平成1446

14:00〜17:00

 

江戸東京博物館 学習室

 

次   

1.

真田 徹

2.自己紹介

 

3.   

小西 幸雄

(1)他の真田系譜に見られない「仙台真田系譜」の記事について

(2)真田幸村遺臣「西村孫之進」について

(3)影武者・穴山小助の出目について

4.フリートーキング

「歴史を語る会」参加してくれた皆さん

 

○石田将俊さん(独眼竜と愉快な仲間たち)

  石田将監の子孫、勤務先:束京都

○上杉影虎さん(謙信之館)

  長崎出身、立川市在住、 33歳、

F.Miyazawaさん(宮城史跡巡り 伊達家歴代十三代)

  宮城県塩釜市出身、神奈川県川崎市在住、26歳、

○みなぎさん(夢の跡)女性

  埼玉県

○直江山城守さん(山城)

  京都市在住、大学生

○萩原さん

  府中市在住、

○森郁さん(夢幻回廊)女性

  漫画家、「真田十舅士異聞伝」

○おかじま さん 女性

○じじい さん(中学生)

H.ITOH さん(30代男性)

○前田さん(ディスプレーデザイナー)女性

○真田 徹(主催者)

     小西幸雄(今回の講師、歴史研究家)

 

順不動

「歴史を語る会」 (T.SANADA主催)

日 時:平成14年4月6日 (土)  14:00〜17:00

場 所:江戸東京博物館 学習室

1. ご挨拶   真田 徹

2. 講 演   小西幸雄

(1)他の真田系譜に見られない「仙台真田氏系譜」の記事

・資料『仙台真田代々記』 「第l章 真田大八と仙台真田系譜」

長野県の研究者は、松代真田家の「真田氏系図」と「蓮華定院」の記録を根拠に、大八は京都にて印地打ちにより夭死したとしている。ところが、「仙台真田系譜」では幸村の遣命により仙台の先鋒片倉重綱に委嘱されている。

大八を仙台藩が保護したことに対する長野県の研究者の公式見解は、「陣後に兄の信之が幸村に玉薬を送ったということで疑われて、自分の命も危なかった位ですから、幸村の子供を助けるなどということは考えられないし、できないですね。」、「徳川幕府に従う伊達政宗が幸村の男児を引き取るはずはない」というものです。

これらの歴史解釈で前提としていることは、松代十万石の真田家と天下さえ狙っていた伊達政宗を同列に考えていることである。拠って立っている「歴史の違い」であると恩われる。

「仙台真田系譜」は、真田喜平太幸歓が記事内容から明治15・6年に書いたものである。喜平太は兵学を8流、砲術を5流の皆伝を受けており、長沼流と北條流兵学は門人に教授しております。西洋砲術では3年程の間に13,500人の門人がおりました。

従って系譜の記事には『甲陽軍鑑』からと思われる記事が挿入されておりますが、当時においては歴史書と考えられておりましたので、止むを得ないと思われます。そういったところを除いた部分に、他の真田系譜に見られない記事が多数見られます。

もっともらしく作るのならば、寛永系図や寛政重修諸家譜もある訳ですから、そのまま写せばよい。それらと異なる生母とか生年月日をあえて書いている訳です。これらはオリジナルな部分であり、信憑性が高いと思っている。

なお、幸村の生母の木曽氏族大庭氏は、『旭市史』『海上郡史』によると、木曽義昌に従って現在の干葉県旭市に入った家臣の中に名前がないことから、その後は不明ある。

 

     資料「滋野姓真田之系略」(片倉信光氏史料)

 

これは片倉家に伝えられていたもので、幕府へ提出したものと同じ内容と思われる。

幸村の子供として、幸昌(大助)、大八(7歳夭死)、女子3名を記載しているが、藩内にいても御菖蒲など他に類が及ぶものは記載していない。また信尹の子の政信は架空の人物であり、守信の母は海野勘左衛門女とあるが、これも創作と思われる。

幸村の子孫と言い出せたのは、明治維新後である。宮城県の地元紙「河北新報」の創刊号(明治36年?)から何回か、歴史読み物の「白石眞田」が違載されているので、知る人は知っていたようだ。ただし、この連載は喜平太の弟子が中止させたという話である。

