彼岸花―削るということ



 自分の住んでいる宮城県では、彼岸になると墓参りに、人工の花をお供えする風習が一般的である。本来の自然にはえている彼岸花と同じく、これを「彼岸花」と呼んでいる。
 木を削り花弁のようにみせ、本物の葉のついた枝の先端に差し込んで売られている。けばけばしい色彩が塗られており、あまり見ていて楽しいものではなかった。子供のころからお彼岸になると墓周辺の花屋の店頭に山積みされているのを目にし、「買わないの?」と母親に聞くと、眉をひそめ問題外という反応を示していたと記憶する。我が家ではわざわざ本物の花を買い、一度もその彼岸花を買ったことは無かった。そういうわけで、最近までの長い間、本物の花にたいしてまがいものとして数段低く見るようになっていた。
 最近久しぶりにこの彼岸花が売られているのを目にして、ちょっと何かひっかかるものがあった。何だろう?と考えるにつけ、どうしていまだにこのまがいものの彼岸花が売られているのだろう?という問題に行き着いた。そもそも、昔、お彼岸の時期、自然に咲く花が少ない時代に、その代用品としてつくられた偽造の花という認識があったわけである。しかし、今日では、季節と関係なく安く様々な花がつくられ売られるようになっている。さらに「造花」の技術も高くなり、相当安く本物に見間違えるような「造花」が売られている。ダイソーにでも行けば100円で購入することができる。そういう現代にあって、この「彼岸花」は、本物とかけ離れており、値段も300円ぐらいはするのであった。ようくみるとこのように削り出す手間暇も馬鹿にはならない(こんな面倒なものをだれが作っているのだろう?)。それなのにどうしていまだに多くの人々がこれを買うのであろうか?

 そうこう考えていくと、もしかするとこの「彼岸花」は花の代用品ではなく、本来まったく別物としての独自な価値を持っているんじゃないだろうか?といまさらながら気がついた。
 それで少々調べてみるとやはり感は適中した。この木を削りながらつくられる「彼岸花」は、確実なルーツはいまだ謎であるが、他の削り出してつくられる、例えばアイヌのイナウや東北、関東に伝えられている「削る掛け」、「削り花」と呼ばれるものたちと繋がっているらしい。
そうすると、このけばけばしいまがいものとおもわれていた削り出しが、蝦夷やアイヌの古い文化の系譜に属しており、その生き残りではないかという可能性がでてきた。灯台下暗し。価値観がにわかに上昇し、あわてて昨年のお彼岸に近所でいくつかまとめて購入する。

 こういった「削り掛け」の造形は、正月や祭りの時に依りしろや供物の様な働きをし、いわゆる今日お馴染みの紙でつくられる「御幣」のような役割をになってきていたらしい。まだ紙が貴重だった時代ではもっと一般的だったと推測されており、やはり古い文化形態のなごりなのである。例えば秋田の「ぼんでこ」という土産物も、「ぼんてん」祭りに合わせて生まれたのではなく、まったく別経路から伝えられ(言い伝えによるとある旅の職人から伝授されたという)、形状と呼び名の類似からいっしょくたになっているらしい。おそらく宮城県で「彼岸花」と呼ばれてきたものも、もともと花を模造して生まれたというよりも、お供え(あるいは依りしろ)様につくられてきた「削り掛け」が花の姿を連想する形状に転化してきたものなのではないだろうか。
 何も知らない母親ではあるが、奇妙に感がするどく、昔ながらの感性を自然に継承しているところがあり(それは自分にとっては妙に差別的に感じることがあるのだが、、例えば「お金は汚い。誰が触ったかわからないからむやみに触るものじゃない」とか)、どちらかといえば異質なものに対する特有の排他的反応をこの彼岸花に対しみせていたという記憶がある。おそらく今本人に直にただしても自覚は無いだろう。伝統的な差別意識とはそういうものである。現在でも宮城県にはこの彼岸花を用いてお供えする人々と、まったく無視する人々(例えば自分の母のような)が存在しているにちがいない。

