「建築における日本的なもの」
(磯崎新)2003年を読んで―2




 概説

 「建築における『日本的なもの』」という問題構制は、日本が明治以降、西洋・近代建築を受容する過程で、近代人としての外からの目によって、自身の内に他者としての日本を探し求める様に形成されてきた問題構制だという。それは明治以来大東亜戦争中から戦後の復興、オリンピック、大阪万博まで約100年にわたって推移してきた、島国・日本ならではの建築上の主題であり続けた。
 西欧の復古的古典用様式の模倣から国際様式としての近代建築様式が受容され、あらためて日本固有の建築様式が希求されるようになる。それはいわば当時の国策でもあった。折衷的な帝冠様式を経ながらも、ブルーノ・タウト等の影響、桂離宮や伊勢神宮、茶室など我が国の古典が進められ、近代建築と日本建築の統合がはかられていった。それは例えば丹下健三の仕事に昇華され戦後に継続されたとする。磯崎によれば1968年ころから事態が変化し(前衛の死、経済大国化など)、「日本的なもの」という問題構制が機能しなくなってきて、ポストモダンに続く90年代のグローバリズムではさらにそれが加速しているという。



 
はじめに

 美術にかかわる自分にとって、建築家の視点というのは新鮮このうえない。
 そもそも「建築における『日本的なもの』」なる問題構制は、其々の時代の国家的なプロジェクトと緊密に結びつけられている。いわば国家を背後に擁すその探求と企ては、つねに公と国家像に現実として直結してくるものであったことに、ある種の憧憬と懐疑を抱かざるを得ない。そのような次元では、つくり手個人の私的な感情やこだわりは取るに足らないもののように感じられてくるだろう。まさにそこが、「建築」なるものの功罪・特質なのかもしれない。
 もしも1970年以降、まだこのような国家的規模で、国家を背負っての仕事ができると考えていたとすれば、その方が逆に無理があるのは明白である。だから現在の「群島」状況の方が、相対的にニュートラルに近いのだとも言えよう。この間の180度的な転換―(主題の喪失)の言説は、建築という特殊な分野の特殊な自意識の自己言及ともとらえられるのではないだろうか。
 ひるがえって、美術において、これまで、そのような大きなテーマが至上命題として全体に作用してきたことがあっただろうか?国家的プロジェクトと手を結んだり、現実の国家像に参与してきたりという、公で現実的な仕事がありえただろうか?
 もしあったとすれば、「戦争と万博」(椹木野衣)で指摘されている様に、戦争画と大阪万博ぐらいのものだろう。 むしろ日本の美術(相対的にその良質な方面は特に)は、つねに国家・体制や市場(マーケティング)に背を向けてきていたのではないだろうか。



 そう考えるとまずは建築と美術の違いを以下摘出しておいた方がいいだろう。


 1・社会的、政治的、時代的な影響が大きいこと。

 2・実用的・構造的な必然性と普遍性があること。

 3・前提として建築は相対的に大規模な「構築」であること。

 
 
 以上のポイントは建築の強みであり弱みである。それが美術との歴史的推移を異なるものにしている。


<1>

 「建築における日本的なもの」という命題が成立し、かつ大きな国家的推進力で推し進められ、部分的にしろ実行され、かつ実行されうるという事態は、建築の存在が、日本の近代社会において大変重要なものであったことが解かる。
 しかし逆に言えば、つねに外側からの外圧、要請に対応をせまられ、そのためなのか問題構制がはなはだ大上段的であり、「日本」という抽象的虚構からはじめられねばならなかった。そこに個人的な趣向やこだわり、問題意識、身近な生活空間体験の入る余地は限られてしまう。ある意味大味で一様な歩みに限定されてこざるを得ない。同時に其々の時代の要請、社会の変化に大きく影響されることになる。それは見ようによっては、社会や時代を動かしていく推進力の一端に見えるとともに、それらに適応し、流されていく迎合的姿勢として批判されるものである。
また、磯崎は次のように述べる。
「ジャポネズリ―、ジャポニズム、ジャポニカ、ジャパネスクと呼び名を変えて登場してきた流行、それは島国のなかに珍奇なものを捜すことだった。内部でただちにこれに呼応する作業が生まれる」。
 いわば「日本的なもの」が、内と外の境界のはざまで一種の商品価値として認識されてきていたともいえる。それが、磯崎の言うように、日本的なものという問題構制が成立しなくなった現在において、もはやハイアートではなくロウ・サブカルチャーが、日本の「売り」として認識されているところのものとなっている。その場合「日本的なもの」とはこれみよがしなキッチュなものである場合がほとんどのように見受けられる。
 先述のようにこれまで日本の美術・とりわけ前衛美術・現代美術においては、マーケティングの感覚に疎く、むしろその外で展開されてきていた。むしろ「日本的なもの」をアピールしてきたのは、日本画や「美術工芸」の分野であったかもしれない。
 しかし前衛が終息し、ポストモダンの波を受けた後の90年代以降、サブカルチャー、オタクカルチャーとの連携のもと美術も「日本的なもの」を自覚的に押し出すようになった。その場合の多くが以前の「ハイアート」的な「日本的なもの」ではなくて、いわゆる「劣性遺伝子」的な悪い所としての「日本的なもの」である点注目しなければならない。