 

     資料「幸村の子女」部分    

歴史群像の『奮迅真田幸村』の記事について訂正

・すへの葬地は「古町 西蓮寺」が正しい(子孫の石合知子氏よりの指摘)

     之親の葬地は「番川県寒川町右田」の真田家墓所が正しい

(真田博明氏より、編集者ら「真田さんの家の墓はどこにあるのですか」と聞かれ、現在の当家墓地である香川県長尾町の宝円寺と答えてしまった。)

 

(2)真田幸村遺巨・西村孫之進の謎

 

・資料『武将感状記』「真田幸村伊達正宗と野村に戦ふ事」

    『常山紀談』「西村孫之進武功の事」

 

『武将感状記』の幸村と伊達の戦いは出色である。伊達の累代の家臣に対して、幸村は烏合の衆の軍勢をあれだけ縦横に指揮して、しかも明らかに勝ちを収めている。伊達の騎鉄砲は雑賀孫市、鈴木孫三郎重朝(水戸雑賀氏)が仙台に寄留していたときに伝えたものとされている。

 

     資料「真田幸村遣臣・西村孫之進の謎」(歴史と旅)

 

『常山紀談』の西村孫之進について、岡山大学附属図書館所蔵の池田家文庫「奉公書」のハードコピーを請求したところ、初代から明治5年までの西村家の奉公書が送られて来た。

それによると孫之進は慶長20年(元和元年)に21歳である。

北條氏長の『慶元記参考』に、孫之進は江戸に出て小幡景憲に出入りして景憲と甚だ善し、幸村神法の兵法を悉く伝授したとある。また「真田丸の曲尺」、「築城塁之弁」を掲載している。

この『慶元記参考』の成立は氏長25歳のとき、寛永10年、夏ノ陣から18年後である。孫之進はそれより大分前に江戸へ出たことになる。孫之進は仙台藩の秘密を握っており、伊達家の幸村男児隠匿の生き証人には最適の人物である。それにも拘らず江戸に出すということは、仙台藩から密命を受けていたからではないかと思われる。

實永17年に大八が仙台藩士となり、固19年に主人の三井景国が死んでいる。『常山紀談』に仙台藩士が孫之進の武功の証人になると花押をついた文書を渡したという話が書いてあるが、孫之進と伊達家との関係を知る者には、明らかに作為と感じられる。

孫之進は、岡山池田家に慶安3年50人扶持、子源五郎が300石とかなりの高禄で召し抱えられている。

一方、『真田御事蹟稿』の編纂は天保14年であり、喜平太さんと同時代である。明治24年にただ一度出版されている『慶元記』を重視するのは、幸村に関する情報源が西村孫之進であると思われるからである。

 

(3)影武者・穴山小助の出自

 

     資料 同名ワープロ資料

 

講談本の真田十勇士の中で、穴山小助だけは実在の人物である。猿飛佐助は天保年間にた講談本『真田三代記実記』に50歳代の忍びとして登場しているという。立川文庫の阿鉄らの創作グループの功績は、佐助を明朗闇達なヒーローとしたことである。

『慶元記』に幸村の影武者が5名記してある。また『真武内伝追加』の徳川方の記録と思われる「庚申堂真田影武者伏兵」には、松平忠明軍と戦い、天王寺の方代ガ池に刀をくわえて飛び込んだ影武者が穴山小助であったと書かれている。影武者は死に役であり、影武者として死ぬまでが仕事となっていたのであろう。従って、鎧か着物に穴山小助と書いたものを身に付けていたものと思われる。

一方、穴山小助の女が阿梅に従って奥州白石に来ており、三井景国の家臣(陪々巨・又者)吾妻佐渡、あるいはその子に嫁いでいる。我妻家(成城大学学長・我妻建治氏)は士格の足軽・小者で知行3石弱である。同格の家に嫁いだと想定すると穴山小助も陪々臣・又者であったことになる。直臣(陪臣)と陪々臣との別には、歴然たるものがあったのであろうと恩われる。(穴山小助の女も阿梅の身代わりとなりて死せんとする者とあることから、親娘ともに幸村親娘の影武者であったことになる。)

