400年の時の流れ

 信玄、謙信がしのぎを削り、信長が倒れ秀吉が一夜の夢のごとく去り、家康が天下を握ろうとしていた時代、小国の意地と誇りをかけて戦い抜いた真田家三代の物語は、日本中あまねく知るところである。
 その後、信幸公は松代十万石に封ぜられ、徳川政権下三百年その社翼を守り、一方、幸村公は大阪夏の陣で戦死し、長男大助も自刃した。
 そして、幸村公の系統は全て絶えてしまったかのように歴史より姿を消すことになる。
 しかし、下図を見て欲しい。幸村公には大助の他多くの子女がいたのだ。
 夏の陣の時(元名元年・ 1615)正室の子供達、阿梅他大八までの1男4女が、奥州伊達家の重臣、白石城主片倉小十郎重綱のもとに匿われた。
 後に阿梅は小十郎の室となり、女子はそれぞれ片倉家の係累に嫁ぎ、次男大八は、寛永16年(1639)片倉四郎兵衛守信として本藩、仙台藩永代召出(知行・三百石、後三百六十石)となり仙台藩士となった。
 この時期、徳川幕府の大阪方残党探索は表向きは終了していたが、真田姓では憚られ、片倉姓を名乗ったものである。(特に徳川氏には真田は癪の種であった

 
戦国から江戸時代初期の人々

幸 隆 公

昌 幸 公 幸 村 公


 どうして幸村公の子供達が伊達の片倉小十郎のもとに匿われたのか。小十郎の戦振りをみて幸村公が惚れ込み後事を託したという説、小十郎が阿梅を略奪したという説、戦国の英雄伊達政宗公と幸村公の密約説等小説の世界になってくる。しかし、戦国時代は現代人には理解できないロマンと義侠と野望が存在したのだ。この部分に関しては歴史学者の範疇ではないような気がする。
 さて、天下が定まると特に外様大名は、幕府の顔色を窺って藩の存続を画せねば成らなくなった。すでに仙台藩は、幸村公の三女阿梅を小十郎の室としたことを宣伝している。一方幕府は、真田の男子の存在を察知して家系調査を求めてくる。そこで大八をこの世から消してしまうのである。謀略戦である。寛永元年(1624)頃(匿われて既に10年)、高野山蓮華定院に 「大八君八歳にして京都にて印地打ち(子供の石合戦)にて石に当たり他界」との情報を流した。この情報は、蓮華定院より松代に流され、真田家の正史に記載された。 現代風に考えて欲しい。いいとこの八歳の坊ちゃんをお母さんが危ない所に連れて行くだろうか。苦しい言い訳である。それを信じる振りをするのが古今日本国の伝統であろうか。 次は系図の書き換えだ。守信を幕府御家人となっている信尹公(上図左端)の次男政信(架空)の子としてしまった。幕府には、紛らわしいので姓を片倉に改めるとしている。仙台藩としてはこの系図を表向きに押し通していくことになる。
 以後、仙台の真田家は二代辰信の時真田姓に復帰し、守信以来仙台藩の中流門閥として、片倉家の親戚衆として仙台藩史に顔を出すことになる。
 時は移り幕末、九代(数え方によって多小変わる)幸歓は、西洋砲術他の知識を修め、参政として仙台藩の軍制を改革、藩の存続をかけて勤王を唱えた。戊辰戦争には、官軍の要請に答え、洋式軍隊を率いて土湯口に出兵、会津を攻撃をするが、途中、旧態に太平を貪った藩論は、情に流されて時を見ず、奥羽列藩同盟に走り、遂に賊軍の汚名を着せられた。(戊辰戦争に使用した六文銭の旗は、伝来の鎧と共に当家に保存されている。)
 かくして、幸村公以来三百年を経て、先見の明と必勝の策を持ちながら、また我家は敗軍の将となったのである。


江戸から明治へ
守信の項目表示がうまく出ません。画面上、に見えます。
千石、三百石、三百六十石と読み替えて下さい。

どれが先に完成するか分かりませんが一年以内にはどうにか一つでも

年   譜 1865年ま年譜で完成

真田守信 初代 只今準備中
真田辰信 二代 只今準備中
真田信成 三代 只今準備中
真田信経 四代 只今準備中
真田幸歓 九代 只今準備中



上 田 城 跡 幸隆公夫妻の墓


この稿をまとめるに当たり当家の口伝及び文書と小西幸雄氏著「仙台真田代々記」を参考にした。みちのくに営々として残った血脈を公にしてくれた氏に感謝したい。ちなみに出版先を記しておくので詳しく知りたい方はお問い合わせを。
   発行所 株式会社 宝文堂 仙台市青葉区中央二丁目4-6 022-235-6620


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