<2>

 磯崎によれば丹下健三こそ近代主義と民族主義の統合を成就した「英雄」的建築家ということになる。
 丹下の仕事は、日本古来の建築から割り出した特質を近代的建築に融合し洗練させるという今日的視点においても、ありうべき至極まっとうな方向性であった様に思える。例えばそれを「日本国民建築様式」と呼ぶ者もあったというからすごい。このようないかにもありそうな古代の神殿造りなどからもたらされた無理の無いデザインは、「型」となればすぐさま形式的に堕ちてしまうだろうが、ここにとどまらず(というか敗戦と大東亜構想の消滅がその実現、繰り返しを阻止したのだろう)戦後に継続的発展を実現していくところが、さらに丹下のすごいとろであろうか。
 例えば広島平和記念公園では、明快な軸線を基に資料館、死没者慰霊碑、原爆ドーム等が象徴化されている。
 特に資料館の外観は、まず平たい巨大な水平線を印象付ける。広場の広いスペースと水平線の感覚が平和を印象づける。そしてこのすっくと立ち上がる資料館は、古代の「倉」−例えば正倉院などを連想させる(近代建築のル・コルビジェのピロティを用いたアパート建築などにも重なってくる)。
 驚くことに、この資料館に原爆の資料、遺品が納められていることになる。広い公園の中央の巨大な倉・正倉院に原爆の遺品が納められていることになるのだ。その下部・高床の柱の間から原爆ドームが見える。なんとも強力な建築構想である。古代的なゆったりとした美観と戦争の傷跡と戦後の平和の願いが其々対比的に重層して強め合う。
 東京オリンピックでの「代々木オリンピックプール」は強大な釣り天井でダイナミックな形態を紡ぎ出す。磯崎によれば「エキゾチックな『日本』でも良い趣味としてのジャポニカでも、シャンディガール直喩のブル―タリズムでもない。明瞭な独自性をもった仕事が完成した。三〇年余りのモダニズム受容が『日本的なもの』を一貫した問題構制にしつづけたその到達点でもあった」と最大級の評価がなされている。

 はたしてこのような評価に値する美術作家が日本にいるだろうか?
 それ以前に近代的なものと民族的なものを統合しひとつのスタイルに結実し得た作家がいただろうか?
 例えばおそらく丹下と個人的に親交のあった(広島平和記念公園にも関わった)イサムノグチの抽象彫刻が挙げられるかもしれない。しかし、多くの作家は、モダニズムの模倣・亜流に終わるか、成熟した質にいたらないか、、、脱形式に逸脱していくかしかない様に思える。
 というのも美術における近代主義は、加速度的に様々な流派を生み、実験と解体にあけくれるようになるからでもあった。建築の様な物理的構造的な基本制約がほとんどないためでもある。それに呼応するかのように日本の50〜60年代前衛は、多くが従来の美術形式を解体破棄し逸脱していく。その中で形式や構築性から逸脱する作家に、ユニークな「日本的なもの」の結実を見出すことができると言えばできる。
 磯崎は68年に世界同時性に直面しもはや「日本的なもの」の問題構制が失われたと述べるが、美術ではおそらくもっと早い段階で前衛運動が過熱解体していた。それゆえに丹下健三的な意味での近代と日本的なものの表現形式上の統合を、十分経るいとまも無いうちに、近代美術は解体終焉を迎えてしまったと考えられるかもしれない。ある意味で丹下的な、至極まっとうな探求は、例えば戦前の安井曾太郎、、あるいは、前衛の解体後のラジカルな極限(「もの派」や「美共闘」)を経たのちの形式復帰を希求する1970年代前半の日本現代美術の探求にそのよすがを探すことができるかもしれない。その後ポストモダニズムが席巻し、「日本現代美術」特有な探求はしりすぼみしてしまう。そして「近代文化・美術が無い国にポストモダニズムがありえるわけがない」というようなことが言われてしまう。
 ちなみに先述の90年代以降のサブカルチャー的、「劣性遺伝子」的な「日本」のこれみよがしの押し出しは、既に表現形式上の問題がスル―されてしまっており、ほとんど論外となるだろう。

