小田実「終らない旅」に見るフェミニズム
石井明美(『葦牙Journal』No.78)
1.はじめに
この物語の「現時点」は多分二〇〇三年、この本が出版されたのは二〇〇五年十一月(書き下ろし、初版)、そして作者小田実が亡くなったのは二〇〇七年七月三十日である。
つまり「終らない旅」は自称「全体小説・家」小田実(対比する大江健三郎は「全体・小説家」だと)の社会活動家・小説家としての人生の集大成が込められている物語だと言える。したがって、そのような読み方こそが「終らない旅」の真の評価になると思う。しかし、フェミニズムという視点から見ても大変興味深い。あらすじと内容は、父―娘―その娘(孫)の三代を通しての第二次世界大戦からベトナム戦争へのかかわり、父の出会ったアメリカ人女性とその娘を通しての、アメリカ側からのベトナム戦争や9・11テロへの批判、さらに戦後のベトナムへの旅や日本の戦後などを描き論じることによって、戦争と平和、人間の生き方と愛への独自の思想と信念を語っているというものである。
この中で、特に男と女のかかわり、人生観や人間の生き方への思想に注目して読み解いてみようと思う。
2.いくつかのキーワードから
作者小田実の生き方と思想を端的に表していると思われる言葉をキーワードとして取り出してみた。これらは小田実が永遠の真理として今なお生きている人々に伝えていった遺言だと言える。
イチゴイチエ(一期一会)/普通の市民(普通の人)/フェア(である・ない)/「動」の力と「静」の力/「覇道」 と「王道」/IとYOUとWE/殺されてはならない/被害者=加害者/小さな人間/無数の手/人生は旅だ3.「フェアである(ない)」とフェミニズム
最後の大作で、いくつもの重要な言葉がちりばめられているこの小説は、小田実の生き方そのものの反映であり登場人物の言葉はそのまま作家自身の思想や理念を語っていると言える。
その中で「フェア」という言葉は政治的・社会的問題や人間関係などあらゆる事柄に対する判断基準として多くの場面に出てくる。それは常に真っ直ぐに前方を見つめ、何事にも動じずに歩んできた小田実の中にある揺るがぬ信条であったと思う。
そこで、この言葉「フェアである(ない)」を手がかりに、特に人間関係のあり方を中心にフェミニズムとの関係を考えてみたい。4.「終らない旅」はどこへ向かって
アリスもツヨシも「カイロウドウケツの結婚」という終着地点に達することなくその直前に亡くなってしまった。そして作者小田実もこの物語を終らせてまもなく亡くなった。「人生は旅だ」ということであれば、主人公たちもその作者も旅人のまま死んでしまったことになる。
その後を継いだ久美子は、橋本に対する思いに新たな人生の旅を予感している。ジーンはベトナムへの旅によって新たな希望を抱くようになった。小田実がこの物語に託したメッセージは、ベトナム戦争を主題とした戦争と平和を描くことによって「暴力のない平和」の実現を旅の終着点にせよということ。それは未だ途方もなく遠方にあるが、そのかすかな光を求めて、小さな人間がそれぞれに努力すべきだということではないだろうか。
5.まとめlーフェアはフェミニズムに通じるか
物事を考え、判断する基準に「フェアであるかないか」を置くということは、最も分かりやすいが、また、もっとも困難なことでもある。何故なら、人はまず自分の利害や身の安全を確保した上で判断し、実行しようとする。
「フェアかどうか」と考えるときには、自分を客体としてその 場に投げ出さねばならないのだ。
フェミニズムの主張は、これまで男性に比して「フェア」に扱われてこなかった女性の側からの、男性中心社会への反撃である。それはまず、女は男の付属物ではない、一個の人格としての主体性と自己決定権を持ち、社会の中で正当に評価されるべき存在であると声を上げることから始まり、多様な価値観を認めることによって男性中心の社会を作り変えようと努力してきた。その前提として「男」と「女」のフェアな位置づけがある。
その意味では、フェアを信条とする小田実は最上のフェミニストでもあると思う。しかし、そのように定義づけてしまうことは正しくない。何故なら、彼の本質はそんな枠に閉じ込められることはできない「全体小説.家」であるから。それでも癌宣告を受けた後で玄順恵さんに語ったという言葉「この世にお前ほどの女はいなかった」に加えて「だが俺ほどの男もいなかったやろ」を聞けば、フェミニストでなくても感無量に陥ってしまうのではないだろうか。
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