3月16日(日) 出社してます

今日は朝9時から出社して午前中ずっと打ち合わせ。
要件定義をどう進めていくべきか、仕切り直すための。
先週月曜にそのアナウンスのメールを見て、激怒。
「そんな大事な打ち合わせなら
 週末を待たず今すぐにでも仕事止めてでもやるべきじゃん!!」
ってことで平日毎日あれこれ時間を割いて状況を整理していたら
結局いろんなタスクが溢れて、しかも仕切り直しできず。
降参宣言する。
「・・・打ち合わせ日曜でいいっす」

打ち合わせを終えて、午後は掛け持ちしているもう片方のPJの仕事に専念する。
そしたら今、19時。まだ帰れそうにない。もうちょっとやらんと。
今週末後半からの青森帰省は無謀だったか。
21日休むのはいいとして、月曜24日の休みは諦めてもよかったなあ。
でも帰りの新幹線取ってしまったから変更するのもめんどくさく
「ま、どうにかなるでしょ」と休みの取得はポジティブに。
もしかしたら24日は東京駅から夕方、会社に来るかも・・・

4月4日(金)夕方〜5日(土)の盛岡旅行も無謀だったか。
このスケジュールのパツパツ状態から察するにこの頃首回ってないよ。絶対。
まずいよ。とりあえず来週末は出社してそうな気がするよ。

4月末を締め切りに要件定義と見積もりの提出ってことになってて、
遅れたらゴールデンウィーク返上かも。なので必死。4月超忙しい。
今年のゴールデンウィークがたいしたこと無くて大型連休じゃないのは、幸か不幸か。

それでいてPJの人に
「花見しましょう」とか「ボーリングやりましょう」とかって持ちかけてるオレって
なんかかなりトチ狂ってる。ハイパーな感じ。ソウ状態なのだろうか?
ってことはその後どこかでズドンと来てウツウツとした日々を過ごすことになるのか?
・・・たぶんそうなんだろうなあ。
自分のこと分かってるから、その辺やりくりするんだろうけど。だましだまし。

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昨日は昔会社にいた先輩のマンションにて家飲み。
吉祥寺でCDを売って、査定の間暇つぶして、人数分プリンを買って。
西武新宿線の駅までテクテクと歩いてみた。
帰りも西武新宿線の駅からアパートまで歩いた。
酔っ払ってたので道を間違えて全然知らない場所を歩き、
それでもなぜか勘が働いて帰り着くことができた。
ビールとワインをガブガブ飲んで今日は軽く二日酔い。
昨日は話した内容ほとんど覚えていない。

昨日、HMVで今最も気になるバンド「髭(Hige)」のマキシシングルと
ツアー会場でしか売ってなかったという
曽我部恵一バンドの限定発売のシングルを買う。

今週聞いてる暇あるだろうか。
あー心に余裕が無い。
このままだと3月残り2週間が一瞬で終わってしまいそうだ。

3月17日(月) 青森バトン 3/3

その3です。ようやく終わり。

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67.日本で最初のひらがなの市「むつ市」は、
  いわき市やひたちなか市さいたま市の先達であるという自負がある。

むつ市に住んでいたことあるけど。
先達だという意識、全くなかった。
今住んでる人もそういう意識あんまりないと思う。

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68.淡谷のり子と吉幾三が、郷土の有名人というのは少し寂しい。

確かに少し寂しい。
というか他にもっといるでしょ?
棟方志功に始まり、寺山修司、最近の人だと SUPERCAR が青森県出身だし
奈良美智は弘前でも個展を開いてるし、松山ケンイチに新山千春に・・・
そういえばケンドー・カシンは藤崎出身だ。

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69.太宰治記念館には行ったことがあるが、本人のことはあまり好きではない。

斜陽館のこと?太宰は大好きですよ、もちろん。
太宰治の子守だったタケが生まれ育った小泊村には、なんとタケの記念館がある。
生まれ育った村ということで。
(太宰の、ではないことに注意。他に観光資源がないのかもしれない・・・
 でも「津軽」を読んだことのある人ならば
 タケがいかに愛すべきキャラクターであるかがよくわかると思う。
 太宰を知るうえで非常に重要な人物の一人)
この記念館で「人間失格」の冒頭部分の直筆原稿用紙を
色紙にしたものが売られていて、買った。
会社の机の上に飾ってた。

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70.未だに「どんだんず」のネタを作りつづけている。

「どんだんず」は録音したテープを聞いたことがあるだけ。
あと、ネタを集めた本を持ってる。
青森ローカルのオールナイトニッポンみたいなもの。
まあ多分どこの県にもこういうのあると思われます。

