大峰山紀行 修験道の山旅



修験道の山旅   91年11月16日の大峰山行から

 登山やハイキングで山岳地帯に出向いたとき、山のなかに祁られている宗教的遺構に出会うことが少なくない。それは山神様の小さな祠であったり、道中の無事を祈る地蔵であったりするが、ときには、大木の幹に梵字で書かれた短冊が張りつけてあったり、笹を四角に切り開いた小さな空き地に何やら木札を燃した跡が残っていたりすることもある。
 これは護摩とよばれる修験道の儀式の跡で、私たちの古い先祖から伝えられた五穀豊穣、生活安泰を願う修験者(山伏)による祈りの儀式の跡である。
 山伏は、その名の通り、山岳地帯を主な活動の場にしている。その修験道と今日呼ばれる山岳宗教は、古代中国の道教(タオイズム)に包摂される多くの宗教様式・儀礼が、1400年ほど前、朝鮮半島から集団でやってきた人々によって伝えられ、進化を遂げたもののようだ。
 道教は、中国文明成立の頃から伝えられた占いや医療を中心としたさまざまの民間信仰・儀礼(アニミズム)が、老子・荘子などによる体系的思想の著述や、その後の漢王朝(漢祖劉邦の謀臣、張良は代表的道家だった)などが国家思想に用いたことにより、まとまった宗教様式・儀礼になったものと考えられるが、時代によって、太平道・五斗米道・茅山派など多くの宗派があった。
 基本的な特徴は、人が山へ登って仙人になるための修行(登仙)を行い、空中を歩いたり、不老不死の秘薬を調合するなど超人的能力を身につけて人々を救うというものである。今日まで伝わる太極拳・小林拳などのクンフーや、それが日本に伝えられ発展した空手・柔術・漢方医学の伝統は、すべて道教に源を発したものといえよう。忍者も、またそうであった。
 修験道もまた道教から生まれたものであって、この基本要素をすべて継承し、人が山のなかで辛い修行を重ねれば、やがて自在に空を飛んだり天気を変えたりする念力を身につけることができ、超能力者になることで人々を救うことができると考えるのである。したがって外国の文献には、修験道は日本的タオイズムと紹介されていることが多い。
 これらは、大乗仏教やキリスト教のように、ものの考え方を教えることで民衆を分け隔てなく救済するという、民主的で教育的要素の強い方法でなく、特別に秀でた個人的能力を開発し、個人的修行による救済をめざすという点で、より実践的・具体的性格の強い宗教といえよう。ただし、民衆全体の能力を高めるというより、選ばれたプロ救済者のレベルアップを図るという、あまり民主的でない方法がとられていた。だから、、特異能力の軍事集団としても活躍したし、調伏という名の呪いによる敵対者の破滅祈願を行うこともあった。修験道は、人を怯えさせるような残酷な裏面史も多く持っている。
 日本で修験道が史誌に記録されだしたのは、史誌の始まりの奈良時代からで、大和葛城の役の小角という行者が修験道の開祖ということになっているが、実際には、この時代に修験道という独立した宗教が現れたわけでなく、道教の影響を受け、仏教(密教)や古神道の混ざりあった宗教的儀礼のなかに、道教的な山岳的要素の強いものが現れたということのようだ。
役の行者は、後に新羅の国に出向いて道教の上位の仙人として君臨したという伝説もあり、また、神道も密教も本地垂迹説というひとつの教理にくみこまれ、仏教系寺院で祭祁が行われていた。つまり、奈良時代では、民衆の認識にあっては修験道と神道・仏教は一般的な「宗教」という大まかな概念で包摂され、すくなくとも、今日のような明確な区別はなかったように思う。
 修験道には、定まった体系的教義が残されていない。それは、もともと山岳地帯における修行そのものが宗教活動の主体で、伽藍や仏像のような形而下の崇拝対象や思想理論にこだわらないこの宗教の性格からきているのだが、実際には、明治時代初期に、天皇制神道を絶対化しようとした国家権力によって、神道とまぎらわしい修験道が禁止され歴史的遺物が破壊されたことで、古い伝統や理論が捨て去られてしまった事情がもっとも大きな原因なのである。
 それが実践的に復活したのは、今からわずか40年ほど前の1950年前後にすぎないし、復活の主体になったのが天台宗や真言宗の密教僧であったことによって、それは古い本来の修験道よりも、江戸期に煩わしい観念的規範によって体系化した仏教的要素の強いものになっている。だから、私たちが修験道を理解するのには実証面で困難があり、先人の思索と修行を知るためには、実際にその足跡をたどり、想像力を働かせてみなければならない。

 私は修験道の総本山、大峰山脈に過去6度ほど登山している。ただし、奥駆け全行程を歩いていないので、暇と体力のあるうちに吉野から熊野まで踏破してみたいと考えた。歩きながら、修験道の本質について何らかのヒントを得たかった。
 奥駆け修行の行場の第一番は熊野本宮にあって、熊野から辿るのを順峰といい天台宗系の本山派とよばれる行者が行った。第75番の吉野神宮から辿るのを逆峰といい、真言宗系の当山派の行者によって歩かれているのだが、現在、大峰の修験道は、当山派の修験本宗が復活したこともあって、大部分が逆峰によって行われているようだ。
 伝統的な山伏は、この奥駆け全行程を、75箇所([靡]なびき)の行場を巡礼しながら2週間ほどで歩いたといわれるが、山歩きの標準的なコースタイムを考えると、およそ1週間というところだろうと考えた。
 もうすぐ冬に入ろうという時期が時期なので、山小屋での食料補給が望めず、全行程の食糧と冬山登山に近い幕営装備を担いでゆかねばならないのがつらい。そこで、行程を予備日も含めて9日と考え、食糧を原則として米だけにし、副食を極度に抑えることにした。これによって、食糧の総重量を7キロ程度にまとめることができた。これ以上ないほど荷重を抑えたつもりだったが、荷ができあがってみると30キロ近いズシリとした重さに、いささか気後れしてしまった。
 91年11月16日の朝、近鉄名古屋駅から吉野に向かった。吉野駅に到着したのは昼で、ひとりでとぼとぼと大峰をめざして歩きはじめた。この時期は、比較的天候に恵まれているので、快適な登山ができる。
 駅前に蔵王堂方面のロープウェイがあったが、たいした節約にならないので歩道を歩くことにする。ジグザグの踏跡を登りつめると吉野街道に出て、両側に古く懐かしい雰囲気の商店街が続き、狭いが歴史の薫り漂う古街道を行くようになる。
 道端に「南朝の里」と印刷された貼紙があった。吉野は、後醍醐が足利尊氏に追われて南朝を設立した街である。歴史ファンである私は、ひどく懐かしいような思いがこみあげてきた。
 歴史の薫りのなかにほのかに混じるのはミタラシダンゴの甘い香りで、ついつい手がのびてしまう。ひさしぶりの懐かしい味。これが実に旨い。だが、30キロを超す荷物が肩にくいこみ、一度下ろした荷物を担ぐのが憂欝だ。この先が思いやられる。
 大峰名物の優れた胃腸薬である「陀羅尼助」の製造販売店があった。江戸時代の旧商家のたたずまいを伝える由緒風格にあふれた店先に、陀羅尼助が一瓶三千円で売られているが、これは観光土産の値段なのだろう。少々高いと愚痴らざるをえず、買おうという気にならない。
 これは吉野洞川、オウバク宗萬福寺に伝えられたとされる秘薬オウバク(キハダ)を煮詰めたもの。これは安全なすばらしい自然医薬である。古いものの良さを理解できない人は、田辺製薬のスモンのような化学物質を信仰すればよい。学歴権威信仰による絶大な効能がえられることであろう。
 陀羅尼助には、大昔、クマノイやケシ汁を混ぜていたという。山陰大山の練熊や、御岳の百草も陀羅尼助とまったく同じ成分だが、明治の宣伝文句にはケシ科のコマクサを混ぜていたことが書いてあり、これがコマクサ壊滅の原因になったようだ。これらは、道教の医薬(漢方)が伝わったと思われるが、全国に熊胆を売り歩いたマタギともなんらかの関係があるにちがいない。吉野の山伏にとって、陀羅尼助の行商は大切な生活資金源だっただろう。
 また売薬稼業は、戦国大名の依頼を受けて各地をスパイして歩くための大切な小道具にもなった。吉野の山伏は、戦国期、根来寺の非合法活動専門の僧兵の手足でもあり、伊賀・甲賀の忍者の祖でもあった。それは、驚くほど残酷な殺戮者だった時代もあったのだ。

 道は、大仏鋳造に余った銅でつくられた発心門と呼ばれる神仏混交の鳥居と山門をくぐり、自然に蔵王堂に入ってゆく。発心門は、修験本宗の吉野から熊野へと向かう入峰修行を行う者の最初の行場になる。
 「吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき、おん、あびらうんけんそわか」
 と唱えて鳥居を回った行者は、次に「気抜けの塔」とよばれる小さな部屋に押しこめられて、外から突然鐘を鳴らされて気合いを入れられることになる。そうして、下界の日常的感覚から過酷な修行へと気持ちを切り替えさせられるのである。また、この塔には義経逃避行の伝説も残されている。
 吉野の町は、蔵王堂の門前町としてできあがったようだ。建物自体が国宝として知られる蔵王堂は、吉野の核心部の高台に巨大な木製伽欄を鎮座させている。石段を登ると修験本宗、金峯山寺蔵王堂の広い境内で、驚いたことに、たくさんのイスと巨大な放送設備が据え付けられ、なにやら人気ミュージシャンのコンサートの準備中であった。私は、この手のことに無知で、どのような理由で何が行われるか見当もつかない。
 蔵王堂は平安時代に創設され、数度の火災を経て江戸時代に修復されている。自然の大木をそのまま利用した柱が使われていて、独特の個性的迫力がある。堂内には護摩の煙が充満し、古刹の重厚な雰囲気に圧倒される。
 堂内の修験者は真言系らしく全て剃髪した僧形で、古来の山伏の面影はなく密教僧の雰囲気だ。天台系山伏の総髪のほうが山伏らしい。真言宗系の修験道を当山派と呼ぶのだが、明治の初めに当山派は強制的に真言宗か金峰神社に分離帰依させられ、天皇制国家神道による弾圧から解放されて修験本宗として再建されたのは、まだ1952年のことである。
 修験本宗は、長い空白のうちに明治以前の神仏習合の面影は薄れ、その間、強制的に帰属させられていた真言宗仏教の色合いが濃いものになってしまった。習合神道が天皇の権威に逆らう邪教として排斥された、戦前の天皇崇拝教育のおそるべき成果をここにもかいま見ることができるのである。
 今でも、毎年7月前半に、修験本宗の主催による奥駆け修行が一般者の参加を募って行われているという。蔵王堂は、その出発点となり、蔵王権現や役の行者像の前で、修験道独自の真言を唱えて峰入り前の護摩法要が営まれる。
 真言(マントラ)というのは密教による呪符で、例えば、「おん、あびらうんけん、ばさらだとばん」と唱えることで、自分と大日如来とを一体化させ、「なうまく、さまんだ、ぼだなん、ばく」と唱えれば、釈迦如来と一体化するという具合である。これらは、口に真言を唱え、手に印契を結び、心に仏を意念すること(三密加持)で大日如来と一体化し、即身成仏をめざすのである。
 
 吉野の街なみを大峰山脈の山地図を頼りに歩いたが、なかなかややこしい道であった。下千本、中千本、上千本と桜の名所が続く。春先には凄まじい雑踏になる場所だ。ここでは4月10日ころ、蔵王堂を中心に花供祭が行われる。蔵王権現に桜の花を供え、盛大な餅撒きが行われるという。修験道の花祭には、神道の古い農耕儀礼が体現されているという。全国の修験各派に、それぞれの花祭が残されている。
 上千本のあたりから大峰山脈が次第に形を整え、明確な尾根に変わってゆく。そこで、初老の男性と同じペースで歩くようになり、やがて言葉を交わした。話してみると、宗教歴史について恐ろしいほどの博識の方で、たちまち意気投合してしまった。立見さんといわれたその方は、どこかの大学教授ではないかと思った。
 吉野で見たいと思っていた水分(みくまり)神社は、吉野の水源尾根の中腹に構えていた。立見さんが権現造りといわれた社殿は、拝殿前の広場を取り囲むように建物が連なり、格調高いすばらしい雰囲気である。おそらく、日本の水分神社の草分け、あるいは総本山であろう。
 尾根に沿ってつけられた道路をとぼとぼと歩いてゆくと、金峰神社の道標にしたがって高城山という城址に登る。山頂に立派な休憩舎があり、そこから元の道に下る。無理して登った値打ちはなく、損をした気分になった。
 道なりに歩けば自然に金峯神社の境内に入る。ここは、古い修験道が天皇制時代に強制帰依させられていた本山である。祭神は金山彦で、これはすなわち大峰山脈に金鉱脈があったことの証である。
 ここまで予想外に時間を食ってしまい、「この先、よい幕営地はないですか」と社守のおばちゃんに尋ねると、
「この先は女人禁制だから、私は行ったことがない」
 と言う。改めて、修験の大峯に足を踏み入れたことを感じた。
 まずは水を求めて苔清水に向かう。苔清水は細い湧水だが、絶えたことがないという。整備された水場で大勢の中年観光客が騒いでいた。そのわずか上に平地があり、そこにツェルトを張ることにした。
 夜半、百人一首で知られる西行が創立したとされる西行庵の勤行の打木の音が気味悪かった。カメムシが臭くてかなわない。イノシシと思われる動物がうろつく音も聴こえ、あまりよく眠れなかった。冬も近いので山蛭など不快な虫が少ないのが利点だと思ったのだが、以外に生物が多い。重量節約のために、酒を携行しなかったのが辛い。

 日曜の朝、ゆっくりと7時に出発、青根ヵ峰を越えると再び林道になり、尾根をブルドーザが強引に踏みつぶしている最中だった。登山道を探すのが大変だ。どうやら黒滝村への道をつけているらしい。カクレ平からやっと普通の山道になる。
 五十丁、百丁の茶屋跡を過ぎ、快適なハイキングコースが続く。大天井ヶ岳のトラバースでは再び激しい重機の音が聞こえる。登山道のわずか50mほど下まで林道が迫り、なにか大きな工事をしている最中だ。
 バスの通行を可能にするための林道拡張工事だとすれば、修験行者のためのものであって、退廃ここに極まれりというべきか。だいいち、ここは聖域ではなかったのか。女はダメだが車はOKとでもいうのか。こんなものを許せば、次はロープウェイに決っている。
 わずかで女人結界、新しい立派な門がある。この時代にあって、女性の立ち入りを拒否し続けている、つまり憲法違反の慣習を公然と認めている国立公園は世界中探しても、大峰山だけだろう。確かに、残り少ない無形の歴史的伝統を守りたい気持ちは分かる。だが、女人結界が尊重すべき宗教的伝統だと考えるのは、私には早まっているように思える。
 私が後に大峰修験道を知る過程で、この宗教は、実は民衆救済を目的とするよりも、権力者にとっての軍事的役割の方がはるかに大きかった事実が分かってきたからである。驚くほど残酷な生命軽視の悪行が重ねられていた。私は歴史的事実を知る度に、山伏に対するイメージが、崇敬から恐怖に変わるのを抑えられなかった。
 歴史的には、権力奪取のための、調伏という名の呪殺をはじめ、謀略・毒殺・略奪・殺戮など、およそ人間の薄汚い裏面のすべてに山伏が関わってきたことを知った。少女誘拐、幼童強姦殺害など序の口であって、山伏は恐怖のアウトローの世界であったことを思い知らされた。そこには、決して正義や民衆救済宗教の美しさはない。戦国の乱破と呼ばれた殺戮破壊専門の忍者集団の祖となったのも山伏であった。
 薄汚く残酷な世界に女性を入れるわけにはいかない。女性は本来、そのようなアウトローには向いていない。大峰山が女性を拒否し続けた真の理由は、決して表に出せないその恐るべき歴史的真実にあったのではないか?

