須永 博 さん こうやま様。

 メールで失礼いたします。ホームページ拝見しました。

 田無事故の写真、生々しいですね。大変興味深く拝見しました。気になったのは、事故後も車内に乗客が留め置かれていた事です。早く避難というか下車させるべきなのではないでしょうか。私は当時無線をしていたので、事故をテレビで知った後は警察無線と消防無線、それと西武の列車無線を受信していました。

 田無事故の教訓として98年1月15日の大雪の際は、池袋線は25Km以下(15Km以下?)で運転されていて、無ダイヤ状態でした。こうやまさんは駅の近くにお住まいだったのに、再開発で立ち退きになってしまったのですか。

 今日三鷹駅〜ひばりが丘駅間のバスに乗車しました。青梅街道の田無本町三丁目の交差点を右折した所の道路が、新しくなっていました。近いうちに、武蔵境駅〜ひばりが丘駅間のバスに乗って確認しようと思います。

須永 博 さん
 某ネットの某パティオではお世話ンなってます。

 さて田無事故の詳細ですが、ページにも書いてありますけど、実はまだ写真にしてない文章ネタが残ってるんですよ。当時執筆させてもらった鉄道の同人誌に残した記録で、まとまった時間がやっととれる様になったので、タイミングを見て近日中に追加したいと考えてます。車内に残る乗客は私も気付いてしましたが、言われてみれば、すぐ下車させないのはおかしいですね。車内に知人がいたと言う人とも会話したのですが、パンタを降ろして暖房が止まった為、車内は大変寒かったそうです。私は無線はやっていないのですが、無線をやっていた方は当時無線を傍受していた様ですね(聞いた話によると、無線雑誌の誌面方針そのものがアングラ一直線らしいですが…)これも無線をやっている別の知人から聞きました。

 98年の大雪は、丁度知人に鉄マンいや徹マンに誘われていた時で、時々シャッターの外を見たら、凄い積もり方になっていったのをよく覚えています。それで結局朝に予定より早く帰る事にしたのですが、田無事故の教訓からか、既に途中折返普通と準急のみの運転になっていて、雪の積もった量も、高田馬場と田無で全然違うのに驚きでした。私が家に着いた後、さらに普通運転のみになり、ついには運転を見合わせたそうな。

 私の家は南口側なので、北口の再開発には関係していません。でも家の前の(旧田無)市役所通りが複線化(拡張)される事になったので、結局4ヶ月程仮転居しています。この時住んだのは北原町の旧保谷市との境界すれすれの所で、しかもよりによって、当時既に興味を持っていた白子川が近くにあり、バスを使う時は、白子川の暗渠の上を歩くのが一番の近道でした(ここのページの2&3番目の写真です)

 北原と言えば、北原の三角交差点の大移動にも驚きましたね。大きな道の関係上どうしても避けられない変形交差点として有名でしたが、効果はあった様で、以前のメインルートだった田無駅〜北原交差点の通りは、車が激減しています。いたずらに新しい交差点が出来る事による渋滞の悪化も、結局初期のみで済んだみたいです。私は思わず切替当日、あちこちの該当交差点を見て回りました(笑)さすがに警察・西武バス・田無市等の職員が多数、詰めかけていました。ちなみ田無本町3丁目バス停は昔、そこにあった施設の関係で「田無市役所前」になっていた所で(今は田無神社になっている)、2001年1月頃からは「田無 町3丁目」になるのではと。

 でも地元バス系どころか西武線系の掲示板でも散々話題になった、複雑なバスルートはどうにかならんのかと思います。近い距離を行くのに三角形に遠回りしたり、ある系統の上りと別の系統の下りが、同じ道路の同じ方向を行ったりするのはねぇ。文華女子校経由は上下どちらのルートも、田無郵便局の北の交差点で曲がればいいと思うんですが、警察が曲がり方に制限をかけたみたいで、三角の分離帯が邪魔をしています。田無〜保谷のバスも、狭い旧青梅街道でなく新しい道路を上手く走れば、他の系統との共通化も出来ると思うんですけどねぇ。ひばりが丘系と保谷系が違う営業所になった影響だろうけど。

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