<造形の属性>

 

造形というものの属性は、

 

1・物質性

2・人工性

 

この属性は造形が造形である以上どこまでもついてまわる。
 
造形はつねに、そこから発するある種の矛盾を自身の奥底に内蔵することになる。

 
人知を超える畏怖すべき神々を再現することの無謀性は、美術が確立している今日では想像することが困難である。人間を超える存在を人間が作る出すことの本質的矛盾とその不可能性。多くの宗教では偶像をつくることに懐疑的であるのは至極あたりまえである。
 
それでも古代ギリシャのように「美」・「比例」という神々と人間をつなぐ道しるべが生きていた文化・時代では可能と思われていたかもしれない。
 
ただ言えるのは、古代ギリシャ以来西洋美術の根幹をなす「自然主義」表現は、つねに上記の「造形」の本来的属性を隠蔽する性質を本義としてきている。それが物であり作りものであるという事実をどれほど隠蔽するかによって、その再現性の完成度が問われるのは、古代ギリシャ期の多くの逸話からも推測される。

近現代美術でもその影響は再現美術に対するいびつな反動もふくめて、はかりしれないものがある。いわゆるモダニズムの色や形、コンポジション、絵具や支持体、区形、筆触、量感、空間等の美術形式的自己言及は、ジャンル形式の固有な言語に立脚しようするとしても、ジャンル化以前の交流媒体を源流とする「造形」本来の属性にまつわる問題意識にはとどかない。

 

いままで上述してきたコンタクト回路での交流にまつわる「媒体」としての造形では、反対に、この造形本来の属性がフルに生かされてあるのは何よりも重要である。

本来造形は、物質性・人工性なのであるから、それは神々とは比べものにならないほど、ちっぽけで、限定的で、タカの知れた、身近(卑近)なものである。しかしその反面、目に見える、手にさわれる、限定されたあるまとまりであり、ちっぽけながらも自然の確実な一部分であり、人が関わりを持った、あるいは人のつくりだした、自然と人の関係、あるいは人力の象徴でもあるのだった。

人知を超えた畏怖すべき神々のありようにどこまでも対置されているのが、これらの造形の属性・物質性、人工性である。ここには何も偽りはないのであり、造形の属性である物質性と人工性に立脚したこのような造形の伝統こそが正当なものであると考えたい。

もちろんそれは、後代の近代美術において浮上してくる「物質性」、「人工性」とはその文脈と質を大きく異にしている。前者は大いなる領域との交流の中に、後者は主に人間中心主義の妄想に由来している。

いずれにせよ、造形が過剰化して再現表現へ脱線していく過程で、造形が「美術」(と後年呼ばれるもの)として交流回路から自立的に成立していくわけであるが、反面当初の造形が持っていた立脚点を隠蔽・忘却していくという事実は強調しておかなければならない。現在に生きる我々は、その枝別れの美術以前・「道の奥」に立ち返り、あらためて、その問題を考察していくべきであろう。