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71.実は大間のマグロが、超高級品で有名だという事実を知らなかった。

最近になるまで知らなかった。
県外の人は新幹線に乗って八戸まで着いたら
そっから簡単に大間まで行けるものと思っているのではないか。

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72.「ゆっくり走ろうあおもり県♪〜青になったら・・・吉 幾三〜♪」を覚えている。

もちろん。僕が小さい頃、普通にCMで流れてた。
「雪国」で売れた後もしばらくは流れていたように思う。

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73.鱈のじゃっぱ汁が好物だ。

好物。けの汁よりはじゃっぱ汁。

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74.パンといえば工藤パン。

当然。高校の購買で買って食べたり。三角パンやイギリストースト。
あとカツサンドも工藤パンだったか。
青森でパンといえば工藤パンですよ。
ある意味、青森を代表する味と呼んでよいかもしれない。
全国的に有名だと信じて疑わなかった。

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75.八戸市出身の田中義剛が、
  北海道出身のように思われていることは、かえって好都合である。

カントリーな雰囲気を出してるからかねえ。

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76.震度5程度ではうろたえない。

全然うろたえない。
日本海中部地震は小学校2年か3年のとき。
バスに乗ってたのを覚えている。

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77.Mr.マリックより、Mr.マサックの方がすごいと思う。

知らない。こういうのらしい。
http://www.aba-net.com/ms/index.html

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78.「だびよん劇場」に行ったことがある。

残念ながら行ったことない。
伊奈かっぺいの昔のはよく「だびよん劇場」での録音で、馴染みがあったが。
今はもうないんですよね。

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79.「飛鳥」と言えば「チャゲ&飛鳥」ではなく「男性専科浴場飛鳥」だ。

これも知らなかった。
でも調べてみたら岩手の店で、既に閉店していた。
2ch では「東北の秘境 飛鳥」と紹介されている板が多かった。

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80.子供の頃、弘前公園の「菊と紅葉まつり」の菊人形を見て、怖くて泣いたことがある。

見たことがない。
とりたてて見たいとも思わない。

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81.「ねぶたのハネト人形」を持っている。

持ってないけど、親戚の家にはたいがいある。

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82.ゴルゴダで処刑されたのは弟で、
  実はキリストは青森で死んだと信じている。

信じている。信じてやまない。
そもそも嘘だという根拠がない。
いつか新郷村(旧:戸来村)に行く必要があると真剣に思っている。
ジェームズ・キャメロンもいつか取材に来るはずだ。

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83.キーボードで、わ(私)という文字を出すのに、
 「わたし」と打たなくても、「わ」で変換できるように設定している。

「わ」って言わなくなったからねえ・・・
状況当時、「僕」とか「俺」とか言い始めてとても違和感があった。

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84.日本語で表記不可能な発音がある。

津軽弁はたいがいの平仮名に濁点をつけることが可能。

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85.りんごジュースのメーカーにはうるさい。

そうね。アオレンよりシャイニー。

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86.「義塾」といったら慶応ではなく東奥。

んだね。

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87.羽柴誠三秀吉が、大阪府知事選に立候補したときは、裏切られた思いがした。

都知事選にも出てたよなあ。
こういう人。↓
http://www.hashiba-hideyoshi.jp/

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88.八戸では夏の土用といえば、うなぎでなく、ニンニクを食べる日だ。

これも知らなかった。精力をつけるってことか。

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89.県内産メロンのCMで、
 「あーまいレッド」などといったたわけたネーミングを見るたび、
  止めて欲しいと切に願ってる。

基本的に青森県民はセンスがない。
しょうがいないと僕は諦めている。

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90.夏のおやつは「青森ばっちゃアイス」(とっちゃもあり)だ。

チリンチリンアイスのこと?
秋田では「ババヘラ」って言われてるやつ。
あれはうまいね!!
東京にも是非進出してほしい。

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91.赤飯には、小豆のかわりに甘納豆を入れる。

赤飯は甘いものだという認識でずっと育ってきたんだけど
それって青森だけの話と知って、上京したばかりの頃かなりショックでした。
信じがたいぐらい甘くて、食事として食べるものとは到底思えなかった。
甘納豆が入っていたかどうかはよく覚えていない。
というか青森の赤飯は遠ざけて今でも食べない。

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92.卓球の「愛ちゃん」を応援ぜずにはいられない。

たまたまなんかの都合で県外から青森山田に入ったってだけであって
それぐらいのことで応援する気にはなれない。

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93.「高見盛」も応援しているが、あまり表沙汰にはしていない。

気になるけど、応援はしてない。

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94.金鳥の「カメムシキンチョール」を常備している。

金鳥のサイトでカメムシを紹介してた。
http://www.kincho.co.jp/gaichu/kame.html

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95.地吹雪に立ち往生し、
 「凍死する!」という恐怖に襲われたことがある。

真の青森県民はそれごときのこと恐れるわけがない。
立ち往生なんかしないで平然と歩くんじゃないの?
「あ、また地吹雪?」ぐらいのもの。

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96.子どもの頃「安寿・厨子王伝説」に涙した経験がある。

どういう話か忘れた・・・
青森となんか関係あんの?

