新自由主義イデオロギー攻勢のなかでよみがえるグラムシ

小原耕一
(グラムシ研究者・国際グラムシ学会調整委員)

――グラムシ没後七〇周年にちなんで――

社会主義理論学会第46回研究会 報告


2007年7月29日(日)午後2時〜5時
文京シビックセンター5階研修室Bにて


〔新自由主義イデオロギー攻勢とグラムシ研究〕

前世紀90年代を境に、第2次大戦後の世界政治を規定していた「冷戦体制」に終止符が打たれた。それ以降、はやくも17年の歳月が流れた。この間、世界の人びとは、グローバリゼーションの浸透とあわせて、「新自由主義」という名の新たなイデオロギー攻勢の脅威にさらされながら21世紀を迎えることになった。 この《新自由主義イデオロギー攻勢》のもとで、新・旧ヘゲモニー間の対抗・抗争・葛藤は世界的規模でいよいよ複雑な展開を見せている。国際関係論の分野においても、グラムシの《ヘゲモニー》概念をキー・コンセプトないしは分析概念として応用しようとする潮流、言い換えれば国際関係におけるヘゲモニー論の活性化が、近年のグラムシ研究の重要な特徴のひとつとなってきた。
これは、新自由主義攻勢にたいして、それぞれの国の被支配諸勢力が重大な対応を迫られてきたことともあいまって、国際的な共通の対応の可能性、言い換えれば新自由主義攻勢にたいするオールタナティブとしてのカウンター・ヘゲモニーの可能性を模索しようとの動きとも軌を一つにしている、と言ってもよい。ここに、グラムシ言説をめぐる"ヘゲモニー闘争"が生まれてくる根拠もある。
最近10年間のグラムシ研究の流れをざっと振り返ってみると、特筆されるのは、ローマの財団グラムシ研究所が主催したカッリャリ(イタリア・サルデーニア特別州の州都)での国際会議(没後60年「グラムシと20世紀」1997年4月)。この会議であらわれた議論も、新自由主義イデオロギー攻勢と対峙するなかで「国際的市民社会」「国際的ヘゲモニー」といった新しいカテゴリーが登場し、この問題の解明に集中したのが重要な特徴のひとつ。
グィド・リグォーリ(現『クリティカ・マルクシスタ』編集長、国際グラムシ学会イタリア支部副責任者)は、キアーラ・メータとの共著『グラムシ読書案内』(2005年4月発行)の序文で、この会議について総評し、あらまし以下のように指摘。

理論問題としては、グラムシの「拡大国家概念」(これについては後述)を過小評価する誤った傾向がみられたこと、政治問題としては、従来「資本の論理」への対抗軸となっていた国家による「市場管理(コントロール)」の有効性が棚上げされることによって、左翼の言説の弱化をまねく危険があらわれたこと、ここにこの国際会議の特徴があらわれた、と。

たとえば、この会議に提出されたペーパーでロバート・コックス(Robert Cox、ヨーク大学)は、あらまし以下のように発言。20世紀の最後の20年間に国家の役割がしだいに縮小されたことは抑圧される階層の「敗北」であるが、同時に従属諸階層の「自律的集団行動の総体」を再起動させる新しい好機を生み出した。この「総体」は、主として市場(マーケット)の影響から免れたNGO、ボランタリー活動、その他各種団体の隙間を埋めるような組織形態からなる市民社会を構成する。これを土台に、オールタナティブな世界秩序の基礎として「新しい参加型民主主義」と「グローバル市民社会」の実現をめざすべきだ。NGOは国家的補助にますます支えられてきたのは事実だが、このボランタリー的な異種混交性に、資本主義にとってかわるグローバルな対案の可能性を見るべきだ、と。
「グローバル市民社会」という概念は、先ほど述べた「国民国家」概念の存立基盤の衰退傾向に対応して市民社会を一国的な次元でとらえることの限界を視野において構想されているとも言えるが、一方では依然としてさまざま形でのナショナリズム、国家主義の復活も国際関係に影響する根強い要因ともなっており、さらなる批判的検討が求められる課題。