 洞辻茶屋まで行けば日曜だから営業しているかもしれないと思ったが、たどり着いてみると閑散とした木枯しが吹くばかり、休憩していると、驚いたことにアベックの二人連れが登ってきた。「凄い、偉い、立派」こうでなくっちゃ。
 男の方はガッチリした体格で、おそらく修験者とのトラブルを避けるためだろう、洞川の消防団のスタイルで決めている。もっとも、山上ヶ岳に登った女性は決して少なくない。例えば、女性登山家として著名な今井通子さんも、沢登りついでに登頂したと公言している。修験の方も昔のような厳しい戒律にこだわる人は希で、その気になれば誰だって登れるのである。
 ただし、峰入りシーズンは避けた方がよさそうだ。権威や伝統にこだわる程度の低い人物が多いからだ。林道を開通させ、車を通すことは可としても、女性だけはまかりならぬと本末転倒の愚かしい主張をする者も多いにちがいない。それでも、そのような伝統が山上ヶ岳を開発させない力になっているとすれば、それなりに有意義だとは思うが。

 登山道は茶屋をくぐり抜けてゆく。整備された板敷の道を登りつめると金懸岩で、そこから広大な山頂になる。両側には、峰入り修行の回数を誇る供養塔が立ち並ぶ。最高が50回程度のようだ。自慢は結構だけど、どれほどの霊力を得たことか。観光バスでやってきて、洞川から登って一回じゃ、役の行者が泣いてますぜ。
 途中、「西の覗き」と呼ばれる有名な行場がある。関西地方の男子は、一度はここに連れられてきて、300mの垂直の岩場に宙づりにされて親孝行を誓わされる伝統があったと司馬僚が書いている。
 「親孝行するか、一生懸命働くか」と問われ、肯づかねば落とすぞと脅されるのである。本心にもないことを無理矢理言わされるのでは、関西に親不孝者が増える理屈だなどと思ったりする。
 ここには捨身行と呼ばれる自殺行があった。かつて、この岩の下には無数の人骨が散乱していた。その昔、年老いて自由に動けなくなった山伏は、ほとんど捨身、すなわち投身自殺したようで、その神聖な人生最後の行場がこの岩であった。本山派の熊野修験者は、那智ノの滝上から飛びこんだと明治の文献にある。生きていることが、よほどの苦痛だった時代があったのだ。楽しければ死ぬものか。
 大峰山寺の宿坊群はさすがに凄い。まるで白馬の山小屋である。造りの良い分だけこちらの方が見栄えがある。これらは全部人力荷揚げだから大変な労力だっただろう。しかし人の姿は見えず、寂しい冷風に包まれていた。
 山上ヶ岳の山頂は大峰山寺の上にあり、広大な草原になっている。展望良好。さきほどのアベックに出会った。行き先を尋ねられて、熊野までと答えるとびっくりした表情になった。せこい優越感を味わう。快晴だが、やたらと冷える。休憩もそこそこに歩き出さずにいられない。

 30分程で、水場の小笹の宿に着いた。稜線直下だが水流があって、広い平地になっている。無数の石組の基礎が残っていて、ここにかつて非常に大きな宿坊群があったことを示している。文献には、当山派根拠地、小笹36坊とでている。赤塗の堂宇と小さな避難小屋があった。ありがたい。新しく快適な小屋であった。
 広場の中央には立派な護摩行場が設けられ、護摩の燃えかすが散乱している。大峰75箇所の行場には、すべて魔除の独鈷が立てられ護符が貼られている。独鈷は、もともとブーメランに似た武器であったというが、柄がつけられ山伏を象徴する杖となった。岳人のピッケルと同じで多目的であり、ときにシゴキ棒になったりするのも似ている。中国由来のこの武器の存在は、修験道が道教の直接の継承者であることの端的な証明の一つでもあると思う。
 この時期、縦走を企てる酔狂な人間はいない。静かな小屋の夜はふけて、ハンゴウで炊く飯は旨い。

 快適な一夜を過ごし、まだ暗い早朝、ツェルトを畳んで大普賢岳に向かう。小普賢岳の長い登りにうんざりするが、大峰山脈の核心部に到った充足感がある。ここで和佐又山からの道を併せるが、このルートから前鬼までは10年ほど前に縦走している。
 このルートには岩屋が多く、晦日(つごもり)山伏といわれた行者が越冬した場所である。以前歩いたときに、岩穴の奥に人骨片が散乱しているのを見た。越冬に堪えられず死んだ山伏も大勢いたのだろう。また、この地域は名だたる日本狼の棲息地でもあった。山伏は、飢えた狼のよき食糧になったかもしれない。
 岩屋で晦日修行を行った山伏は、春先に石楠の花を手に里に降り、里人はこれを山の神として畏敬して迎え、花を田に投げ入れることによって、それが田の神になって豊饒の収穫を守護したと柳翁や釈超翁が書いている。神は冬に山へ入って水源を護り、夏に田へ戻って稲を護るという原始農耕儀礼の原型となる伝承である。
 もっとも、和歌森太郎や宮家準などの民俗学者による、そんなキレイゴトの伝承は、ごく一部の表向きの話で、南方熊楠は恐るべき山伏の峰入り修行の実体について、いくつかの著書で触れている。
 例えば、この稜線には「稚児落とし」などという地名がいくつかある。この山域では、女人禁制の戒律があって女性を連れてこれないので、山伏の性欲処理のために買い取られたか、誘拐されてきた稚児と呼ばれる幼い子供達が、疲労で歩けなくなったり病に倒れたりしたときに、垂直の断崖で墜落死させられた事実を表している。これは謡曲「西行」などにも象徴的に語られている。
 今日でも、人間の本能が剥き出しになる裏の世界では、子供達への性的虐待が後を絶たない。私も裏ビデオを所持していて、そのような宣伝を腐るほど知っている。二重性のある権力社会では、公然と本音を語ることのできない社会的地位をもった人物が、好んでそうした幼児虐待ビデオを購入している。私も含めて、そうしたエゲツない反社会的性欲昂進情報に心を動かされる人間は多い。二重性の強い社会ほど、そうした二面性のある人間を多く生み出すのだ。それが歴史上もっとも端的に現れたのがナチズムであった。
 人が貧しいとき、手を取りあい、助けあって生きているときには、誰でも美しい道義性を磨こうとするが、皆が豊かになり、他人に見下されまいと背伸びをするようになると、人は愚かしい差別主義に走り、ソドムの道を歩むようになる。こうなれば破滅し、殺戮しあって、再び貧しくなる日を待つしかないのだろうか? 
 日本史を見ても(おそらく世界史も?)、室町期のような温暖で豊かな自然条件に恵まれた時代は残酷な争いが多く、江戸期のように寒冷化による過酷な自然条件の時代は、人々の心は暖かくなるのである。今日、繁栄の極地にいるわれわれの心は極寒といっていい。

 早朝7時前、標高1780m、大普賢岳のトンガリ山頂の眺望は、南の釈迦ヶ岳と好対照の北山脈中の圧巻であって、紀州を代表する360度の広大な山岳大展望である。果てしなく続く紀州大山塊に魅入られ、呆然としてしまう。
 歩いているうちに薄暗い地平線が明るくなり、明るく爽やかな朝がやってきた。そして突然、南の山なみが一箇所キラキラと、この世のものとも思えぬほど美しく輝きだした。一瞬、我が目を疑い、これこそ江戸期の山師によって記録された金鉱脈から密かに立ちのぼるという幻の御神灯かとも思ったが、やがて、熊野灘に朝日が照り映えていることに気づいた。それは、まるで光の饗宴というにふさわしく、神々しいまでの美しさであった。海と山との境の見分けがつかぬほど、紀州山塊は広い。
 ここから七曜岳を超えて行者還岳に到るまでが、大峰山脈の最大の難所であり核心であって、ギザギザの鋸の刃のような苦しい上下が続く。「稚児落とし」を渡り、クサリ場をいくつも越えて、梯子を上下し緊張を強いられるが、南アの鋸岳ほどではなく、整備されているのでそれほど危険ではない。
 困ったことに、途中の水場は長期の晴天続きのため全部干上がっていた。しかし、前回の縦走のときはササ薮漕ぎに苦しんだ縦走路も、今回は刈入れされて歩きやすくなっていた。

 弥山への登りは、美しく快適な樹林を行く。ここは行者還トンネルに車を置けば、わずか2時間ほどで登れてしまう。もう15年も前に洞川から狼平を経て登っていて、山頂は今回で3度目ということになる。山頂直下の急登が辛いが、ひさしぶりの亜高山帯の針葉樹林に心が落ちつく。道には、ところどころ雪や霜柱が残っていた。
 弥山小屋にも人影はなく、おまけに水場が干上がっていた。冬期用避難舎に入り付近を探すと、便所の手洗いドラム缶に厚い氷が張っていたので、それを溶かして使うことにした。ナタで氷を砕きハンゴウで溶かすのに、ひどく時間がかかった。
 山頂は、小屋の上の鳥居をくぐったところにあり、山麓の天河弁財天社の奥宮が置かれている。これは芸能人に人気のある社として知られる。弁財天は、大黒天とともに鎌倉時代から信仰されるようになった。サンスクリット原典では、河の神、知恵、音楽、財物の神とされ、8本の腕をもつ女の姿である。神道ではイチキジマ姫尊とされ、後に、大黒天とともに福徳の神になった。芸能人にぴったりの神様なのだ。
 我々の知るのは、宝船に乗った七福人の紅一点の姿であるが、本当はもう少し奥行きのあるものらしい。修験道では、「オン、ソラソバテイエイソワカ」というのが弁財天のマントラにあたる。サンスクリットにある弁財天の原型は、古代ギリシアに伝えられて美の女神ビーナスになったと考えられる。

 朝、水をウーロン茶の容器に詰めて出発した。ひどい水で、いちいち沸かして茶にしなければ飲む気になれない。そのお茶も、ハンゴウの蓋に湯を沸かし、安い茎茶を放りこんで茶葉をペッペッと吐きながら飲むのだから旨かろうはずがない。荷をコンパクトにするために、余分なものを一切持たなかったのだ。
 30分ほどで、弥山の兄弟峰で大峰山脈最高峰かつ関西圏最高峰の八経ヶ岳、1915mである。仏教ヶ岳や八剣山の名もあるが、小角が法華経八巻を奉納した故事から名付けられたのだから八経岳で正しい。
 大峰のヘソにふさわしい広潤な展望である。なつかしい既登の山々を指呼に見渡すことができる。紀州山地北部のピークは大部分終っている。およそ100山以上も登っただろうか。我ながら、よくぞ歩いてきたものだと思う。
オオヤマレンゲの自生地を経て七面山に向かう。この付近、大峰山脈中の白眉といえる風景で、最初の奥駆けのときは新緑で、その類希な広葉樹林帯の美しさに言葉もでないほど感動したものである。
 しかし、当時すでに右手の七面谷の伐採が始まっていた。今回も、そのときの伐採跡地の荒廃がそのまま放置されているのを見た。本当にやりきれない思いがする。官僚主義の害毒を見せつけられる思いである。人間が利己権益主義を原理として生活するかぎり、自身を滅ぼす以外の道はないことを思い知らされるのである。
 七面山に近付くと、主綾は典型的な二重山稜になり、船窪状の地形が続く。粗末な副食のせいでビタミン不足の症状が現れはじめた。歯茎の出血は明らかなCの不足、茶を食べて補うつもりだったのだが追いつかない。茎茶でなく粉茶を直接食べるのでなければならなかった。B不足の脚気症状も現れ、こちらは黒砂糖を食べて補った。
 七面山の南側には大峰きっての高度差400メートルの岩場がある。奥駆けのなかでも大切な行場だが、ここは魔の大岩壁とよばれている。ロッククライミング中の墜死者も少なくない。古いこんな言い伝えが残されている。
 「古田の森に黒霧かかれば、そのなかより魔いで来たりて人を連れ、七面のクラにゆくことあり」と。稜線を素直に歩くと、この大岩壁の真上にさまよい出る。無意識のうち、いつのまにか行ってしまう。山伏には、あまりの悪行故に成仏できないで彷徨する魂が多く、そうした幽冥界をさまよう悪霊が、志操の緩い者に取り憑き、死へと誘うのである。
 楊次の森から長い登りになる。ふりかえれば、七面山の魔の岩場がすばらしい。途中、激しい倒木帯にでくわした。前回の縦走の記憶にないから、これは昨年、三重県地方を集中的に襲ったいくつかの台風の仕業ではないかと思えた。ルートが判然とせず迷いやすいが、適当に尾根を外さずに歩いた。迷いこみやすい枝尾根が多いのでガスの日は危険であろう。おまけに途中で主綾が屈曲しているので、いかにも遭難しそうだ。これでは、よほど山慣れた者以外は危険だ。

 仏生ヶ岳から、長い散歩道を歩く。このあたり石灰岩カルスト露頭で、五百羅漢と名付けられている。いつものクセで、化石を探したが良いものは見あたらなかった。研磨しなければ発見が難しい。良い化石は、高級なビルの大理石を探すのがてっとりばやい。
 釈迦ヶ岳がだんだん近付いてくるが、なかなか届かない。鞍部には、良い岩遊びのゲレンデになりそうな巨岩がある。修験では、これを両部分けと呼び、吉野からここまでを金剛界曼陀羅といい、これから熊野神宮までを胎蔵界曼陀羅といっている。大峰修験道のデベソといっていい。
 岩を回りこむようにして、いよいよ釈迦ヶ岳の急登がはじまる。両手足を使ってよじ登り、喘ぎ喘ぎ30分ほどで山頂に達する。
 大峰南部の秘峰、釈迦ヶ岳は、実に5度目の登頂である。懐かしい釈迦如来像も健在。最初に登ったときは1800mの標高だったものが、いつのまにかわずかに低くなっている。だが、大峰きっての絶景は変わることがない。これほどの大展望は、紀州山地全体でも一位を譲らないであろう。
 大きなブロンズ製如来像は、大正年間に岡田牛松というボッカが上げたもので、分解しても一つが200キロ近くある。多年の落雷によってかなり傷んできているのが気になる。
 ここで奥駆け修行のハイライトである秘法護摩が行われる。ゾロアスター教の拝火信仰が伝えられた護摩(ホーマ)には、大きく分けて3種類あり、病気災厄を防ぐ息災護摩、福利現世利益のための増益護摩、敵を呪い滅ぼす調伏護摩であるが、中世、権力抗争に加わった山伏は、もっぱら調伏護摩を盛んに行った。
 大名の世継ぎ争いでは、山伏による調伏の記録がたくさんでてくる。庶民の間に、丑の刻参りが流行ったのもこの影響であって、有名なブードー教の呪殺と同じ性質のものであった。
今では、もちろん息災護摩が中心であって、大阪商人の多い大峰修験者には、もっぱら増益護摩が多くなるのも当然であろう。釈迦ヶ岳では、柴灯護摩の勤行が行われ、これは先祖供養の意味をもっているとされる。しかし、これらは密教のもので、本来の習合神道の伝統行は消えてしまったが、昔の行の内容を知りたいものだ。