 結局、このような日本建築の成果・世界的成功は、建築そのものの特性が大きく起因していたと言える。
 まずもって建築は実用品であり、普遍的なものであり、万国共通の、その時代、時代の技術と問題意識が共有されうる土壌がある。
 重力に抗する力学的構造に根差しした一定の制約もついてまわる。またそうでありながら、世界各地の風土的な差を当然のことながら許容していく認識が確立されている。さらに言えば、柱構造を基本とする日本の建築的伝統が、当時の近代建築の工法(鉄骨などによる)の方向性と上手くかみ合うことができたとも言われる。
 それは近代美術形式が世界的に観て普遍的でないことと大きな隔たりがある。美術も絵画も彫刻も無い国がほとんどである。近代美術にいたってはなおさらである。美術概念の有無を棚上げしたとしても、形式や支持体やメディウムは各地で其々異なり、其々の持ち味が、其々の美観や世界観と緊密に結びついている。それらを凌駕するだけの力学的経済的共通項が成立しえない。にもかかわらず地域間の風土的差は顧慮されず、ほとんどの場合、劣性、不純、ローカルなものとして貶められざるをえない仕組みになっている。
 1940年代に日本の美術・絵画に丹下健三のような仕事があれば、そして太平洋戦争がなければ、あるいは「抽象表現主義」はアメリカではなくて、まず日本で花開いたということも想像できようか、、。


<3>

 そもそも「建築」とはまずその前提として大規模な「構築」である。
 それは日本的伝統と多くの場合そう反してくるものである。だから、「日本的なもの」の前に「建築における」が付いているところが意味深長である。つねに「日本的なもの」と「建築」が矛盾をきたすのである。
 実用的な普段の住居や建造物であれば問題が薄い。しかし特別なもの、重要な象徴的な建造物、モニュメンタルなものでは甚だ難しい。丸山眞男の「自然」と「作為」でもあきらかなように、日本の伝統では常に「自然」をその優位におく傾向がある。
 日本古来の神殿とは、自然そのものであり、ことさら社殿は立てられなかったという。カミを招く「イワクラ」、「ひもろぎ」があればいいのであり、建築物は本来、後天的な付録なのであった。木や森が周囲の付録としてある西欧近代建築とは正反対なのである。
 神社の「社・やしろ」とは、本来見えない流動するカミを固定する、隠しながら視覚化するために採用された「ハコ」なのであり、古代スタイルの「倉庫」なのである。それは、ことさら人工的につくられることをその本質として、伊勢神宮の様に定期的に繰り返し立て替えられたりしたらしい。立てる−建てる―隠す―ハコ―社―建築―「作為」が、背景の場所・環境―山や森―「自然」と対比関係になっており、高密度に統合的なシステムを形成していたのである。
 であるので、単純に伊勢神宮等の神社の建築物様式を、ありがたがって近代的建築土壌に反映させたとしても、当初前提とされていた、周囲の自然・森やカミの存在、式年遷宮の採用などが無視されるとすれば、その建築に意義は生まれえない。まさに「でくのぼう」のようなものになるだろう。その場合の建築の意志は自然への畏怖とどこまでも矛盾するだろう。

 磯崎の考察によれば、「日本的なもの」のよりどころとなり根拠とされてきたものは、つねに周囲の「環境」であったという。例えば戦前の「大東亜記念造営物」コンペ案では一等の丹下健三、二等の前川国男ともに、それぞれ「環境秩序的」、「環境空間的」とうたっているという。
 たしかに日本の伝統は、建築以外の「自然」(「環境」ではない)に大きく関係している。とくに精神的な意味のある建造物ではなおさらである。神社では周囲の自然が主役であり、その畏怖と力を招き寄せる装置として建築物が用いられている。