〔グラムシは自由主義者か?〕

この国際会議では、グラムシ思想の原点、源流をどこに求めるのか、という問題とも関連して、イタリア国内では論争にまで発展するもう一つのユニークな論点が打ち出された。そしてこの問題がグラムシ研究者間の深刻な「分岐」を引き起こすきっかけともなった。
その発端は、こともあろう、イタリア共産党の分裂後の多数派として生まれ変わった左翼政党の指導者の口からあらわれた。それは、グラムシは共産主義者というよりも、イタリア自由主義思想の「継承者」「相続人」としてとらえるべきではないか、という発言。この会議の報告集には収録されなかったが、会議を締め括る円卓討論で、マッシモ・ダレーマ(現プローディ政権の外相でDS〔左翼民主〕の党首)は、グラムシ=自由主義者論を展開した。
リグォーリは、このダレーマ発言について、グラムシ独自のものとは異なる、あるいはそれと対立する思想圏にグラムシを引き込み、グラムシのテキストの不当な読み方を《けしかける》おそれさえある、とこの発言にかなり厳しい評価をくわえている。
グラムシが"共産主義者"として出発したか"自由主義者"として出発したかという、一見たわいない議論には、じつは見過ごすことのできない背景がある。

〔グラムシと国家像〕

それは大きく言って、グローバリゼーションのもとで資本主義の近代化、政治経済の国際化に最も柔軟に対応することができる国家形態は何か、という問題とも関連している。
イタリアの1930年代初頭というのは、ファシズム全盛期だが、国家像をめぐってはいろいろな意味で興味深い展開があった。当時イタリアでは、いわゆるフォーディズムをバネに資本主義世界のリーダーとしての地位を築いて1929年「大恐慌」もなんとか乗り切ったアメリカ合衆国の勢い、いわゆる《アメリカニズム》旋風が驚異をもって注目されていた。言い換えれば、この《アメリカニズム》の影響とどう折り合ってゆくのかという問題が提起されていた。これがヨーロッパのそれぞれの国の「かたち」の選択とも関連していた。 こうしたなかでイタリア国内でおこったのが「協同体国家」構想をめぐる議論。1932年5月にフェッラーラで開かれた「第2回組合・協同体研究会議」(第1回会議は1930年5月)でウーゴ・スピーリトという若手の学者が「協同体概念における個人と国家」と題して報告し、いわゆる「所有協同体corporazione proprietaria」論を展開。スピーリトによれば、「諸協同体を介して生産手段の所有を国家にゆだねることによって雇用者と被雇用者の区別を廃止する。ここにこそ協同体主義の論理的な帰結がある」、「協同体理論の当然の発展は、所有協同体の創設とあいまって、近年の階級的諸現象の漸進的な解消にみちびくであろう」と発言。そしてスピーリトは会議の会場で「ボリシェヴィキは出て行け」といった野次と怒号を浴びせられながら「我われは、ロシアの偉大な経験のなかに大きく豊かに存在するものをすでに我が物とした唯一の民族である。これら二つの体制〔ファシズム体制とソヴィエト体制〕のうち、他方を統合し凌駕することができる体制の側に、未来は属することになるだろう」(1932年5月5日―8日フェッラーラ、組合および協同体研究第2回大会における報告)と述べ、当時としてはかなり「跳ね上がり」的とみられる発言をおこなった。
欧米諸国を襲った大恐慌(1929年)のあおりをうけたイタリア・ファシズム政権にとっては、「協同体主義」構想を深め発展させるという政治的思想的な要請よりも、地域・企業レベルでの労使紛争の最終的解消、重大化する失業対策など不況からの脱出の方が差し迫った課題となっていた。したがってこの研究会議の討論は、財・官・行・労それぞれの思惑もからんで「協同体」論の先行きについては是々非々の発言が少なくなく、事実上「鳴かず飛ばず」の結果に終わった。そのなかでスピーリトの発言は文字どおりの「爆弾発言」であった。ところがスピーリトの「所有協同体」論は、おそらくムソリーニらの「政治判断」によるものであろう、翌1933年本人によってあっさり撤回されてしまった。同年11月に開かれた協同体全国評議会でムソリーニは、次のように述べて演説を締め括った。

