§丸山昇さんの死を悼む§
山根 献
丸山昇さんの訃報に接したのは、「文藝家協會ニュース」06年一二月号によってだった。そこには、亡くなられた日が一一月二六日で、すでに葬儀・告別式は近親者のみですまされており「生花・香典等も固辞された」とあった。謙虚で穏やかな人柄の丸山さんの、なにか覚悟のようなものがそこには感じられた。「革命と戦争の世紀」とも「虐殺の世紀」ともいわれたあの世紀に、近代史上まれにみるといわれる人間惨劇が中国にはあった。その現実と向き合い、丸山昇さんは現代中国文学研究者として、一歩も退かず生き抜いた。
わたしの丸山さんとの出会いは、きわめて観念的なものだった。東京・港区にあったメーデー事件対策委員会に「メーデー事件ニュース」のバックナンバーを閲覧に出かけたときである。作家・阿部知二論を書く都合で、特別弁護人として法廷に立った作家・阿部知二の陳述を書き写すためだった。筆記が終わってわたしの閲覧に立ち会ってくれた編集責任者から裁判闘争の様子をきく段になって、その話のなかで丸山昇さんが登場したのである。厳しい裁判闘争のなかで丸山さんの思想と行動がどんなにみんなの力になっているかを、彼はしみじみと語ってくれたのだ。そのときのいかにも信頼されている丸山昇さんのイメージが、じつは、そのままのかたちで、いまのわたしのなかに残っている、ということに気づいて、わたしは驚いている。
その後、丸山さんは『民主文学』に寄稿してくれたこともあり、わたしが一九七五年から「民主主義文学同盟」の事務局長を引き受け、『民主文学』編集委員の一人でもあったことから、なにかと直接、間接に丸山さんにお会いする機会はあったはずなのだが、それにもかかわらず、わたしの丸山昇のイメージは変わらなかったことになる。ところが、その変わらなかったイメージには、それがそのまま現実化する段階がふくまれていた。思いがけないところから、丸山さんを「『民主文学』八三年四月号問題」という「問題」に巻き込むことになってしまったからである。
「『民主文学』八三年四月号問題」とはどんな「問題」だったのか、についてはここで繰り返さない。丸山さんがどんな経緯でこの「問題」に巻き込まれることになったかについては「問題」が起ったほぼ五年後に『文化評論』一九八八年一月号に掲載された《津田孝「『葦牙』批判」について》のなかで丸山さん自身の立場から客観的に述べられている。それを見ていただくことにしてそれも繰り返さない。ただ、わたしはいまあらためてこれを読み返してみて胸が詰まる思いがした。わたしが慙愧に堪えないのは、丸山昇さんに迷惑をかけてしまった、ということではすまされない問題がここにはあったからだ。 「『民主文学』八三年四月号問題」のあと、わたしたちが発刊した同人誌『葦牙』にたいする批判はますますエスカレートし、まさに、みるに忍びない状態がつづいていたのだ。丸山さんはそこでも書いているように、その当時、とくに専門の仕事に追われる度合いも大きくなり、健康も害されていた。にもかかわらず筆を執り、それを『文化評論』に書くことになった、その決断にいたるまでの苦渋する内面がつぶさにそこにつづられている。公平な議論がおこなわれることを丸山さんは求めたのである。
しかし、ここで見過ごすわけにはいかないのは、この一連の事態をめぐる「問題」がたまたま起った、通り過ごしてしまっていい類の「問題」ではない、と丸山さんは見ていたことである。だからこそ「中国の『文化大革命』と格闘し、解放後の『思想闘争』の持っていた誤りや欠陥について、いろいろ考えさせられている一人」として、いまそれを書かないというのは「無責任」であると考えたのである。もとより津田孝個人の批判を意図するのではない。それゆえに、丸山さんは津田孝が当時の党「路線」のすべてを代表していようといまいと、そうしたことは抜きにして、真っ直ぐに津田孝の論理の構造そのものに向かい、それがもつ危険性を指摘し、注意を喚起しようとしたのである。
丸山さんの紹介で問題の『民主文学』八三年四月号に掲載された小説『人、中年に到れば』でも描かれていたように、この時点で「文化大革命」は終わっていた。しかし、現実には丸山さんがこの文章を書いてから一年半ほどたって、またあの流血の「天安門事件」(六・四事件、一九八九年)が起っている。
丸山さんは、津田孝の『葦牙』非難と糾弾の文章に、科学的で冷静な分析、批判より、断罪を先行させる論理の構造を見、危惧だけではなく危険を見たのだが、それは、こうしたケースとまったく同じ、あるいは、極めて類似したケースを丸山さんは、中国で嫌というほど見てきたからだろう。他国の例を日本に無造作にそのまま当てはめることはできないとする丸山さんだったが、ここでは、よく知られる一九五五年に起った「胡風批判」の場合と、姚文元(文革時「四人組」の一人)の二例をあげている。
姚文元の場合、「批判」が、「理論」によるのではなく、「正統」による「異端」糾弾というかたちに転化した典型例であった。時の権力者の見解が「正統」とされ、その枠組みからひとたび踏み出たと認定されると、その見解はたちどころに「異端」とされた。中国ではこれが繰り返されてきた。これはけっして中国だけのことではなかったのだ、と丸山さんは思っていたのだ。「天安門事件」後の著書で丸山さんは書いている。
「とくに知識人の積極性に致命的な打撃を与え、彼らを沈黙に追い込んだ(その結果、学術・文化・思想面における立ちおくれのみならず、政治・経済における深刻・広範な停滞とたちおくれをも生んだ)構造が、またしても繰り返されたのである」(『中国社会主義を検証する』)と。
丸山昇さんの目は、津田孝の背後にある「大きな問題」に向けられていたのである。日本の一九五二年の皇居前「人民広場」にはじまり、中国の一九八九年の「天安門広場」に到る流血の、人民弾圧の道がたどる歴史の糸は、丸山昇をとらえて離さなかった。いやそうではない、日本の一人の中国文学研究者・知識人として、その責を果してきたまでのことだ、と丸山さんは、いうかもしれない。
「若いころには私もいろいろな夢を見たものだった。のちには大半忘れてしまったが、自分でもべつに惜しいとは思わない。回憶というものは、人を楽しませることもできるが、ときとして人を寂しくせずにはいないものだ。精神の糸を、すでに過ぎ去った寂寞の時につないでおいたとて、どれほどの意味があるだろう。私はむしろすっかり忘れてしまえないのが苦しい。そのすっかり忘れてしまうことはできない一部分が、今になって『吶喊』を生むもとになったのである」
これが、若き日の著作『魯迅――その文学と革命』のなかで最初にあらわれる丸山さんが引いた魯迅のことばであった。
丸山昇さん去りしあとの、この寂寞をわたしたちはどうすればいいのか。お世話になりました。ご冥福をお祈りいたします。 2007・01・29
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