坂をのぼったら雨
―司馬遼太郎と幻の「戦争」小説
南野きらら(『葦牙Journal』No.74)
二一世紀スペシャル大河『坂の上の雲』の実現聞いてください。NHKが遂にやりました!
「数年悩んだ末に許可を決めた。私の死後に勝手に映像化されるより、ちゃんとした作品をいま、作ってもらうことにした」
故・司馬遼太郎の著作権継承者、妻の福田みどりさんから、日露戦争がテーマの『坂の上の雲』映像化の許可を勝ち取ってしまいました。平成一八年(二〇〇六)放送予定だそうです。
え、それがどーしたって? 司馬遼太郎といえば、オヤジ……いえサラリーマンには必須のアイテムですよね。『文藝春秋』とかで経営者の愛読書とか言うと、必ず出てくるアレ! 小泉純一郎も、小沢一郎も、菅直人も司馬ファンですし……。(でもホリエモンの愛読書は『のだめカンタービレ』だったから、時代は変わりつつあるのかなあ……)
。 『坂の上の雲』の映像化、これがどんなに衝撃的なことか。
司馬遼太郎原作のドラマは数多く制作されてきましたが、この作品についてはだけは、本人が「うかつに映像化して軍国主義を鼓吹しているように誤解されると困る作品であり、視覚的に翻訳されたくない」と述べていました。しかしNHKによると、新聞連載終了(一九七二年)以降、ずっと交渉していたというじゃないですか。
三〇年越しの執念! NHKもすごいですけど、司馬遼太郎もすごい。だって、NHKが三〇年粘ったということは、司馬遼太郎は三〇年断り続けたということでしょう。それをどうして遺族は許可を出したのか―。
みどりさんはこうも言ったといいます。
「司馬さんの生きていた時代の空気がわかる世代(戦中・戦後世代)に作ってもらいたい。それには今がぎりぎりのタイミングではないか」。なぜ司馬遼太郎は代表作の映像化を拒んだのか
司馬遼太郎は高度成長期前後に華々しくデビューし、その後、一九九六年に没するまでずっと日本で最も人気があった作家の一人です。
『梟の城』で直木賞、『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞を受賞。一九九三年文化勲章。小説は『韃靼疾風録』を最後とし、晩年は『街道をゆく』や『この国のかたち』などのエッセイに専念。実業家、政治家、サラリーマンに至るまで幅広い読者を持ち、本の売り上げは二億冊をゆうに超え、日本の読書史上空前の奇跡とさえ言われます。
「私は獄中の犯罪者、受験生、ホームレス、政府の高官、誰が司馬文学の愛読者と知っても驚かない」(柳美里)
「人びと―『戦後』の『国民』の歴史意識を考察するうえで、司馬遼太郎の作品はこのうえない素材を提供してくれている」(成田龍一)
「読者の反応などを見ても、右から左までみんな褒めているんですね」(色川大吉)
社会的立場や思想を超えて幅広く受け入れられた極上の歴史娯楽小説の大家にしてエッセイスト、不世出の国民作家―
それはちょっと大げさな表現だとしても、彼の小説が一般の歴史像に与えた影響の巨大さを誰も否定することはできないでしょう。
その中でも異彩を放ち、司馬遼太郎を単なる一小説家から「文明史家」(半藤一利)となさしめたのが、この長編小説『坂の上の雲』です。若い人には「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)に連載中の江川達也の漫画、『日露戦争物語』の元ネタと聞いた方が、ピンとくる人がいるかもしれません。
しかし冒頭で述べたように、司馬本人は、NHKや東宝をはじめ多くのオファーを受けながら、この「四〇代の大半を費やした」この労作が映像化されて独立することに恐怖すら覚えていた様子なのです。
「あの小説は映像化するな。これは遺言である」
私はこのことを初めて知ったとき、司馬さんは悲しい人だったんだなあ、と気づきました。
自作の欠陥、とは言わぬまでも社会的影響力の副作用にちゃんと気づき、責任を感じているからこその発言です。凡庸な人なら全く気づかないか、あえて気づいても巨額であろう映像権利料に負けてしまうのではないでしょうか。
あえて意地悪な見かたをすると、こうも邪推することができます。
映像化するな、と言うのは単なる言い訳では?