 しかしこのような特性を「周囲の環境に依拠する」と解し、近代的建築意識につなげてしまう時、180度転回する本末転倒な事態が生まれかねない。「環境」というもの言いは、「自然」以外にも、例えば既存の「都市」でもあてはまることになってくる。環境にかかわることがいつしか都市計画―都市建築というより大きな構築を招き寄せ、その大義名分とされてしまうだろう。その場合の大義名分は、内実の伴わない、つじつま合わせの言いわけでしかない場合が多いだろう。
 もともと、日本において人工的な都市建築そのものを支える様な思想や神話は内発的に生じにくい。古代の平城京や平安京は、中国的宇宙観の模倣と、新設の国家意識が結びついた合成としてある。そのようなわけで建築家がおこなう都市計画(というかスケールの大きめな複合的建築構想)は、特に日本においてはつねに胡散臭く、また現実にはうまくいかないのではないだろうか。例えばもっと小さな規模で、ある種の郊外ニュータウン建設などを見ても、「安全、住みやすさ、高級感、、、」の装いとは別に、どこか決定的に空虚で均質な結果となるようだ。

 しかし、そのようなことを踏まえても、いや踏まえてこそ、丹下謙三の戦中戦後の二つのプランは興味深いものがある。
 「大東亜建設忠霊神域計画」では文字通りただのプランなのだが、日本の象徴でもあった富士山と皇居が直線道路で結ばれようとしている。あまりにもスケールが大きいのだが、理にはかなっている(もし実現していたら彼は完全に戦犯だ)。
 広島平和記念公園では、中央の神殿―倉庫―資料館に原爆の遺品というモニュメンタルな物品が収蔵されることによって、この施設全体の内実を得るのに成功している。まさに空洞の倉ではなく、カミ・原爆遺品=死者が安置された社となっている。原爆ドームも含めた周囲の広島の街という「鎮守の森」から召喚された「カミ」=「原爆による死者達」を祭る古代の神社(社殿はもちろん穀物倉庫・倉をモデルにしている)という恐るべき構造になっている。ここでの「富士山」/「皇居」や「原爆遺品」/「原爆ドーム」は、たんなる公園の緑や空洞の建造物ではないのであり、その取り替え不可能な存在性を建築・構築の根拠とすることによって、真正の表現たりえていると自分は想像するのである。


 ところで、日本的なものと建築の本質との矛盾は、このような自然―環境だけの問題ではない。
 戦後の焼け跡からの復興において試行されてきた様々な都市構想、建築プログラムにおいても同様の問題が浮上してくる。
 元来、原爆や空襲による殺戮と破壊を踏まえることは、建築という人力の構築と鋭く矛盾してくるものである。この破壊を踏まえながら、戦後復興期から高度経済成長期の変転化で試行されてきた「メタボリズム・新陳代謝」なる運動では、例えば、細胞活動をモデルにした変化の相で都市をとらえることにより、移動、交換、付けたしをあらかじめプログラム化した単位による組成から都市建築が構想されているという。それはしかし、言ってしまえば最初から変更可能なレベルに単純化し、組成プログラム化したものにすぎず本末転倒な感がある。それを使用し、住む人間にとって、何時でも交換、変更可能な仮設的な建築が、居心地が良いわけがないのである。
 同じことが磯崎新による60年代のあらかじめ廃墟としてる都市構想のイメージにも言える。ここでの破壊―創造のプロセス、反転はベタな素朴な意味において想定されている(これはある意味で90年代以降の「劣性遺伝子的日本」の先駆の一つとも考えられる)。
 たしかにつくられたものはいつかは壊れる。永遠は無いのかもしれない。しかしつくり手やそこに住む人間にとっては、そのつど一回きりの人生なのであり、限られた条件下で「永遠性」を志向するのが内実なのではないだろうか(江戸時代の長屋が火事に備えてあらかじめ立て替えやすくつくられていたというのは例外的なものであるだろうし、そこから生まれる精神性はどんなものだろう)。誰が好き好んで、あらかじめ廃墟と隣り合わせの都市を好むというのか?
 ということで、戦争の傷跡に誠実であればある程、その構築は制御され、しいていえば、ものが作れなくなるのことも多いのであり(美術家には多いわけだが)、それほど誠実でなく、それがひとつの「戦略」と化すとき、あざとい現実遊離の虚構が立ち上がるだろう。それが美術なら許されても現実の建築では虚構も現実になる。
 いずれにせよ、自然の「なる」、後天的変質、その多様性にはかなわない。「なる」−「自然」、創造と変質と破壊を人工的に取り出してみせる「つくる」−「作為」は、結局は建築意志と矛盾するだろう。だから実現する建築においては、つねに建築的−計画的―構築―予定調和の範疇に留まり続けるほかないだろう。
 彼らの着想は、建築として現実化することにより、逆説的に現実の「なる」−新陳代謝に追い抜かれるのである。

