グラムシが「カタルシス」に付けた括弧書きの二点

――ヴィスコンティの『山猫』から プーシキンの『大尉の娘』まで

山根 献(『葦牙Journal』No.76)



 グラムシは、かれが向き合ったイタリアの歴史と構造が、新しいイニシアティブの源泉へと変化を遂げるその過程を、内なる「カタルシス」の必然から自由への移行の過程として捉えた。この草稿が、にわかにわたしにとって質料を帯びたものとなって迫ってきたのは、「グラムシ没後七〇周年記念シンポジウム」(二〇〇七年一二月)での「サイードの文芸批評の方法とグラムシ」(分科会:「グラムシと現代思想」)という「文書報告」(ペーパー)を準備していたときである。

わたしは「獄中ノート」のQ.10.§<6>草稿「哲学研究への手引き」のなかの最初の項目「T.『カタルシス』という用語」を引用しようと思い、読み直していた。その本文を読み終わって、そのあとに邦訳ではグラムシが付けた〔原注〕として扱われていたセンテンスに目を移してわたしは立ち止まった。
邦訳『グラムシ選集』1.(合同出版社)でそれは、本文と切りはなされ、見開きの右ページで本文が終り、左ページに移ったところで、段を下げ〔原注〕とし号数を小さくした活字で印刷されていた。何度かわたしはこの本文を読んでいたはずだった。だが、今回、この〔原注〕なるものをいままで素通りしていたことにきづいた。
改めて見直してみると、イタリア語校訂版はもとより英訳版、独訳版ともにこの〔原注〕とされたパラグラフは、〔原注〕といった性質のものではなく、改行なしにカッコ書きで本文と直結した、本文の一部としての記述であることが分かった。しかも、ここで〔原注〕とされたカッコ内のパラグラフが何をいっているかを抜きにして、グラムシが語る「カタルシス」を、われわれは語ることができるか、といえるほどの、深い意味がそこに込められている、ということにわたしは気づいて驚いたのである。全文(小原耕一訳)を引用する。

「純粋に経済的(あるいは利己的‐情念的)な契機から倫理‐政治的な契機への移行、つまり、人間の意識のなかで構造が上部構造へと上方に練り上げられていくことを示唆するために、『カタルシス』という用語を使うことができる。このことは、また、『客観的から主観的』へ、さらに『必然から自由』への移行を意味する。人間を踏みつぶしたり自己に同化させたり人間を受動的にする外的な力としてはたらく構造は、自由の手段へ、新しい倫理‐政治的な形態をつくりだすための道具へ、新しいイニシアティブの源泉へと変化を遂げる。こうして『カタルシス』の契機を設定することは、実践の哲学全体にとっての出発点となると私はおもう。言い換えれば、カタルシスの過程は弁証法的展開の結果である綜合(ジンテーゼ)に符合する。(この過程がその間を揺れ動く二つの点を忘れないこと、すなわち、一つの点は、いかなる社会もその解決のための必要にして十分な諸条件がもはや存在していないか、あるいは出現する途上にないような課題を自らに提起することはけっしてないということ、そしてもう一つの点は、いかなる社会もその潜在的内容のすべてを表現してしまうまではけっして消滅することはない、ということである)」。

括弧書きでいう「このカタルシスの過程」が「その間を揺れ動く」二つの点とは、じつはレーニンがマルクスの「経済学批判序言」を引用したとき「省略」したあのパラグラフをグラムシなりに要約したものであった。
邦訳のレーニン全集第二十一巻(大月書店)所収の論文「カール・マルクス」でレーニンが引用した「序言」の該当箇所は「……」になっている。グラムシがこのレーニンの引用文を最初イタリア語に訳したとき、この「省略」部分は省略のまま訳したが、その後獄中でグラムシはこの「省略」された部分のパラグラフそのものをいたるところで「読みかえ」ては、くりかえし記述していることについて、その経緯を含め注目したのが小原耕一であった。
問題を重く見た彼は最初今西直の筆名で『葦牙』No.22.(1996-1)にそれを書き(「レーニンの省略とグラムシの読みかえ――マルクス『経済学批判序言』をめぐる断章」)、その後の、いまから一一年まえ、日本でおこなわれたグラムシ没後六〇年の国際シンポジジウムでもこの問題について報告している。

