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TEA TIME

赤穂の城、盛岡の城、富山の城 その3
2002.09.3記

一旦お城を後にして大石神社へ。言わずと知れた四十七士をお祭りしている神社である。
参道の両側に石像がずらりと並んでいる。狛犬は神社ではおなじみだがこれは珍しい。
それぞれそれなりに厳めしいのだが、何となく愛敬がある。言ってみれば漫画的でもあるが。

大石内蔵助

神社にお参りし、お定まりの宝物館に入る。旧大石邸の入場券と共通になっているとのこと。
宝物はどうということもない。四十七士の木造等を並べているだけ。
偉い先生の作品だそうだが、高輪の泉岳寺のほうがまだマシか。
旧大石邸。ちょっと狭いが庭は立派である。屋敷の一部と長屋門が残っている。
いつもこういう物で感じるのだが、ホコリっぽいというか朽ちてしまってるというか
「歴史的遺産をそのままにしているのですよ。これでいいんです。」と言いたいのだろうが
入場料もしっかり取っているのだからもうちょっと手をいれることも必要だと思うのだが。
長屋門の方には、江戸からのご注進の段の人形が展示してあった。

大石邸の庭と長屋門(この内部の部屋に人形を展示)

事件がなかったら、この瀬戸内の地でみんな平和に過ごしたのだろうな。
そんな風に考えると何か虚しい。
四十七士がもてはやされ、その他の人々は不忠者のようになってしまった。
職もなくそんなレッテルが貼られたのでは堪ったものではない。
いつの時代もトップが道を誤ると下の者が苦労するの道理だ。

四十六士の墓所があるという花岳寺に向かう。

お城を抜けて、街に出る。街並計画をしているらしくお城の廻りは城下町の景観を整えている。
路地を入ると古い家が並び、何か懐かしくさえある風情だ。こんな町は好きだな。

折りから台風が去った後で、気温はグングン上昇するし、日差しの強さも並みではない。
「流石瀬戸内、製塩業には持って来いか。」などと一人感心したものの、
兎に角汗が吹き出る。

路地の突き当たりに目指す花岳寺があった。
領主の菩提寺にしては案外小振りである。

花岳寺

このお寺は浅野家と森家の菩提寺だそうだが本堂には鷹羽ぶっちがいの浅野家の紋と大石家の紋の幔幕。
おやおや、ここでもお取り潰しの浅野家が前面に出ている。

鳴らずの鐘、大石見返りの松(二代目)、宝物館そして四十六士の墓所。まさに赤穂義士一色である。
いつごろ建立したのかは知らないが、墓所は殿様の墓を中央にして四十六士が居並んでいる。
そうそう、大石家の先祖の墓もこの寺にあるそうだ。
宝物館は、先ほどの神社より余程質が良い。甲州軍学流のお城の雛形などはなかなか興味深いものである。

墓所と鳴らずの鐘。四十六士の死を悼みこの鐘をういてついてつきまくったら音韻を失ったとある

こんなことを書くとお叱りをうけるかもしれないが、忠臣蔵はあまり好きなお話ではない。
何かじめじめして陰惨なんだな。大石のご家老も底意地が悪そうだし、殿様はヒステリー気味だし。
吉良の爺さんも悪かったかもしれないが、急に切り付けられたり、よってたかって血祭りに上げられて、
大変なことでした。米沢にもまた迷惑な話だ。財政逼迫の折り、警備やらなんやらでマイッタと思う。
どうみてもはた迷惑な事件だなと私には思えるのであります。


「ふるさとの山に向かっていふことなし。ふるさとの山はありがたきかな」
城跡に立つと私でも感傷的になるから不思議だ。

盛岡は南部氏の城下町である。
南部氏は、源頼朝の家来として奥州藤原氏征伐の際に、南部初代光行が山梨県甲斐国より参戦した。
この戦いに功績が認められ、南部の領地をおさめることになる。盛岡よりもっと北方。八戸の付近。現在の青森県南部である。
甲斐源氏なのですな。紋は双鶴(そうかく)と武田菱。

東北の武将にはこのように源氏の古い家系が多い。
伊達氏(出自;藤原氏)、最上氏等相互に婚姻関係を持ち親戚どうしなのである。それがみんな仲が悪い。
そして、戦国の世になるとそれが顕著になる。伊達政宗、最上義光、南部信直いづれも権謀術数の武将である。
それに津軽氏。
もともと南部氏の家臣であり、南部氏に言わせると主家に断りもなく独立してしまった。(南部氏の内紛のとき津軽地方を掌握してしまった。)
当然、両家の仲は最悪である。
まぁ、こんなところが東北の戦国なのだ。
不幸なことだが、そのまま江戸時代以降も引きずってきてしまった。

話がミョウな方にとんでしまった。盛岡のことである。

盛岡の町に入るとまず北上川の流れに圧倒される。
私は盛岡でこの川を初めて見たとき驚いたものだ。水の量が兎に角多くそして速い。
「トウトウと流れる」というのはこんな流れをいうのだろうと感心したものだ。

盛岡城は「慶長3年(1598)に豊臣秀吉の築城許可を得て、信直公により普請に着手され、嫡子利直によって居城となるが、
さらに重直の代に至る
40年以上の歳月をかけて完成された」という。
ご多分に漏れず明治政府によって建物は取り壊され現在は公園となっているが、
石垣だけでもその往時の姿が忍ばれる。堂々としてどこか品格がある。

「これがあの南部氏の城か。がさつな南部の作った物とは思えぬなぁ。攻めるとちょっとやっかいだな」
これが伊達藩士たる私の感想なのである。

盛岡城跡の石垣。

東北の三名城というのだそうだ。盛岡城跡に会津若松城、知らなかったが白河小峰城。
仙台は入らないだろうな。天守閣もない城だもの。


その3につづく



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