「資本主義の全般的危機のために、いたるところで協同体的打開策が必要になるだろうが、十全な、完全な、全一的な、革命的な協同体主義をつくりだすためには、三つの条件が必要である」。そしてムッソリーニは、第一の条件として「単一党」(一党制)の維持、第二の条件として「全体主義国家」の維持、第三のもっとも重要な条件として「思想上のひじょうに高度な緊張の時代を生きなければならないこと」をあげた。「思想上のひじょうに高度の緊張」とは、「協同体主義」構想にあらわれたさまざまな政治的思想的な「緩み」を牽制して「引き締め強化」をはかることを宣言したものと見てまちがいない。「協同体主義」国家構想をめぐる議論がおこなわれた時点においても、ファシズム体制はけっして「一枚岩」ではなかったことをこの間の議論はしめした。

さて、獄中のグラムシも、「協同体国家」構想をめぐるファシズム体制内の不一致に注目していた。ノート22「アメリカニズムとフォーディズム」のなかの草稿「工業の財政的アウタルキー」でグラムシは、ファシズム下のイタリアにおいて《アメリカニズム》あるいは《アメリカ化》を実現しようとする場合、そのために必要な環境、社会構造、国家像とは何か?と設問し、以下のように述べている。

「アメリカ化のためには、一定の環境、一定の社会構造(あるいはそれを創り出そうとする決定的意志)および一定の型の国家が求められる。国家は自由主義的国家であるが、関税貿易主義とか実効的な政治的自由という意味ではなく、『市民社会』として、歴史的発展それ自体によって、固有の手段によって産業集中と独占の体制に到達する、自由な起業心と経済的個人主義という最も本質的な意味においての自由主義的国家である」(ノート22§6)。
このグラムシの言説を70年後の今日においてどう読むべきか。先にふれた1997年の国際会議に参加したマリオ・テロー(Mario Telo、ブリュッセル自由大学)はこのグラムシの言説から、グラムシは「近代化および政治と経済の国際化に最も適した制度的形態」は自由主義国家であるとの考えに行き着いた、との結論を引き出した(「西方の未来と国際関係論についての覚え書」会議報告集所収)。つまり、グラムシ=自由主義国家論者とする見解を表明したわけだ。

 たしかに、グラムシのこの言説には、前後の文脈を度外視するならば、一見「自由主義国家」弁護論とうけとられかねないところもあるだろう。しかし、グラムシのこの言説を根拠に、グラムシを根っからの「自由主義者」だと考えたり、グラムシの将来的な国家像が「自由主義国家」だとの結論を引き出すとすれば、かなり飛躍した議論だと言わなければならない。ここでグラムシが強調しようとしたことは、国家的統一(1870年)以来のイタリア自由主義国家を否定して生まれたイタリア・ファシズム体制のもとでフォード・システムともども《アメリカニズム》導入を受け入れるとすれば、その前提をなす「自由な起業心と経済的個人主義」にもとづく自由主義国家がまずもって必要であること、このことだろう。要するにグラムシは、ファシズム・全体主義的支配機構に《アメリカニズム》を強引に「接木」することの矛盾を指摘したものではないか。