 釈迦ヶ岳を熊野に向かってまっすぐ下ると、誤って十津川村登山口に下りやすいが、笹に隠された道を見失わないように本道を左手に折れて下ってゆけば深仙(じんぜん)の宿に着く。ここに古い堂宇が建てられている。
 これが本山派の伝法潅頂の行場であって、ここまで約1週間にわたって苦しい修行を続けてきた山伏に、洗礼の意味もった資格付与が行われた。
 潅頂(かんじょう)とは、十種の行を修めた者に戒律を与える儀式で、行者は大先達に護摩木を渡し、大先達は行者の頭に香水を振りかけるのだが、キリスト教の洗礼と変わるところがない理由は、密教を体系化した不空三蔵が、当時、唐に伝わっていた最新の宗教であった恵教(キリスト教)をモデルにしたのだろうと考える。ただし我説である。
 深仙堂の脇をトラバースして戻ると、香精水という水場があって、これが潅頂香水にされる。これをあてにしていたのだが枯れてしまっていた。半月以上の晴天続きのため、ここまでの水場は全滅であった。残り水はコップ一杯程度。先が長いのに困ってしまった。
 ほどほどに休憩して出発すると、すぐに大日岳がある。左手の踏跡をたどればスラブ状の岩場があって、鎖を登りつめて頂上に達する。もちろん、行場である。
わずかで太古の辻に着く。ここが、大峰と熊野を分ける境になり、奥駆けも、ここから前鬼に下るのが普通である。
 予定では、もちろん熊野に向かうつもりだったが、水が不足しているので考えこんでしまった。次の水場である持経の宿までは4時間以上かかるが、コップ1杯の水しか残っていない。それに、水場が枯れていない保証もない。結局、前鬼に下ることにした。ここまでのコースは何度も歩いていて、ここからの熊野コースこそ目的にして歩いてきたのだが、残念無念で未練が残ってしかたなかった。
左手の急な道を下りはじめた。途中、鉄砲の音が聞こえ、鹿の鳴き声が続いた。二つ岩という奇岩が現れれば半ばである。何度も通った道なのに、ずいぶん遠く感じる。途中の沢は、すべて枯れていた。この標高差と距離では、もう再登する意欲も湧かないだろう。

 杉林が現れ、五鬼童、五鬼熊、五鬼継などの住居跡の表示がされていた。前回にはこのようなものはなかった。そして、懐かしい五鬼助家の建物が見えた。ひさしぶりの前鬼。誰かいるだろうか。
 だが、なんと、あてにしていた小仲坊がないではないか。そこには、建物の新しい基礎だけがあった。驚いたことに、車道のなかったはずの前鬼に、そこまでコンクリート舗装の狭い林道がつけられていた。なんということだ、前鬼も変わってしまうのか。前鬼を取り巻く見事な原生林も、王子製紙の手によって無惨に伐採されていた。
 この山々は、日本狼の最後の棲息地であった。10年前に会った神戸市の斐太猪之助さんは、前鬼に泊りこんで最後の狼家族を観察していた。その斐太さんも亡くなられた。
 なによりも、私が前鬼を何度も訪れるきっかけになった最後の鬼の子孫、小仲坊の主であった五鬼助五郎義价さんが文字通の鬼籍に入られて、すでに5年も経てしまった。
 前鬼は、役の行者が大峰を拓いたとき、従者として小角を世話した前鬼と後鬼が棲みついて修験者の世話をするようになったという伝承をもつ。開闢以来、実に1200年の伝統があった。
 五郎さんは、その最後の末裔であり、親切な人間性は、誰からも愛されていた。
 私がはじめて前鬼を訪れた十数年前、五郎さんは離れの小仲坊でなく、自宅に泊めてくれた。その夜は、数名の登山者とともに酒宴になった。五郎さんは、ひどく酔ってしまった。その前夜、一千年以上護り通してきた前鬼の守護神であった役の行者像が盗まれていたのである。
 私が持参のブランデをーすすめると、彼は戸棚を開けてみせた。すると、そこには世界中の銘酒がこれでもかと並んでいた。五郎さんは、西洋人の血を引くかと思えるほど端正な容姿で、熊野のユダヤ伝説をほうふつとさせるほどだったが、五十歳を過ぎてなお独身であった。こんな辺鄙な場所に来る嫁などいなかった。
 彼がどれほどの寂寥に堪えてきたか、自分も同じような境遇になってみて身に染みる。暴飲暴食するようになり、やがて体を壊して入院するようになった。優れた修験道学者であった父親の研究を引き継いでおられたが、世に出ることもなかった。
 その後も、幾度か前鬼を訪れたが、五郎さんに再会することはできなかった。何度目か小仲坊を訪れたとき、親戚の若者から五郎さんの訃報を聞いた。死因は糖尿病による内臓不全であった。享年54歳、祈念冥福。

 小仲坊は改築されるようだ。天気が悪くなっていたので、雨を凌げる軒下を探したが見あたらず、やむをえず広場にツェルトを張った。ハンゴウで飯を炊いていると、さきほど鉄砲を撃っていた猟師が降りてきた。
 話しているうちに、五郎さんのありし日のことが話題になった。その人は、子供の頃からの友人で、頻繁に五郎さんを訪れていた。五鬼助家は京都に親戚があって、その人が小仲坊の経営を引き継いでいるという。
それから、猟の話になった。「いや、今そこで熊に吠えられてな」と、こともなげにいう。鹿を追っていて熊に気づかず、危ういところだったという。前鬼の付近は熊が多くて、何度も出会っているという。
 狼も、1950年代まで普通にいたといわれた。撃って、大学に毛皮を持ち込んだこともあったが、頭骨がないという理由で正体不明という結論になったそうである。「学者なんて、そんなもんさ」といわれた。日本狼の滅亡の公式年代は明治42年なのである。

 「気をつけて」といって去った後、ひとり取り残されて薄気味悪くなった。ツェルトのなかでシュラフに潜りこんでも、小さな音にもおびえた。
夜半、ときどき鹿の鳴き声が大きく響き、近くで枯葉を分けるガサガサという重い音がした。「熊かもしれない」と思い大声をあげると、足音はゆっくりと遠ざかっていった。やはり熊だったようだ。キャンプ場には、残飯を狙ってよく現れる。
雨がフライシートを叩くようになり、それでも、いつのまにかウトウトとしてしまった。さすがに、疲れがでたのだ。翌朝、ひどく寒く、すぐれない天気であった。もはや熊野に登り返す気力も消滅し、支度をしてバス停に向かった。荷は10キロ近く軽くなって楽になった。
 五鬼助家の先で、前鬼の裏行場二十八宿への道を分ける。ここは三重の滝に出るルートだが非常に危険だという。山伏にも多くの死傷者が出ている。旧道を戻り、林道に出る。そこからバス停まで3時間。トンネルの手前で、左手の不動七重の滝がすばらしい。知られていないだけで、日光華厳の滝や、尾瀬三条の滝にも匹敵する見事さである。7段で、総落差およそ200m
 林道をとことこと歩いてゆくと、前鬼口に近いオワシ谷という場所で、右手の薮のなかから、突然ものすごいうなり声がおこってドギモを抜かれた。見ると、数十メートル離れた藪の奥に、人の大きさほどの熊らしき影が立ち上がってこちらを見ていた。すぐに熊だとピーンときたが、初めてではなかったのであわてなかった。8月に、浅草岳に登ったときも、六十里越峠で同じように吠えられたばかりである。
 大急ぎでそこを駆け抜け、少し歩いて振り返ると、林のなかに黒いものが蠢き、再びすさまじい吠え声があたり一帯に響きわたった。今度は、少々あわてて走って逃げた。今にも追いかけてくるように思えたからである。何十頭の大型犬が一度に吠えたような迫力であった。
 バス停に着くと、すぐにバスが来た。間に合ってよかった。新宮まで1日4本しかないのだ。バスは、以前は大型だったが、今度はマイクロに変わっていた。ローカル交通は採算割れの一途だからやむをえない。
 乗客は私独り、貸切りとは豪勢だ。バスの運転手さんに熊のことを言うと驚いていた。今年は、ピナツボ噴火の影響で、長雨のため実生も不作になり、熊が里に出るケースが多いようである。紅葉の悪い年は、熊が多く捕れるというのは間違いない。
 熊野駅に近づくにつれ、客も増えてきた。沿道の山々は、秋の台風のためひどい風害を被っているのが見えた。バスのなかで、酔ってそのことをわめいている男がいた。熊野灘がひどく美しく見えた。

 このとき歩き残した熊野奥駆けは、翌年春、玉置山から笠捨山まで歩いたが、林道が尾根筋を交錯し、原生林はほとんど皆伐され、あまり気分の良いものではなかった。


修験道  92年2月著
(98年末、現在、読み返すと内容に誤りが多いが無理に訂正しない。この頃はこの程度の認識だった。また、交通事故によるノイローゼがひどくて精神分裂症気味でもあったので、総合力が劣っていた。今では、私は霊界の実在を信じるというより、思い知るようになり、修験道について、宗教一般について、かなり違った認識をもっているが無宗教者であることには変わりない。)

 日本の高峻山岳に初登の栄誉を求めて登った岳人や測量者たちは、人跡未踏と思われていた日本屈指の険しい山々、例えば北アルプスの剣岳などでさえ、苦難の登頂に成功して喜んだのもつかのま、山頂にまさかと思われる修験道の遺物を発見して愕然とした。
私自身、20年このかた日本全国の数百の山を歩いた経験からいっても、どの地域の山へ行っても、山岳信仰やその痕跡を見いださない場所はないといっていい。このことは、おおかたの山歩き愛好家が同意されるであろう。
 日本ほど豊かな食糧をもたらしてくれる山野に恵まれた地域は地球上に決して多くないのだから、山岳地帯に人間生活に伴った歴史的遺物が多く残されていても全然不思議でないのだが、それにしても隅から隅まで、よくもこれほどの宗教遺産が存在するものだと感心できるほど多く、かつ古い伝統をもっているのは、山岳信仰こそ日本文化の特異な本質に関わるものといえるかもしれない。
 そのような意味で、山岳信仰については民俗・考古学者の関心を集め、これまでにも優れた研究書が多く出版されているが、一般受けする面白さには欠けるので、山旅を好む人々に読まれることも少なかった。
 だが、山旅愛好家が、単に歩くことに満足するのでなく、人と山との歴史的な交歓の視点に気づくようになると、自然の野山にすぎなかった光景の背後に、山岳信仰の巨大な歴史的骨格がおぼろげに見えてくるのである。
 それは、まるで、路端のつまらぬ石コロがダイヤモンドの大きな原石であることを知ったときのように感動的である。そこには、麓の里人にさえ知られぬ謎に包まれた特異な宗教的風景があった。
 また、それは日本国家の成立にも関与した考古学上のミステリーも含んでいる。山岳信仰こそは、柳田国男が最後までこだわった縄文式文化の継承者としての日本先住民(山人)の謎に迫るものであるともいえるかもしれない。


 先史、古代史から

 おそらくは数十万年も前からインドネシア・ジャワ島付近にあったはずの巨大島に棲息したと思われる人類の祖先(ホモエレクトス・ピテカントロプス)の子孫の一群は、ユーラシア大陸東部を北上してモンゴロイドとなった。
 また別の一群は、黒潮海流に流され、あるいは航行して北上し、台湾・南西諸島や日本列島東岸沿いに棲みつき定着した。ここで、リス・ウルムの氷期に接続した大陸から渡来した人々と混血を重ね、今日、縄文人と呼ばれる日本先住民になったと考えられる。

 海洋系ともいえる縄文先住民の外見上の特徴は、乳児の蒙古斑が少なく、ねばっこい耳垢をもち、体毛が濃く、四角い顔に大きな目と二重瞼をそなえ、その彫りは深く、額と鼻の間の明確にくぼんだ特徴をもった人々。 性格は、あまり我慢を好まず即物的であるが、ツングース地方で寒冷地適応を受けた騎馬民族系モンゴロイドに比較すると、対照的にひどく気が小さく、優しい。
だが、一方で古い時代から食人習慣をもっていたのは、一種の離脱精神に陥りやすい、つまり暗示にかかりやすい特徴があったからのように思える。 台湾山岳部や南西諸島、隠岐島などの離島、あるいは中部・東北の日本海側の山村に、いまだこの形質を色濃く残した人々が大勢いる。アイヌ民族もまたそうであるが、むしろ、これらの人々は、アイヌと総称しても誤っていないほど、言語・地名・民俗など古代アイヌ文化に包摂されていた。

 彼らのうち、さらに北上したものはアイヌ族として北海道・千島・樺太に定住し、また、その一部はベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に流入し、今度は南下して南アメリカにまで進んだ。今日、インディアンと呼ばれる南北アメリカ大陸先住民がそうである。
 アルゼンチンやチリには多くの縄文遺跡が発掘されていて、これがベーリング経由か、太平洋経由なのかについては議論が分かれている。 原住民の形質は、本来、縄文型日本人とほとんど変わるところがない。 だが、現在のようにラテン形質が普通になってしまったのは、近世のスペイン人による暴虐な侵略によるものであって、コーカソイドの形質が移入されから、まだ400年ほどしかたっていない。

縄文人は、海岸から深く野山に分け入り、日本列島中北部の落葉樹林帯のなかで小規模な集団で採集遊猟の生活を営んでいたと考えられ、石器の材料や食料を求めて、非常な奥地にまで生活圏をひろげていたことが知られている。(たとえば、八ツ岳周辺は、縄文石器文化の一大中心地であった)
 彼らが深い山奥で、天を突く高峰に神秘的な神格を見いだしたであろうことは想像に難くない。しかし、言語記録のない時代ゆえに、当時の山岳信仰を正確に調査するのは困難である。今日知られる縄文信仰遺跡は、各地で発掘される土偶や骨角器・石板などの呪具、信州周辺で見つかる配石遺跡などがあげられるが、その具体的な意味はよくわかっていない。

 紀元前五世紀から紀元三世紀にかけて、米作農耕生活を基本とし、高度な漢字記録文化を身につけた大陸モンゴロイドの弥生人や騎馬民族が、黄海や朝鮮半島からやってきて日本列島南西部(九州・山陰・瀬戸内海沿岸・畿内)の常緑広葉樹林帯の湿原平野に流入し定着すると、彼らは稲作文化にともなう土俗信仰をもちこんだ。

