『民主文学』四月号問題
記録文書館

#8

1988年1月号

『文化評論』

発行所:新日本出版社

津田孝「『葦牙』批判」について 丸山昇
上に

『葦牙』

『民主文学』4月号問題
記録文書館
ターミナル

       

      『文化評論』八七年八月号の津田孝「『葦牙』批判――その「自主」と「共同」とはなにか――」を、強い関心を持って読んだ。そして強い不満と危惧を覚えた。このままにしておいてはいけないのではないか、という焦りに似た感じも持った。しかし私は従来国内の文学運動に直接たずさわってきた人間ではなく、一中国文学者にすぎない。すぐには発言する気持もないまま、時を過ごしていた。『民主文学』の文芸時評その他で、津田の論文を高く評価する文章も読み、それを含めて考えてみたが、やはり納得がいかない。
とにかく、そういう意見もあることを、編集部にも知らせるべきだ、と考えて、津田論文に異論があること、私の知る範囲でも反撥が強く、失望したり、さらにはシラケたりしている傾向が見られることを憂慮すること、したがって、誰かに反論を求めるなり、討論を組織して欲しいこと、などを内容とする手紙を『文化評論』編集部に送った。

ところが、意外なことに(これを意外と思ったことについては、私は『文化評論』編集部にわびねばならぬのかも知れない)、数日後に編集部から連絡があり、私に意見をまとめて『文化評論』に書け、という。私はとまどった。前にもいったように、私は一中国文学者にすぎず、日本の文学運動には直接関わって来ていない。とくに最近では専門の仕事に追われる度合も大きくなったし、健康も害して、ますます時間がなくなり、辛うじて『民主文学』には毎号目を通しているものの、日本の文学界の話題作もあまり読めない、といった生活をして来ている。余計な口出しをしても、大した役割は果たせず、いやな思いをするだけではないか、という気持もあった。しかし、私のような意見を出したのに対し、『文化評論』が誌面を提供してくれる、というのは、たいへんありがたい機会であり、あのような意見を編集部へ送った以上、執筆を求められて引き受けないのは、無責任ではないか、とも思い返した。それに、問題が単に日本の文学運動だけに関わるのではなく、現代という複雑な時代を切り開く思想と運動を、より発展させるための論争、討論といったものは、どのようなものであるべきか、という大きな問題に関わるとすれば、一人の文学研究者としても率直な感想を述べる資格はあるはずだ。また中国の「文化大革命」と格闘し、解放後の中国の「思想闘争」の持っていた誤りや欠陥について、いろいろ考えさせられている一人としても、いいたいことがあると感じた。そこで、数日間ためらった未に、執筆させてもらうことにする、と返事をしたのである。

この文章の立場について、余計な詮索や誤解を招くことを避けるために、ここで、『葦牙』と私との関係を明らかにしておく。私は『葦牙』創刊当時から、同誌に強い関心を持っていた。それは一つには同誌誕生の原因の一つになった「『民主文学』八三年四月号問題」には、私も多少の関わりを持っていたからである。周知のように、『民主文学』八三年四月号問題は、同誌が中国の小説「人、中年に到れば」を掲載した時、小田実が寄稿した文章の評価と取り扱い方から発した問題だが、あの小説の掲載を同誌編集部に持ちかけたのが私だった。
私は文革後の中国文学の新しい傾向や成果を、もっと日本の文学界、とくに『民主文学』の人びとなどに知って欲しいと考え、この作品など先ず紹介するのに適当なのではないかと考えていた時、たまたまその翻訳が私の昔の学生である福地桂子の手で完成したので、『民主文学』編集部に紹介した。
当時の編集長は、のちに『葦牙』の編集同人の一人になった中野健二だった。中野は、大へん喜んでくれ、ちょうど小田実が中国でこの作品を英訳で読んで感心したそうだ、紹介を書いてもいいといっているから、小特集が組める、といい、その一つとして、私に文革後の中国文学の状況を紹介する文章の寄稿を求めた。私はそれに応じて三十枚ほどの文章を書いた。こうしてできた『民主文学』八三年四月号が、問題となったのだから、私としては、予期せぬことで、問題の少なくとも一つのきっかけを作ったわけであり、何となく責任を感じていた。もちろん、『民主文学』編集部は、独自の判断で掲載したのであり、その後の問題は、「人、中年に到れば」という作品自体とも、私の寄稿した文章ともまったく別の性格の問題として経過したのであって、中野健二も、また彼の辞職その他により交代した後の編集委員の何人かも、まったく別間題だ、といってくれはしたが、私としては、結果として民主主義文学同盟に対立を生じさせ(あるいは顕在化させ)たこと、とくに中野健二には辛い思いをさせたことについて、まったく平気ではいられなかった。
それで『葦牙』が創刊された時にも、論争が『民主文学』対『葦牙』の形になったり、論争が不毛な形でエスカレートしなければいいが、と思いながら、不安を抱きつつ、経過を見守っていた。『葦牙』があくまでも同人雑誌という性格にとどめようとし、『民主文学』四月号問題での対立点についての直接の発言を避け、問題を文学・思想の次元にもどして考えようとする態度をとっているのも(これを擬装した『民主文学』攻撃と見た人もいたかも知れないが、私はそうは見なかった。この考えは、現在でも変らない)、『民主文学』の側が性急に批判をしないのも、五○年問題以来、さまざまの経験を積み、教訓を汲みとって来たことがやはり生きている、と思って賛成だった。双方に時々不安を感じさせる言葉が散見はしたし、納得のいかぬ議論も時に見えたが、何とかこの枠は守られそうに思え、またそれが守られて、それぞれ論争を急がず、自分の持ち味と発想に適した形で、考察と議論を深めて欲しい、と思っていた。この間『葦牙』に求められて一度エッセイを寄稿し、毎号贈られて、時により精疎の差はあるが、ひと通りは目を通している。

