われ=われの葬送(『葦牙Journal』No.72


 

中里喜昭

われ=われの葬送

  小田さんはことし同文の二通の年賀状をくれた。こんなことは何回もある。年賀といった世俗の行事に大まかなうえ、賀状の出欠整理にかまけるひまなどないらしい。いま手がけている仕事の抱負や「人生の同行者」玄順恵の『私の祖国は世界です』日本語訳刊行の紹介、娘ならさんの消息などを刷物の文章で伝え、太字の万年筆で〈ともあれ、今年も、おたがい元気で〉と書きそえてある。だれにもすぐわかる筆跡の、明るいブルーの字だ。二通目も同形同文だが万年筆書きの文章から〈今年も〉の文字だけが抜けていた。四月になって、手書きをコピイしたA4版十枚におよぶ手紙が届いた。おなじものを友人ぜんぶに送ったのだろう。いまでは彼みずから遺書とよんだ『日本の「中流」が世界を変える』(NHK出版)に収録されている。
 手紙には小田さんもjr(審判団)の一人をつとめる「恒久民族民衆法廷」がフィリピン政権の民衆虐殺について下した判決文の紹介や仕事の現況をしるし、そのあとに自分が余命三ヵ月の末期癌だと告げてある。私はすくんだ。わけもなくはらが立ってきた。世のためひとのため自分のために他の何十倍もはたらき続けているじゃないか。そんなやつがなんで死なにゃならんのか。

 小田さんからの賀状はダブったものを省いて二十七枚あるはずだ。つまりほぼ二十七年半、人生七十五年としてその三分の一にわたる、けっして短くはない歳月の交友になる。うち、もっとも印象的な賀状は一九八四年、阪神淡路大震災以前に住んでいた神戸市中央区江戸町からくれたものだ。小田実とハングルの玄順恵の名がならぶ。彼らはたがいを「人生の同行者」と決め、私も結婚式によばれてから一年ちょっとしか経っていない。〈年末はたのしかったです。又、やりましょう。例の共産党にかかわっての一冊、お送りします〉とある。賀状は小田さんの共産党批判─というより反批判のパンフレットと同封だった。共産党の小田叩きはこのころもっとも激しかった。
 いまの私の記憶では、年末はたのしかったというその「たのしかった」こととは何だったのか、はっきりしない。マンションの小田宅に、まだ社会党副委員長時代の土井たか子が秘書と二人で訪ねてきたことがある。居合わせた私もいっしょに二時間くらいおしゃべりした。小田さんには土井さんをモデルに小説の構想があり、タイトルも「日本大相撲」だ、と小田さんみずから笑いながら説明したものだ。だがその日は小説などそっちのけ、社・共革新二党のこのところの沈滞がおもな話題だった。話は深刻なのに、からりとして楽しく、まさに歓談だった。
「それでも若い議員なんかは、目の色にまだヤル気、ありますよ。信頼できる」  自身、ヤル気の土井さんもいきいきしていて、いかにも日本大相撲の一方の「雄」らしい。骨格の大きな、観察のきいた話しぶりがおもしろかった。
 前後して、まだ早大在学中の辻元清美ともこの小田宅で会っている。ピースボートの代表だった彼女は、一統とともにやってきて、翌日は小田さんをともない北陸へ貸切バスで松葉蟹を食べに出かけるとのことだった。蟹を食いながらよもやまの話をしよう、と誘われたが私はことわった。もともと私の訪問の目的は「平凡パンチ」誌の読書欄の取材だった。その夜、私は辻元さんら一統の若者たちと小田家の居間に陣どり、めいめい得意な歌を歌い合って遅くまで騒いだ。小田さんはあの部屋・この部屋と忙しそうにはしていたが、あんがい歌の指名を避けていたのかもしれない。若い人は新しい歌を、私は三池炭鉱の闘争歌ばっかり頑固に歌いまくって、その晩はめちゃくちゃにたのしかった。翌朝、さきに出かけた辻元さんらを待たせておいて小田さんは私の取材に応じてくれた。あれこれの著名人をえらび若い読者たちに三点の本を推薦してもらい、その理由をのべてもらうのが読書欄の企画である。小田さんは、当の本人を目の前にして拙著『与論の末裔』を激賞した。これをストレートに記事にするわけにはいかんなア─私は困惑した。読書欄には取材者の私の名も載るからだ。小田さんは『与論の末裔』を英訳し、紹介文とともにレバノンの、たしかアジア・アフリカ作家会議系から刊行してくれたらしい。らしい、というのは、その後のレバノン紛争で組織はめちゃくちゃ、著者の私さえその本をまだ見ていないからだ。
 李恢成のおごりで、小田さんと私の三人、新宿の韓国風高級料亭で飲んだこともあった。小田さんは料亭の赤い公衆電話の前に十円玉を小山のように盛り上げ、神戸の「人生の同行者」へ私まで巻きこんでの長い長い電話をした。なにをしゃべったのか、いまでは定かでない。仲居がおどろいて覗きにくるほど、ふたりとも大声で笑ったりしゃべったりした。この思い出もたのしい。
 八四年の賀状の「たのしかった」こととは土井さんとの歓談か。辻元さん一統との歌くらべ、または新宿の痛飲か。二十年以上も昔の記憶からは、時間と空間の繋がりがバラケてしまっている。小田さんとのつきあいをつうじ、私にはいろんな人たちとの交流が拡がり、知己も敵も増えた。たのしい出会いもおもえばずいぶん多かった。だが、八四年の賀状がとりわけ印象ぶかいのは、この年に前後し「日本はこれでいいのか市民連合(以下、日市連)」結成、日本文学者の反核声明、「民主文学」四月号問題、原水協分裂といった一連のことが後景に浮かんでくるからだ。
 それぞれ個別な運動を一つながりにむすぶのが共産党である。路線変更したいま、当時の宮本(顕治)路線による市民運動や文学運動、反核運動への介入・引回しは想像できまい。そんな独善的な「指導」など市民がはねつける。八十年代の前半は、しかし、宮本路線が各分野にもたらした混乱・分裂・停滞として特徴づけられる。〈例の共産党にかかわっての一冊〉と賀状が同封されてきたのはそれがもっともひどかったときだ。