本当は原作そのものに後悔があるのでは? 映像化するとキワドイということは、根本的に作品そのものにも何かキワドイところがあるのでは?
「どうしても勝った、勝った≠フ戦争映画になってしまう」
「これは極めてキワドイ小説で、そのキワドサを救っているのが私の文章……」
小説家は新しい作品を発表することでしか、以前の作品を乗り越えてゆくことはできません。
あるファンが「(『坂の上の雲』の続編に当たるべき)昭和を小説で書いていないことが映像化に司馬さんが反対している理由ではないか」(『司馬遼太郎読本』現代作家研究会)と述べていましたが、私もまさにそれだ! と思います。『坂の上の雲』に描かれるユートピアとしての明治
小説『坂の上の雲』はとてもチャーミングな小説です。
「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」
「春や昔」。そんなほのぼのとした第一章のタイトルは見事です。
「小さな国」。そう愛情を込めて呼ばれる日本は若葉のように初々しいイメージです。これは日本が軍事大国と化した昭和前期にも、経済大国となった昭和後期にもありえない幸福な時代の物語です。この長い物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。……楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくだろう。
良くも悪くも、このようなロマンティズムがこの小説の大いなる特長と言えるでしょう。 物語の主人公―選ばれた「楽天家たち」は次の三人です。 近代俳句・短歌の革新運動の熱血リーダー、正岡子規。
海軍の名参謀、そして「天気晴朗にして波高し……」などの名文をものしたことで有名な天才肌の秋山真之。
真之の兄で、陸軍の騎兵隊で活躍した豪胆な秋山好古。
文春文庫版の第三巻までは子規と真之が中心の青春ドラマが展開されます。この二人の性格と生き方は似ているようで対照的です。子規は私生活では病苦につきまとわれますが、国家や日本文化の価値を疑うことのない無邪気なナショナリズムに生きています。真之は文学に憧れを持ちながらも兄の影響で軍人を志すも、戦場の悲惨さに傷つく繊細さをあわせ持っています。
病弱なのに従軍したくてたまらない「男の子っぽさ」をもてあます子規と、何事に対しても器用なのにブラコン気味の真之。一度はともに文学を志ざしながら、別れを迎えるふたりの友情はなかなか切ないものがあります。
第四巻から第八巻の最終章、「雨の坂」直前までは壮大な日露戦争絵巻です。主役であったはずの秋山兄弟や子規(三巻で夭折)の存在は遠のき、舞台も「小さな日本」からヨーロッパ、アジア全域にまで広がります。登場人物も多く、主人公たち三人のほかに、維新の元勲である伊藤博文、山縣有朋、海軍の重鎮山本権兵衛、外交官の小村寿太郎、陸軍の乃木希典、ロシアのクロパトキン、清の李鴻章……おそらく数えれば百人を超えるのではないでしょうか。 そして物語のクライマックスは名だたる旅順攻防戦と日本海海戦です。 「この時代の戦争というのは観じきってしまえば、愛嬌というものがある。」 司馬遼太郎は、いわゆる平和主義者ではありませんが、かといって別に暴力(殺人)行為を肯定しているわけではありません。 「人間というものが、本来、国家もしくはその類似機関から義務づけられることなしに武器をとって殺しあうことには適いていない」。 