土偶と埴輪  2001年

 

ここであらためて、先に述べた縄文の仮面をつけた土偶において、縄文の造形表現のありかたと「二重性」について考えてみたい。はっきりと仮面やマスクをつけているのが解る土偶でなくとも、ほとんどのものには、複雑な紋様が刻まれている。この模様の多くは、当時の装身具であったりあるいは入れ墨、化粧からくるものと推測される。それは、我々現代人が服を着ないで外に出るのが心細く恥ずかしいのと同様に、彼等は生まれてこのかた、通過儀礼、魔よけ等のニュアンスも含みながら、さまざまな意味で、装身具や入れ墨を施していったと考えられる。それゆえそれは仮面やマスクと重なってくるのであり、ある意味で当時の縄文人は、全身がひとつの「仮面」のようなものだったとも言えるのである。その身体は、自然・精霊「外部」と人間・自分「内部」の二重性が同時に重層される場所でもあったのだと思える。それゆえ土偶もいろいろあるが、基本的には精霊そのものをあらわしたのではなく、もちろん生身の人間像でもなく、あくまで広義の「仮面をつけた」二重性の存在形態を表現していると考えられる(それを「シャーマン」と言ってしまうわけにはいかない、例えば「妊婦」を表現したものにも多くの模様がきざまれているからだ)。
 したがってこの縄文土偶の二重性の像は、西洋的な同一性のビーナスや神像、そして仏像等と根本的に異なるものであると考えるべきである(仏像はヘレニズム文化の影響を受けた同一性の造形であり、自然信仰の日本では内発的に生み出せないタイプの造形であったと考えられる。それはあくまで外来の形式であり、日本人はそれの改良、応用しかできなかったわけである)。その後の日本に見ることができないこの縄文の力動的造形は、確かに狩猟生活の世界観も深く関係しているだろうが、なによりもその風土性にうらずけられた「二重性」−「外部」と「内部」を相互補完的に、しかもそれを同時に重層させて生きる、彼等の現実感のなせるわざなのだろうとしかいいようがない。 その後「日本人」は、基本的には森を切り開き、平地を耕し、「外部」と「内部」の二重化を、物理的、時間的、精神的に分けながら、その上で交わるという生き方に変わっていくように思える。造形もそれにならい、縄文のような同時重層的な二重性の表出は姿を消していくことになる(それは、例えば入れ墨が、古墳時代から大和朝廷の成立にかけて少なくなっていくことや、死者を埋める場所がしだいに共同体内から、外へ遠のいていくことでうらずけられる)。

 一方古墳時代に造られた埴輪は、古墳に置かれていることから、死者のためのものであったことが解る。死者があの世に旅立ち生活するのに必要なもろもろ(家、それを守る武具、飾り、乗り物、食べ物、巫女、狩りのための動物達等)であり、いわゆる現世のイミテーションなのである。 その中で最も多いのが、「円筒埴輪」というもので、前方後円墳の周囲に、現代の葬式の花環のように整然と並べられた。この円筒埴輪の原形は、供物を入れる「壷」が「器台」にのせられた状態を、スタイルとして定着させたものであるとされる。この供物用の容器としての埴輪の性格が、全ての埴輪の原点なのである。容器の上に、「盾」や「甲冑」や「衣笠」などそれぞれシンボライズされながら取り付けられ、さながら「チェス」のコマが整然とキングを守護するように配置される。
 人間や動物の埴輪も、円筒埴輪から発展してきたもので、したがって基本形が「円筒」で、中身が「空洞」になっている。それは供物なのに中身が空で、その「容器」のみが、シンボル化されたものである。おそらく中身の虚空には、魂が宿り、この世のシュミレーションとしての肉体で、あの世を永遠に生きるであろうことが意図されていた。ゆえに埴輪とは、供物のための器であって、同時に依代でもあるのである。だから例えば人物埴輪を、縄文の土偶と比較するなら、同じ「ひとがた像」ではあるが、中身が空でしかももとの形が容器なので、どこかうつろで静的な趣になっている。したがってそれは土偶のように、「外部」と「内部」の二重性を同時重層的に表出するというものではない。供物としての依代であることから、がっしりとつくられていながらも、「外部」(あの世の霊)自体を造形的に視覚表現せずに、「器」としての虚空にそれをたくすという表現になっている。埴輪自体は、土偶と同様その後完全に消滅するのだが、このような埴輪の依代的な虚空を宿した造形表現は、その後のいわゆる「日本的伝統」の重要な核として生き続けるのである。例えば前方後円墳の円形部の中央に置かれた家型埴輪は、その古墳に埋葬される主人の魂がすまう住居とされるわけだが、その家型埴輪はやはり中身が空になっており、ちょうど今日みられるところの祠や神社の社とつながるものである。
 このような造形の根本的な差異はともかくとしても、そこに実現された固有の形態、比例、美意識、精神と連結し展開しえた彫刻家が今日まで皆無だったことは驚くべきことであり、日本の貧しさとはそういうところなのだと痛感させられる。

 ところで岡本太郎の『太陽の塔』の写真を、子供の時はじめて眼にし、奇妙な印象を持ったのを思い出す。顔と胴体が、それぞれ異質で、つながっているのか分断しているのか、そして顔も無表情の無機的な表現で、それがはたして顔なのかレーダーかなんなのかさえよく解らない。今見ると、その全体のフォルムからそれが縄文の土偶とつながっていて、顔が仮面であることに対してあらためて納得できる。岡本太郎も縄文土偶をきっと二重性のもとで見ていて、しかもそれがあの太陽の塔の中で生きているのが少しわかってきた。