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TEA TIME

道明寺の戦
2,000.2.13記

慶長19年10月7日、伊達政宗公のもとに家康から大阪出陣の陣触れの早馬が到着した。
この時、白石城主片倉小十郎景綱は病重くお供ができないので嫡男小十郎重綱が上仙し
是非、先鋒を申しつけ下さりたしと政宗公に懇請、かくて願い通り伊達の先鋒となり
10月11日、白石より勇躍出陣ということになった。

その前日、政宗公は白石城に泊まった。
幼少よりの守役、まさに二人三脚で歩んできた小十郎景綱を見舞うためである。
家来にささえられ、御先鋒かたじけなしと感涙にむせびながら、御礼言上、
重綱に手ずから片倉の軍旗「つりがねの旗(まとい)」を渡し、この旗に恥じない
ように軍功をたてるべしと命じた。

重綱の率いる軍勢、馬上騎士六十騎、鉄砲三百丁、弓百張、槍二百本等一千余。
これを合わせ、伊達の軍勢一万八千が大阪の陣に着陣した。

冬の陣は真田の活躍にも関わらず、女共に牛耳られた大阪城内は遺憾ともし難く
あっと言う間に和睦。家康の言にだまされ、総堀を埋め立てられ大阪城は丸裸となってしまった。

元和元年、ズルズルと夏の陣に突入する。政宗公は4月江戸を発し、5月初めより攻撃に参加した。
5月5日、一千余の片倉勢は道明寺口に着陣、兵を二手に分け、
鉄砲二百、弓五十、槍百を山上、残りを山下に伏せ戦機を待つことになる。

翌5月6日、後藤又兵衛勢及び薄田隼人勢に接触、これと激戦を交えた。
鉄砲のつるべうちに始まり、刀、槍を合わせること数時間、
重綱自身、敵四騎を切り落としたが、陣羽織は切破られ、太刀も小刀も破損してしまう程の乱戦だった。
一時、片倉重綱の本陣に迫った後藤・薄田勢もついに力つき、後藤又兵衛、薄田隼人は戦死。

この戦いで、片倉勢のあげた兜首九十三級、重綱の廻りの者で槍刀に血を塗らないものなしという。
夏の陣で一番の戦功となった。

さて、前置きが長くなった。
この乱戦の中でのことである。敵将が重綱にせまりついに組み打ちになった。
上、下になりながらもつれ合い、とうとう重綱が組み伏せられてしまった。
あわや首をとられそうになった時足軽二人が駆け付けてきて敵を上から押さえつけた。
押さえつけたが何もしない。
重綱が早く打てというがやはり何もしない。
その内敵将も苦し紛れに重綱に刃を当ててくる。

「殿さん、恩賞いくらくれっぺな」と二人の足軽が聞いた。
重綱は案外締まり屋だった。
というより貧乏だったといった方がよいかもしれない。

「一貫だ」
「うんにゃ・・・五貫だべ」
「二貫にする」
「だめだ・・・五貫だべ」
「負けろ」
「いや、負からねえ」
重綱、上に二人も載せてその上首に刃を当てられている、苦しくなりとうとう
「五貫にするべ。早くたすけろ」といってしまった。
この足軽を小室という。兄弟である。

白石に帰って恩賞の会議となった。
重綱、命が助かったとなると「一人五貫の恩賞」は惜しくなる。
何しろ、白石では「五貫文のさむらい」に出世するということは抜群の出世ということなのだ。
「裕福ならそれもだそうが」と考えてしまうのだ。
廻りの家臣共は
「殿さん、約束だっちゃ。二人に五貫文づつ、やらいっちゃ」という。
重綱は考えた。
「むむ、五貫やっと、一人二貫五百合わせて五貫だべ」
この後、この家は「二貫五百」と呼ばれるようになったということだ。
嘘のような本当の話なのである。

(聞いた話だがついこの前までそうだったらしい。)
(ちょっとガセネタくさいが、あの音楽家の小室ナントカ氏はその縁に繋がる人だそうだ。)


真田軍がこの戦場に着いた時には戦いが終っており幸村公は城に引き返している。
その夜、幸村公はその子女5人を片倉重綱に託した。
長女阿梅は後に重綱の室となり二男大八は片倉姓を名乗ることになる。

この真田の遺児を慕って旧真田の家臣が多く白石に来て片倉の家臣となった。
三井氏らがそれである。
これが思いも掛けない結果となって現れてくる。上方の産業文化をもたらしたのだ。
紙すき、製粉、製麺、その他農作物や農工品にも新しい技術が加えられた。
なにも東北の諸藩には益する戦いではなかったが、これらが片倉への恩賞かもしれない。
白石名物「温麺」はこの時から発するのかな。







(参考;阿子島雄二著 白石地方の歴史 歴史図書社発行)

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