とは言いながら、『坂の上の雲』の中で、彼は戦争を分析することを愉しんでいるようにも見えます。 日本とロシアの両方の史料を戦史研究者並みに読み漁り、作戦図を元に「自分自身が日露戦争そのものをやってみる」。秋山真之と東郷平八郎の指揮する海軍の作戦を評価し、旅順攻略で多くの死傷者を出した乃木を指揮官として「無能」と結論をくだします。 こうした司馬の「情熱」を支えていたのは、一体なんであったのか。それは戦前の公式の戦史―参謀本部が刊行した『日露戦争史』への反発でした。そこには日本にとって不利なことは全く書かれていなかったため、司馬が行ったのは、日本にとって厳しかった戦況の現実も直視し、軍事作戦ならびに国際政治や外交の駆け引きを冷静に見直してみることでした。「勝つというところまでゆかない。国家の総力をあげて、なんとか優勢なあたりでひきわけにしたいということが、せいいっぱいの見とおしです」
「そこまでゆきますか」
「作戦の妙を得、将士が死力をつくせばなんとかゆくでしょう。あとは外交です。それと戦費調達です」
(中略)
「このまま時が移れば移るほどロシア側に有利で、日本側に不利です。(中略)日本としては万死に一生を期して戦うほか残された道がない」そして司馬遼太郎は、確信を持って、日露戦争を日中戦争、および太平洋戦争という昭和の戦争とは二重に異なるものとして描き出します。
侵略戦争ではなく祖国防衛戦争、驕った軍人の独断専行による愚行ではなく、最後の武士による合理的思考に裏打ちされた英雄的行為として。
お国のために働くことが、個人の幸福につながる物語。
『坂の上の雲』のイメージを決定づける、こうしたさわやかな青春物語としての側面は確かに圧倒的なものです。
若者たちが「あかるく」立身出世を夢見る時代。
そしてそんな彼らが、彼ら自身の「国家」を救う―。しかし細かく読んでゆくと、『坂の上の雲』にはより複雑な陰影があります。「あかるさ」の影にあるもの
当然のことですが、小説『坂の上の雲』はどんなにそれらしく見えても、あくまで「小説」であって、歴史そのものであるとも、歴史をそのまま書いたものであるとも言えません。司馬はこの小説を書くにあたって、史実を最大限尊重する態度をとったと言われますが、しかし彼はここに史実の全てを書き込んだわけではありません。
たとえば司馬は作品の中で、のちの日韓併合につながる朝鮮の問題については曖昧にし、具体的なエピソードもありません。それは「日露戦争が祖国防衛戦争である」という主張をするにあたって、この問題をどう処理してよいか迷ったためではないでしょうか。
司馬遼太郎は史実を「捏造」はしませんでした。しかし意識的にしろ無意識的にしろ、面白い読み物として小説を成り立たせるためには、この種の「操作」は不可避なものです。
司馬の執筆の動機になっていたのは、戦前の皇国史観(日本は絶対無謬の国)と、戦後の歴史学の一般的評価(戦前はすべて悪)の両方への強い異議申し立てであったことは間違いありません。
「明治はよかった」―昭和の戦火に巻き込まれて苦労した父母、祖父母の世代が、しばしばそう洩らすのを子どもの頃の司馬は聞いていました。その「実感」を司馬は信じました。
しかし彼の描く「あかるい明治」は、本当に「あかるい」のでしょうか? そもそも時代は、あるいは人間の人生は、「あかるい」とか「暗い」という形容詞によって正確に表現できるものでしょうか?