弥生人とは、3000年ほど前に、雲南・チベット・ブータンの山岳高地に居住していた人々が、楊子江下流の呉越地方に勢力圏を広げ、その後、2500年前の呉越戦争などで日本に避難した人々の末裔ではないかと私は考える。
彼らの最も基本的な特徴は、モチ米系の稲作を主作物とし、アクの強いドングリをもつ照葉樹林帯に依存して生活した人々であって、背負い型ではなくテンビン型の運搬をし、イロリではなくカマド型の炊飯をし、極めておおらかな性生活(例えば夜這い習慣のような)をエンジョイし、歌垣を楽しみ、法や道徳に縛られない自由な生活風俗をもっていたと考えられる。
人相は、タイのミャオ族に見られるように、大きなぱっちりとした目、厚い唇、丸い顔、鼻梁上部は凹み、鼻のアグラは大きい。全体に小柄で、性格は天真爛漫で心も広いが放縦である。 西日本から太平洋岸で一般的な顔立ちであろう。
今日、四国山岳地帯や愛知・静岡県山岳部に特異的に見られる山岳高地の尾根に設けられた家屋に居住する木地屋やサンカの子孫は、民俗上の共通点から雲南系の高地族の直接の子孫であるような気もしている。雲南の食習慣である、味噌・納豆・モヤシ・コンニャク・餅米・木地椀・轆轤などが直接継承されていることがそれを端的に証明しているし、人相・性格も実に似ているからである。

それに対して、3世紀から8世紀、古墳時代を築いた朝鮮半島系の渡来者である騎馬民族の子孫は、その圧倒的な教養と武力で、たちまちのうちに日本列島の支配階級に君臨し、武家階級となった。
彼らは、フヨ(扶余)呼ばれ、始皇帝の秦の子孫を自称した、満州(文殊)地方の騎馬民族と同一の流れの人々と思われ、典型的な寒冷地適応の北方モンゴロイドの特徴を備え、乳児に明確な蒙古斑があり、体毛は薄く、のっぺりした寒気に強い顔立ちで、眉と鼻の間が狼のようになめらかで、ややつりあがった切れ長の目と一重瞼の人が多い。
また、長州地方に典型的に見るように、長頭形の頭蓋骨をもつ人も多い。耳垢は乾燥型であって、性格は極めて我慢強く理性的で、戦争を得意とし、支配階級に向いている。ひとことでいうなら、朝鮮人の形質である。
今日、その最も典型的な人相風貌を保存している古家が天皇家である。
ツングース系モンゴロイドは、朝鮮半島以外にも、沿海州から津軽地方と交流があったことが知られていて、東北地方の人種形質に関与していると思われるが、大和朝廷との関係については明かでない。

 日本には、朝鮮の戦乱によって、8世紀頃まで渡来人の大規模な流入が相次いだ。百済などは、新羅に攻められて事実上国ごと日本に移住し、言語文化能力に優れた人々が多かったので渡来地でも敬われ、大和朝廷権力に加わった者も多かったと思われる。
それどころか、実は、日本という国家、つまり大和朝廷は、唐の国書(旧唐書)に、朝鮮半島に存在していると記録されている。日本は、国ごと朝鮮から移住したとさえ考えられるのである。
このことは、弥生人国家であった日本列島の「倭」を、騎馬民族の大和朝廷、つまり南朝鮮にあった「日本」が乗っ取ったようにも思われる。
 騎馬民族が日本列島に洪水のように数次にわたって流入した理由は謎だが、当時、中央アジアから朝鮮半島にかけて猛威をふるった同じく騎馬軍団・匈奴の圧力に押し出されたと考えるのが妥当であろう。

修験道をかたちづくる土台の、民族的考察はこのようなものであり、すなわち、修験道が、どのような渡来人によって日本列島にもちこまれかを理解することができよう。少なくとも、これは縄文先住民のものではなかった。

 渡来系民族の信仰のうちで、もっとも大切なものは、稲作の成否にかかわる水にまつわる信仰であった。それは水分(みくまり)信仰と呼ばれるもので、水源地帯の山の神々に豊穣の願いと礼を捧げるものである。
 これが、農耕社会における山岳信仰の原初的形態であっただろう。この信仰が神道の原型になったと思われ、西日本や畿内には水分神社が多く残っている。。
 しかし、弥生文化には、縄文文化には見られぬ一定の様式を備えた宗教儀礼が成立していたと考えられる。例えば祭器を見ても、銅鐸・青銅鏡・剣・矛など精密多様であって、呪術などが著しく発達していた様子は、中国の史書などからも窺うことができる。
 また、かなり早い時期から、大がかりな古墳造営や呪術が知られていたことは、彼らのうちに、すでに自然発生的土俗宗教を超える宗教イデオロギーが成立していたことを示している。
 騎馬民族が朝鮮半島から移住した当時、すでに中国・朝鮮は周・秦・漢・三国・唐などの封建的王朝支配が確立していて、唐代に道教として体系化される土俗信仰も、それらの王朝の庇護を受けて一定の様式で確立していたにちがいない。
 それらの文化の影響下にあった移住者たちは、日本海を渡る海運能力も含めて、分業社会組織による国家主義観念をもち、漢字による言語文化、祭礼宗教文化などを成立させていたであろう。それは、最初から儒教・道教のイデオロギーに影響された高度に組織的、観念的なものであったと考えられよう。

 日本先住民の縄文人は、その当時、国家主義観念を成立させるほど成熟しておらず、原始共産主義に近い母系氏族社会を形成していたと考えられ、つまり、共同幻想としての自分達の帰属する国という観念はなく、あえて帰属を意識するとすれば、自分達の集落単位のグループ程度ではなかったか。
したがって、彼らの世界観は、アイヌ民族がそうであるように、断じて私物化されざる母なる大地と、「ウタリ」すなわち仲間達がすべてであって、権力を必要とせず、したがって共同幻想たる絶対神も必要としなかったのである。
ゆえに、生産・戦闘などの民族的能力で、農耕によって集団力を鍛えあげられた弥生人には及びもつかず、最初に弥生人、後には騎馬民族の侵略にあっけなく山奥に追い散らされていったにちがいない。

 その一部は農耕文化を受け入れ、弥生人(倭族)の国家社会に帰属していったであろうが、弥生人権力社会に隷属するのを潔ぎよしとしない誇り高き部族は、主に中部・東北の山岳地帯に拠点を構え、蝦夷(えみし)と呼ばれ、弥生人の国家に強力に対抗した。
絶対神すぐれて絶対権力をもちこんだ渡来人と、私物観念のない、したがって権力を必要としない縄文人は、決して相いれぬものだったのである。
 彼らが国家権力に屈服するのは、騎馬民族、大和朝廷国家が幾多の内紛を経て強力に成立し、鎌倉幕府の武家戦闘集団の出現まで待たねばならない。さらには、元の侵略によって極度に強靭化された武装権力の出現によって、鎮圧されたのであるが、蝦夷のうちのアイヌ族は、北海道に逃れ、江戸時代初期まで独立した強力な氏族社会をつくっていた。

 弥生人部族国家は、騎馬民族の流入とともに彼らの支配下に入り、そのうちの最強の王が朝廷の大君という地位を確立し、9世紀には天皇を名乗るようになり、日本(南西部)の支配権力として揺るぎのない地位を確立し、大和朝廷として独立国家権力を成立させることになる。以降、彼らは、今日まで一貫して日本の支配階級として君臨するのである。
 彼らは、中国王朝との国交樹立に際し、属国ではない独自性を主張するために、性急に史書(古事記・日本書紀)を編纂し、史書の内容に合わせて記録を改ざん破棄した。(神皇正統記に記述されている)また、朝鮮からもちこんだ道教的土俗信仰を記紀にミックスさせて独自の宗教を成立させ、これが神道と呼ばれるようになる。


 道教

 騎馬民族の権力信仰の象徴とでもいうべきものは、古墳であった。古墳は、強大な国家権力の成立にともなって、道教の山岳信仰がもちこまれたものと思われ、朝鮮・中国の倭族の影響下にあった地域にも多く残されている。
 その意味は、道教が山岳修行によって不老不死の永遠の生命と超能力を獲得すること、つまり普通の人間の超人化を目的とするものであったことから、死んだ権力者を古墳という人工山岳に移して葬ることにより、甦りを期待するものであっただろう。
 あるいは、断片的に中国に伝えられていた仏教の転生輪廻の思想もミックスされていたかもしれない。いずれにせよ、古墳に葬られた王は、再び王として甦ることができると考えられたにちがいない。
 このような、権力者の遺骸を巨大構造物に保存して再生を願うという信仰は、エジプト・ピラミッド文明やメソポタミア文明、インカやアステカなどの古代文明にも一様に見られる。
 中国における道教の再生思想も、死者に赤い衣を着せ(赤は甦りを意味した)、防腐剤として朱砂(水銀)で覆い巨大墳墓に葬った。ただし、広大な平野を舞台とした王朝に、山岳墳墓の発想はない。
 日本で、還暦を迎えた老人に、赤いチャンチャンコを着せて祝う風習は道教のものだし、還暦そのものも、道教の形而上学である陰陽五行説によるものである。また、埴輪・絵馬・人形(テルテルボウズなど)・鬼・龍・化物などの形而的信仰も道教によってもたらされた。
 さらに、神道伝承の舞台が高千穂のように山岳地帯であるのも、道教の発想といえよう。神道自体、道教を原型としていることが明らかだが、道教文化のなごりは、日本の民衆生活のいたるところに広がっているのである。

 道教は権力史にも大きな影響を残している。例えば「天皇」という呼称は、8世紀末の中国派遣使節によって、道教の神である「天皇大帝」が持ちこまれたものであり、それは、天界の星座のうちで唯一不動の中心である北極星を意味するものであった。
 それまで、天皇は「大君」と呼ばれていた。また、三種の神器も、道教の護璽器であった鏡と剣に玉を加えたものである。
 道教は、中国使節によって何度も日本に持ちこまれたと思われるが、体系として日本には定着しなかった。
 それは、おそらく同時期に仏教(密教)がはるかに魅力的な体系として輸入されていたことに加えて、中国支配階級のイデオロギーであった道教を日本で普及させれば、最高位の神が中国に存在し、したがって日本の最高支配者も中国の皇帝であることにされてしまうのを恐れ、抑圧したのではないかと思われる。

 道教の本質を端的にいえば、普通の人間が山岳地帯で修行することによって超人的な仙人になり、不老不死の生命を得て、呪術によって人々を救うというものである。
 これが他の大宗教と異なるのは、神になるのは普通の人間であって、キリスト教のゴッドのような絶対的存在が想定されていないという点である。(最高神に近いものも想定されてはいるが、極めて多様で不安定である。)
 これには、明らかに当時中国に伝えられ、独自の進化を遂げた小乗仏教(密教)の影響が含まれているように思える。釈迦の唱えたような大乗仏教の哲学規範による民衆全体の救済志向(顕教)とは異なり、修行者の超人化に主点をおく密教の思想が道士・道術の発想に色濃く現れている。紀元前後の中国思想形成期には、密・儒・道が相互に不可分の影響を与えあったと見るべきであろう。
 道教の呪術(道術)にともなう護摩行も、密教と同様、オリエント文明のゾロアスター教(拝火教)の護摩焚きがシルクロードによって伝えられたものであると考えられる。
 つまり、道教や密教もまた、シルクロードの交易のなかで、多様な思想が混ざりあったるつぼのうちに結晶したものであるといえよう。

 道教は、中国に古くから伝承された自然発生的な土俗宗教である易経・陰陽道・五斗米道・太平道などが、3世紀頃に「道蔵」として体系化され、当時の中国支配階級の庇護を得て体系的宗教として成立した。
 老子は、孔子らの儒学への批判のうえに道学を構築したともいわれるが、その形而上学は、儒教と同じく弁証法的な事物現象の陰陽二元論と、当時発見されていた五つの惑星の運行に帰納する「陰陽五行説」であった。
 その不老不死願望は、漢方医療の源流となり東洋医学の基礎をかたちづくった。始皇帝に派遣された徐福や華陀の伝説にもそれを知ることができる。


  ゾロアスター教

 道教や、同時期に中国で体系化された密教に見られる拝火思想は、オリエント文明の古代ペルシャ(イラン)に、紀元前5世紀頃に成立したゾロアスター教の影響を濃厚に受けている。
 ゾロアスター(ザラスシュトラ)の説いた宗旨は、世界には善なる光の神アフラ・マヅダと、暗黒の悪の神アーリマンが存在し、絶えず争いを繰り返しているとする単純明快な二元神論である。光の神を信じ善行を重ねれば天国に導かれ、暗黒のうちに悪行を行えば地獄に落とされるという。
 したがって、ゾロアスターの宗徒は闇を恐怖し、光を求めて絶えず火を焚くことになる。つまり、拝火教といえる。あるいは、ゾロアスター宗徒の焚火による森林破壊が、メソポタミア地方の砂漠化に関与していたかもしれない。

 人類最古のメソポタミア文明が成立した頃、西域には非常な数の猛獣が徘徊していた。当時、欧州やインドまでもライオンやハイエナの王国だったようだ。それどころか、史上最凶暴の猛獣であった剣歯虎さえも、最後の生き残りの遺骸がこの時代の地層から発見されている。
 それらが闇に出没して人々を襲い続けたにちがいなく、民衆は防衛のために火を焚き続けなければならなかったであろう。その習慣が、やがて拝火思想となっていったと思われる。
 これがシルクロードによって中国に伝えられると、道教・密教の護摩焚行になり、さらに日本の修験道にも取り入れられるのである。

 アフラ・マズダを崇拝する儀式には、牛を犠牲として捧げ、ハオマ酒を供える。ハオマ酒には麻薬成分が含まれている。それはデューラ・ウシャと呼ばれ、その意味は「遠くを見させるもの」、つまり幻覚陶酔作用を示しているとされる。
 ゾロアスターの宗派に「アサシン」という教団がある。これは暗殺を専門にする教団で、ハオマ酒に耽溺した者を刺客にしたてた。つまり、麻薬の力によって暗殺者をつくったのである。
 この教団の名が、暗殺(アサシネーション)の語源となった。また、不思議な術を用いるアサシンの司祭をマギと呼び、マジックの語源となった。
 アサシン教団は、現在でもイランに存在しているといわれる。先頃、ホメイニによって暗殺宣告された作者による「悪魔の詩」の翻訳者であった筑波大学助教授が、アサシンの伝統的な暗殺手法である「ナイフによる頚動脈切断」にのっとって首を切られて殺されたが、これには明らかにアサシンの影が見え隠れして不気味である。日本には、大勢のイラン人が流れこんできている。

