小田実氏追悼
小田さんとのこと
中野健二(『葦牙Journal』No.72)
小田実さんの訃報に接したとき、詮ないことだとは知りつつ、「それにしても、やはり奇蹟は起きなかったか。さぞかし小田さん、無念のことだったろう」と、何度か目にした一見頑丈そうな氏の風貌を思い浮かべながら哀惜の思いがぬぐえなかった。というのも、この四月の末、『葦牙』編集責任者の武藤功さんの許へ小田さんから、自らも常任構成メンバーのひとりとして参加したフィリピンの人権抑圧などに関わるオランダでの「恒久民族民衆法廷」の判決資料とともに、「私事」としながらも自己の深刻きわまる病状について記した手紙が届けられていたからである。武藤さんはその判決資料をふくむ長文のコピーを私にも回してきた。そこには「余命いくばくもない」という切迫した時間を見据えながら、作家としてあとどれだけの仕事ができるか思い量っている小田さんらしい「貪欲」さが読みとれたが、「まさか、あの小田さんが」という半信半疑の念もチラッとよぎったのも事実であった。あと三ヵ月か、半年という命のくぎりに向き合う小田さんの心中を思えば、私としては陰ながらでも何らかの奇蹟を念ずるほかなかったのである。
といっても、私と小田さんとの間にとりわけての親交があったわけではなく、じかにお会いしたのは三度ほどで、賀状のやりとりも二、三度程度でおわった間柄にすぎない。ただ反戦・平和をもとめる各種の集会で壇上に立たれて発言する小田さんの姿は一参加者として私は何度も目にしていたので、それなりの親近感は抱いていたといってよい。そういえば、小田さんの風姿をはじめて間近に目にしたのは、もう四十年以上も前のことになる。アメリカによる北爆開始でベトナム戦争が本格化しはじめた一九六五年(昭和四〇)、小田さんを押し立てて鶴見俊輔氏らが「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(通称「ベ平連」)を結成して間もない同年の八月、東京・赤坂プリンスホテルで開かれた徹夜のティーチ・イン「戦争と平和を考える」に参加した折のことであった。私の記憶では、小田さんは主催者側の一員として進行役を務めていたのではないかと思う。あるいは討論参加者だったかもしれない。そこらあたりの記憶は曖昧だが、まだ三十歳そこそこの小田さんのざっくばらんな関西弁の語り口と物怖じしない態度がつよく印象づけられ、これまでの「青白きインテリ作家」のイメージとはほど遠い、石原慎太郎氏や大江健三郎氏ともまた違った新しいタイプの作家の出現を、彼の大ベストセラー『何でも見てやろう』の闊達自在な発想と文体とに重ね合わせて実感したという次第である。
その折の余談を付け足せば、討論参加者には各政党の代表が招かれていて、自民党からは未来の総理の座をうかがうまだ四十代後半の中曽根康弘、宮澤喜一の二氏が、野党側としては共産党の若き論客と目される上田耕一郎氏、社会党からは歯切れのよい政府追及で鳴る石橋正嗣氏がたぶん出ていたと記憶するが、会場を包むむせ返るような熱気のなか、かれら面々が丁丁発止と渡り合う討論中、いきり立って相手を論駁しようと青年将校風に逸る中曽根氏を冷静な面持ちをくずさない宮澤氏が足元で中曽根氏を小突き牽制しようとしているさまをたまたま目にして、私は微苦笑を禁じえなかったことを思い出す。
そしてまた、たしか小田さんの言だったと思うが、「この集会の席に本来ならば、宮本顕治さんにこそ来てもらいたかった。天皇制打倒の旗をかかげ反戦・平和の信念を堅持して唯ひとり予審調書を空白にさせたまま、文字どおり獄中十二年の非転向を貫いた人物として、その意見を聞いてみたかった」という趣旨の言葉も今なお耳に残っている。のちに皮肉な巡り合わせとでもいうのか、小田さんたちの市民原理にもとづく諸活動をことさらに危険視して小田批判キャンペーンの音頭取りをした、その張本人ともいうべき宮本氏も小田さんと相前後して、この世を去ったことに一入の感慨を覚えざるをえないのではあるが。
ところで、私が小田さんとじかに会って面識を得るのは、それから二十年ほどたってのことである。そのきっかけは、小田さんにも関わる思いがけない一つの「事件」が私の身辺に起こったことによる。当時私は、民主主義文学の創造と普及を標榜する文学団体の機関誌である『民主文学』の編集長の任にあり、一九八三年四月号に始めて小田さんからの寄稿を得た。そのいきさつは、こんなふうであった。
『民主文学』の編集委員でもあった中里喜昭さんが小田さんの結婚式に招かれた折、文革後の中国小説であるェ容(チェン・ロン)の「人到中年」(「人が中年になると」)を英文で読んだという小田さんがさかんにこれを推奨し、どこか翻訳掲載するところがないか、という話になったらしい。上京した中里さんからその話を聞いた私は、手元にある二百枚ほどの翻訳原稿のことをすぐさま頭に浮かべ、「小田さん推奨の小説というのは、これじゃないのかな」と中里さんの確認をもとめると、ご本人もびっくりして、「そうだ」ということになった。その翻訳原稿はひと月ばかり前、中国文学者の丸山昇氏が弟子筋の福地桂子さんの手になる翻訳原稿として編集部に推薦してきていたものであった。私は一読して、現下の中国社会に生きる民衆の苦悩と希求をリアルに描いた得がたい作品で掲載に値すると判断し、大きなスペースを取ることになるけれど近々のうちに何とか掲載したいと考えていた矢先のことであった。