 同時にグラムシは、今言ったような原理的な矛盾を含みながらも、仮に《アメリカニズム》がイタリアに導入された場合(グラムシによればそれは経済的には中間的な「混合経済」の導入という形態になるが)、それによって「受動的革命」(これについては後述)が漸進的に展開される可能性も一つの仮説としては否定しなかった。この点は今日の話とも重要な関連をもつ。
それにしても、一昨年12月のDS(左翼民主主義者)全国会議での党首マッシモ・ダレーマの発言はやはり気がかり。グラムシの獄中ノート「アメリカニズムとフォーディズム」に注目したのはよいとして、「民営化privatizzazioni」の推進に踏み切ったことを同党DSの「自由化」方針の重要な成果だとしたうえで、ダレーマはこう言っている。「我々は今後も自由主義的方向で重要な刷新をイタリア社会に取り入れていきたい」と。このダレーマ発言が、先のリグォーリの指摘のように、従来イタリアで「資本の論理」への対抗軸として使われてきた国家介入、国家による市場管理の視点が投げ棄てられ、全体として左翼の言説の弱体化をまねく危険を引きずるものなのかどうか、中道左翼政権の最大与党であるだけにDSの今後の動向とあわせて注視したい。
それはともかく、グラムシの「アメリカニズムとフォーディズム」草稿に含まれる言説から、現在、どういう意義を引き出すのかという問題で言えば、マリオ・テローにしろ、ダレーマにしろ、全体として「(新)自由主義」を肯定する立場からグラムシの言説を解釈し、そこから現代的意義を引き出そうとしているところに特徴がある。

〔日本型「受動的革命」展開の分析仮説〕

では、グラムシの「アメリカニズム」言説から我々は、いかなる現代的意義を引き出すことができるか、あるいは引き出すべきであるのか。
その前に「受動的革命」とは何かについて若干説明しておきたい。
「受動的革命」とは、19世紀初頭のイタリアの歴史家ヴィンチェンツォ・クオーコ著『1799年のナポリ革命』にでてくる用語をグラムシなりに敷衍して使った言葉。従来の政治学の教科書にはでてこない用語。学問的定義は別として、「受動的革命」が成立する条件は少なくとも二つある。
イタリアの先行研究を咀嚼して言えば、「受動的革命」とは、第一に、支配勢力によって構成される歴史的ブロックが、この支配的ブロックに真っ向から対抗する歴史的ブロックを構成する諸勢力を無化し、取り込み、吸収し、あるいは衰弱させる、かなり息の長い歴史的プロセスを意味する。
第二に、「受動的革命」は、進歩勢力の実力が全体として劣勢であり未成熟な場合に、支配勢力がその支配体制に決定的打撃を被る心配もなく、また恐怖政治に訴える必要も感じずに、権力の座に居座ることができるような、「きわめて柔軟な土壌を社会的諸闘争が見出すような政治的形態」をさしている。俗に言う「反革命」ではない。《受動的革命》概念が分かりにくければ、《革命なき革命》、《復古革命》と言い換えてもよい。
 世界史的に見れば、《受動的革命》概念も《アメリカニズム》の概念も、国によってそのあらわれ方は多種多様だが、大局的に見るならば、現下に展開される「新自由主義的イデオロギー」に積極的に呼応した政治形態と見ることも可能ではないだろうか。

ここで一つの仮説を日本の現代史にあてはめて考えてみたい。太平洋戦争の敗戦を期に、日本に《アメリカニズム》が本格的に導入された。"米国製民主主義"と言ってもいいだろう。しかしその《マメリカニズム》は1930年代前半にヨーロッパ諸国の支配層を震撼させた《アメリカニズム》とも異なっている。第2次世界大戦をかいくぐってきた《アメリカニズム》である。敗戦後、日本の支配集団はこれを巧妙に加工しある程度の「日本化」をはかった。グラムシの言葉を借りれば、日本の戦後民主主義は「日本商標」の《アメリカニズム》ないし日本版亜流《アメリカニズム》ではないか。日本はこれを一つのバネとして戦後の再出発を計った。この戦後民主主義の体制は、変革的な人民運動を自己のうちに吸収、あるいは分散させる、言い換えれば、30年たらずの「時の連続の中で」変革的民衆運動を「細分化」し、「《革命なき革命》《復古革命》という改良主義的な進化過程に変質」させるイデオロギーとして、「日本商標」の「アメリカニズム」が機能したととらえることは可能ではないかと考えるが、どうであろうか。