 松本清張は、現代に生き残るゾロアスター宗徒の儀式に立ち会い、司祭のつくったハオマ酒を飲んだ。それにはアルコール分は含まれず、赤っぽい茎をつぶした汁が主剤だったという。原料を問うと、司祭は「フーム」と答えたが、それがなんであるのかは教えなかった。
 ハオマ酒の原料については諸説あり、ザクロの根とする説が一般的だが、耽溺性の説明にはなりにくい。耽溺性麻薬の原料は当然ケシであり、ついでコカがあるが、コカは南米原産で、この時代イランにあったとは考えにくい。もうひとつ、漢方の葛根湯に処方されるマオウがある。この主成分はエフェドリンだが、これを覚醒剤メタンフェタミンに変えるのは容易である。
 ザクロは中近東原産で、その根は漢方で石榴皮と呼ぶ生薬である。主に寄生虫の駆除に使用するが、古代では極めて重要な薬だっただろう。ただし、毒性の副作用があるという。あるいは、幻覚作用も含むのかもしれない。

 古代ガンジス文明の、アーリアン教の聖典「ヴェーダ」に登場するソーマ酒も、ハオマ酒と同じものだとする説がある。ソーマ酒の原料についても諸説あるが、ベニテングタケ(幻覚成分ムスカリンを含む)、あるいはインド大麻とするのが有力だが、おそらくはケシを含む複合的な幻覚麻薬剤ではなかっただろうか。
 これらがシルクロードによって東方に伝えられ、道教・密教・修験道の護摩行のうちに陶酔性薬物が使用されるようになった。シャーマニズムには、薬物による陶酔が不可欠なのかもしれない。


 神道

 5世紀頃、仏教が日本に渡来すると、すでに一定の様式が成立していたいた道教的な稲作信仰儀礼と融合しながら修験道の原型となった山岳宗教が発生する。
 持ちこまれた仏教は、釈迦の哲学の普及による民衆救済をめざした大乗仏教(顕教)の法華経典だったと思われるが、実際の解釈は、すでに中国において主流を占めていた自己修行に重きをおく小乗仏教(密教)であっただろう。

 日本では、鎌倉時代に顕教が大衆化されるまで、仏教といえば密教であり、空海がその体系を輸入するまでは雑部密教と呼ばれ、呪術による現生利益を求めるという点で、本質的に道教と変わることのない土俗的なものであった。
 密教の特徴は、曼陀羅に見られるように非常に多数の仏が存在し、自分に縁をもった仏の元に修行して即身成仏するというものだが、本来、釈迦の説いた教義には四天王など多数の仏は存在せず、また伽藍儀式や偶像仏崇拝とも無縁であった。
 四天王や阿弥陀などは、もともと中央アジアの土俗信仰であり、それが中国の事大主義によって仏教を修飾し、道教の土俗的な神々とも結びついて権威主義的な密教の体系に変わっていったのである。

 輸入された仏教は朝廷権力と結びつき、百済人であった蘇我氏や聖徳太子の一族の強力な支援を受けて事実上国教となり、飛鳥・天平文化のうちに大きな華を咲かせるが、古墳時代後期から朝鮮渡来人によって形成されていた大和朝廷は、仏教などの中国文化の輸入にともなって、中国王朝、とりわけ強大な中央集権国家主義を確立した唐の領土拡大主義の圧迫に苦しまねばならなかった。
 
 中国王朝は唯一最高の支配権力であることを欲し、朝鮮などの近隣諸国を属国と見なしていた。したがって渡来人による大和王朝も中国の属国ということになり、それが侵略の口実にされる恐れがあった。だから大和朝廷は、中国との国交を開くなかで、中国に対して独自の歴史をもった由緒ある独立国であることを示さねばならなかったのではないか。
 7世紀から8世紀にかけて、朝廷はあわてて独自の歴史を示す史書(古事記・日本書紀)の編纂を強引に行い、遣唐使によって中国に送った。都合の悪い、天皇家の朝鮮渡来の事実関係を隠ぺいする作業も行った。
 さらに、中国の侵略に備えて国力を充実させ、それを示威するために、日本中北部の蝦夷(えみし)も平定し、領民として税を収奪する必要に迫られた。

 宗教についても、大和朝廷の正当性を主張するために、当時独自の発展を遂げつつあった密教に古事記などの史書との整合性を求め、弥生時代から伝えられてきた土俗的信仰を基盤として、中国文化から独立した権威ある新教をつくりだす必要があった。
 9世紀、天台宗は山王一実神道をつくりだし、真言宗は両部神道をつくりだした。神道における神々は、大日如来以下の諸仏が姿を変えて(権現として)現れたものにされた。これを本地垂邇説といい、仏教系神道の本質をなしている。
 ここに、道教の濃厚な影響下で稲作農耕にまつわる水分(みくまり)などの土俗的農耕儀礼を発展させた信仰に、はじめて「神道」という名が与えられることになった。
 ゆえに、神道の原点は稲作祭礼であるが、宗教となったはじまりは、神仏を同じとした権現信仰であった。神道は仏教によって形造られ包摂された。

 これらが仏教と一線を画した独立した宗教体系として成立したのは鎌倉時代の伊勢度会(わたらい)神道とされるが、実際に今日見られるように仏教から独立した神社神道が確立したのは、明治政府による作為的な国家神道の強制によるものであった。
 明治政府は、江戸時代、武家支配権力に苦しんだ被支配階層から登場した、本居宣長・平田篤胤らの尊皇復古思想を、維新による激動のなかで政権安定の基盤に利用しようとした。
 それは、欧米列強に対抗するための強大な国家主義を確立するために天皇信仰を利用したのであって、天皇制を神格化し、宗教イデオロギーによる日本統一を図ろうとしたものであっただろう。
 その目的のために、古来からの神道である神仏習合の権現信仰を破壊し、仏教を堕しめて神道を独立純粋化し、天皇制を唯一至高の価値として最高位に位置づけ正当化しようとしたのである。
 明治初期、平田国学徒による排仏棄釈の嵐はすさまじいもので、苗木藩(岐阜県中津川市)のように、再建が絶望視されるほど藩内の寺院をすべて破壊し尽くしたところさえあった。
 また、冨士講のように、修験道でありながら宗派対立のために平田派にくみして習合神道を敵対視するようになった宗派もあった。純粋神道と唱えてきた伊勢度会派や吉田派神道も、情勢に便乗して仏教破壊に走った。
 習合神道を代表した修験道は、天皇の権威に敵対する邪教として憎まれ、その活動を禁止された。それらが、実体上復活できたのは、天皇が神の地位を滑り落ちた戦後のことである

 歴史上、神道を最初に確立したのは密教系の仏教宗派であったが、仏教は民衆の平和を願うものであり、戦争を正当化できる思想ではない。
 ところが、古代権力の確立したこの時代、国家主義あるいは覇権主義の目的で、中部東北の縄文人の末裔を征服するために戦闘的なイデオロギーが要求され、かつ中央集権権力の正当化のために、唯一の絶対神を必要としたと思われる。
そこで、戦争と民衆管理に必要な「神」の思想が生みだされたと考えるのは不自然ではない。「神」は、いつでも、どんなときでも、戦いと管理のために生まれるのである。

 神道には体系的教典がないが、あえて原典というなら、それは8世紀に編纂された紀記である。これは、中国に対して天皇家の独自性・正当性を主張するための史書であり、都合の悪い事実はすべて切り捨てられ、王権の元祖を紀元前6世紀におくなど、相当部分がひどく捏造されたものであった。
 いずれにせよ、記紀の虚構から神道の枝葉が伸びていった。しかし、実体として神道が成立するのは平安時代の山王・両部(習合)神道であり、体系化するのは鎌倉時代の度会神道である。今日見られる神社神道は、室町時代の吉田神道によって築かれた。
 平安時代に、延喜式という政道百科事典がつくられ、神社の格式が定められたが、神社神道が明らかに成立したのはこの時代であって、それ以前のものには明確な根拠がない。しかも、そのほとんどは権現信仰にもとづくものであって、仏教に包摂され、仏教の下におかれたものであった。

 ただ、権現造りと呼ばれる神社も含めて、拝殿の建築様式は、米作農耕のために浸水しやすい湿地帯に住んだ弥生人の高床式住居を直接継承したものであって、イロリが掘れないために設けられたカマドや、副次的な食品のうちで大切な保存食であったスルメ・コンブなどが祭物として受け継がれているのは弥生文化の継承を示唆するもので興味深い。
 このことは、神社神道が弥生人の稲作農耕の生活に密着した風俗から発生した事実を示すものであって、必ずしも騎馬民族独自のものでないことを示すものである。さらに、仏教によって両部神道として権威化される以前には、渡来人の精神的支柱として、実体上大きな意味をもっていたことを窺わせるのである。
 すなわち、仏教(密教)系神道が成立する以前に存在した農耕儀礼こそ、疑いもなく弥生人の基幹宗教であって、本居宣長の考えた「古代神道」は、確かに存在したともいえよう。

  神道をイデオロギーの観点から見れば、権力の統治者はカミ(神・上・守)を称することによって、民衆の信仰心を利用して支配を企てようとしたと考えられる。
 このことは、好戦的な騎馬民族の末えいであった日本武士階級が、カミ(守)を称する風習を伝えていたことからも窺えるのである。
 神道の神は、道教と同じく人間の変化したものであった。例えば、天皇は人間のまま神であり、秀吉は死後明神となり、家康は死後権現となった。明治以降の戦争のなかでも、功績をあげたものはやたら軍神にされ、戦争で死んだ者を靖国神社に祭るといった発想も同じである。
 したがって、この思想は、支配階級が民衆を戦争に駆り立てるのに非常に役に立つものであった。
 「神が栄えれば仏は沈む」と書いた僧がいるが、まさしく妙理で、神道はいつでも戦争とともにあるのであって、神道の栄える時代は、すなわち争いの時代といえよう。
 修験道が密教によって誕生しながら、中世以降しだいに神道の要素が高まっていった理由は、山伏の軍事集団化と関係しているように思えるのである。


 役の行者 

 役の小角(えんのおづぬ)と呼ばれた、日本史上のもっとも魅力的な一人であるこの人物は、修験道の開祖と位置づけられている。

 小角が活躍したのは、紀元700年前後のことである。この当時の日本史の事情を見てみよう。
 7世紀、推古大君、聖徳太子をはじめ、飛鳥朝廷の大君以下の主要人物は、戦乱によって朝鮮を追われた百済出身者で占められていた。その故郷の任那(伽羅)も、この当時は倭国に含まれていた。というよりは、百済にあった王朝が、5世紀から6世紀にかけて海を渡って日本列島に引っ越してきたと考えるほうが合理的である。
 彼らの文化能力は、飛鳥文化に見られるように際だって優れたものであって、それ以前から部族抗争を繰り返してきた弥生人の部族を短期間のうちに統一したと思われる。
 620年前後、唐が勃興し、強力な中央集権国家主義が台頭すると、新羅は唐の支配下にはいり、しきりに倭の領土を纂奪しようとする。
 百済は、領土の多くを失い朝鮮の南端、伽羅に押しこめられたが、645年の内乱(大化の改新)と蝦夷平定戦争によって弱体化した倭王朝を見て、660年、新羅は大挙して伽羅に攻め入った。
 中大兄皇子(天智大君)は兵を伽羅に送ったが、白村江で大敗を喫し、とうとう倭国は父祖の地から追われてしまった。百済に残っていた倭人は日本に渡った。以降、倭寇や秀吉の侵略にも耐え、昭和初期の日本軍部による帝国主義侵略まで、朝鮮は外見上、独立を保つことになる。

 同じ時期、おそらく百済人に似た理由で、高松塚古墳に見られるように高句麗文化を身につけた人々も、多く日本に渡来してきたにちがいない。それに騎馬戦闘文化をもたらした人々も含まれていたことは、後期古墳の出土品から明らかである。
 彼らは、いずれも高度な文化人であって、支配階級に融合してゆく。
 この時代の権力者にとって、人としての認識に堪える者は、中国の先進文化を身につけ、高度な生産能力を持った者に限られたであろうことは、後の律令体制における差別体系によっても明らかである。したがって、朝廷権力にとって、人とは渡来人のことであったに違いない。

 672年には、大海人と大友の争いによる壬申の乱が起きる。大海人(天武)は天智の弟だが、王位を弟が嗣ぐ風習をはじめ、この当時の権力構造は、中央アジア騎馬民族の習慣が直接受け継がれていることに注目しておきたい。
 700年頃には、律令制度が発足し、公地公民制による口分田・班田収受法などが施行される。
 これは唐の律令を手本にしたものだが、まことに日本的に不徹底で非現実的なものであったため、民衆の逃散が多く、後には豪族の出現を招き、天皇王政崩壊の直接原因になった。
 710年には、奈良に都が置かれ、唐の長安にならった平城京が成立する。712年には古事記がつくられ、720年には日本書紀がつくられた。
 740年には、国分寺が制定され、東大寺・薬師寺の建立がはじまった。天平文化が頂点を迎えるのである。
 この前後の100年ほどは、日本史の、すさまじいばかりの黎明期であって、時代の進展速度は今日でさえ及びもつかない。

 「続日本紀」西暦699年、5月24日の項に、役の小角が登場する。その記述は、「日本霊異記」など他の文書と同じく畏敬に満ちたものである。
 これらに見える小角の姿は、超絶的な超能力者である。小角は、大和葛城茅原に棲む優婆塞(うばそく)と呼ばれる私度僧であった。
 藤の皮を身につけ、花汁をすすって30年の間、孔雀明王の呪をとなえて修行し、鬼神(この当時の鬼とは、大和・熊野山中に棲む非弥生人のうちで、戦闘的な部族を指したと思われる)を使役し、空中を飛行し、対した者を呪縛してみせた。
 (孔雀明王とは、雑密曼陀羅の仏で、孔雀が悪喰で毒蛇や蠍を食っても平気なことから、悪を消化する仏にされ、密教を代表したが、もともとは中央アジアの土俗信仰に含まれる。)
 その能力のすさまじさのゆえに、渡来人の呪術者であった一言主(韓国連広足)に讒訴され、伊豆に流される。
 朝廷は、どうしても小角を捕らえられず、母を捕らえて小角を縛るのである。伊豆では、毎夜富士山に飛行して修行したとされる。
 大峰の「金峰山本縁起」には、伊豆から帰った小角は、母を伴って唐に渡り道士(道教僧)となり、唐四十仙中、第三座の仙人とされ、鬼神を使役したと記されている。
 遣唐使の道昭という僧が新羅の山寺で法華経を講じたときに、質問した道士が日本語を使ったので不思議に思って尋ねると、「自分は役の小角である」と言ったという。

 この伝承は、修験道の正体について、端的な回答を与えているように思える。これは、山岳信仰・呪術(超能力修行)・護摩行など主要なファクターで共通する道教に、紛れもなく一致するものなのである。