 本来この「削り掛け」の造形は本当に美しく神妙なものである。一昨年岩手県の碧称寺という変わったお寺で、はじめて本物のアイヌのイナウを目の当たりにして釘づけになった。その寺には各地の土俗的文物がおびただしく陳列展示されている。サンスケやら山神像やら様々な民具やらに混じって、ぽつりとこのイナウがあったのだが、その神々しいまでの洗練した造形感覚は、他の土俗資料を圧倒していた。
 以前知り合いの霊媒師から、カミ様や何かの霊が見える時というのは、映りの悪いテレビの画面が「ぱっと」一瞬画像を映し出すような感じで見えるのだと聞いたことがある。霊界というのはおそらく電波的なニュアンスに近いもので、昔から稲妻の形状などでイメージされてきたものなのではないだろうか。この「削る掛け」の造形はまさにそうした電波的形状が造形されているわけである。紙でつくられる御幣の基本的かたちも稲妻的ジグザグ形状になっている。この紙による御幣などの造形感覚は、先行の「削り掛け」の形状、雰囲気を継承、あるいは模倣しているのかもしれない(が、一本の木を削るのと、平面的な紙を切り出すのではまったく条件が異なり、別種の形状、ヴァリエーションを生んできていると言えるであろう)。

 「削り掛け」は言ってみれば一本の木という物質を非物質化する―異次元化しようとするかのような造形である。物質/非物質、静/動、固定/流動、3次元/4次元が、突如切り変りかつ同居しているのである。
 こういった稲妻的形状の感覚は、例えば仏像―東北の貞観仏に顕著な「鉈彫り」の効果に連結していくだろう。あえてぎざぎざに彫った跡をのこし、空気を振動させるかのような電波を生じさせる、木彫りならでわの表現(東北貞観仏は一本の木から切り出す一木づくりが基本)。こういった鉈彫りの感覚は後年たとえば円空へ受け継がれていくのかもしれない。

 いずれにせよこういった「削り掛け」の造形は、木地屋的ろくろ、仏師の木彫、西洋美術的彫刻、、どれとも異なっており、固有なものだと考えられる。量感でもなく、表面加工でもない。言ってみれば「量」を消滅させ、「表面」を消し去る。「実」を異界へ解き放つ。まさに「二重性の造形」そのものであるといえる。近現代の美術にはまったく受け継がれていない。そうしてこの文化は現在衰退の一途となり忘れられつつある。

 今後あらためて「削る」ということを再考しなければいけないだろう。



*例えば「もの派」の作家・小清水斬などは、木を削っただけの作品をのこしている(切り込みを入れるだけのものも有名である)。それらは小気味よく、自然の木を削るという彫刻家ならでわの「かかわり」によって、もともとの木を別物に変質させていく面白さがある。しかしいわゆる伝統や形式を欠如しているのはいなめない。もちろんここでいう伝統・形式とは、かつて批評家達がもの派を批判した意味での絵画や彫刻など既成のジャンルに付随した伝統や形式のことではない。西洋的造形表現の輸入以前に育まれてきていた日本列島固有の古層文化に関してのことである。一見そういうこととほとんど無縁に見える戯れが彼の持ち味でもあるのだが、時として奇異な印象が先行してしまうこともあるし、その後の表現の質を限定的にしてしまったきらいがある。彼がこの「削り掛け」の造形や「依りしろ」の美意識を踏まえていなかったのが惜しまれる。

 

 イラストは、先日の「東日本大震災」の数日後、偶然見つけて購入した「二段式彼岸花」。
震災のあった3月11日はまさにお彼岸前夜。仙台市八木山の家から向山を通って町へ車で降りる途中、御霊屋と愛宕橋にわかれるT字路角の店先で発見。ちょうど御霊屋方面が震災で通行止めになっており(鹿落旅館が崩れたため)、道を遮断するバリケード前に急停車させ、店頭の彼岸花を手に店内に侵入。わずかなペットボトルやガムなどの腹の足しにならないお菓子類いしか残っていない店内は停電で暗く閑散としていた。しかし、「二段式彼岸花」を見出した自分と店の主人は、瞬間的に笑顔で通じあうことができた。連日の食糧探しで持ち合わせも少なく赤と黄色2本のみ購入(250円×2)。「無理言って今年もつくってもらったんです。65本だけ。今はもう、一人しか作っていないんで。いつも今年で最後、最後って言われるんだけど、、。これがないと彼岸が迎えられないって言う人が多いんで。福島の方にも出してるそうです。彼岸花は仙台にしか無いものんだからね―」と店主もうれしそう。彼岸花を手に車に戻ると、「そういえば最近墓参りしてないねー」と家内が言う。今日は偶然家族がみんなそろっているし、被災生活中にてとりわけ急いでやらなければならないこともないということで、少ないガソリンを気にしつつ、急遽青野家代々の墓のある連坊小路・東漸寺へ直行する。案の定地震のため危険状態ということで墓地は立ち入り禁止になっていた。しょうがないので外からお参りをする。
 「命を守ってくれてありがとうございます」。
 この非常時になってはじめて彼岸花を美しいと思った。これは仙台の誇りうべき遺産だ。