一方津田孝は、私の学生時代からの友人の一人である。最近では顔を合わせる機会は年に一度あるかないかで、あとは年賀状のやりとりをするぐらいだが、彼の書くものには、関心は払っていた。

彼の書くものについて、一部にはかなりの批判や反撥があるらしいことは、知っていたし、その批判の一部は私にも同感する部分があった。その点については、本文の中で述べることになるだろうが、ただ、そうした批判や反撥――簡単にいえば彼の書くものが「堅い」とか「教条的」だとか「官僚的」だとかいうものだが――を一面認めつつ、津田の場合、それらが指導者や上部機関の意向に合せているといった、中国の文革当時の用語でいえば「風派」的なものではなく、彼自身の頭で考えたホンネであることを、それはそれとして認めるべきものと思っていた。今日のような思想・文学状況の中で、津田のように、「原則」を固守しようとする態度が持つ意味は、私なりに理解しているつもりである。主体性のない「ものわかりのよさ」だけでは、多種多様な考え方と、共存・併存はできても、それを全体として一つの力となるよう働きかけることができないであろうことも、自戒を含めて認めている。しかし「如何なる真理も、一歩誇張されれば反対物に転化する」と戒めたレーニンの言葉は、「原則」を守ろうとする場合にもあてはまる。時すでに遅いかも知れないが、論争を不毛なやりとりから少しでも引きもどすために、私の考えを率直に述べてみたい。

津田の『葦牙』批判は、先ず第一に、『葦牙』同人たちの現実認識に向けられている。「『高度成長』後の今日の現実を、『飽食社会』などと単純に規定」し、「資本主義の急速な『高度成長』が、それ自体どんなに深刻な矛盾を社会的にもたらしたかを階級的民主的闘争を強化する見地からとらえることなく、その皮相のみをのっぺらぼうに一面化し、逆に、どの『政治勢力』も『高度成長』がもたらしたものを『正確にとらえていたかどうか』疑わしいとする」、これは展望を失った敗北主義以外の何ものでもない、というのが、その主な内容である。津田はそれを『葦牙』七号の李恢成との対談における中里喜昭の発言、同じ号の上原真、山根献等の論文について指摘し、非難する。

津田論文を読んでから、私もこれらの文章を読みなおしてみて、津田の批判にはやはり賛成できない、と思った。
第一に、津田が問題にしている中里の発言は李恢成との二十五ぺージに及ぷ対談のうち、半ぺ−ジ前後の部分である。もちろん量的に小さくても、それが核心をなしている場合もあるが、この対談を基調として貫いているものはけっしてそうではない。現代の日本で文学をやっていく上で、どう足場を定めるか、何をふり返るかについての、今時珍しいくらいの、まじめでまともな論議である。李恢成は最後にこういっている。

僕は日本の文学がネ、どこかで騙されているような気がするんです。サブカルチャとかね。それから若い世代の文学者にこんな事いうとおかしいかも知れないですが、若い世代の文学者達は、日本資本主義の安定の中でぬくぬくと温まって時代に目を眩まされている人が多い。
自分がこの時代をどう変えていくのかという社会意識が弱すぎるようですね。
七○年代に学生運動やった作家たちを見てると、「過去」は弁解がましく書くけれど、「明日」はというものに責任をとろうとしない。冬眠中ならばいいけれど、時代におもねる生き方をする連中が増えているよ。歴史的モティーフをもって、世界に向って生きるような作家が出てきてほしいものですね。
どうも、小さく纏まっちやってる。知の戯れなんかでは、文学は活性化しないんじやないですか。僕はそういう風潮に危惧しているんです。