Aという人間にとってあかるい出来事と感じられることも、もしかしたらBという人間にとっては耐え難いほど暗い出来事なのかもしれません。
反司馬を標榜する佐高信が痛烈に皮肉ったように、「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ」(太宰治が戦時中に書いた『右大臣実朝』の一節)。
以下は、旅順戦の描写です。歩兵は途中砲煙をくぐり、砲火に粉砕されながら、ようやく生き残りがそこまで接近すると、緻密な火網を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて、虫のように殺されてしまう。それでも日本軍は、勇敢なのか忠実なのか、前進しかしらぬ生き物のようにこのロシア陣地の火網のなかに入ってくる。
戦国時代の講談めいた戦とも、幕末の新選組と勤皇志士のチャンバラともどこかニュアンスの違う―無名の人びとの多くの死―。
祖国というものの存在が、その存在の善悪は別にせよ、両軍の兵士のうえに重くのしかかっていた時代だからこそありえた現象であった。両軍の兵士にとって祖国の命令は絶対であり、その存在は人間のすべてを規定し、その祖国のために死ぬ死はうたがいもなく(すくなくともこの当時の日本人にとっては)崇高であると信じられていた。
司馬遼太郎はシンプルに見えて、なかなか一筋縄ではいかない作家です。
彼はあとがきでこんな複雑怪奇なフォローを入れています。
「被害者意識のなかからみれば(明治は)これほど暗い時代はないであろう」。しかし「被害者意識でのみみることが庶民の歴史ではない」。
これは一体、どういう意味なのでしょう。明治は、極端な官僚国家である。われわれとすれば二度と経たくない制度だが、その当時の国民は、それをそれほど厭うていたかどうか、心象のなかに立ち入ればきわめてうたがわしい(傍点筆者)
『坂の上の雲』という作品では、素朴で力強い「ナショナリズム」が大らかに肯定されていることを疑うことができません。そしてこれが、発表された当時、一種の郷愁ととともに多くの人びとの胸を深く打ったこともまた、容易に想像できます。
しかし、司馬は揺れ動きます。特に、結末部分に、司馬の迷いは顕著です。最終章「雨の坂」―複雑な陰影を残すラスト
この小説に出てくる登場人物のなかで、私が一番興味深く思うのは秋山弟、海軍の「天才参謀」真之です。 印象的なシーンがあります。
日本海海戦も終わりに近づいた頃、白旗を揚げたロシア艦に向けて、連合艦隊長官東郷平八郎が砲撃を続けさせたことに対し、真之が抗議する場面です。「長官、敵は降服しています」
と、真之はどなった。それでもなお東郷は右手で双眼鏡をかかげ、左で長剣のつかをにぎったまま無言でいた。東郷は昨日、今日とつづいた戦闘中、一度も顔色を変えなかった。一度だけ顔つきが変わったのは、きのうの戦闘開始の直前、例の敵前回頭をやるとき、右手を左に大きくまわして半円をえがいて「取舵一杯」を命じたときであった。かれは息を吸い、頬っぺたをふくらまし、半円を描きおわると息を吐いた。なにかかれが決断するときの少年のころからの癖だったという。
しかしこの場の、ネボガトフとの対決においては表情の変化がなく、ただわずかに不機嫌そうであった。五隻の敵艦に、砲弾が命中するたびに爆煙があがっている。
真之がその癖のある両眼を裂くようにして東郷をどなったのはこのときであった。
「長官、武士の情けであります。発砲をやめてください」(略)
が、東郷は安保清種の観察によれば冷然としていた。真之の言葉に切りかえすように、
「本当に降服すッとなら」
と薩音で言った。
