裁判員制度が全党一致で可決される不可解(『葦牙Journal』No.69


JN69-SAKAI

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酒井 浩明

裁判員制度が全党一致で可決される不可解

 元青法協議長・高山俊吉氏の「裁判員制度はいらない」(講談社)を読んで、裁判員制度の事を聞いたときのとまどいを思い出した。  一九九七年に、自民党内に、司法制度特別調査会「司法制度改革の基本的な方針―透明なルールと自己責任の社会にむけて」が設置され、一九九九年に司法制度改革審議会、二〇〇〇年に司法審は、「中間報告」で国民参加の形態を検討することをうちだした。
 そのころは、陪審制を中心とする日弁連と参審制どまりを主張する最高裁が対立していた。私は、陪審員制はもちろん、参審制についても危惧を持っていた。素人に正しい判定が下せるものであろうか、という単純な疑問である。
 裁判制度については、国民の多数も私と同じ程度で、司法への国民参加の世論がそんなに強いとも思えなかったのに、突然(と、私には思えた)日弁連と最高裁が歩み寄って、二〇〇一年六月に裁判員制度が登場し、司法審は小泉首相に意見書を提出、十一月には司法制度改革推進法が成立した。裁判員法は、二〇〇四年四月に衆議院を、五月に参議院を全党一致で可決された。国会は年金問題で右往左往している時であり、充分な審議もされず、可決された法案はほぼ原案通りであった。

 最高裁は、素人に表決権を与えても裁判官の意を通すことはできると踏み、日弁連は陪審員制度へ一歩前進と考えたといわれている。小泉首相は改革という名を取ることが出来るし、政府や最高裁にしても裁判に対するいろいろな批判をかわせると考えたと思われる。
 表向きの理由は、「国の主人公が裁判に関われば、健全な国民常識を直截に裁判に反映させる事になるし、国民は刑事司法を理解する事により、この国を支えていると言う自覚が高まる」ということになる。

 政府・最高裁の本当の意図がどこにあったのかは知らないが、(司法審の意見書の総論には「国民の統治客体意識から統治主体意識への転換」「国民自らが統治に重い責任を負い」とある。勘ぐれば、自己責任論と同じ根の責任転嫁とも考えられる)私のとまどいは、充分な検討もされないまま、共産党も含めて全党一致でこの法律が決まってしまった事だ。
 なぜ、野党が賛成にまわったか。与党と最も対極にいると思われる共産党の見解を見てみる。二〇〇四年五月八日(土)の「しんぶん赤旗」に国民の声にこたえる形で次のように書かれている。(現在もこの見解に変わりがないことは、メールで確かめた)裁判の判決が国民の常識とずいぶんかけ離れていたり、罪のない人が有罪になる「冤罪」も数多く発生してきました。この根本原因として、試験に合格して研修後、社会経験の少ないままに裁判官になるキャリア裁判官制度があげられます。この現行制度を変えるために提案されたのが裁判員の制度です。いまヨーロッパ諸国では一般の国民が裁判官と同じ資格で裁判に参加する参審員制度が、アメリカなどでは主として有罪無罪を決定する陪審員制度が、普通におこなわれており、裁判への国民参加が常識になっています。日本共産党は以前から裁判への国民参加をもとめ、陪審員制度の導入を主張してきました。裁判員制度はヨーロッパでおこなわれている参審員制度に近いのですが、専門の裁判官とくらべて裁判員の比率が高ければ、国民参加として十分有効な制度になると考えており、その立場から法案に賛成しました。

 他の野党や日弁連も基本的にはこの考えと同じである。冤罪―キャリア裁判官制度、陪審員制度(国民参加)=民主主義、国民参加が公平性にもつながる、ということになる。本当にそうであろうか。常識はずれの判決というのが、具体的にどういう判決をさすのか、わからないが、冤罪とともに、その根本原因がキャリア裁判官制度であろうか。裁判所(特に最高裁)と権力が癒着していて三権分立がなされていないことが根本原因ではなかろうか。