もちろんこれは李恢成の発言であって、中里の発言ではない。しかし、この発言は、中里の発言内容と対立する形で出たものでも、中里の発言と無関係に李恢成の独白として出たものでもない。ある意味で、この発言はこの対談をしめくくる言葉にもなっているのである。

こういう対談の中から、津田が中里の先のような発言だけを問題にするのは、曲解とはいわぬまでも、あまりにもバランスを欠いた議論の立て方ではないか。

第二に、中里や上原がここでいっていることは、津田のいうほど非難しなければならぬものなのだろうか。
「高度成長」を含む、最近二十年前後の、そして現在も加速度的に進行している日本社会の構造的変化が、日本が従来経験したことのない、あるいは少なくとも経験した中の最大のものの一つであること、そして同様の変動は、世界的規模でも進行していることをまさか津田も否定はすまい。もちろん、このことは、多くの資本主義イデオローグたちがいうように、科学的社会主義がかかげて来た課題が実現されたことでも、日本に根本的変革が不必要になったことを意味するのでもないし、中里や上原もそんなことはいっていない。上原のいう

「このような関係(上原の文章では、〃間柄主義〃という独特の用語で呼ばれているものを指しているが、取敢えずは労資協調の関係ととっておいてもそう違わない=丸山注)が順調に保持されるのは、郷司氏(浩平=日本生産性本部初代会長)のさきの談話にもみられるように〃労資の利害が一致している〃という〃思想〃が現実によって破綻しない限りにおいてである。この〃思想〃は資本主義の、『企業社会』自体のもつ法則によって常に脅威にさらされているわけである」(『葦牙』七号、八三ページ)
という言葉は、まさに階級闘争の法則が貫いていることの指摘にほかならないではないか。問題は、前述のような社会構造の変動にもかかわらず階級闘争を始めとする諸矛盾がなくなっていないことの承認・強調にとどまるのでなく、その新しい形態と発展の法則を、より明確に、より鋭くえぐり出すためには、思想の次元でも、文学の次元でも、もう一段も二段も深めることが必要ではないのか、ということである。

その試みは当然に試行錯誤をともなうが、それに対して必要なのは、性急な非難ではなくて平等の立場に立った冷静な討論であろう。
それがどうして津田のような、非難・糾弾の文章にならねばならないのか。

『葦牙』の「共同体」論は、要するにそのような日本社会の変動の中で、人民の新しい連帯をどう作り出すか、その根拠をどこに求めるか、という営みの中で出て来たものであることは、私には疑えないものに思える。
たしかにその「共同体」のイメージは、まだ曖昧な混沌としたものを含み、彼らの意図にとって、「共同体」という概念が果たして有効か、少なくとも「共同体」という概念が従来持って来たさまざまの意味あい、色彩が、むしろ議論を混乱させはしないか、また「共同体」という言葉が一人歩きを始める時、当初この言葉を使っ意図からも離れたものになってしまう危倹がありはしないか、という危惧は、私自身にもある。しかし、だからこそ、必要なのは、あくまでも冷静で科学的な討論なのではないか。

ところが津田の文章は、その批判を詳細に理論的に深めることよりも、「その『共同体』概念が非科学的でお粗末だというだけですますわけにいかない日和見主義的見地、階級闘争の観点の欠如」「敗北主義的焦燥感が、『民主なる側』ヘの失望、不信の表明と結びつく」等の非難に移行してしまっている。というより、後者が前者に先行しており、分析,批判より、断罪が先行しているのである。
津田の頭には、ある種の「偏向」の型の認識があって、それに表現の似たもの、近いものが、すべてそれと同質に見える、という傾きがあるように思える。その「偏向」の型の認識をすべて誤っているとはいわない。だが、一つの理論や傾向が誤りとされた場合、その誤りの性格と範囲については、慎重な限定が必要であって、それと似た表現を含むもの、あるいは一部分に共通した要素を含むものを、軽々しくすべて同一視することは、批判の対象と程度を、不必要に拡大することになりやすく、それは理論活動の活性化を妨げる。中国の場合、一九五五年の「胡風批判」が、その後の文学論・文芸政策に対してさまざまな形で出て来た反省や批判を、「本質において胡風と同じ」「胡風に通ずる誤り」などとして否定・圧殺する傾向を生んだこと、それが中国文学の弱点の克服を妨げ、さらには文革を許す要因の一部になったことは、現在の中国で、痛恨をこめてふり返られていることである。

