沖縄戦「集団自決」裁判と大江健三郎
山根 献
最近作『掾iらふ)たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』で、大江健三郎はクライスト作『ミヒャエル・コールハースの運命』を作中にとり込んだ。一六世紀なかば、ザクセン国辺境の領主の公子に理不尽に黒馬を奪われ、妻と下僕まで殺された馬商人コールハースは、ドレスデンの法廷に訴えるが握りつぶされる。忿怒した彼は、虐げられた衆を糾合し蜂起する。焼き討ちの恐怖と騒擾を収拾すべくマルティン・ルターが動く。不法を咎めるルターの貼り紙が出るや、コールハースは単身ルターの館に潜入、直接談判に訴える。クライスト作の勘所は以下(要点)にあった。〔吉田次郎訳、K=コールハース、L=ルター〕。K:私が人間社會を相手にしてゐる戰は……私が其處から遂はれてゐないのでしたら、 悪逆非道の行ひでありまっせう。
L:誰がお前の暮してゐる國家社會からお前を遂ひ出すか。國家のある限り何人にもあ れ遂ひ出されるやうな場合がある筈はないではないか。
K:遂ひ出されると申しますのは……法律の保護を拒絶された者のことです。
「『人間をおとしめる』とはどういうことか―沖縄『集団自殺』裁判に証言して」(『すばる』2008・2)で大江健三郎は、曽野綾子が「そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故……あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか」という、こうした「特殊な言い方」で自身の思想を代弁させる彼女こそ、「神の視点」を利用して「人間をおとしめる者」、と述べた。国は教科書検定制度で見せたように、「琉球処分」以来、国家社会から「のけ者」にしてきた沖縄住民を、「保護」どころか彼らの死にたいし軍の責任も「法律」で「拒絶」し、なきものにしたい。曽野綾子はこれに輪をかけ、そうして「のけ者」が「美しい心で死んだ」「清らかさ」を讃えよという。「神の視点」とはいえ、クライスト作のルターとはえらい違いである。⇒『葦牙Journal』No.75「巻頭言」
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