グラムシが「カタルシス」につけた括弧書きの「二点」が、マルクスの「序言」のどのパラグラフに相当するかは、もちろん校訂版でも注記されている。問題は、グラムシが「カタルシス」を語るのに、なぜこの括弧書きを付け加える必要があったのかである。つまり、グラムシは「カタルシス」という用語が用いられるとき、それが括弧書きしたイタリアの歴史と現実の構造との関係のもとでそれは語られなければならない、と考えていたということである。

この「二点」そのものについての踏み込んだ論議は、先だっての小原耕一の報告「ロシア革命ぬきにグラムシを語ることはできるか?」(「シンポジウム・明日の世界を求めて――ロシア革命から九〇年」分科会『葦牙』自主企画、二〇〇七年一一月)で詳細に(「受動的革命」との関連など)論じられたのでここでは繰り返さない。ただ、「カタルシス」という用語をグラムシがなぜ取り上げたのかについては、すでにいくつかの見解がある。
たとえば、当時ヨーロッパで最も著名なイタリアの思想家であったベネデット・クローチェによって流布されていたこの用語についての美学的経済学的概念を批判する意図がグラムシにあった、とするもの。それとも関連し、グラムシはここで「革命的意識」とか「階級意識」を獲得する過程を「カタルシス」の過程として説明しようとし、そのために検閲を警戒するひごろの心の構えが「カタルシス」という語を選択させた。それとは気づかせず真意を伝達するグラムシの高度な独創的なこの用語法に注目すべきであるという見地もあるようだ。
だが、それらの見解がいずれも妥当であるにしても、グラムシが、なぜ「カタルシス」の過程とこの括弧書きの「二点」を一体のものとして提示したのかということについては、これではなんの説明にもなっていない。

この点に光を当てたのがサイードの文芸批評の方法であった。ここからがわたしの仮説、つまり本題に入るのである。

サイードは、ランぺドゥーサの小説『山猫』が大衆小説のジャンルに属しながらそれだけで終わらない理由として「ふたつの強力な文化的前例の影響」をあげる。プルーストとグラムシである。
プルーストは「現在時を硬直化したもの」ととらえ、「これを活性化し増幅するのは、過去に対する持続的な内省しかないという思いを〔ランぺドゥーサと〕共有」していた。「貴族階級に対する明白な愛惜の念」と「弱体化し縮小した社会的地位しかもたぬ貴族階級」がかれらにとっては「一時代の嘆かわしき終焉を意味する」という点で、この二人は類似する。おなじく貴族階級の末裔であるヴィスコンティもこの点では符号した。

「第二の精神的支柱」としてサイードは、「ランぺドゥーサやヴィスコンティ登場の地ならしをしたという意味で、その重要性は計り知れない」存在として「グラムシの思想」をあげた。
サイードによれば、サルデーニャ生まれのグラムシは個人的経験からして、南部の困窮、低開発、北部による収奪、搾取をよく知っていた。南部問題に関するグラムシの分析の鋭さは、それを「リソルジメント〔イタリア国家統一運動〕以来の(またそれ以前からの)イタリア史の構造内部に位置付けた」ことであり、そのリソルジメントは、国家統一をいいながらそれは、イタリア全土を各地域に分断し「発展を止め、格差とねじれ」を生み、それぞれが偏った社会的、経済的、政治的には孤立した状態を作り出す結果をもたらした。グラムシにとって南部は「壮大な社会的崩壊」として立ちあらわれる。他方、「北部の勃興する労働運動――トリノやミラノ周辺の工場労働者や組織者や知識人たちからなる――が、南部をいかに扱っているか、そして南部を、リソルジメントによって火がついたイタリア統一計画からいかにして排除しているか」、それをグラムシは立証する。そしてサイードは書いている。「グラムシはこう結ぶのだ、まさに唖然とするほどの問題をかかえている、と」(『晩年のスタイル』大橋洋一訳、岩波書店)