胡風批判は、胡風を反革命分子・スパイとした判断そのものが誤っていた例だが、最初の批判自体は正しかった場合でも、その範囲が、その後出て来た、形は似ていても質の違った問題や、新しい問題にまで拡大された結果、今度は批判自体が誤ったり、少なくとも新しい事態への対処において立ち遅れたりする結果を生んだ例は、中国でもソ連でも少なくなかった。
今日、自民党政治に抵抗し対決し得る政党としては、やはり日本共産党以外にはないと思っている人は多い。だが、その人びとの中にも同党に対して、さまざまの意見・批判を持っている人びとも少なくない。それは、同党に対する期待の大きさを裏側から示すものにほかならない。その表われは一様ではなく、中には辛辣な皮肉を帯びたり、不信すれすれの表現をとったりする場合もある。実際に一部に不信を含んでいる場合もあるだろう。その批判の表面上の鋭さのみを見、それに反撥して、その奥にあるものを見失うようなことがあってはなるまい。ある意味で、粗雑で性急な過剰反応ほど「意見・批判」を「失望・不信」に転化させるものはないのである。

あるいは、津田の文章がこのような調子(単なる文体や用語をいっているのではなく、発想全体をいっている)になったのは、『葦牙』同人のうちの何人かの党規律違反がからんでいるためかも知れない。その辺の事情については、私は詳細を知る立場にない。そもそも私は『葦牙』同人の誰が党員で誰がそうでないかを知らない。しかし、『葦牙』の単数または複数の個人に党規律違反があり、それはそれとして処理されるべきものであったとしても、それとその個人の理論とは、先ず厳格に区別し、理論批判はあくまでも理論批判として行なうべきものである。その規律違反が彼らの理論と不可分のものであり、そこから発しているのだとすれば、それは理論批判の中でおのずから浮かぴ出て来るはずのものではないか。非難はそれからでも遅くない。いやむしろ党規律違反問題と理論・思想問題の区別が忘れられ、または曖昧になる時、批判は理論による批判でなくなり、「正統」による「異端」糾弾に転化する。「異端」に対する嗅覚のみが鋭くなった「理論家」が力を持つ時、どのような結果を生み出すかは、中国における姚文元の例が示している。

さらにまた、いまさらいうまでもないことだが、『文化評論』は、日本共産党の指導下に編集・発行されている雑誌ではあるが、党内の出版物ではない。『文化評論』の誌上で、ある個人の理論・思想を批判する時、その個人が党員であるか否かに関わりなく、その論理は、直接批判の対象になっている個人と近い考えを持つ人びと一般に対する批判としても成立するものでなければならないはずである。津田が、『葦牙』の中に、「科学的社会主義の党に対する不信」があるといい、それをただちに批判の根拠にしているのは、この点の自覚を欠いたもの、と私には思える。「不信」を抱いている人びととの間にも討論と対話を成立させ得ないで、社会を変えることができるか。

津田は、善意の批判と悪意の批判とを区別せよ、というかも知れない。しかし、善意の批判と悪意の批判を、誰が何によって区別するのか。軽々しく悪意のものと決めて、それを前提として対応をしなくても、「誤った」(と考える)事実認識には、「正しい」(と考える)事実認識を対置し、方法には方法を対置し、一言でいって理論にはあくまでも理論を対置して、冷静な討論を続ける中でこそ、「悪意」は必ず析出されるであろう。くり返すが「悪意」ときめこんだ結果の、性急で粗雑な批判は、むしろ「善意」さえ「悪意」に転化させてしまうカを持つ。

津田は

「階級闘争においては、肺腑をえぐるような『レッテル貼り』や『裁断』が、重要な意味を持つ場合がある。また、簡単な『レッテル貼り』にしかあたいしない貧弱で低水準の思想も、現実にはある」
という。その意気や壮とすべし。しかし、理論的に批判しつくせれば、「レッテル」を貼るまでもなくその性格は明らかになるだろうし、「『レッテル貼っ』にしかあたいしない貧弱で低水準の思想」は、多くの場合「レッテル」を貼るにもあたいしないものだ。私は、現在のような複雑な思想状況下での「思想闘争」のためにはこんなところで力むよりは、「レッテル」などを一切用いないで、批判の目的を達するような、理論的深さと広さを獲得するための努力に徹することの方がさし迫って必要とされている、と思う。