およそ75年前に、グラムシは、「新しい『自由主義』は、現代(1930年代)の状況のもとではまさしく『ファシズム』ではないだろうか?」、「自由主義が19世紀の『受動的革命』形態であったように、ファシズムはまさに20世紀に固有の『受動的革命』形態ではないだろうか?」と問題提起した。
イタリアのファシズムについては「柔らかいファシズム」とも言われた。日本の現状をファシズムと規定することについては、議論のあるところかもしれない。しかし仮に、イタリア・ファシズムを「受動的革命」の一形態ととらえたグラムシの分析仮説を戦後日本がたどってきたプロセスに大雑把にあてはめてみると、アメリカニズムに対応する「受動的革命」、言い換えれば戦後民主主義の体制が、現下のグローバリゼーションの進行のなかで大きく動揺し、ナショナリズムをめぐる亀裂など支配集団のヘゲモニーを揺さぶる重要な契機となっている構図を見て取ることができると思うがどうであろうか。
またそういう視点で考えると、この《受動的革命》にたいする新しいオールタナティブ(カウンター・ヘゲモニー)を構築する可能性と、新しい変革主体形成の課題やその展望も、従来的な体制選択的パターンから脱皮して、思い切って考え直してみる必要も生まれてくるのではないか。

〔グラムシにおける「市民社会」概念の両義性〕

 先にグラムシ「拡大国家概念」の過小評価の問題についてふれた。グラムシ国家論・市民社会論の重要な特徴は何か。その重要な特徴のひとつは、「市民社会」と「政治社会」を「区別」することを重視するところにある。グラムシは国家を階級支配の機関とする従来型の国家論の立場はとらない。国家を政治社会と市民社会の均衡と見る。それもあくまで不安定な均衡。
それは国家と市民社会を機械的に対置する皮相な図式でもない。ここに従来型の国家概念のグラムシ的「拡大」がある。だからレーニン的国家論とも大きく異なる。あくまで方法論としてだが、この区別がなければ国家のなかの「市民社会の概念に帰属させられるべき諸要素」が見失われるからである。だからこそグラムシは「国家=政治社会+市民社会、すなわち強制の鎧をつけたヘゲモニー」(ノート6§88)であると強調した。
ここでは少なくとも二つの点を確認しておきたい。

 第一に、グラムシにあっては、「政治社会」が「市民社会」へ再吸収されたあかつきに実現される「自己規律的社会」(イタリア語ではソチエタ・レゴラータ)は、おそらくは数世紀あるいはそれ以上の予測困難な長い歴史のプロセスの結果として構想されている、ということ。グラムシは「強制としての国家の要素は、自己規律的社会の諸要素が顕在化するにつれて、徐々に消滅していくものと想像することができる」(前掲)と述べる。「徐々に消滅していく」と述べていることからもこの長いプロセスは看取されよう。さらにグラムシは、「マルクスは知性を働かせて、政治社会の消滅と自己規律的社会の到来にいたる、おそらくは数世紀間つづくであろう歴史的一時代を切り開く」(Q7§33)とも指摘。したがって、この長い歴史のプロセスにおいては、そのときどきの力関係しだいでは「政治社会の市民社会への再吸収」ではなく「市民社会の政治社会への再吸収」といった逆転現象さえ起こり得る。「(再)吸収」にいたる過程はけっしてなだらかで直線的な過程ではない。

