二〇〇四年三月二十日は生憎の天気だった。予約していた中目黒の「キノエトラ」は、参加者数が収容能力を上回ることが確実になり、急遽、駅に隣接する「アンジェラ」に変更された。雨にもかかわらず開会のかなりまえには、広めのこのレストランも人いきれでいっぱいになった。
祝う会は発起人・中野健二の挨拶ではじまった。牧梶郎は三十年以上もまえから小説を書きつづけ、すでに十六編の小説を発表している。そのうちの五編をここに厳選した。たゆまぬ牧梶郎の文学的営為のもっとも良質なものがここに集約されている、と。
乾杯の音頭をとった山根献は、『葦牙』が創刊二十年であることを強調した。発刊当初、同人側の事情で牧梶郎は同人に加われなかった。しかし、その間十年以上にわたり、毎月欠かさず彼は一万円のカンパを『葦牙』に送りつづけてくれた。牧梶郎の『葦牙』をとおしての文学に賭けたこの執念には頭がさがる。文学精神の今日の頽廃には目に余るものがあり、そこに吹いてきたこの一陣の風は言葉の復権を目指す私たちを大いに励ます、と。
司会は、文学関係者を松坂尚美が、交友関係者を佐保勲がそれぞれ分担して進められた。
中国文学者丸山昇は、足の故障もよくなり、有意義な楽しい会になりそうなので、やってきた。牧梶郎はもっぱら私的な日常の生活を書いている。だが「私」の視点によくありがちだといわれる、ある種の狭さを少しも感じさせない。ソ連が崩壊し、東京にクー・デターがおこり戒厳令が布かれる幻想に囚われて徘徊する「母の病」の母の姿は、同じボケでも、こんな「すばらしいボケ方」があるのかと感動させた。
かつての全学連委員長、いまは『葦牙』の発行元、作家であり「ネオ・コン」ならぬ「コレ・コン」(「これからの社会を考える懇談会」)の川上徹は、いまほど「幾何級数的に変化し、悪くなってゆく時代」はないと時代の危機を嘆いた。あの安保闘争の時代は牧梶郎は都立戸山高校生だった。生徒会長牧梶郎ととも学校側に改善要求を突きつけた元生徒会副会長は「もはやわれわれはいまアリ地獄のなかに落ちている」というべき状態にあると言った。コレ・コンで牧梶郎と知り合った「三池闘争」の元闘士は、あの闘争が遺した教訓が、権力は絶対に働くものを守らない。権力に勝つ力は連帯しかないということだったと語る。安保闘争以来、党派別々に格闘してきた時代は終わり、たがいに未来を共に考え力を合わせなければならない時代を迎えている。こんなとき『アフリカから吹いてきた風』には、どこかホット癒されるものがある。誰もがこんな風に当たりまえに書くことで、現代の病巣をなんと鮮やかに見せてくれることかと繰り返す。牧梶郎と東大内でかつて『民主文学』のサークルを作ったというドイツ文学者高村宏は、豊かな白髪を揺らしながら過ぎ去れどわれらが日々を語る。五月祭実行委員長だった牧梶郎と一緒に活動した学友は、勉学のために大学に入ったのに、活動にこんなにのめり込んでいいのかと悩んだ頃を回想する。だが無駄ではなかったと。かつての「ソビエト研究会」の同窓会世話役を牧はいまも引き受けている。同窓で、いまでは「国家を動かすカギ」?をにぎるところにいるという某大学現学長は、観念では駄目だ、現実的にならなければ、と厳しい今日の心情を吐露する。全共闘大学紛争がようやく始まろうとする頃に工学部を卒業し、牧は外資系企業に就職した。そしてひそかに文学への志を育ててきた。
「日記を読むように素直に読ませる」牧梶郎が物語るあの「やさしさ」が、変革を志した若き日のさまざまな生き方のさまざまな形を巡歴させたのだ。最後に牧梶郎は立って謝辞を述べた。作家には書いてお金をもらう作家と、お金を出して書く作家とがある。私はお金を出して「主人持ちでない」文学を書いてゆく、これからも『葦牙』へのご支援をよろしくと。
開闢以来日本には、中国からの風が吹き、幕末には欧米からの風が吹いた。それは文明開化と侵略の風となってアジアを席巻した。いまアメリカからネオ・コン風が吹いている。こんなとき「アフリカから吹いてきた風」は、未来への希望を予感させる風なのだ、と上原真は閉会の言葉を結んだ。(山根 献)