 小田さんらが中心の、現状を考える人びとの会というところから「日本はこれでいいのか─憲法実現・反安保・われわれの市民集会」をやる、その呼びかけ人になり集会で発言してくれ、という依頼がきた。「集会へのよびかけ(案)」をみると、〈民衆の側の対応をとっても、既成左翼政党や労働運動をはじめ、かなりの部分が体制の補完物になっているか、あるいは全体状況に目をつぶって、個別の課題に埋没している〉とある。既成左翼が体制の補完物とはどういう意味か、と私は発信元の一人である西田勝に尋ねた。私は西田さんに請われ、彼や「中里喜昭の発見者は私だ」と自称する小田切秀雄らの文芸誌「文学的立場」に短編小説「黄葵」(ほるぷ社刊『日本の原爆文学』所収)を発表したことがある。集会呼びかけ人の依頼状はこの線からきたのだ。自分は共産党が体制の補完物だとはおもわないし吉川勇一に尋ねても今回それをいうつもりじゃなかった─だからぜひ、というのが西田さんの返辞だ。それはそうだろう。でなければ共産党常任幹部会員の上田耕一郎にまで参加を要請するはずはない。集会一週間前の共産党機関紙「赤旗」さえ、〈憲法実現・反安保で集会 小田実氏ら提唱〉とあり作家の中里喜昭、早乙女勝元氏も発言する、と好意的に紹介していた。
 集会当日、私は朝早く筑摩書房へ出かけた。図書室を借り、夕方まで調べものや書きものについやし、集会の開会時刻となって私は筑摩書房からごく近い会場の全電通会館まで歩いていった。ほろ酔いの川端治が玄関の受付ふきんに立っていて、いやに気の入った握手をする。楽屋に入り、色川大吉ら勧進元のめんめんに挨拶した。あなた、よくここへ来られましたよね、などと言われてやっと気がついた。ようすがおかしい。ともかく壇上で発言し、壇をおりたところへ目を大きくひらいた中野健二がやってきて私は真相をしることになる。なにしろ仕事が忙しく、当日の「赤旗」にも目を通していなかったが、その記事にこうあった。いわく〈基本姿勢に重要な問題点〉。共産党が急変したのだ。なるほど。上田耕一郎がキューバ共産党大会参加を理由に急遽、集会参加を断ったわけも分かった。党文化部では私に参加をさせないよう朝から行方を探していたという。開会時刻には会場裏口を張っていた。それとはつゆしらぬ私は会場の正面玄関からのんびり入り、川端さんと熱烈な握手を交わした─それにしても薄気味わるい話だ。なんで彼らは正面玄関を見張らず、裏口だけにピケを張ったのか。隠れて入場するとでも考えたか。党中央には、党員さえのっけから疑ってかかる人間不信がその根にあるのではないか。
 ともかく私が知り合ったのは宮本路線下の共産党から袋叩きされているころの小田さんであり、彼が代表をつとめる日市連結成に私が参加したことが交友の端緒になった。