「その艦を停止せにゃならん。げんに敵はまだ前進しちょるじゃないか。―」残酷で、美しいシーンです。繊細な真之は真之らしく、豪胆な東郷はあくまで東郷らしい。司馬は別に東郷を非難しようとしてこのエピソードを採り入れたわけではないでしょう。とはいえ明治の司令官たる威厳を持つ東郷に比べて、秋山真之のなんと「現代的」で、心弱いことか。この日のエピソードにとどまらず、目の前のあまりにも多くの死の記憶に苦しんだ真之は、戦後、「僧になる」と言い出します。
「国家の幸福が国民の幸福」。司馬遼太郎は老獪で慎重な人ですから、それが「真実」だとは決して言いはしません。軍人から庶民まで、そう無邪気に信じて力を合わせた時代があった……。
しかしその代償を、人びとはそれぞれ支払わなくてはなりませんでした。意外なことに、どうやらこれが司馬遼太郎の結論です。
実際は辛勝、日本軍も被害甚大であった戦場の実相を民衆に知らせなかった政府は、弱腰といわれた講和に不満な民衆たちによって報復されます。有名な日比谷焼き討ち事件です。最大の功労者の一人である外交官・小村寿太郎は罵声を浴び、伊藤博文像は引き倒され、乃木希典と東郷平八郎はともに神格化されて「国家はあらぬほうへと向かってゆく」(半藤一利)のです。書かれなかった幻の小説『ノモンハン』
司馬はこの結論をあえて深く掘り下げることなく、物語の終盤で暗示するにとどめました。
あたかも富士山のように、遠くから見ていたときは美しく見えた明治日本にも、後の昭和につながる醜さがあった……。
この認識は作家に、肉親の欠点を見せつけられたかのような傷みを与えたに違いありません。ここでもし司馬が「転向」できたなら、問題ははるかに容易であったでしょう。いわゆる戦後の「左翼」として、国家と戦争の正義を否定すれば済むからです。
司馬遼太郎が自らの「創作の原点」を語ったものとして、次の有名な文章があります。終戦の放送をきいたあと、なんとおろかな国にうまれたことかとおもった。
(むかしは、そうではなかったのではないか)
と、おもったりした。むかしというのは、鎌倉のころやら、室町、戦国のころである。やがて、ごくあたらしい江戸期や明治時代のことなども考えた。いくら考えても、昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようにおもえなかった。
ほどなく復員し、戦後社会のなかで塵にまみれてすごすうち、思い立って三十代で小説を書いた。
当初は、自分自身の娯しみとして描いたものの、そのうち調べ物をして書くようになったのは、右にふれた疑問を自分自身で明かしたかったのである。
いわば、二十三歳の自分への手紙を書き送るようにして書いた。(『この国のかたち』第一巻のあとがき)
一九二三年(大正一二年)生まれの司馬遼太郎は、学徒で出陣して戦車兵として満州へ行き、その後、本土防衛のため栃木に配備され、そこで終戦を迎えました。
司馬はまた、次のエピソードを執拗にあちこちで語っています。
本土決戦がはじまり、東京湾から米軍が上陸したら、この街道を南下して迎え撃て。
そんな命令が出たとき、司馬は大本営から来た「感じのいい」「連隊のスター」のような参謀にある質問をしました。もし戦闘が始まれば、東京から避難すべく北上してくる人が街道にあふれるだろうが、これはどうしたらよいだろうか。
参謀はこの質問に、初めて気づいたというようにぎょっとした顔で考え込み、こう答えたのです―「ひき殺していけ」。
この言葉に司馬は強い衝撃を受けます。われわれは日本人のために戦っているんじゃないのか。それなのに日本人をひき殺してなにになるだろうと思いますでしょう。
わたしは二十二歳か二十三歳ぐらいでしたから、もうやめたと思いました。
(「昭和の道に井戸を訪ねて―鶴見俊輔と語る」)