この時間的ではなく地理的なグラムシ的な地平からサイードの、ランペドゥーサーとヴィスコンティの『山猫』をめぐる美学的考察が展開される。その内容にこれ以上ここでは立ち入らない。だが、一つだけサイードが言及しなかった問題があった。
それは映画『山猫』で、バート・ランカスター演ずるサリーナ公爵ドン・ファブリツィオと、クラウディア・カルディナーレが演ずる成り上がり商人の「彼女のシーツは楽園の匂いがする」とまでいわせる美しい娘アンジェリカと、そしてアラン・ドロン演ずるところの公爵の甥タンクレディらによる、貴族趣味の贅をつくした絢爛豪華に乱舞する、あの有名な舞踏会のシーンのシークエンスに、ヴィスコンティはなぜ、作品全体の三分の一をも費やさねばならなかったのかについてである。

グラムシがイタリア的歴史の構造の内部に位置付けた、まさにぞっとするほどの「南部問題」の構造を解放の手段に変え、それを新しい倫理‐政治的な形態をつくりだすための道具へと変換し、新しい力の源泉へとその質料を変容させる過程として、ヴィスコンティはランぺドゥーサの小説『山猫』を媒介に、美的行為による「カタルシス」〔浄化〕の過程に転化し表象しようとした。イタリアの歴史と構造の内部に位置づけられた「南部問題」の唖然とするほど重い質料を美的行為によって浄化し切るには、あれだけのながい時間をかけた舞踏のシークエンスが必要とされたのであった。

とはいえその結果は、サイードがいみじくも厳しく論評したように、この小説も映画も、グラムシが付け足した括弧書きの「二点」を現実には解決したものとはなりえなかったという。その意味ではサイードが、かれらを、あくまでも、そして執拗に「反グラムシ的」だったとしているのは妥当である。

イタリア的歴史と構造に向き合ったグラムシを、ロシア的大地と向き合ったレーニンに置き換えて見たとき、レーニンが、ロシア的(東方の)構造がもつ質料の巨大さを熟知していたことは明らかだろう。

『大尉の娘』でプーシキンがとらえた「ロシア的反乱」(ルースキー・ブント)の根源に「スチヒーヤ」なるものがあること。この「スチヒーヤ」なるものの質料を考慮に入れず、つまり文学的、ないしは比較文化史的配慮を抜きに社会的経済的な構造の変革は語ることはできないとする川端香男里が、スチヒーヤについて再び語ったのは、上記の「ロシア革命90年シンポジウム」プレ研究会(07/05/17)においてであった。

レーニンがロシア革命の「奇跡的な成功」をかち得たのは、『大尉の娘』にみたようなスチヒーヤの権化のような農民層と、そこに根ざしたナロードニキ的、集団的自然発生と激発傾向を内在させたプロレタリアートの「自然発生性」〔スチヒーヤ〕を当てにしてはならない。あくまでも「党」を中心に「階級意識」を外部から注入し、スチヒーヤを警戒し、それを「完全に党の指導下に置く」ように努めたからであるという(「ロシア革命の比較文化史的考察」「もうひとつの世界」07/10・No.11.)。

グラムシがイタリア的(西方の)それと向き合い、やがてその質料そのものをヘゲモニーに姿態変換〔トランスフォーム〕するための洞察(ヘゲモニー論)への考察を深めていくのとは逆に、レーニンは、括弧書きの「二点」を切り捨て、つまり省略する。さもなければ東方でのあの機動戦を勝ち抜くことはできなかったということである。

ちょうどグラムシがレーニンのこの「省略」に出会うきっかけとなった一九二二年から二四年のモスクワ・ウィーン滞在の期間、おなじウィーンに、ハンガリー革命後亡命していたルカーチは、論稿「階級意識」をはじめとする『歴史と階級意識』(1923年刊)に収めることになる諸論文を猛然と書きつづけていたのである。(この項おわり)

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