私のいいたいことは、大体書き終わったが、もう一つつけ足しておきたい。
津田は社会主義国の現状に対する武藤功の見解を批判して、

「歴史の長期的な発展の展望では、それらの否定的現象も、社会主義国自体の持つ復元力によって必ず民主主義的な方向での解決がなされるだろうことを、社会主義国であるがゆえに、また社会主義国であるかぎり、私は疑わない」
という。
確信は結構である。だが、ことはこれですむか。こういう言葉で、社会主義の現状に対する人びとの疑問や不満や不信に答えられると考えるとしたら、それはあまりにも現実とかけ離れた感覚である。社会主義の理念にとっても必要なことは、さまざまの誤りがなぜ起こったかを具体的に分析・検討することを通じて、その克服の道すじを明らかにすることではないのか。それによって、社会主義の現状に対する批判が、主観的な決意だけではなく、実際の力量によって裏づけられたものになるのである。

津田は、日本共産党が明らかにしているその原因として、「現存の社会主義国が資本主義的発展の遅れた状態から出発せざるを得なかったということもふくむ『生成期』の歴史的制約と困難、そのことにすべてを帰因させることのできない科学的社会主義の原則からの逸脱などがあげられている」という。

これらの指摘の意義は、私も認める。しかし、これとても、個々の理論家がそれを繰り返していればいいものではない。「生成期」という制約が、各分野にどのように作用し、どのような形で現れたのか、等々の問題はまだこれから精力的に探求され、解明されなけれぱならない問題である。「科学的社会主義の原則からの逸脱」にしても、それらのすべてが、明々白々な「原則」からの逸脱として起こったのではなかった。
「文化大革命」は、「修正主義」に対するマルクス・レーニン主義の「原則」の擁護の形をとって起こったのではなかったか。つまり「原則」からの逸脱が、時には「原則」の形さえとって起こり得る、というところに、問題の複推さがあるのである。したがって、必要なことは、そのような倒錯や歪曲が、何を契機にして、どのように発生し成長したか、それを阻止するカはどのようなものであり得たか、それがどのような弱点によって、阻止し得なかったか、等々の問題を理論構造、現実の運動過程等々について分析し、そこから教訓を引き出すことである。津田がこの点を否定しているとはいわない。しかし、実際の文章では、彼は「さまざまな角度からの分析が、日本共産党をふくむ科学的社会主義の党自体によって行われてきたし、今後もひきつづき深められてゆくにちがいない」というものの、それまでであり、そういう批判・分析をする武藤功らの「(社会主義国の)党や国家の指導部の役割への懐疑論」を指摘し、「これは、社会主義国家が本質的に『人民主導型』の国家であることを見ず、社会土義諸国における党と国家の存在と活動そのものを、『国家主導型』の国づくりと見て否定する考え方である。(中略)このような『葦牙』同人たちの社会主義への懐疑論は、社会変革の事業そのものへの懐疑論にも転じうるものである」という。

社会主義国が本質的に「人民主導型」の国家であるべきであるにもかかわらず、それが現実の社会主義国家に貫徹していないからこそ、さまざまの問題が起こり、そのどこがどう改革されねばならないかが論議されているのではないか。その中で現存社会主義国の「党や指導部の役割への懐疑論」が起こるのは、ある意味で不可避であり、それを非難したり、社会主義の理念への信念を吐露することで、それに答えうるものではない。もちろん批判の理論的行きすぎを警戒するのは必要であろう。それが「社会変革の事業そのものへの懐疑論」に転ずる危倹を警告するのもよい。しかし、それを警戒するあまり、現存社会主義国の現状の分析とその否定面を生む原因・克服の方向に対する理論的試みにおける立ち遅れを生むなら、それは、やはり社会変革の事業そのものを阻害し、その反対物にも転化することがありうるのだ、ということも、十分に自覚しておくベきである。

『葦牙』掲載の作品の評価について、さらにその基礎にある作品評価の方法をめぐる問題についてなど、まだ書きたいこともあるが、とりあえず緊急に必要だと思うことに限るため、このくらいにする。

最初は、もっと中国の例なども紹介しながら、考えを展開するつもりだったが、それもやめることにする。当然のことながら、中国の場合と日本の場合とでは、共通の問題もあるが、違う面も多い。その共通性と違いとの関係をどうとらえるかがまた論争の対象になり、問題を複雑にする、と考えたからである。この問題は、また別の形で扱うことにしたい。

私の力量の不足のため、言葉の足りないところ、用語に曖昧さを残すところなど、いろいろあるだろう。その結果、批判のしかたにこだわりすぎていると思われるかも知れないが、私としては、それのみにこだわったつもりはなく、むしろその底にある、思想・理論の広さ・深さに、さらにはそれがどれだけ開かれたものになっているかに関わる問題だ、と考えている。

(まるやまのぼる・中国文学者)