「僕は単純で、死ぬのは怖くない」「ここらへんにいる五歳の女の子ですね、そのために死ぬんだ、そう考えて安心していた」 「そしたらある時にね、いざとなったらこの子らの方が先に死ぬんじゃないか、ということに気がついた……」 二十三歳への自分≠ヨの手紙―いささか出来過ぎの感もありますが、なかなかキャッチーなフレーズではあります。 こうした問題意識の終着点として、『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎は昭和の軍隊を描く『ノモンハン』を構想します。 ノモンハンとは中国東北部の北西辺、モンゴルとの国境近く、ハルハ川河畔の地です。ここに駐屯していた関東軍(日本軍)は昭和一四年、大本営にも承認を得ずソ連軍を攻撃、死傷率七五パーセントという大敗を喫しました。しかもこの結末に首謀者ら(辻政信少佐と服部卓四郎中佐)の処分は軽く、中隊長クラスが代わって自決を迫られたのです。 司馬はこの「ノモンハン事件」を「おろかな」戦争の先駆けと見ます。作戦の遂行の面でも、政治的にも、そして何より道義的にも。 しかし発表すれば「司馬史観」の集大成と世間に騒がれること確実のこの作品を、司馬は遂に完成させることがありませんでした。 ノモンハン事件は古くていつも新しいですね。すでに日本人の骨髄の中の病巣になって眠っている。気づかぬ人には何でもないが、気づく人にだけ痛みを発信します。私は五十代の十年間、この事件を調べることに熱中しましたが、いまは嫌気がさして資料を大きな袋に入れて埃をかぶらせてあります。(「ノモンハン、天皇、そして日本人」『東と西』) このとき、司馬遼太郎は六六歳となっていました。 『竜馬がゆく』のテレビドラマ脚本を担当したことで司馬遼太郎の世界に深く分け入り、『モラル的緊張へ―司馬遼太郎考―』(二〇〇二年、中央公論新社)を上梓した小林竜雄は、その著書のなかで、小説の「挫折」の理由について次のように推測しています。 一、存命する証言者との感情のゆき違い。 二、主人公を誰にするかという迷い。 三、軍の独断専行を可能にした「統帥権」問題を語ると、昭和天皇の戦争責任の議論にゆきつく。それは避けたいという思い。 司馬は「神の視点」で、過去を鳥瞰して描くことは得意でした。しかしノモンハンは今もなお続く「現代小説」でした。 司馬は多くの生存者に取材しましたが、その過程で、一度は主人公にしようかと思ったくらい魅力的な人物、須見新一郎元大佐(当時の中隊長のひとり。自決を拒否)に出会いました。しかし司馬がある雑誌で瀬島龍三(元大本営参謀)と対談したとき、須美は激怒しました。「あんな卑怯な奴と対談して。私はあなたを見損なった」。
また、司馬は戦記文学の先達・大岡昇平をライバルとして強く意識していました。
司馬より十四歳上の大岡は、フィリピンのミンドロ島に出征し、捕虜となった体験を冷静な文体で綴った『俘虜記』や、後にSF作家のJ・G・バラードに影響を与えたという『野火』を書き、高い評価を受けていました。司馬は大岡の作品を「傑作」としましたが、当の大岡は、司馬の歴史小説の方法に常に懐疑的でした。
大岡の代表作、『レイテ戦記』に次のような有名な一節があります。山本五十六提督が真珠湾を攻撃したとか、山下将軍がレイテ島を防衛した、という文章はナンセンスである。真珠湾の米戦艦群を撃破したのは、空母から飛び立った飛行機のパイロットたちであった。邸手島を防衛したのは、圧倒的多数の米兵に対して、日露戦争の後、一歩も進歩していなかった日本陸軍の無退却主義、頂上奪取、後方霍乱、斬り込みなどの作戦指揮の下に戦った、十六師団、第一師団、二十六師団の兵士たちだった。 (大岡昇平『レイテ戦記』)
作戦の指揮官ではなく、徹底して「兵士の立場に立つ」視点を選んだ大岡昇平は、この小説に『坂の上の雲』批判とも読める文章を書きいれています。
「戦争の物語は昔からこういう人間(注…職業軍人でなく、命令に従う一般の無名の兵士たち)とは反対の気質の人間によって書かれている。」
司馬は大岡の批判に応え、「兵士の視点」を取り入れようとしました。