 

3. 自己紹介

4. フリートーキング

     幸村と信之が豊臣方と徳川方に分かれたのは、父昌幸が幸村と気が合ったからか。

      

第1次上田合戦の時に幸村は上杉景勝に人質として行っている。昌幸が豊臣に臣従した時には大谷刑部に取次ぎを依頼して、幸村が人質として出仕した。そのような大谷との関係で幸村の正室は刑部の養女(姪)である。

また沼田領を徳川が北條に引き渡せと言った時に、3分の2を北條に、3分の1の名胡桃城を真田に残すという裁断をしたのは秀吉であり昌幸が、家康を嫌っていたのに対して、秀吉には感謝していたことが大きいと思われる。

 

・ 家紋「六連銭」と「結び雁金」は信州一帯の家紋であり、真田家のみではない。清林寺の三井景国も六連銭である。

 

     小林計一郎氏が片倉家が幸村の女阿梅を後室にした縁で、片倉家が六文銭の家紋を使用したとしており、家紋研究家も面白い話であるのでそのまま載せているが、片倉家には家紋・馬験・旗も含めて六文銭を使用した記録は一切ない。

守信の子の辰信と真囲幸道公が伊達上屋敷で対面した際に、辰信が使用していた結び金の誤伝である。そもそも松代真田家の原記録にも「御紋」とあって六文銭とは書いていない。

 

     幸村が四国とか鹿児島で生きていたという話は、家臣を皆殺しにしておいて自分だけ生

き残ることになり、考えにくいと患う。野球とかサッカーとか、名字が真田だと幸村に結び付けている。(別にウソだと決め付ける訳ではないが)

 

     武田文書研究者の芝辻俊六氏の『真田昌幸』で参考になることは、真田文書に明らかな「断絶」が認められるという指摘である。右田光成の密書など「長持」に入っていたものはしっかりしているが、他は史料で残っているものは以外と薄いという。

 

     真田 徹より真田六文会『真田氏の460年』のCD…ROMが全員に配付した。

また「縦六文銭隊旗」と「伊達慶邦公の和歌と擬画の軸物」を披露した。

 

以上

小西氏が「歴史を語る会」二次会で「みなぎさん」に話したこと

 

「からす組」の組谷十太夫のこと

 

     子母澤寛の『からす組』は、母親が出てくること(父が若死して母は里へ帰され、祖父に育てられた。)と、本物の烏が登場する時期が史実より早いこと(史実では額兵隊を止めに行く柴田郡村田辺りで懐いた烏を飼うことになるが、小説では白河口で登場させている。)以外は、すべて史実に則して書いている。密偵であることが女性にだけ覚破られた話も記録にある。

 

     十太夫は英語ができたようだ。お雇い外国人のケプロンに西洋農法を学んでおり、石巻の大街道の士族授産のときにはアメリカから農機具を輸入し、英語の本を石巻図書館に寄贈している。

 

     林子平の墓のある龍雲院の和尚になっていますよね。

喜平太は石巻に隠世しますが、十太夫も士族開墾で大街道に来ていたので、喜平太の家に出入りしていたようである。龍雲院は輪王寺かの隠居寺で、維新後に荒廃して女乞食ような者が住み着いていて、何かを売り歩いて暮らしていたということです。喜平太の母方の菩提寺ですので、十太夫に何とかならないかと話していたのではないかと思われる。

 

     細谷十太夫について書くとすると、定年後か、住まいを仙台に移さないと無理。新間が発行されてからまで生きているので、全部調査する必要がある。

 

・ 東北歴史博物館に十太夫の陣羽織(三本足の烏の刺繍の)の複製が飾ってあるらしい。

(かなり目立つ所にありますね.)日清戦争の研究者によると、あれは白河口ではなく、日清戦争の軍夫長(千人隊長)のときの物らしい。白河口では女郎屋柏屋で揃いの黒装束は作らせたと思うが、戦争の最中にあれだけ凝った刺繍の陣羽織はどうかと思う。