| 2002年8月20日発行 【編集】 『葦牙』同人会: 牧 梶郎 東京都新宿区百人町 2-18-6-401 Tel/Fax03-3368-9695 【発行】 いりす 東京都新宿区市ヶ谷砂土原町3-3-201 |
No:43 |
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巻頭言 個人と国家 |
個人と国家
今年、一番考えたことは、文学のなかでの個人と国家の関係の問題である。最初、それを意識的に考え出したのは、何本が書きためてきた福澤諭吉についての小論を二〇〇一年の没後百年を機に一冊にまとめようかと整理していた時である。
この問題は単純なようでありながら、実は複雑である。福澤はその事情を「政府ありて、国民なし」という一言で要約したが、彼自身もその「私情の個人」を近代的な国民として定位するためには悪戦苦闘した。その事情は、「私情」を解説して「文明世界に独立の対面」を張るための「立国の大本」としたものが、「数百千年養い得たる我日本武士の気風」としての「痩我慢の一大主義」というものであったことからもよくわかる。そこには、福澤の「国家意識」が濃厚にはたらいていた。
日本近代の「個人」認識は、福澤の言う国家独立の基礎としての「私情」が、ブルジョアな個人としての発展を閉ざされ、国権の強化と伸張をはかる大日本帝国の臣民的な意識のなかに組み込まれることによって、文字通り痩せ細ってきた。近代文学がその事情に大きな影響を受けてきたのは当然のことである。戦前、中村光夫が「プロレタリア文学運動」を論じた時(一九三五年)、日本には「ブルジョア文学というものはなかった」「あるものはただ封建的な私小説だけであった」とした裡は、日本近代における「ブルジョア個人」の稀薄と不在が反映していた。同じ年に、小林秀雄が「私小説論」を書いて「社会化した私」の欠如を説いたのも、同じ意味であろう。その個人にかかわる事情を現代の文学や政治のなかで考えることが、この一年、大江健三郎、川端康成、三島由紀夫、石原慎太郎などを通して試みてきたことである。一つの結論は、依然として日本人は個人と国家を一体化させる国民的な意識を持続しているということである。個人の国家からの独立は、現代日本の個人をさまざま呪縛しているものからの解放の鍵である。
(武藤 功)
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刊行委員会より
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巻頭言◎個人と国家◎
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