しかしそれは、司馬にとってあまりにも生々しく辛いことでした。ノモンハンをもし書いたら、「自分は怒りで全身の血管がちぎれて死んでしまう」。
坂をのぼったら雨
司馬は当時まだ存命だった昭和天皇と軍隊の関係について書くことを、時期尚早と考えていました。「生の」政治や思想の問題に巻き込まれることを嫌ったのです。またそれだけではありません。司馬は終戦の決断をくだした昭和天皇への敬愛の念を隠そうとはしませんでした。
それはおそらく理性ではなく感情の問題でした。実際に政治的に行動することと、思索の上であらゆるタブーを恐れずに考えることはべつのことです。司馬のこの躊躇を、文学者として不徹底で臆病であると非難することも可能でしょう。
私たちはここに戦中派の代表的な日本人らしさ―「司馬さんらしさ」を同時に読み取ります。
重ねて言いますが、司馬は自らの戦争体験から心に深い闇を背負ったにもかかわらず、「反戦平和」の思想に近づくことはありませんでした。
むしろ司馬は明治維新によってつくられた「近代日本」に痛ましいほどの愛情を抱き、幕末維新の志士たちや明治の軍人の「戦争」を逆説的に肯定的に描く作家として世の中に知られるようになったのです。
実際に、彼が己の戦車で避難民をひき、その断末魔の悲鳴を聞くことになっていたら、事態はまた少し違っていたかもしれません。しかしそうはならなかった。昭和天皇の「聖断」により、本土決戦を経ることなく、戦争は終わりました。現実に裏切られながらも、司馬の頭のなかにはおそらく、「理想の」祖国や国家や軍隊がありました。たとえば青春の頃、死の恐怖を克服するため、彼が必死で自分に言い聞かせたという、「ここらへんにいる五歳の女の子を守る」そんな軍隊が。
*
坂を何度のぼっても、そこには雨が降っている。二一世紀版『坂の上の雲』は、私たちにどんな「夢」を見せてくれるのでしょう。註1 その後のNHKの発表では、二〇〇七年の十一月に撮影が始まり、放映は二〇〇九年になる。
註2 「ひき殺していけ」……ある参謀がこう言ったというこのエピソードについては、司馬の創作ではないかという興味深い指摘がある。「中央公論」二〇〇七年一月号での半藤一利と松本健一の対談(「司馬遼太郎と日本人の物語―国民作家誕生の舞台裏を探る」)松本 これは我々の間で有名な伝説ですけどね。
半藤 ……あの話は伝説だとおっしゃったけれど、そのときの参謀は誰だろうと調べて見ると、その男をよく知っている人間もたくさん見つかった。「あの男がそんなことを言うだろうか」とか「あいつはそんなこと言いません」と口々に言うんです。
松本 自分でそう書いていますから、司馬さんが作った伝説なんでしょうね。(中略)だけど言いそうな感じがするわけです。特に戦後の日本人から考えるとね。……
半藤 またね、わかりやすいんですよ。私なんかにはねえ、そうか司馬さんはそう感じたのかと、つい思ってしまいます。二十歳の若者ですからねえ。半藤一利は文藝春秋社に在籍した時代、司馬遼太郎の編集者であった。後期のエッセイの中でさえ、こうした嘘≠交えずには語ることのできない司馬遼太郎に、「大衆作家」の本質を読み取ることは間違いであろうか?
《参考文献》
『モラル的緊張へ 司馬遼太郎考』小林竜雄・中央公論新社
『「昭和」という国家』司馬遼太郎・NHKブックス
『司馬遼太郎の幕末・明治』成田龍一・朝日新聞社
『司馬遼太郎と三つの戦争』青木彰・朝日新聞社
『司馬遼太郎がゆく』半藤一利/山折哲雄・プレジデント社
*本稿は、二〇〇五年「文学フリマ」において〈白水社Uブックス研究会〉が販売した『戦争文学がこんなにわかっていいかしら』に所収されていたものに加筆修正したものです。今回《葦牙ふぉらむ》で司馬遼太郎『坂の上の雲』を取り上げるに際して、著者および同研究会の同意を得て転載させていただきました。(編集部)