 模擬裁判を見に行ったが、裁判員制度になって、常識はずれの判決や冤罪がなくなるとも思えない。裁判員の負担を軽減するために論点整理などの事前の準備がなされ、短期間集中で何の知識もない人々が参加する。そこでは、裁判官や一部の裁判員の主張に引きずられる。ヤラセになるか、今の右傾化、厳罰化の流れの中でのマスコミの影響にひきづられるかのどちらかである。
 国民参加が公平性につながるかという点ではもっと疑問である。権力による冤罪もあるが、暴徒によるリンチもある。キリストやソクラテスの例もある。法や裁判所はそれらからの脱却という面もあったはずである。

 日本の刑事裁判の九二%がすでに被告人が有罪と認めている事件(自白事件)であり、評決は事実認定に基づく有罪か無罪かより、量刑の考慮が裁判員の仕事になるが、公平に量刑を決める事ほど難しいものはない。公平にするには過去の事例との比較が欠かせないが、我々はそんなことをできない。過去の事例を知った裁判官であって、初めてなせる業だ。
 裁判員制度が陪審員制度(裁判官を除いて、陪審員だけで決める)に近づくものとして評価されているが、それもどうであろうか。シンプソンやマイケル・ジャクソンの裁判を見ていると、アメリカの陪審員制度はお金持ちや有名人が無罪を勝ち取るための裁判のような気配さえあるし、テレビや映画に出てくる裁判での有罪・無罪には紙一重の危なっかしさを感じる。
 歴史的にも陪審員制度が善で、参審制度(裁判官と市民が一緒に)が次善というほど単純ではない。十三世紀ごろにイギリスで始まった陪審員制度は市民の自由を守るためにというより、国王が行政執行の為の情報を収集するための便宜として使われたものであり、陪審員制度が自由の砦として評価されるようになったのは、その後、絶対王政に抵抗した政治犯を無罪とする評決を通じてである。イギリスから独立した開拓期のアメリカがそのまま陪審員制度を引き継いだのは、司法のプロが絶対的に不足していたと言う事情もあった。

 一七九〇年の革命会議(フランス)で、国民主権の発露として、硬直した職業裁判官の役割を制限するため刑事司法改革が始められたが、それは陪審員制度ではなく、参審制度であった。その後も陪審員制度に改められてはいない。むしろ、ドイツでは最初陪審制度をとっていたが、その後、参審制度に変更している。
 国民参加=陪審員制度=民主主義の発展という教科書的な考えの底流には、国民は愚かで充分判っていない(だから教えないといけない)と言う本音を隠して、国民に任せれば正しい結論が出るという建前をとおそうとする気持が流れているのではないか。
 国民はまじめで正しい結論を出すという前提で(或いはそうあるべきだという押し付けで)事をすすめてはならない。ヒトラーを選んだのも国民だし、マスコミに左右されやすいのも国民である。その国の国民の民主主義や政治に対する成熟度も様々である。それを全部ひっくるめて、なお、それでも、国民のために、国民の手によって政治を行うというのが民主主義である。だからこそ、選挙やアンケートや公聴会だけでなく、大衆運動や自由な論議が必要なのである。
 戦後民主主義が否定され、民主主義が若者をわがままにしたという意見が大手をふって歩いている現在、私たちは今一度それに対抗できる民主主義を再構築しないといけない。或いは、民主主義の内実を豊かにしないといけない。
 建前だけの、概念だけの民主主義でなく、その政策が実施された場合に、本当に国民の為になるのか、民主主義が前進するのか具体的に検討しないといけない。

 私は司法の国民参加を否定しているわけではない。国民が充分に理解していないのに(議員だって理解しているとは思えない)、或いは問題点が検討されていなのに国民参加という言葉だけで決めてほしくないといっているだけだ。決めてから、正しい事を国民に説得するのでなく、国民と共に考える姿勢がほしかった。
 先日の模擬裁判の席上で「まだ国民の六〇%以上が反対ですが」という枕詞があった。国民の声を聞くことを最大の目的にした裁判員制度が国民の声を無視して全党一致で決められた、というのはいかにも妙ではありませんか。



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冤罪の真実の確定は決して司法の独占物ではない。
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市民は公務員が強権を発動して、人権とその基礎である民主主義の秩序を破壊することを許してはならない。
憲法12条に謳われるとおり、国民の権利は国民自身の不断の努力によって守り維持されなければならない。