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97.沢田教一こそ、真の青森県人だ。

そう言ってもいいだろう。知名度が低いのが残念だ。
ベトナム戦争を撮影してピュリツァー賞を受賞した「安全への逃避」の写真を
見たことがある人は多いと思う。
高校の先輩だったりする。

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98.古代ヘブライ語の民謡「ナニャドヤラ」を歌える。

歌えるわけないです。
でも、82.の戸来って「ヘブライ」から来てて、
この村で歌い継がれてきた民謡が「ナニャドヤラ」だということみたいだけど。

3月18日(火) それが、さよならだった日

昨日の夜、丸の内線に乗っていたら若い女性が2人乗ってきた。
派手な色のヒラヒラしたドレスっぽいものを着て、髪を上げている。
目の前に立っていたので、話していることが聞こえてくる。
女子大の謝恩会の後のようだった。
2人は同じ寮に住んでいて、そのうち1人は明日というか今日引越しで寮を出て行く。
「社会人になっても休みを合わせて一緒にどっか旅行行こうよ」とか
「××に住むんでしょ?だったら会おうと思えばいつだって会えるよ」とか
キャッキャと楽しそうに喋っていた後で
ふとした瞬間に急に2人とも黙りだして、
「今日でお別れなんだね」「あっけないね」としんみりしだした。
「今日会った友だちと言ってることの8割が一緒に写真撮ろうよだった」
「みんなでシャンデリアの下で撮った、あれが最後になるんだよね」
新宿駅で1人が下りて、バイバイとなる。
手を振り合って。「じゃあね」と。

切ない気持ちになった。
もっと正確に言うと、切ない気持ちを思い出した。

今思えばあの時が、あいつと、あの連中と、あの人たちと、会った最後だった。
高校の部室や大学の寮で毎日のように顔を合わせていて、
その渦中にいるときは暗黙のうちに、それが永遠に続くかのように感じていた。
改めて連絡先を聞く必要性など思いもしなかった。
今、別れのときがすぐそこに迫っていてそれぞれが新しい世界に踏み込んでいく。
そんなときであってもいつも通りのなんてことのない会話を続けていた。
時間が来ると「バイバイ」「じゃあな」って手を振って。
そしてそれっきり。

いや、もちろん、新しい連絡先を交換し合っても
いつのまにかやりとりが途絶えて音信不通になった。
そういう人たちだって大勢いる。
実際、そんな人たちばかりだ。

今ここで日々接している人たちともいつか別れのときが来る。
誰か1人がいなくなるのかもしれないし、僕がいなくなるのかもしれない。
ああ、あの人ともっと話しておけばよかった、こんなことを話しておけばよかった。
もっと仲良くなっておけばよかった。
そんな気持ちになるんだろうな。
何人かはお互い連絡先を知らないままになって、何人かは知っていてもいつか途絶えて。
これまでの人生がそうであったように。
寂しい気持ちになったところでどうすることもできない。

生きていくって、そういうことの積み重ねなのだと思う。
ぼんやりと、いろんなことを後悔して。諦めていって。
勇気が足りなくてできなかったこと。
僕が間違っていたこと。
その1つ1つを1人きりの夜に思い出して、数え上げていって。
そして他にどうすることもできないから、眠りについて明日を迎える。
その、繰り返し。
果てしない、日々。

せめてその日が来たら、ちゃんと「さよなら」が言えるように。
「さよなら」を言いたくないのなら、
掬い上げた両手から零れ落ちていく時間というものを
もっと思いやるのだということ。

3月19日(水) 今日は給料日

仕事に関係したりしなかったりするあれこれについて、最近のいくつか。

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1)

物を片付けられない。捨てられない。
これって今に始まったことではないが。
ここ2年は隣の部署の仕事をしていて、
年明けから今月初めまで席も隣に移動してた。フロアの反対側。
自分のとこと隣のとことで一時的に席が2つあった状態。
今月に入ってからは元々の自分の席に戻ってきて、荷物のほとんどを向こうにおいてきた。
自席に物がなくてほんと快適だった。
袖机もちゃっかり2席分使っていたり。