「渡りに船」とはこのことで、このさい小田さんと丸山さんの寄稿も仰いで、誌面の大部分を割いてでも次号の目玉になる「特集」にしようと中里さんと話し合い、編集委員会にもそのことを提案して了解を得た。中里さんはさっそく小田さんと連絡をとり、ふたつ返事の快諾を得、私も編集部として正式の寄稿依頼の手紙を出したというわけである。かくして『民主文学』一九八三年四月号にその小説を巻頭に、小田さんの懇切丁寧な「『人到中年』・ひとつの『まえせつ』」という評論エッセイと丸山さんの「『文革』後の中国文学」という論考を併せ掲載したのである。たまたま編集部に来られた映画監督の山本薩夫氏からも「あの特集はなかなか読ませたね。とくにあの小説がいいね。映画になるな」といわれ、私は大いに気を良くしたものである。
ところがである、いつもは雑誌発売と同時に『赤旗』に掲載される広告がその号にかぎって拒否されたのである。共産党の広告部長にその理由を問い質しても、「理由はいえない」の一点張りであとはだんまりを決め込むばかりだった。そして数日後して、共産党に所属する私たち文学団体の中央グループ全員が招集され、党指導部から私たちの文学運動に「思想の風化」が見られるとして激しい批判をあびることになったのである。その一つとして小田さんの寄稿文章が槍玉にあげられ、文中に「昨年くれの中国訪問で、私は何人かの中国の作家と会った。野間宏さんを『団長』としてかつての『使者』の同人仲間と一種の『作家代表団』をかたちづくって行った─」というたった三行ほどの事実の記述がけしからん、というわけである。中国共産党と断交中、「反党分子」である野間宏を団長にしてなどという記述のある文章はとうぜん掲載を断るべきであり、ましてや編集後記に寄稿への礼を述べるなどもってのほかで、編集長の責任をきびしく問うというものであった。さらに加えて、文学者の「反核声明」や小田さんらが新しく発足させた「日本はこれでいいのか! 市民連合」(略称「日市連」)に「反党分子」も紛れ込んでいる呼びかけ人に中里さんが名をつらねていることも思想風化の現れとして弾劾の対象とされた。
私たちの多くは党指導部の時代錯誤ともいえる馬鹿げた批判を受け入れず、その場での決着は先送りとなり、以後えんえん半年にわたって私の編集長辞任や中里さんの自己批判を要求する党指導部との綱引きが行われたのであるが、結局、私たちの「根負け」のかたちで事態の決着をみることになった。問題の発信が党最高指導者の宮本顕治氏の「鶴の一声」によるものであり、党指導部といくら渡り合っても時間の無駄だとわかったからである。そのいきさつと末については、霜多正次さんの回想記『ちゅらかさ─民主主義文学運動と私』や中里さんの小説『昭和末期』などにくわしく描かれているので、これ以上の贅言は省くことにする。
かくして、小田さんの寄稿を発端にして、霜多さんをはじめ中里さん、私ら十名に及ぶ役職者がその任を退いた「事件」は外部にも知られ、『朝日ジャーナル』などにも取りあげられた。事態のなりゆきを心配し、ご自身の責任も感じたのか、小田さんは友人の作家である李恢成さんを仲立ちに中里さんと私に会いたいといってこられ、その年の暮れだったと記憶するが、新宿のステーションビル最上階の喫茶店で四人で会う機会をもった。
小田さんは率直に「私の原稿のことで、あんたたちには迷惑をかけたようで、すまなんだ」と頭を下げるので、かえって中里さんも私も恐縮し、「なんのなんの、小田さんが悪いわけじゃありません。小田さんこそ僕ら文学運動内部のゴタゴタのとばっちりを受けて嫌な思いをしたでしょう。誠に申し訳ありません」という具合に謝りあい、お互い笑いあったのである。そのあと、李さんのご好意による計らいで席をかえて飲もうということになり、近くの朝鮮料理店の宴席用の一室に案内されて大いに飲み、打ち解けた歓談の一夜を楽しんだのである。それが小田さんと直接に面識を得た最初であった。
その後一年ほどして、霜多さんを同人代表として私たちが文芸季刊誌『葦牙』を創刊するや、小田さんから「どんな状況に置かれても右顧左眄することなく、あなたがたの志を貫いてください」という激励と期待をこめた葉書をいただき、私は心強く思ったものである。
そうした因縁で出合った小田さんだが、その後も二度ほどお目にかかる機会があり、その折の忘れがたいエピソードも思い出すのだけれど、与えられた紙数も尽きたので、このあたりで止めたい。 本来ならば、小田さんの五十年におよぶ文学的業績や社会的諸活動について、少しばかりでも言及して私なりの手向けとしたかったのであるが、その用意もなく、ただただ余人をもって替えがたい戦後文学の志を継ぐ大事な作家のひとりを日本社会が失ったことの意味を思うばかりである。
(二〇〇七年九月二十七日)