米沢・笹野一刀彫



 学生時代のある冬の日、青春18きっぷが一枚あまっているので、適当に何処かへ行って見ようと、電車に乗り適当に降りた駅の外がものすごい雪だった。経験した事の無いごわごわとした雪質に怖くなり、くるりと駅構内へ引き返す。一歩も外へ出ることなく逃げ出したその町が今から思えば米沢だった。
 米沢は日本でも屈指の豪雪地帯。大藩の上杉家がここに押し込まれてきて以来、常に食糧難と財政難に悩まされてきており質素倹約が代名詞の土地柄である。山に囲まれた海の知らない盆地、30万石相当の土地に120万石以上ともいえる上杉一族が食いつないできた陸の孤島ともいえる場所(その後さらに半分に減らされなんと15万石にされる)。そういう米沢のことであるからやはりいろいろな面で変わっているところが多い。  山形県とも福島県とも違うのである。日本海に面してきた越後人、しかも最強の誉れ高い上杉謙信以来のプライドのある人々が、この海の無い山ばかりの盆地に大量に移住して根をおろしてきたのであるから、人情も少々異なっている。
 食文化も独特で、今では米沢牛などブランド品も多いが、かつては動物性タンパク源は大変貴重なもので、海や大河が無い米沢ではコイを組織的に養殖してきて、コイを使った名物料理が数多く伝えられている。また家々の生垣として食べられる植物―ウコギを植えることがやはり組織的に奨励されてきた。米沢の町には今でもこのウコギがそこらじゅうに生えている。昔城跡の公園駐車場で野宿したことがあるのだが、朝早く近隣のおばさんやおじさんがどこからともなくやってきて、せっせとそこら中の生垣のはっぱをむしっているので驚いたことがある。その後それがウコギなんだと知った。その時ウコギの小さい株をいくつか購入し、家に植えて育てている。今ではかなり伸びてきて、春から夏にかけて次から次へと葉を伸ばし、そのつどそれを摘み天麩羅にして楽しんでいる。ほのかな優しい味がする。米沢ではこのウコギの新芽をご飯とあえたウコギご飯というのがあるらしく、これも一度食べてみたいと思っている。

 はじめて米沢に来たのは、小学校の最後を飾る遠足の時であった。上杉家代々の墓のある上杉家御廟所の砂利をじゃりじゃり踏んでお参りし、クラスごとの記念写真を撮影した。全然面白くないところだという印象が記憶に刻まれている。おそらくその年のクラスにおける人間関係があまりうまくいっていなかったということも大きく影響していたのだろう。この時の記憶は何もかもが暗い気分に彩られているから不思議だ。
 しかしそういう中において唯一光る出来事があった。
 それが笹野一刀彫との出会いである。いくつかの売店で、少ないおこずかいをやりくりしてせっせと鷹、鶏、クジャクなどを購入した。この種の民芸品を自主的に購入したのはこれがはじめてだった。買った後もなぜかうれしく、帰宅後もくりかえしそれらを眺めていたように覚えているから、よほど気に入っていたのだろう。特にこの青い色の小鳥(種類は不明)の姿かたちに妙に強く引き付けられ、これがもっとも好きだった。心の内底にサッと風雅の風が吹くようなそんなこころもちに一瞬だがなることができた。その後大学生になってタイで青白陶器に出会うまで、このような気分を味わうことは無かった。ということからしても自分のこの収集熱はこの笹の一刀彫からスタートしたのだと言えるかもしれない。
 タイの青白陶器もそうなのだが、同一スタイルの豊富なヴァリエーションが一堂に並んでいる光景に出くわすと、おもわず触手がのびてこれもあれもとなってしまうようだ。後年何度か米沢に足を運び、あらためてこの笹野一刀彫を物色するにおよび、やはりなんといってもこのヴァリエーションの豊富さに心躍らせられる。鳥の種類によって、其々の色や模様、姿かたち、尾っぽの形などがつくりわけられており、比較して楽しめる(そもそも自分は鳥の形態が好きなようである)。さらに鳥類のみならず、蛇や亀、ウサギ、カエルなどいろいろあり際限がないほどだ。自分は特に蛇や亀が気に入っている。また、つくられている店によってもかなりそのつくりやデザインが異なっていて、同種で比較できて面白いし、大きさもいろいろあり選択できる幅が広い。値段も、最近の工芸品としてはかなり手頃でうれしい。なにしろ昔小学生の手持ちでいくつも買えたのだから。