 上田さんが集会不参加の理由を赤旗のいう〈基本姿勢〉の問題とせず、キューバうんぬんを口実としたのは含蓄ある事実である。集会の是非をめぐり、党幹部会の不一致とまでは言えないまでも、微妙なニュアンスほどのちがいを生んだのだろう。
 日市連が旗揚げして年を越えた八一年一月、恒例の赤旗新春インタビューで当時共産党委員長だった宮本さんは、党を既成左翼といって否定しておいて共産党も出てこいというのは反共ムードを容認せよということだ、と小田批判を延々展開している。つまりこれが、たった一週間での「赤旗」の豹変と上田さんの微妙なニュアンスの根源なのだった。だが、あいにく宮本さんのこの一般教書は、しばらくのあいだ「威令行なわれず」の状態であったらしい。それから二年ちょっとして、党委員長から議長になっていた宮本さんは党第四回中央委員会総会の閉会挨拶でこうグチを並べている─私は日市連成立が危険な兆候だと考え、八一年の新春インタビューで市民運動についてふれておいた。ところがこんど調べてみると、当時委員長だった私がこういう大事なことを指摘したのに、「赤旗」などでそれを追いかけて解明したりする論文や解説がさっぱりでていない。そこにわれわれのイデオロギー活動の弱さが反映しています。
 一般教書から二年ちょっとの間、党内でも上田さんみたいな微妙なニュアンスは溜まりに溜まっていたのだろう。宮本さんにネジを巻かれた四中総は不破哲三の委員長結語でもかなりなスペースで小田さんと日市連批判をやった。二週間後の「赤旗」には三日連載で河邑重光が「『既成左翼』否定論の社会的役割」と題し、〈日市連や小田氏が革新勢力にたいしてなんらかの接触を求める姿勢をしめすこと自体にも特別の計算がこめられているのでは〉〈共産党や革新勢力の内部にその「市民主義」を広げ……個々のメンバーを取りこんでくる〉と書いた。私はその小田さんのCIAばりの〈特別な計算〉から取りこまれた一人というわけだ。しかし、おれならそうはみないナ。
 十人十色、考え方はちがってもめざす方向が一致すればいっしょにやれる。むりにがんばったり強制したりせず、フツウの人がやれることを結集し大きな活力にしていこう、というわれ=われの「市民主義」にくらべ、宮本路線こそいまや日がかげったローカル線ではないの。なにが悲しうてか時代遅れの老朽ディーゼル機関車に、仕方のない正しさに打ちのめされつつ、うつうつ牽かれて走っていく、あれ。

