ギンガムチェック(水色)

真田の庄から上田へ1999,10,30〜10.31

我ながらものすごい表題を付けたものだ。
これでは、歴史研究の論文みたいではないか。
ついでだからちょっと歴史にふれてみよう。

真田家の系譜は、清和天皇第五子貞保親王から出て、はじめ滋野姓、その後滋野氏は
海野、禰津、望月の三家に分かれ、この中の海野氏が本家として信濃守を称した。
その海野氏の支流(幸隆)が真田の庄に住み着き「真田」を名乗ったものである。

もともとこの辺り、塩平、上田、真田の歴史は案外古く、平安の頃まで溯る。
数多くの古刹がある。重要文化財指定も多い。文化的には先進国だったといえるかもしれない。
別所温泉はご存知だろう。別所とは鎌倉幕府高官の避暑地、別荘のあった場所なのだ。
夏になると幕府が引っ越してきた様相を呈したそうである。

さて、海野氏が武田・村上連合に破れ、その村上氏を幸隆公が戸石に破りそして昌幸公が
上田に行き着くまで、わずか四里の道のりを、四十年余りを費やすことになる。
そんな長い道程を今はわずか三十分程で行き来する。
申し訳ない気がしないでもない。

10月30日、真田幸村展も残すこと1週間、これが終れば当分上田方面に来ることもないと思い
渋滞覚悟で車で出かけた。ぐるっと一回りしてみようというわけだ。

上田ICから真田町へ、道路案内板だけが頼り。いつものことだが無計画だ。
兎に角、役場辺りに行けば観光案内所ぐらいはあるだろう。
ひょいっと、「戸石城入り口」の案内板が見えた。あわててハンドルを切る。
狭い道をしばらく登ると駐車場らしき広場があった。
「戸石城郷土環境保全地域」の看板がある。正面の立派なお寺は陽泰寺。
今年の紅葉はちょっと遅いような気がする。全山紅葉を期待していたのだが。

登り口にお地蔵さんが並んでいた。そういえばこの前の大鋒寺でも同じようなものがあった。



お地蔵さんの前を通り左手の森に去って行った



看板を見ていると突然「ドッ、ドッ、ドッ、」と駆けてきた。
子牛か、大きな犬か?
カモシカに遭遇。!!



戸石城への登り口はもう少し先らしい。体力もないので登るのはまたにする。
一つくらい楽しみを後にとっておこう。


さて次は、お屋敷跡。
いつも思うことだが、一般に田舎の案内看板は不親切だ。ひょっこり現れて、それっきりになる。
ここに着くまでぐるぐる廻ってしまった。

屋敷跡は公園になっている。屋形が建っていたところは神社。全体の跡が良く残っている。
歴史館があった。なかなかりっぱな建物だった。しかし、中身はイマイチだな。

真田歴史館で観光地図を手に入れた。これを頼りに出発。行き着けるか自信ナシ。


走ること約10分、真田氏本城跡に着く。
山城の典型。本丸から周辺が良く見晴らせる。対面に戸石城。

上田築城以前の真田氏の本城と考えられる。

の小さな地域にこのような城、砦があちこちにあり、互いに敵対していた。 力攻めではどうにもならない。
頭を使った方が勝つのが道理。しかし、そこまで。中央にでるまでに息が切れる。

山を下りてまた10分。長谷寺だ。

独特の山門と枝垂れ桜。花の咲く頃に来てみたい。
説明は不要だろう。英雄ここに眠る。

長谷寺をあとにして角間渓谷へ向かう。県道を右に折れる。
左手上に日向畑古墳。昭和46年に発掘調査をしたとのこと。
室町から戦国にかけてのもの。
上田の博物館の館長さんが調査したと言っていた。
「あの石塔の位置は判らないので私が勝手に並べたんですよ」
真田氏に関係の一族のものらしい。道が狭いので、車を止められず今回は断念した。



対向車がきたらどうしよう、などと思いながらどんどん進む。だんだん渓谷らしくなってくる。
ちょっと人だかり、幸村の水だって・・・おやおや・・・
右に旅館、ああこれが唯一の旅館というやつか。
外見からしてサービス悪そう。
行き止まりの駐車場に止める。
岩が切り立ち、なるほど渓谷だ。ここまで来ると紅葉もきれいだ。
猿飛佐助・・・んー・・・これは、実在したかもしれないな。
ここで生活していればみんな猿飛になりそうだ。

岩屋観音?・・・見上げた崖の下に矢印がある。ものすごい急階段が上にのびている。
登ってみるか。さっき戸石城をズルしたから。
息がきれる。年取ったなー。途中で休憩。後悔し始めた。
やっと、たどり着く。下を見た。目が眩む。

岩の窪みに祠がある。
この一帯にはこのような岩窟が点在するらしい。縄文人の住処という。どうしてこんな所に居を構えるのか不思議だ。
格好の狩猟場だったのだろうか。

奥にはお堂があった。フィルムが切れた。予備は車の中だ。
なんと粗忽者なのかこれでは戦国時代は生き残れまい。

道がまだつづく、見晴台とある。もうたくさん。ここまでで十分。



そろそろ役場の方へ戻ろう。信綱寺に行ってみる。
信綱公の墓所である。信綱公は天正3年長篠の戦いに勇戦するも弟昌輝と共に戦死。享年39歳。
「信綱寺殿大室道也大居士」
それがために昌幸公が家督を相続するに至った。運命と歴史のいたずらだと言うしかない。

この寺ははじめ、宇梅ノ木にあり
好雪斎大柏寺といい後に打越に
移り大柏山打越寺と称する。その
後須坂興国寺から順京和尚を招
き大柏山信綱寺とした。文禄3年
の昌幸文書によると信綱寺は兄
信綱の位牌所として建立したとあ
る。また信綱の家臣の白川氏が
長篠の戦いの後信綱の開基とさ
れるこの寺に葬ったとも伝えられ
てぃる。

ここの周辺は公園になっている。野外ステージを思わせる作りだ。

このステージが歴史年表になっている。幸村公の花押をみつけた。

日が傾きかけている。上田に向かうことにした。本日は上田泊りだ。

(2)へつづく

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