平安末期、小角の伝承は修飾され、修験道の開祖として同時代の行基と同様、誇張を交えて伝説化されることになる。
 上記の「金峰山縁起」もそのひとつであるが、大峰山に依った密教修行僧たちは、修行の具体的なモデルとしての役の行者像を成立させるのである。
 飛鳥時代、仏教が国教化される過程で、百済人によって占められた官人は朝廷によって建設された官寺に修行する僧を厳選し、今日の大蔵省官僚でも及びもつかないほどの権威を与えた。
 これらの官僧になれる者は渡来人系のエリートに限られ、仏教を信仰し修行しようとした一般民衆は私度僧になるしかなかった。
 当時、文字を解する者は希だったはずだから、一般民衆といっても実際には、言語文化に触れる機会を得た上流階級の子弟であっただろう。
 官寺は彼らの受け入れを認めず、当時輸入されていた雑密と道教の断片的な知識を依りどころにした求法者たちは、険しい山岳地帯に篭もって道教の符呪や密教の陀羅尼の呪や、小角のように孔雀明王の呪を唱え、念力を磨いていたのである。

 後に、この時期に中国で不空三蔵や恵果らが体系化した密教を、完全な形で日本に持ち帰った大天才の空海でさえ、若き日は雑密修験者として山岳地帯で求法修行し、呪を唱えて歩いた。
 空海ほどの人物でも、遣唐使に僧として加わることは許されなかった。彼が帰国後、不動の地位を占めるのは、中国最新の流行文化であった密教体系の輸入という実績が評価されただけにすぎない。
 輸入された密教体系が朝廷によって評価されるとともに、それは再びエリート官僧によって独占されるものとなり、私度僧は、あいかわらず雑密の断片的な知識をもとにした修行に終始した。
 官僧以外の求法私度僧は、国家権力に厭われることはあっても評価されることはなく、したがって重く用いられることもなく、その存在理由は、呪術による民衆の具体的な(たとえば、病気治療などの)救済による自己満足と名声の流布しかありえず、自らの依拠する権威を自ら構築するしかなかった。
 このような修行僧には依拠すべき体系規範がなかったから、当時評判を得ていた役の行者の伝説をモデルにするのがてっとりばやかった。つまり、修行僧は、教義理論ではなく役の行者の名声をめざしたのである。

 山岳地帯での呪術修行を好んだ雑密僧のうちから、やがて密教や密教系神道を基盤にした独自の宗風が生じ、それに修験道という名が与えられてからも、官によるエリート理論に無縁だった彼らには、教義としての理論的な体系はつくられたことがなく、また必要とせず、役の行者の行風をモデルにした土俗的、習慣的な修行スタイルが続いたと思われる。
 いいかえるなら、官による東大寺、薬師寺、あるいは比叡山、高野山を仏教の表街道とするならば、修験道は、まさしく裏街道をゆくものであった。
 しかし、それは権力権威による評価と無縁だったという意味で、それらの呪縛から解放され、真に民衆の具体的な救済に威力を発揮しただろうと思われるのである。

 もう少し、モデルにされた役の行者像を見てみよう。
 役の行者の伝説は、小角が大峰で修行するうちに(本当は葛木の修行者だったが)、修験道の本尊である金剛蔵王権現を感得したとされる。
 それは不動明王に近いがそれよりも激しく、その本地仏は大日如来である。その激しい怒りの形相は、修験道の修行の苛酷なエネルギーに対応するものであった。いったい、何に対する怒りなのか。なにゆえの修行なのか。

 山岳は縄文人の舞台であった。
 当時、九州の縄文人系土民(海洋族)であったクマソや隼人族は弥生人権力に対して反乱を繰り返し、ようやく平定された時期であったが、紀州大和の非弥生人系の土民も熊野山岳にいたらしい。
(縄文人は黒潮に乗って南からやってきたのであるから、薩摩、土佐、南紀、房総などには、縄文人が最も早くから棲みついていたはずである。しかし、紀州には、徐福やユダヤの伝説もあって、簡単に縄文人と決めつけられない。)
 また、九州から奴隷として連行された土蜘蛛とよばれる種族もいたらしい。初期渡来人であった大国主らに追われた出雲原住民(サンカか?)もいた。
  小角は、葛木の非弥生人に生まれたのかもしれない。(黒岩重吾もその説をとっているが、出自とされる賀茂氏は渡来人系である)とすれば、山岳の激しい修行も、金剛蔵王権現の怒りも、弥生時代後期から、弥生人権力に奴隷として使役され、古墳造営の苦役に苦しんだ非弥生人系の民衆の怒りを代弁する行者の姿勢として読み取れるのである。
 すなわち、小角の修験道は、反権力の砦をめざしたのではなかったか。
 このことは、後の修験道が南西地方よりも、むしろ蝦夷の拠点であった出羽地方を中心に大いに勢力を広げたことにも窺えるような気がする。
 いずれにせよ、弥生人圏の宇佐八幡や山陰大山・大峰でも、修験道は弥生人の居住地域の湿原平野には無縁であり、したがって弥生人文化と修験道文化は相入れないものである。
 大和朝廷に隷属馴致されるのを拒否する者は山岳に逃げるしかなく、そこには弥生人による苦役から逃れようとした非弥生人の民衆が存在し、修験者がその人々となんらかの形で結びついていたのは明らかである。だが、現段階では、このあたりの事情は謎に包まれている。


 山伏

 修験道の行者のことを山伏と呼ぶ。本来は「山に臥せる者」という意味で、「サンガ」と呼んだらしい。
 となると、謎に包まれた山岳漂白民であった山窩(サンカ)との関係を知りたくなるが、両者には、単なる文意を超えた大きな関係があったように思える。
 それどころか、中世の山伏は、宗教よりも軍事に真価を発揮していて、日本軍事史の観点から見るなら、サンカとともに、興味の尽きない驚くべき事実が浮かびあがってくるが、ここでは、サンカを特徴付ける移動式天幕と騎馬民族のパオとの類似、またウメガイと呼ばれたサンカ式刃物が騎馬民族特有の直突式の剣であることを指摘し、サンカが騎馬民俗の継承者であることを示唆するにとどめたい。
さて、宮家・和歌森の修験道研究を読まれた方でなくとも、中世の権力抗争に山伏の姿が欠かせないことを誰でも理解しておられよう。。
 義経・弁慶が、頼朝に追われて山伏として逃げのびる姿はドラマでおなじみだし、太平記に登場する後醍醐の縁者もまた山伏に身をやつした。

 天皇家の権力が形劾化してゆく過程で、それと結びついていた比叡山や高野山では、本来の仏教よりも、むしろ修験道の勢力の方が強くなってゆく。
 というのも、権力抗争が激しくなってゆくと、寺院も否応なしにそれに巻き込まれ、強力な軍事力を確保して自衛せざるをえなくなってゆくからである。
 延暦寺・平泉寺(天台宗系)や興福寺(真言宗系)には僧兵と呼ばれる強力な軍事集団が出現し、京都の権力抗争を舞台に激しい争いを演じた。
 仏教思想は、本来争いを好まないものであって、軍事力の増大には神道も含めた修験道の方が向いているのである。

 山伏は山岳地帯での激しい修行を通じて得た能力によって、中世の戦争に欠くべからざる軍事要素となった。
 戦争に加わった山伏の任務は、勝利を祈念する加持祈祷はもちろんであったが、伝令や、後に忍者と呼ばれるようになる撹乱者(乱破・素破)として専門的な役割を担うようになる。
 霧隠才蔵の伝説で知られる戸隠忍者の祖が山伏であったことには明確な証拠があり、伊賀・甲賀・根来などの忍者の祖先も熊野大峰の山伏であったらしい。
 それは、伝承された忍者のイメージが、本来は超能力的な呪術(あるいは道術といってもいい)を基本としたものであったことからも窺えるのである。
 そして注目すべきことに、サンカが、京都の乱破道宗という名の忍者の元締の差配下にあったという事実が存在していて、このことは、サンカと山伏の関係について示唆を与える。

 前項で述べたように、初期の山伏には、律令体制から逃亡した非騎馬民族系の隷民が多く含まれていたと考えられる。サンカもまた、渡来人から追われた日本西南部の原住民も含まれていた可能性もある。
移動式天幕・ウメガイとともにサンカを特徴づける竹利用の民俗については、騎馬民俗と直接結びつけられそうもない。それは、明かに南西諸島・西日本の土着民俗といえよう。
 山伏の活躍した舞台は、同時に木地屋やマタギの舞台でもあった。
 木地屋は、渡来人のもたらしたロクロ技術に依った職人集団だから、弥生人系の人々であったように思われ、山伏との関係について示唆を与える面白そうな資料は少ない。
 だが、マタギについては、その伝承された呪法に、修験道の明確な影響が見て取れる。
マタギの集落のうちには、山伏を祖とする伝承をもつところが少なくないのである。
 マタギは明らかに蝦夷(えみし)・縄文人の末えいであり、修験道との密接な関係は、修験道の基盤が非弥生人の側にあったことを証拠立てるものにもなると考える。

 山伏は全国の険しい山岳にでかけ、そこで修行することによって民衆であることを超脱し、特殊な呪術の能力者になった。そして、それは社会体制のうちに組こまれた権威の秩序とは異なって、権力者によって評価されることがなく、呪術によって疫病や飢餓などの災厄から民衆を救うことでその存在価値を得たのだろうと思われる。
 その思想は、徹底的に現世利益的であって、小乗仏教としての密教と道教のもっとも本質的な部分を継承している。それを、ひとことでいえば「呪」ということになろう。すなわち、シャーマニズムである。呪術が重んじられ、山伏が勢力を得た大きな理由は、平安時代に中国から輸入され、道教の構成要素であった「陰陽道」の影響が大きかったにちがいない。
 10世紀末に登場した陰陽士で天文博士の安部晴明は、小角に比肩する超能力者であった。方術と呼ばれたその能力は、平安貴族に恐れられ、呪術への大きな信仰を育てた。
 現在に残る、鬼門など禁忌の思想は、この頃につくられたものである。それは「祟り」という観念から生まれたものであった。
 平安貴族は人間の超能力に恐怖し、「祟り」を恐れて死刑すら廃止してしまった。それが体制の弱体化を招き、強力な武家集団に権力を奪われる原因になった。

 修験道山伏の修行の舞台は、役の行者の修行した葛城山からはじまったと考えられよう。
 しかし、「日本霊異記」の小角の伝承のうちに、「葛城山と(吉野)金峰山との間に橋を架けた」という記述があることから、この時代には、吉野大峰にもすでに雑密修験者が存在したと思われる。
 後に、天台宗系と真言宗系の密教系修験僧が、吉野と熊野を結ぶ大峰山脈において呪法の修行に励むようになると、彼らは本来の仏教を離れて、神道に傾いた独自の宗風をつくりだし、多くの流派がひらかれるようになる。
 修験道最大の拠点となった吉野には、真言系元興寺の僧、神叡が虚空蔵菩薩の信仰をもとにして自然智宗をひらき、山上ヶ岳では、真言宗小野流の聖宝が恵印法流をおこし、熊野では天台系の僧がいくつかの流派をひらいた。
 これらの記述をはじめると無意味な羅列が続くので、興味のある方は、宮家準と和歌森太郎の修験道研究書を読んでいただきたい。
 ここでは、必要最小限のアウトラインを記述するにとどめたい。

 大峰山脈の両端である吉野と熊野には、それぞれ修験道を代表する拠点が成立した。おおざっぱにいえば、三井寺を中心に据えた熊野三山(本宮・新宮・那智)は天台系修験の拠点となり、本山派と呼ばれるようになり、吉野金峰山寺を中心に据えた大峰山は真言系修験の拠点になり、当山派と呼ばれるようになった。
 この両者は互いに対立し、宗風もかなり異なったものになった。外見上も、本山派が総髪であったのに対し、当山派は剃髪していた。したがって、この髪型で、どちらの系統かおおよその見当がつくことになる。
 この両者は、修験道の草創期から分化対立し、修験道界の二大派閥となる。徳川家康は、数十もあった修験流派をこの二つに集約して統治しようとした。明治初期に、修験道が邪教とみなされ強制的に解散させられたときも、すべての山伏は真言宗と天台宗に帰依するか、さもなくば還俗するよう迫られたのである。

 修験道の儀礼宗風も両者で異なるが、基本的に共通するものだけを簡単にとりあげてみたい。
 初期の土俗的な修験儀礼は、中世の二大派閥の対立によって琢磨され、時代とともにスマートなスタイルが完成してゆく。
 修験道が拠りどころにした教義は、天台本覚論・法華経典・華厳教・山王一実神道・両部神道などであった。それらから「修験修要秘訣」などの教義が生みだされ、山伏の修行スタイルが定められた。
 修行道場の大峰山は、密教的解釈からは曼陀羅の金剛界(吉野側)・胎蔵界(熊野側) とされ、法華思想では、葛城山を法華峰とし熊野を阿弥陀浄土とした。
 崇拝対象は、最高位の奥座に大日如来をおき、前座には不動明王あるいは金剛蔵王権現がおかれた。ときに、金剛蔵王権現は役の行者の化身として崇拝された。

 修験者は、自身が宇宙とされ、我が身に内在する大日如来を感得することが修行の最終目的であるとされる。
 これは、修験道にとってもっとも大切な基本認識で、修験とは、わが内なる仏を呼び醒ます(験ずる)ものなのである。そして、仏(同時にその権現である神も含む)が意識に現れることによって、さまざまの超能力を得ることができるようになると信ぜられた。
 山岳修行を峰入りというが、中世以降には、これに厳しい作法が要求されるようになった。
 峰入り修行は、華厳経にもとづく十種の成仏過程を経ることになる。
 すなわち、@地獄・A餓鬼・B畜生・C修羅・D人・E天・F声聞・G縁覚・H菩薩・I仏の十界が人のおかれる姿であって、それぞれに、以下の修行が行われた。
 修験者でない普通人は、1から6までの六道を輪廻するとされ、7から10までは、先達クラスの修行である。

 @床堅(峰入りの最初の行で、棒で新人の身体を打ち、自分のうちに大日如来を感得させる)
 A懺悔(新人が、先達に自分の行ってきた罪業を告白懺悔する)
 B業秤(新人を紐で縛り、吊りあげて罪の重さを量る)
 C水絶(洗顔や飲水など水を断つ)
 D閼伽(水断期間の後、水を汲ませ祭壇に供える)
 E相撲(新人どうしで相撲を取る)
 F延年(楽しい踊り)
 G小木(護摩に使う木を取る)
 H穀断(一週間の断食)
 I正潅頂(護摩木を先達に渡すのだが、キリスト教の洗礼にあたる)

 注目すべきは、修験道は、人間にレッテルを貼って固定した姿で見るのではなく、もともと人間というものが地獄と仏の間をさまよう危ういものだという認識をもっていたことである。
 ついでにいえば、相撲がもともと山伏の修行であったことを知る人は非常に少ない。これは、人より一段高い天の位置にある人間の修行として想定された。ウソのような話だが、峰入りでは本当に相撲を取るのである。
 大峰では、最終段階の修行としての正潅頂を、大日山(釈迦ヶ岳の属峰)にある深仙の潅頂堂で行う。そこで大日如来の秘印と秘法を伝授され、成仏修験が完成するとされた。
 成仏には@始覚・即身成仏、A本覚・即身即仏、B始本不二・即身即身の三種あるとされ、前二者は顕教の成仏であり最後の即身即身こそ修験道の成仏であるとし、その意味は、自らの内に大日如来が合体した状態、つまり人仏一体の状態という認識であった。
 これらの具体的内容は煩瑣にすぎるので、これくらいにしておく。