 「復興」から繋がって行く戦後の多くの試みは、現実の復興するスピードが早すぎたせいか、それに追い立てられるようで、原爆などの懐疑や反省を十分に踏まえられていたとは思えない。美術が形式や作品を捨て去ったのに比べ、建築はやはりどうしようもなく構築的であり、社会的であり、政治的でありつづけるほかなかった。それは言ってみれば当然と言えば当然なのだが。であるので、その多くは、芸術、表現としての純粋性が足りないのであった。その問題意識とその追求は常に中途半端であり、建築的制約と社会情勢に左右されざるを得ない。

 どこまでも建築は相対的に「構築」の側にあるのだから、構築を支える神話―大いなる価値が無い限りにおいて、超絶なる物は生み出しがたい。その矛盾は建築をキッチュと分裂に導くだろう。
 磯崎の指摘する現代の建築的特徴が、まさに「環境」に根拠を託し、周囲へ溶け込んで自身を溶解させていくようにしか見えないのは、まさにそれを無意識的にしろ自覚的にしろ反映しているといえそうだ。
 グローバル化による群島化、内外の境界の喪失、日本的なるものの無化、、、という本著の問われ様の本当のところは、おそらく次のようなものだろう。
 つまり、大きな構築―建築を肯定し根拠付けてくれる大きな神話・主題が、68年以降失われ、現在では、とりあえず周囲の環境に溶け込む―同化しようという消極的・自己否定的な(建築的には反建築であるので、ある意味前衛的、積極的な)方向をとるほかないという、、今日の大クリエイション(別に建築のみが担っているわけではないのだが)の矛盾した姿が問われているのだろう。



 <むすび>
 
 国家的要請、マーケティング的戦略、あるいは大規模な構築表現の根拠付け、、とは別に、自律し内実のともなった表現であろうとするときに、自らの足場が言及されるのは当然であり、そういう次元での足元からの「日本的なもの」が、建築においてどれだけ問われ実践されてきたのかは不明である。
 ひとつのまっとうな「表現」であろうとする限り、またこの列島に関わる存在であるかぎりにおいて、「日本的なもの」、「東北的なもの」、「固有なもの」、「本質的なもの」、「内発的なもの」は絶えず問われ続けるのが、至極当たり前であろう。「日本的なもの」としたからといって、直ちに日本列島全域にまたがる、あるいは「国家」なる、制度的かつ広く大きな領域、「公・おおやけ」にすぐ結びつけてしまうのは、「日本的なもの」にとっても、「日本人」にとっても不幸と言うしかない。
 「日本的なもの」で真っ先に桂離宮や伊勢神宮など、普段生活の中で縁遠い、ほとんど見ることもできない建築物を参照しようとする態度にもそもそも問題がある。それはやはり戦略的な意図を有し、権威ある特別なものから格別で権威あるものをつくろうとすることでしかない(皮肉なことに伊勢神宮の社殿はありきたりな「南洋の小屋」形態なのだが)。
 「日本的なもの」と言っても、結局はつねに、その時代時代で、自分に都合の良い部分でのみ「日本的なもの」が探索され取り出される傾向があった。都合のいい部分とは、つまり「建築における」―あくまでも時代時代の建築的要請に基づくものだった。それゆえ、そのおおもとの文脈、精神はないがしろにされ、内実の伴わない別物になっていく危険性が常にあった。それでも、実用性や構造的必然性に支えられていた近代主義建築の時代では、それほどの問題は露出しなかったのであろう。しかしひとたびその範疇から出てしまうと、「日本的なもの」は単なる「意匠」の流用としてキッチュで空虚なものとなってしまいかねないのである。

 なによりも大切なのは、「建築における『日本的なもの』」の「建築における」をはずすこと。
 それは同時に「美術における」、「絵画における」、「造形における」をはずして、もっと広い視野で「日本」というよりは、この列島の文物・風土を、いわゆる「表現論」の次元から考察していく態度が望まれよう。
 「建築における」視点は、つねに「大構築」、「作為」を前提とし、「日本国家」を招き寄せる傾向が強い。同時に「美術における」視点も基本的には、「構築」、「作為」、「造形」、「作者」、、を自ずと前提としてしまうのは同様だ。
 
 建築でも美術でもない視点に潜航して、もっともっと身近なところ、、「大通りではなく枝道」、「道の奥」に「日本的なもの」=「自分達的なもの」を見、理解していかなければならないように感じる。


2011年12月