 それぞれのつくり、デザインはいわゆる鳥類図鑑的な写実主義ではない。近代以前からの伝統的な意匠がベースに生きているので、少ない手数で合理的に収れんされ抽象化されている。いろいろなヴァリエーションがあってもその根底ではひとつのスタイル・美意識で繋がっているのがわかる。その美意識は、木(コシアブラなど)から削り出していく一連の独特な技法に立脚しているのであり、そういった基本原理からにじみ出てくる共通性である点がすばらしい。良いものとは常にそういうものである。それは実用品でも工芸品でも美術でもいつの時代も変わらない。その点今日の子供たちに人気の「ポケモン」等のヴァリエーションの在り様とは違うのである(そこでは出所が違う様々なイメージ、デザイン、描写スタイルが吹きだまりの様に雑然と混在しており、固有な体系的美意識が確立されていない)。とはいえ、しいて難を言えば、この「笹野一刀彫」、やや色彩・顔料の発色に難があるものが多い。けばけばしく調子を壊しがちである(そういうものは買わないのだが)。このやや軽薄な色調で連想してしまうのが、先述の「彼岸花」である。そういえばどちらも「削り掛け」という古い技法が使われている(この米沢笹野地域では他に「笹野花」と呼ばれる削り掛けの花がつくられる。こちらはなかなか上品なように写真では見受けられるのだが)。どちらも古い文化を基調に今日に伝えられている造形ということができるのである。米沢の笹野一刀彫は鳥をはじめ動物達ばかりだが、他に人間型(神?)を削り掛けの技法でつくりだす地域もあるらしい(サハリンの方)。笹野一刀彫でもヒトガタや着色をしない無地のものなどがあっても良いように思えるのだが。

 この「笹野一刀彫」という名の由来は笹野という地域名に由来する(この地域は米沢の城下町的エリアとはやや異なる趣を感じさせる)。何百年もの間(1000年以上とも言われる)ここの農民に受け継がれてきた造形で、伝説では上杉廬山がそれを見出し、副業特産品として奨励して有名になったらしい。この地域には「笹野観音堂」というとても変わった印象をあたえる大きな観音堂がそびえている。幅に対して高さが相当あって、上にせりあがったような独特な力動感のある大変魅力的な建物だ。おまけに上部四面に大きな顔が取り付けてある。水神だそうなのだが、いかめしい鬼面に見える。なんでこんなすごい建物がこんなところにあるのか(というと失礼だが)不思議である。米沢のとなりの南陽市にも日本三大熊野神社と言われる大きな熊野神社があり(これは本当に大きく、昔ながらの付属の建物物もみんなセットで残っていて壮観なものである)、同じ系列の建造物のように見受けられた。この辺はいわゆる「置賜地方」と呼ばれる地域だが、「東洋のアルカディア」と称されただけあって、意外に見所が多い(というと失礼だが)。
 笹野観音堂の正月の祭りでは、境内で笹野一刀彫や「笹野花」が売られる様で、仙台で言えば国分寺の境内で松川達磨が売られる様なものか。ぜひその時に来てみたいものだ。といっても豪雪地帯の正月であるから、相当な覚悟がいるだろう。
 ところで、もしかすると仙台の「彼岸花」は、米沢・笹野地区の「笹野花」がルーツなのかもしれない。笹野地区の削り花は上杉家移入以前からのものだし、仙台・伊達家はもともと米沢から岩出山―宮城野(仙台)と移ってきたのであるから、町や神社仏閣の移動とともにこの削り花文化も移動してきたということは十分ありうることである。

 今でも我が家の陳列棚には、小学生の時にはじめて買った青い鳥の笹野一刀彫が飾られていて、その後に買った沢山の鳥たちと一緒に並んでいる。20年以上の時間差があっても、ほとんど変わっていないようでとてもうれしい。