 大峰で生まれた修験道は、山伏によって全国の山岳に拡大していった。山伏はマタギと同様、大峰から津軽まで里に一度も降りることなく山上の峰を自由に往来し、戸隠や月山など険しい山を見いだすと、そこを修行の拠点にした。
 大峰以外で、修験道の一大宗派が成立した場所は、九州では彦山(宇佐)であり、これは古い両部神道の八幡信仰が土台になったものである。他には、羽黒三山(山形県の月山付近)が東北修験道の一大中心となり、ついで日光にも宗派が成立した。
 羅列すれば、戸隠・榛名・三峰(雲取)・大山(丹沢)・御岳(青梅)・立山・富士・御嶽・古峰ヶ原・秋葉・白山・金華山・岩木山(津軽)・後山(中国)・大山(山陰)・石鎚・剣山(四国)・宮地・阿蘇・霧島(九州)などが、流派の成立した行場であった。

 山伏が峰入り修行を行うとき、大峰の麓にある拠点の寺において、俗衣を脱いで法衣を身につける。
 法衣は、普通カンマン衣と呼ばれるもので、背中に不動明王の種子を表すカンマンが描かれている。これを着ることで、山伏は不動明王を感得するということである。
 これは宗派によって多少異なっていて、羽黒山伏では背中に獅子が描かれ、百獣の王の霊力を身につけるということになる。
 山伏の正装は、弁慶人形などでおなじみだが、法衣や法具にはそれぞれ意味が与えられている。
 額の頭巾は、大日如来の五つの知恵を意味する宝冠であり、頭に載せるハンガイという黒いシャッポは、子宮の中の胎児を意味し、鈴懸・袈裟は金剛界と胎蔵界の宇宙、貝の緒は山伏のヘソの緒、笈は母胎子宮、ホラ貝は大日如来の説法という具合に意味が付与されているのである。
 胎児にまつわる法具が多いのは、山伏の峰入りが受胎から誕生までを寓意するものだからである。

 山伏の修行の内容は前述したものの他に、恐ろしい断崖絶壁の上に綱で吊るして懺悔させたり、身のすくむような絶壁を通過させたり、冷水に打たれたりと、とにかく人間の恐怖心を克服させるものが多いが、ハイライトはなんといっても護摩行である。
 護摩は導入部に書いたように、ゾロアスター教・道教・密教に共通するもので、その意味にはいろいろの解釈があるが、基本的には煩悩の焼却と不動明王の感得ということになろう。
 護摩行には興味深い歴史がある。

 先頃、私が戸隠の乙妻山に登ったとき、高妻山の手前の峰で山頂の笹原が四角く切り開かれ、角に杉の小枝がさしてあるのに気づいた。
 これが峰入りの護摩行場であった。大峰の奥駆道でもときどき見かける。
 護摩に焚きこむ木には檀木・乳木・添木の三種類ある。檀木は香木のことで、本来は白檀を使うが極めて高価なので、実際には香りのある乳木を利用し、それに抹香の丸薬を投入するが、これも高価な竜涎香の代用である。
 乳木は甘い香りのする乳のある木で、カジ・ネム・桑・柏などが使用され、一本の長さが約20センチに切り揃えられ、香料が塗られる。添木は、火力の補助である。
 乳木に塗られる香料は、ショウガ科のウコンの葉と、沈丁花にシキミ樹皮を混ぜた抹香からつくられる。
 ウコンは、カレーの材料になるターメリックという黄色い色素の原料だが、実は、これは道教のシンボルカラーで、赤とともに道教に欠かせぬ色なのである。(例えば、太平道などの影響による黄布党の乱などに同盟色として使われた)
 これらの香料には幻覚陶酔性があった。
 古くは、これに麻の芽を乾燥させたものを投じた。つまり大麻である。
 今日栽培される麻は、毒成分を除いた品種だが、麻は先祖返り傾向が非常に強く、放置すれば数年で麻薬成分が復活してしまう。

 山歩きをしていると、故意か野生種かは知らぬが、谷あいの小平地などに麻の群生を見ることが多い。私はこのような麻を燃した煙を吸って、「毒性」を体験したことがある。
 私の経験では、色彩感覚が非常に鋭敏になり、時間がゆっくり流れていくような気分になった。とても心地よいものだが、陶酔というほどのものでもない。
 ただ、自己暗示にかかりやすくなるのはまちがいない。
 多用すると性格に凶暴性が現れるという。単に麻薬効果だけなら、麻薬取締法の対象にならないヒカゲシビレタケなどの菌類麻薬に及ばない。
 このような煙を吸って、行者は陶酔と法悦の境地にはいり、大日如来、すなわち宇宙と自分を一体化させるのである。

 古来、道教の漢方医療の影響を受けた修験道には、古い医薬の歴史がある。日本で普及した大衆薬には、山伏の薬が多い。
 大峰には小角直伝とされる陀羅尼助があり、その原料はキハダであって、生薬名はオウバクというが、これは吉野にあるオウバク宗萬福寺というひとつの宗派さえつくりだした。
 木曾御嶽の百草や、山陰大山の練熊もほとんど同じ薬であって、大峰の山伏がもちだしたものであろう。
 これらの薬には、はじめの頃にはケシ汁や熊の胆も含まれていたらしい。百草には明治までケシ科のコマクサが用いられたが、おかげで日本の高山からコマクサの姿が消えてしまった。
 コマクサには鎮痛効果があるが、ケシに比べれば微々たるもので、ケシ科植物にはいくらでも取締法対象外の鎮痛成分の植物があるので、興味のある方は研究されたい。
 くれぐれも、コマクサを採らないでいただきたい。今でも薬草として採集を薦めている図鑑があるのは困ったものだ。
 これらの薬は日本の代表的な大衆医薬になったが、これを行商したのは、熊撃ち猟師のマタギであった。その成分も、キハダ・熊の胆嚢・ゲンノショウコ・センブリなど山伏薬に共通のもので、マタギと山伏の関係を示唆するものである。
 今日、売薬行商の伝統をもつ富山などの地域は、また、マタギや山伏と密接な関係を持った地域であった。


 修験道の危機

 これまで修験道について説明したことは、密教的側面のわずかな一端の概説にすぎない。拙文が目的としたものは、人類史と山岳民俗の観点から見た修験道の風景を朧ろに示すことであった。
 その意味では、いまひとつ神道の側面から説明しなければならないが、実は、これは困難なのである。というのも、役の行者以来の確乎とした両部神道修験道の伝統は、明治維新によって断ち切られてしまったからである。
 本来、修験道は明治以前まで、もう少し神道の側に傾いたものであったらしい。
吉野には水分(みくまり)神社があり、農耕民族による水源地を敬う宗教儀礼として神道の原型になったと考えられる。
 私は、山伏を縄文人の宗教儀礼に深くかかわるものと考えたいが、民俗学者の一般的な解釈は柳田国男・折口信夫説を支持するものであって、以下のような素朴な稲作農耕儀礼との関連を論じている。

 大峰の山上の洞窟で冬篭修行を行った山伏は、春に石南花の花を持って里に降りてくる。
 麓の農民は、この山伏を、極めて強い霊力をもった山の神が憑いた行者として敬った。そして、山伏が花を田に投げ込むことによって山の神が田の神に変化し、秋の稲刈まで農耕を守護すると考えた。
 稲刈の後は、再び山伏が神を山に持ち帰り、今度は水源を守護する山の神としてふるまうというわけである。
 吉野水分(水源)の神は、女の子守神(その本地は毘沙門)と男の勝手神(本地は不動明王)とされ、これから金剛蔵王権現が生じたとされた。
 また、天照大神以下の神社神道の諸神についても固有の儀礼があったようだが、資料が乏しいので説明できない。これも、興味のある方は宮家準の研究書を参考にしていただきたい。

 これらの伝承をもとに考えれば、修験道の土台になった道教・密教・神道ともに弥生人・騎馬民族によって日本に持ちこまれたことも併せ、修験道は弥生人起源の宗教ということになろう。
 しかし先に述べたように、東北マタギなどの山岳民俗に現れる修験道の影響は、明らかに縄文人との積極的な関係を示唆するものであり、この両者が修験道にあってどのような関連があったのかはまだ日本史の謎であって、現段階で結論を見いだすのは困難に思える。
 私自身は、修験道は、渡来人の主流から外れ、仏教の裏街道をゆくアウトサイダー求道者によって創設され、これに加わったのが縄文人の末えいであったという仮説を提唱しておきたい。ただし、明確な証拠を得ているわけではない。
(弥生人・縄文人ともに太古の考古学上の話だと思っておられる方がいるとすれば、それは大きな誤りである。
 騎馬民族は天皇家や源氏平家を生み、武家支配階級の本流となった。例えば、歴史上の名だたる武将に、縄文人の形質を持った人物がどれほどいるだろう。家康など極小数の例外を除けば、ほとんどが騎馬民族と断言できる。
 縄文人・弥生人は町人農民などの一般大衆であって、騎馬民族との間には明確な階級分化と地域分化が続き、婚姻などで融合した例は極めて希である。その体制が事実上崩壊したのは、やっと明治維新によってなのである。
 明治以降も、地域・交通などの諸条件の制約によって、思われるほど混血していない。本格的な混血がはじまったのは交通革命の起こったこの数十年のことにすぎない。
 したがって、日本人の中の渡来人と縄文人の分化は、我々が想像する以上に大きなものがあり、例えば、明治権力の軸になった、縄文人の薩摩人と、騎馬民族の長州人の人相骨相の決定的な違いは、シーボルトやベルツでさえも気づき、すでに幕末に、日本には二つの民族があると提唱しているほどである。
 実際、日本のあらゆる文化伝統を注意深く眺めれば、そこに必ず縄文人と渡来人の違いを見いだすのであって、血液型・抗体・体毛・人相・体型・性格など生理的・精神的な形質にも、明らかな潮流が存在する事実は、最近ますます注目されているのである。)

 中世、山伏が忍者の祖となって、独自の軍事的意味をもっていたのはすでに述べた。山伏の神秘的な力は民衆に大いに恐れられ、武家はこれを大いに利用した。
 ところが、江戸時代を迎えて、社会にはじめてといっていいほどの安定がもたらされると、幕府にとってその存在は脅威になった。
 そこで家康は、脅威をもたらす可能性ある集団に対して彼一流の支配政策をとった。すなわち、将来団結によって社会不安の原因になりそうな集団は、すべて二つの集団に分化してしまったのである。
 そうすれば、それは必ず、団結よりも対立に傾くことを家康は知り抜いていた。
 まず、家康がもっとも苦しんだ一向宗の本願寺を東西の二つに分けることによって、強大な浄土真宗門徒を分割し、対立させた。これによって、真宗門徒は一門の拡大よりも東西の抗争に終始することになった。
 神道についても、天皇家と結びついた白川神祇伯家以外に幕府よりの吉田神道家を創設させた。これも、御師や木地屋などに大きな対立をもちこんだことは民俗に詳しい方ならピンとこられよう。
 他にも、二流併設の事例は多いが、修験道の場合は、以前からあった当山派と本山派の二流以外の宗派を禁じ、彦山派や羽黒派、日光派などもどちらかに加入するよう強制された。
 これによって、修験道の本流はこの二派に絞られたのである。

 余談ではあるが、この二極対立化政策は家康の政道の基本におかれ、もっとも成功したもののひとつであった。これは人間集団を支配するための普遍的な方法であって、権力者の常套手段である。
 例えば、戦後もっとも大きな大衆運動であった原水爆禁止運動がまきおこったとき、社会党と共産党の二極対立があって、共産党が「社会主義国の核兵器は、人民の利益のためのものだから正しい」と主張して運動を分裂させてしまい、それで崩壊してしまったのは滑稽な事例といえよう。
 組合運動つぶしのもっとも効果的な方法が、いつまでたっても第二組合つくりであることを思うとき、対立こそ人間支配の本質であるといえるほど、人間性の本源に迫ったメカニズムであることを理解できよう。
   
 修験道における二極支配も、幕府の狙いどおり効果を発揮し、修験道の発展は停滞し、山伏は当山派と本山派の対立に明け暮れるようになった。したがって、この時期に修験道を輝かせたのは、これら以外の地方の修験者であった。
 槍ヶ岳の播隆、御岳の覚明・普寛などがそうである。

 「神は仏の仮の姿」と考える本地垂邇説を基本においた修験道は、明治初期、「神は仏とは無関係に日本固有の絶対神である」と主張する、「平田国学派」と呼ばれた人々によって、激しい攻撃に曝されることになる。

 政治の安定した江戸中期に、武家ではないが、町人・庄屋・医家など向学心のある比較的恵まれた階層の人々の間に、体系的学問の機運が盛り上がる。
 その対象は今日と変わらぬほどに様々であり、数学などは同時期の西洋のレベルを凌ぐほどの優れた内容をもっていたことが知られている。
 明治になって、長期の鎖国にもかかわらず、非常に短期間のあいだに学問水準が西洋のレベルに追いついた理由は、江戸中期の和学ルネッサンスの蓄積があったからである。
 国文学・歴史の分野でも、古事記や日本書紀の研究志向が生まれ、新井白石らによって議論された。亨保年代に荷田春満によって、記紀を土台にして日本国家の出地を明らかにする研究が提唱された。
 荷田の研究は賀茂真淵に受け継がれ、「万葉集の精神に帰れ」とする復古国学を成立させた。弟子の塙保己一は文献学の開祖となり、国学は日本中のインテリの注目する学問的土俵となった。
 真淵の弟子となった本居宣長は、古事記の研究を集大成し「神道の復権」を主張した。その門人の平田篤胤は、江戸末期を迎えて「復古神道」を打ち出し、「世の中が乱れるのは、武家が神道をおろそかにしたせいだ。天皇に権力を返し、古代の精神に帰ることによってしか日本は救われない」と説いた。

 この説は、武家支配の圧迫に不快感を抱いていた全国の庄屋・町家のインテリ階層に熱狂的に支持され、「再び天皇の世に戻せ」とする尊皇論は、武家支配打倒イデオロギーの根幹になり、明治維新を生み出す原動力になっていった。
 薩摩・長州の人々による権力奪取劇は、維新のほんの一端であって、氷山の頂部にすぎない。その巨大な基盤は復古神道論によって形成されていったのである。ゆえに、維新の真の立役者は、実は本居宣長・平田篤胤という見方もできる。
 島崎藤村の「夜明け前」では、実父の正樹(青山半蔵)のドギュメンタリーに、その様子の一片をリアルに見ることができる。
 ただし、日本国家の原点としての純粋神道を説いた平田説は、紀記神話の虚構を素直に信じた滑稽な奇説である。
 神道をつくった日本の支配階級が朝鮮から渡来し、神話をでっちあげたという真実が明らかにされたのは、昭和初期の津田左右吉の研究が端緒であり、それが弾圧を受けずに自由に語れるようになったのは戦後のことにすぎない。
 だが、いまだに天皇家の虚構性を認めたがらない権威信仰家が大勢いて(とりわけ文部省の官僚に)、すでに証明されたこれらの事実ですら、教科書には決して載らないのである。
(教科書が事実を教えるようになれば、ほとんど狂気の、音による嫌がらせで自己満足する右翼・暴走族の迫害からも少しは軽減されるにちがいない。すくなくとも、人の上に人がおかれるというバカげた妄想から解放されるだけで、どれほど多くの人々が救われることだろう。)

