーなメーカーの商品や手作り製品よりも、データベース化されたシュミラークル自体が人気であり、「良い」シュミラークルである「ブランド」があらゆるジャンルでもてはやされ、服、ヘア−、車、家、家具、身のこなし、喋り方まですべて自らシュミラークルを享受しようとする。

 そう考えていくと、キャラ立ちさせオリジナルっぽくする欲望は、シュミラークルの充満するアウラのない「沙漠」に生きていくためのよすがであるのではなく、背景の「大きな物語」−「デ−タベ−ス」に、シュミラークルを通して通じ合う欲望であると言える。

 人々は世の中の流行−「世間様」−デ−タベ−スにひたることで、個我やローカルから抜け出し超越的世界と交わり共有し、自分を位置付けたいのである。それゆえこの二次的自然−資本主義社会において、「デ−タベ−ス」とは「民俗」世界における「外部」−神の領域と比較できるのではないかと考える。

 東はデータベースへ向かう今日の欲求を、「大きな物語」に向かって生きた近代社会と、その大きな物語を喪失して「虚構の物語」を造り出さざるをえない現代、そしてそのような物語すら必要としない今日、といった枠組みで分析している。しかしそもそもそのような「外部」の大きな設定を軸に自分自身の生を方向づけるという構造自体、西欧人と日本人は違っていて、日本人に関しては多分に前近代的な民俗文化の二重性からきていると私は考えている。宗教やイデオロギーを自らの内に一体化してしまう西欧人にくらべ、「大きな物語」の喪失は、日本人にとってけっして現代特有の異常な出来事ではない。もともとイデオロギーに心酔するものでもなく、あくまでそれが「外部」だからひかれるにすぎない。

 またコピーを複製と知りつつ欲求するのも、もともとが本物と虚構の区別ではなく、むしろそれが「外部」と通じているかどうかが重要だからなのである。

 日本人の信仰形態−自然信仰は、江戸ぐらいから都市化し「世間様」に矮小化していくと私は考えている。「外部」は自然、神だったが、それが「世間」となり、自然に対して自分や生活を位置付けていたのが、「世間」をものさしとして自分を規定するようになる。ブランドを身につけるとは、「世間」=世界の価値を「いま・ここ」に所有することであり、同質の欲求と言える。シュミラークルとしてのキャラクターをコピーとわかっていても、コピーのままオリジナル化したいという欲求も同様である。コピーのままというのはコピーのままじゃないと、背景のデータベースの世界に通じないからで、コピーを壊してデータベースと無関係にオリジナルな創作をすることは、逆にあまり意味がないことになる。この欲求こそ今まで述べてきた「二重性」の文化そのものが、変質した末に到ったリアリティである。自然を失った日本人にとっては、「世間様」も、「大きな物語」のイデオロギーも、データベースも、ブランドも、それを「外部」として、自らの外側に投影する範囲において同質のものであり、当事者にとってはそれほど落差があるわけではない。「外部」からもたらされた「型」は、それが「型」だからこそ大切にされありがたがられる。「型」は「型」として関わられることで二次的にオリジナル化する。当事者にとって「型」は、先きに述べたオリンピックの聖火の比喩のように、贋物としてのコピーではなく、複数ありえるところの「ほんもの」なのである。

 しかしこの二重性の構造自体共通するものだが、両者には決定的に異なる点がある。それは、複製技術の現代社会におけるデータベースが、結局資本主義の市場原理にもとづいている点である。逆にいえば市場が、うまくこの民俗的な二重性の欲望の文脈を取り込んでいるということである。データベースは擬似的な「外部」であり、自らの欲望の合わせ鏡でしかない。宇宙的な「外部」に関わっていた民俗文化に比べ、「市場の原理」がいかに把握し切れない現代人の欲望そのものだとしても、結局のところ生命的次元での根拠に乏しい擬似的宇宙でしかないのである。 (2001年