 宮本路線の大衆運動への持ちこみは、運動それぞれの目的をどう達成するかよりイデオロギー闘争を優先させ、紛糾し停滞し分裂にいたる同一のパターンをえがく。
JN72-FREIGURG.JPG 日本文学者の反核声明についてはややちがって推移した。声明へ参加署名と声明の呼びかけ人になってくれという依頼がきて、私は即座に承諾し同封の署名用紙二十枚も知己の文学者へ配った。それを受けとった日本民主主義文学同盟の同盟員Yが、党中央の西澤舜一へご注進におよび、西澤さんは長崎にいた私のところへ電話をよこした。呼びかけ人には反党分子の小田切秀雄も小田実もいる。あなたの連名はまずい、参加を拒否するよう、と指示した。こうした不可蝕賎民と同席する穢れを戒めるのがいつものやり方だ。しかし小田切、小田、野間宏みたいなアンタッチャブルはおよそどの分野にもいて、彼らに触れるのを恐れていたら、孤立するのはこっちじゃないか。そりゃない。ハラを決め、一時間もの長電話はぶち切ってしまった。
 結局、反核声明という日本ではじめての文学者の社会的共同行動は、代々木公園での十万人集会、ニューヨークでの百万人集会と発展した。反核声明の推移は岩波ブックレット『反核─私たちは読み訴える』を参照してほしい。政治的に機敏な宮本さんは一転、これを評価し、西澤さんは更迭、津田孝に替わった。津田さんはすぐ党中央委員・党幹部会員と二階級特進した。しかし宮本さんは一部修整はしたものの基本路線を変更したわけではない。日市連から反核声明、「民主文学」四月号問題、原水協分裂といった一連の経過は私の長編小説『昭和末期』にも書いている。
 「民主文学」四月号問題の発端は小田・玄結婚式だった。参式した私は、式の日の夜に小田さんから英訳の中国人作家チェン・ロンの長編『人到中年』を紹介された。それを「民主文学」へ掲載し、ついでに小田さんの解説ものせることを、津田さん含む編集委全員が同意し、福地桂子による日本語訳「人が中年になれば」が同誌四月号にのった。このいきさつは『葦牙』本誌三十三号所収の「わり算の文学」に書いた。四月号問題の直接のきっかけは、反党分子の小田さんが反党分子の野間さんにもふれた、つまり二重に不浄な「まえせつ」を「民主文学」に掲載し、編集後記で寄稿に礼を述べたこと。党は編集長中野健二を、事実上、強制的に解雇させた。そうした首切り反対闘争の一面と、他の面では民主主義文学の定式化だの批評の規準化だの、文学のイデオロギー管理につながる整風運動の吹き降ろしに抗した対立でもあった。

 一九九六年の十一月七日付「赤旗」は、阪神・淡路大震災被災者の公的援助要請にやってきた小田さんらと当時党書記局長だった志位和夫ら共産党代議士ら四人が国会で会い、被災者援助での協力を約束した、と報じた。近々宮本引退のうわさが流れていたころだ。敵のスパイ呼ばわりした側と、された側との協調が世間を驚かせた。「志が同じなら超党派で一緒にやる。共産党であろうと、共産党の敵であろうと」が小田さんの弁。志位さんも「過去の経緯はあったとしても、前向きな方向で一致点があれば、どういう方々とも共同する」と口がそろう。小田さんの姿勢は日市連設立いらい変っていない。だが志位発言やまさに宮本路線の方向転換ではないか。
 遅れに遅れてはいてもこの転換は当然であり、評価もできる。ただ、なぜ宮本さんがまだ元気なとき、つまりそれがもっとも必要な時期にそうしなかったか。眼から少々火がでてもなぜ正面から議論しなかったのか。ニュアンスほどの叛意はあっても、結局、宮本機関車がどこぞ廃鉱の引込線へ乗り上げるまで黙ってみすごし、それからようやく転轍作業にかかっているのだ。小田さんとの和解といった個別問題のなしくずし的補修から、現在は共産党最高幹部の不破さんが宮中晩餐会へ出てくるような柔軟路線へ乗換えている。これが自民・民主の二大政党間に埋没する事態からの脱出となるかどうかは別な問題だが。
 ことし、奇しくも宮本さんと小田さんの訃報が相次いだ。この典型的な二つの生と死を、私はいま、われ=われの側からみている。
 小田さん。われ=われはあんたを、そうかんたんに死なせはせんよ。

*「われ=われ」とは小田実『われ=われの哲学』(岩波新書)から引いた。

©photo/k.y.2007.