 第二に、「政治社会の市民社会への再吸収」と述べるさいに、グラムシの想定する「市民社会」は、将来社会としての「自己規律的社会」であると同時に、いま現に我われの眼前で繰り広げられる「政治社会」との闘争、葛藤、拮抗関係にある「市民社会」のことでもある。この意味でグラムシ「市民社会」概念は、重層的。「国家(狭義の政治社会)の要素」は「徐々に消滅」して、最終的には「自己規律的社会」に行き着くまでに「政治社会」が「市民社会」に徹底的に「再吸収」される事態をグラムシは「想像」している。言い換えれば、将来社会の構想としての「市民社会」と、現に今ある「市民社会」とは、別個のものではないが、同時に長期の「政治社会」とのせめぎ合いのなかで質的な変化を遂げ、従前の市民社会と同一のものにとどまっているわけではない関係、つまり同一ではあるが同一ではない関係におかれるわけである。

  〔グラムシ「市民社会」概念における「自治」の問題〕

やや角度をかえて実践的な観点からグラムシ市民社会概念の内実を考察すると、グラムシ的「区別」の視点の重要性がさらに浮かび上がってくる。
先にも指摘したように、グラムシの国家論、市民社会論を考える場合、重要なことは、「政治社会」の契機と「市民社会」の契機の有機的な「同定」(ここでグラムシの言う有機的な「同定」とは、現実の世界においては政治社会も市民社会も渾然一体となっており、どこまでが政治社会でどこまでが市民社会だと境界線があるわけではなく、国家は市民社会と有機的には同じものだという意味に解しておこう)と「区別」の視点、それもあくまで方法論としての「区別」の視点である。
グラムシは、それぞれ異なる社会集団が自己の国家にたいしてとる態度を分析するさいに、「特定の時代の言語と文化において国家がその姿をあらわすところの二つの形態」に注目した。すなわち、「市民社会は《自治》(イタリア語でautogovernoだが、英語のself-governmentに相当)として、政治社会は《官僚による統治》として姿をあらわすこと」に注意を喚起している。そして、「このことに留意することによってはじめて、その分析は正確なものとなるだろう」(ノート8§130)と指摘。
グラムシによれば、こうして社会集団に所属する各人が「複合的でうまい具合に分節化された市民社会を、政治社会の外被の内部で打ち立てようとする意志」(同上)を明確にする糸口が生まれる。それゆえこうした市民社会にあっては「各個人は自らの手で自らを統治するのであるが、しかしこのためにその各自の自治は政治社会と衝突することなく、と言うよりもむしろその反対に、政治社会の通常の延長態、有機的な補完態となる」(同上)。言い換えれば、これは、あくまで「官僚による統治」としてたちあらわれる政治社会の「外被」のなかにありながら、市民社会としてたちあらわれる《自治》の契機、要素が、あたかも政治社会の「延長態」のような姿をとって、政治社会の契機を「同化・吸収」する、あるいは「淘汰」していく事態をグラムシなりに表現したものと考えることができる。

要するに、グラムシの国家論は、市民社会のなかのこうした《自治》の契機を育成・発展させるためにたたかわれる《ヘゲモニー闘争》の展望のもとに構想されている。この視点がグラムシ市民社会論の重要なポイント。その《自治》の契機とは「市民社会の概念に帰属させられるべき諸要素」であり、「強制としての国家の要素」(つまり政治社会の要素)が「徐々に消滅していく」につれてますます顕在化するところの「自己規律的社会(または人倫国家ないし市民社会)の諸要素」(ノート6§88)に他ならない。
したがってグラムシが使う用語ソチエタ・レゴラータ(「自己規律的社会」)には《自治》の契機による「政治社会の再吸収」のプロセスが内在的に含意されている、と考えるべきである。ソチエタ・レゴラータを単純に「規制された社会」ととらえるのは不正確だと考える所以。

社会主義理論学会・会報第61号(2007.7.15)より転載
(2007年2月4日、社会主義理論学会第46回研究会でおこなわれた小原耕一報告の要旨)

foto© k.y

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