 維新なった明治政府は、開国による欧米列強の圧迫に対抗してゆくために、強大な国家主義イデオロギーをつくりだす必要に迫られた。
 明治政府の中枢にいたのは大久保利通であったが、彼も平田国学の影響下にあり、国学門徒を大勢政府に雇用した。明治政府は、新国家を統一する基本理念を天皇制信仰と、それを理論的に支える神道復権に求めたのである。
 天皇の意味や存在は一般民衆にはあまり知られていなかったので、それが超越的な権威であるという教育からはじめなければならなかった。
 現在も残る稲荷や氏神神社の信仰は、このころ明治政府によって整理統合され、神社神道として権威化したのである。それも天皇信仰の基盤つくりを目的としたものであった。

 かといって、政府官僚が真実天皇を畏敬していたわけでは断じてない。明治天皇の父親の孝明天皇などは偏狭な排外主義者で、開国にあくまでも反対したので維新派にとって邪魔になり暗殺されてしまった。殺害の張本人は、後に天皇制信仰を強力に推進した山県有朋と井上聞太だったといわれる。
 天皇は、国家主義のために利用されたにすぎないのである。

 (ついでに書いておくと、天皇家は狭い婚姻関係のなかで遺伝的に劣性因子が発現しやすく、孝明も明治も凶暴な異常性格だったといわれる。手をやいた政府は、山岡鉄舟などという怪物を養育係に任じて体裁を繕わせる。
 大正天皇が生殖能力を欠いていた事実は密かに語られてきたが、皇后には当然子が生まれず、なぜか女官に子が生まれ、それが昭和天皇になった。その父が誰であるのかをフライデーやフォーカスが追求していないのは情けない。)

 明治政府は、天皇制の優越至上を宣伝し、その根拠を紀記神話による神道理論に求めた。仏教は神道よりも下におかれねばならず、神道理論につじつまが合わず、都合の悪い神仏習合の両部神道は破壊してしまわねばならなかった。
 修験道は、全国の山岳信仰である両部神道を代表していたので、平田派による弾圧によって、突如存亡の危機に瀕する。
 1868年(慶応4年)、明治政府は神仏分離を強制する布告を次々にうちだした。これに力を得た平田門徒の影響を受けた民衆は、江戸時代、幕府権力の末端役場として戸籍管理、宗門管理などに機能させられていた仏寺への反感もあいまって、激しい廃仏棄釈の嵐のなかで仏教破壊に走った。
 両部神道の権現寺は、神社か仏寺のどちらかに帰依するよう強制された。山伏も、神官か僧のどちらかか、さもなくば還俗するよう強制された。
 天台宗系本山派の熊野三山は、神社になり、真言宗系吉野金峰山寺も金峰神社に包摂された。残った勢力は、本山派は天台宗の僧に帰依し、当山派は真言宗の僧に帰依していった。
 修験道は滅亡させられたかに見えた。
 しかし、山伏を吸収した仏教各派のなかで、どうしても仏教系の宗風になじめない修験者によって再興の機運が何度も起こった。
 だが、天皇制の思想的弾圧は強化される一方であり、それらが実体上復権できるのは、太平洋戦争の敗戦によって天皇が神の座から滑り落ちる日を待たねばならなかったのである。


 修験道系の民衆宗教

 修験道の主流であった本山・当山の勢力は明治維新に邪教として弾圧され、新政府によって宗教活動を禁止された。両派の行者は密教系の僧か神社の神官に転向させられ、習合神道の宗風は絶え、国家神道がそれにとって代わった。
 しかし、弾圧の網から漏れた小さな修験道系の宗派は、伝統ある山岳信仰の講中組織(霞・檀那)を基盤として、修験の宗風になじんだ民衆に支持され、かえって独自の発展を遂げることになる。
 白山・御岳・立山などの山岳信仰は、民衆生活の数少ないリクレーションの場として大切に継承されてきた。それは、明治政府の一夜の政令によって消滅してしまうほど脆い伝統ではなかった。
 ただし、富士講のように、もともと修験道から誕生しながら、後に平田国学派に掌握されて復古神道に傾いたものも少なくなかった。
 江戸を本拠とした不二道・実行教・扶桑教・丸山教などの富士講宗派は、明治以降、国家神道の忠実なしもべとなり、仏教排斥運動の主役として荷担した。
 また、御岳教のように、弾圧を恐れて本来の修験道の教義を捨て、国家神道に迎合する変節を遂げたものもあった。

 修験道の影響を受けた神仏習合系の民衆宗教の先駆となったのは、尾張熱田で1800年前後に勃興した「如来教」である。
 熱田区旗屋町の修験道講元に生まれたキノと呼ばれた女性は、幼くして両親と死別した後に中村区鳥森町の親戚に身を寄せたが、貧苦のため尾張藩士の家に女中奉公をする。奉公を辞した後に結婚に破綻し帰農したキノは、47才にして突然神がかりになり、「自分に金比羅大権現が宿った」と宣言した。
キノは祈祷術に優れ、病気や不和に苦しむ人々を大いに救った。キノの名声は尾張一円に広がり、如来教と名付けた宗派を成立させ、尾張藩士まで多く入信した。このあたりの事情は、天理教の中山ミキに似ている。
キノの死後、教団は繁栄したが、明治維新の修験道廃止令によっていったん解散する。明治9年、曹洞宗の僧によって再建され、再び活動を開始したが、その教義に神仏習合が色濃く残っていたために、政府による神道統制によって弾圧された。
 
 天理教も幕末に生まれた修験道系の新教である。教祖の中山ミキも、如来教のキノや大本教の出口ナオと同じく天保年間に神がかりし、「自分にテンリンオウが宿った」とした。
 ミキは、富裕な中山家を施しによって零落させ、極貧の生活をおくり、ミキの祈祷にすがって集まってきた人々を救った。後に、吉田神道家の配下にはいり、「天輪王明神」として幕府に公認された。
 明治維新を迎え、天皇制の正当化のために国家神道が強制されるようになると、すでに確立していた独自の神道教義の変更を迫られ、高齢のミキが18回も投獄されるなどして弾圧されたが、むしろこの時期に天理教は大発展を遂げる。
 ミキの死と前後して、天理教は弾圧を免れるために国家神道に隷属する転向を行った。やがて国家神道下の公認宗教となったが、神話についての解釈の違いを当局に追求され、不敬をちらつかされ抑圧された。

 金光教も、天理教と同時期に成立した修験道系新教である。岡山県浅口郡の百姓、川手文治郎は、中国地方に信ぜられていた金神信仰(陰陽道系の祟り神)の信者であったが、金神の魔から逃れるために本山系山伏について修行を行った。
 1859年、文治郎は神意を聞いたとして金光教を創立した。金神の祟りは心から敬うことで解消でき、禁忌は存在しなくなると説き、民衆の悩みごとの相談にのり神意を伝えた。後に、白川神祇伯家の配下に連なる。
 明治維新後、信者は政府の弾圧を恐れ、国家神道に迎合してゆくが、文治郎だけは「天皇も同じ人間」と公言してはばからなかった。だが、その没後、幹部は本来の教義を捨て、国家神道に隷属する道を選んだ。

 大本教を創始した福知山の出口ナオも、1892年、突如神がかりして「自分に金神が宿った」とした。その教義は、復古農本主義であったといわれる。
 最初、金光教の傘下にあったが後に独立し、信者の上田喜三郎が出口王仁三郎と変名し、後継教主となって大きく発展した。王仁三郎は、もともと修験者であり、優れた呪術能力(霊能)を得て病気治しに霊験を発揮し、信者の熱烈な信仰を得た。
 王仁三郎は、記紀にもとづく国家神道の枠組みに一致する教義を示したかに見えたが、実はこれは見せかけで、その真意は、天皇家を打倒して新しい政治体制を構築することが世治しだとする、当時としては仰天的で激越なものであった。
 大本教は、1921年、大正日日新聞を買収し、大きな社会的影響力をもつにいたり、政府はこれを恐れ類を見ない激しい弾圧を行った。綾部につくられた神殿は跡形なく破壊され、幹部は不敬罪で投獄された。
 後に、1935年にも、近代宗教史上最大の弾圧といわれる第二次大本教弾圧が行われ、王仁三郎が政権奪取を企てたとして大逆罪で投獄され、さらに全国の大本教施設は残らずダイナマイトで破壊され、政府は大本教の地上からの抹殺を宣言した。理由は、大本教が昭和初期の軍部独走に強硬に反対し、反戦平和を訴えたからであった。
 だが、大本教の後継である「成長の家」など多数の教団は、現在では完全に右傾化し、天皇崇拝、軍国礼賛の国家神道系宗派に堕落している。
 
 天理本道「ほんみち」は、明治以降の国家神道の圧力に屈せず、徹頭徹尾、本来の教義を貫き、国家権力と対決した偉大な宗派であった。
 同様に弾圧に屈しなかった教団としては、牧口常三郎の率いる創価学会があったが、修験道系の宗派では、「ほんみち」以外にない。
 「ほんみち」は天理教の幹部であった大西愛治郎が、1913年に、天理教の国家神道への迎合と教義の歪曲についてゆけず独立した教団である。
 この年、愛治郎は教義に行き詰まり、神がかりして「自分は生き神、甘露台である」と宣言した。中山ミキのつくった神話をもとに、天皇家の異端を追求し、それを世間に配布したために、国家権力による激しい弾圧を受けた。
 愛治郎は日中戦争の戦況が悪化するなか、信仰人生の総決算として、死を決して天皇家国家神道に真っ向から戦いを挑んだ。
 天皇制を誤りとする「書信」を全国に配布し、「ほんみち」の信者は全員検挙され、愛治郎は無期懲役・財産没収の判決を受け投獄された。だが、激しい弾圧・拷問にもかかわらず、信徒のうちに一人の転向者も出さなかった。近世、国家権力と真っ向から対決し、屈することのなかった唯一の教団であったといえよう。


 本質から見た修験道

 これまで修験道について述べてきたことは、既成宗教の歴史的範囲での概観であった。これを、もう少し広い観点で、人間の本質にたちかえって修験道の意味を考えたい。
 宗教の本質ということを考えてみたい。

 人が現実の世界でなにごとかの困難にぶつかって、現実の方法で解決が見いだせないとき、現実の外に、いいかえれば空想の世界に解決を見いだそうとし、それが形象されたものを宗教と規定すべきだと私は思う。
 人の心は、目の前に現れるできごとに様々な反応を示すが、それを基本的に3つに分けてみたい。
 @ 対象に積極的に反応する。
 A 対象を傍観する。
 B 対象から逃避する。
 人間の力でどうにか解決できる問題には神を必要としない。自分に関係ないことがらにも神を必要としない。しかし、自分の力ではどうにもならない困難が生じたとき、人はなにものかに頼らねばならない。
 他人の力に頼って解決する場合、そこに人間関係について一定のルールが定められねばならず、自分を抑制してそのルールに従属しなければならなくなる。いいかえれば、一人の人間から組織の人間になるとき、そこに自分を抑圧する「人間疎外」が発生する。この疎外が、宗教的精神の原点になると私は考える。

 人間性が疎外され、目の前のできごとに積極的に反応する姿勢を自分で抑圧するようになると、人は傍観を好むようになり、逃避を知るようになる。
 現実の世界に解決を見いだせない悲しみや葛藤は、空想の世界に救いを求め、逃避的精神をつくりだしてゆくにちがいない。
 これが、宗教の本質をなす部分だと私は思う。これは、つまるところ精神分裂症のメカニズムに一致するものである。
 弱い心が、現実の苦しさから逃れたいあまり、空想の世界に甘い桃源郷をつくりだす。これを、マルクスは「宗教はアヘンだ」といった。

 空想的世界の桃源郷とは、キリスト教の天国であり、仏教の極楽であり、道教の仙郷であり、人間精神の活発な想像力は、現世に救いを見いだせぬとき来世に希望を託したのである。
 そうして人々は、この世の苦痛に堪えた。

 伝統的宗教ばかりが逃避的空想の形象なのではない。
 天皇家を頂点とする権威信仰、東大を頂点とする学歴信仰、高度技術依存の科学技術信仰、官僚の権力信仰などコケオドシの数々も、人間の困難を人間以外の疎外されたなにものかにすがるという点で、立派に宗教と規定することができる。
 人は人に頼ってこそ自然なのであって、人間以外のなにかに頼りはじめれば、すなわち、それは宗教である。
 人間性に対して率直であれる、すなわち、コンプレックスをもたない自然な人間性には権威も権力も財産も必要としない。ただ自然な人間関係があればよく、そこに宗教的逃避のつけいる余地はない。

 このように考えるなら、人類の歴史は、自然な人間関係を疎外するなにものかからの逃避の歴史であって、すなわち、それこそが文明の本質であることを示唆しているように思える。
 つまり、文明と宗教は、正常な(差別のない)人間関係を疎外しなければ成立しないという意味で同じものといえるのではないか。
 もちろん、科学技術の虚構の上に構築された現代文明も、宗教の本質を免れることはできない。
 人間社会における最大の人間疎外要因は「差別」であった。差別こそ、文明の本質といえるのではないか。

 修験道にたちかえってみよう。
 修験道の本質をなすものは、行者が自身を錬磨し、超能力を身につけることで人々の苦悩を救うとする部分であろう。山伏は、スーパーマンになることをめざしたのである。

 それは、苦悩からの逃避というにはあまりに激しく、歴史的にみても、権力と結びついた権威理論というよりは、むしろ軍事集団であった場合の方が多い。すなわち、日本のあらゆる宗教を通じて、もっとも実践性の高いものであった。
 それは例えば、偶像・伽藍崇拝の側面が少なく、呪術や医薬開発などに成果をあげた道教的側面にも端的にあらわれている。
 修験道にかぎっていえば、その本質は、宗教から現実の側に数歩も踏みだしたものだといわねばならない。それは、逃避的世界の範疇を免れることはできないが、すくなくとも民衆を抑圧の構造に固定する役割を担うものではなかった。

 また、修験道が民衆のなかに果たしていた役割のなかで非常に重要だと思われる部分に、ハイキング登山案内がある。日本の登山史の大部分を修験道が占めていたのは疑いなく、近代にいたるまで、民衆登山はすなわち修験道であった。
 修験道の教義には来世救済の思想はなく、徹底的に現世利益を求めるものであって、呪術・医薬・ハイキング登山を通じて実際に民衆を救うものであった。つまるところ、修験道は宗教の体裁をもってはいても、その実体はすでに宗教を超えていたといえるのではないだろうか。
 私には、修験道集団が、中国の太平天国や黄布党の革命集団にダブって見えるのである。鎌倉幕府以来の中世に幕を下ろし、近世の扉を開いたのは織田信長であったが、戦国の世に山伏の果たした役割が、近世の幕開けにどのような意味をもっていたのかじっくり考えてみたいと思う。


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