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昌幸公がこの上田の地に築城を開始したのは天正11年(1583年)のことであり、
翌天正12年には早くも竣工させている。
天正3年の長篠の戦い以後家督を継ぎ天正8年には沼田を落とした。
この頃から、上田を本拠地にしようとしていたらしい。
北国街道そして関東への出口を押さえようと考えたのか。
築城を開始した前年、天正10年は、日本史上大変な年であった。
3月に武田勝頼は天目山で自刃し、6月には信長が本能寺に憤死した。
この事件を契機に武田氏の一武将であった真田氏が
小さいながら戦国大名として自立して行くことになる。
余談だが、石高は小さくても領国の面積は一国並みである。
長野県中部から群馬県沼田まで、あの尾瀬も真田領なのだ。
人も住まず山ばかりと言えばそれまでだが・・・
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上田の駅を降りるとまず初めに 目にする像だ。 真田幸村像。 名前が売れてしまったからね。 営業的な問題かな。 予算がついたら 是非昌幸公のも お願いしたいものだ。 |
真田一族というと権謀術数にたけ、
利害打算で動き、
腹の内が見えない不気味な
存在に見えるだろうか。
しかし、武田時代、幸隆公も昌幸公も表裏なく
律義に働いた。
一つには信玄に心服していたことも
あるのだろうが。
信玄が世を去るとそうもいかなくなった。
「勝頼では」という思いもある。
それでも、勝頼の時代、父を上回り武田領は
極大になる。
そして綱渡り的な戦の末、滅亡へと走って行く。
二人の兄も長篠の戦場に散った。
そんな勝頼をその最後まで
昌幸公は見捨てなかったのだ。
上田の城を昌幸公は丹念に作り上げた。
町も含めて城という概念があったのだろう。
平城だが一方は断崖である。守りは堅い。
このことが、後の二回に渡る上田合戦において重大な意味をもってくる。
自立できた時、ほぼ天下の行方が見え始めた。残念だが所詮、小大名である。意地もあるが生きなければならない。大勢力を頼むしかなかった。
城も防衛が目的。専守防衛は現代ばかりではないのだ。
家康は昌幸公を甘くみていたようだ。というより良く知らなかったのだろう。
北条氏の口車に乗ってこの城を攻めた。結果は周知の通り。
田舎の小大名が天下を二分している一方をあしらってしまった。
勝ったとは言わない。しかし負けはしなかった。
この戦いで、家康と昌幸公、双方の不信感と嫌悪感は決定的なものとなったのだろう。
これは、打算や利害で解決するものではなかった。
長男の信幸公の嫁に本多氏の娘を貰うことになった時もしぶしぶだったのだから。
昌幸公は秀吉には好感が持てた。秀吉は昌幸を上手く使おうとした。
お互い波長が合ったようだ。そして、北条との沼田帰属の争いが秀吉の北条攻めの口実となる。秀吉の天下取りの総仕上げのきっかけになったのだ。
好き嫌いの感情は関ヶ原の前夜また頭をもたげた。
多少の山っ気もある。
西が不利なのは百も承知。
しかし徳川の兵力を少しでも食い止めておけば。勝ち目はある。
兎に角、家康は嫌だ。ここで味方しても後でどうなるか信用できない。
こうして昌幸公はまたこの城で徳川と戦うことになる。
二度目も圧倒的な敵勢力に対して負けはしなかった。
関ヶ原は裏切りと不信感の中の戦いだった。
戦いの前に西軍は破れていたのかもしれない。実質、大将もいなかった。
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真田石 信之公が松代に転封になった時、 石垣のこの石を松代へ持って行こうとしたとのこと。 しかしどうしても動かなかったという。 もっともこれを抜いたら石垣が全部崩れてしまうではないか |
初めて上田城を見たのは20数年前のことだ。
深い堀と隅櫓の六文銭が印象的だった。
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大手門を入るとすぐ右手に真田神社がある。当然「智」の神様だ。
うちの娘と姪がお札を買ったら、「勉強しなくては御利益ないからね」と神主さんに言われたそうだ。
その通りです。
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神社の裏に井戸がある。 かなり深い。 例によって抜け穴だと言う。 |
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土手の下が一部遊歩道になっていた。
素敵な小路だ。
鐘楼がある。平和を祈念して・・・とある。
400年前きっとその為に戦った。
郷土を守ろうと戦った。
その通りになったと思う。その意味では勝ったのだ。
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