それが昨日の夜、フロア内の引越しってことで隣の部署の席を畳むことになり、
荷物を全部運んでこなくてはならなくなった。大変。机の上がごちゃっとしたカオスに戻った。
しかも仕事に関係のないものばっかりだったりするんですね。
例えば「死ぬまでに聴きたいアルバム1001枚」だとか「死ぬまでに観たい映画1001本」だとか
そういう辞書並みに分厚いガイドブック。
あるいは R25 や metro min. でとっとくことにしたやつとか。
うるさい上司なら「家にもって帰れ」って言うんだろうけど。
袖机の中の書類、何年も前のPJのは今回たくさん捨てた。だけどまだ溢れている。
片付けられない、捨てられない。
僕がビーバーだったら、とてもいい巣を作っただろうにと思う。

周りの人たちの机はきれいに片付いている。
いったいどうしているのだろうと不思議でならない。

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2)

上の話に付随して。
机の上はまあきれいさっぱり片付いているに越したこと無いけど、
僕自身はとっ散らかっていても全然困らないタイプ。
あれですね。部屋にコタツがあったら回りにいろんな物を、
他人からすると意味不明な、
本人にしかわからないルールで配置して「便利」と思うっていう。

こんなことを考えた:
机の上がどれだけ乱雑なことになっていようと、
人が1度に持って使える筆記用具は1つでしかないし、
それを使って書き込める書類はやはり1枚しかない。
あるいは、1度に打てるキーボードは1つでしかないし、
その瞬間に人が操作しているアプリケーションはやはり1つということになる。
だとしたらその周りで物が散らかっていようと片付いていようと、
仕事を行なうにおいての生産性ってのは何も変わらないのではないか?
なぜ机の上を片付けなくてはならないのだろう?

(誤解されるかもしれないので念のため断っておくが、
 僕はたくさん物があってカオスになっているのをなんとも思わないというだけであって
 部屋の掃除を一切しないとか、あちこちに服を脱ぎ捨てて無頓着だとか、
 食べた後の食器をそのままにして洗わないだとか、そういうことを言っているわけではない。
 むしろ、部屋の中は片付けても、普段使う机の上だけはとっ散らかるという)

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3)

打ち合わせの資料をコピーしてホッチキス留めして、
A3サイズの用紙は折ったりして、1枚目から並べていって、まとめてクリップに挟んで、
という作業がなぜかものすごく好きだったりする。
僕ぐらいの年になると下の人に「やっといて」でお任せでもいいものを必ず僕が自分でやる。
会社で仕事しててこんな楽しい時間は他に無い。なので他人には絶対あげない。
無心になって作業している。
頭使わなくていいし、責任が問われることもないし。
・・・って仕事したくないだけなのか。

いや。なんつうか。それだけじゃなく。
資料が資料としてまとまっていく過程を見ていると、
そしてそれが自分の手を動かしながらなされていくものであるとの視点があると、
なんか物事を形にしていってるなあという満足感があるというか。
IT業界っつうアコギな場所にいて、具体的に「生産的だなあ」という実感が唯一味わえる。

そういえば、それだけじゃなく。
僕たぶん単純作業が大好きなんですね。
本当は缶詰工場で働きたかった。今でもそう思う。
僕の中では工場というものが非常に美化されている。
あれこそ「労働」だろうと。額に汗して働くってことだろうと。
でも、「実際は1日で飽きる」「年収が半分以下になるかも」「体力的にきつい」ってことで
現実性がそこには全く無く。憧れだけがあって。

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4)

今日は給料日。
午後から社外で打ち合わせ、にかこつけて昼は八重洲か丸の内で食べようかと。

僕が昨年やってたPJについてあれこれ説明する。勉強会ってやつ。
なんか先月・今月とあちこちでそういうことばっかり。
それが高じて今日はついにお客さんのところでも。
知ってることを一方的に喋りまくって質問に答えていればいいんで楽といえば楽。

これが片付いたら一週間が終わりだ。
もうそういう気分。

3月20日(木) 青森帰省 その1

7時に目を覚ます。8時までウツラウツラする。
雨の音が聞こえる。昨日の夜からずっと降り続けているのか。

ボストンバッグに荷物を詰めるのは前の日までにあらかた済んでいる。
着替えやシェーバーを最後に詰めて部屋の外に出る。
傘を差して駅へと向かう。座りたかったので丸の内線に乗っていく。
端の方の座席に座って、ビニール傘は手すりに架けて、忘れたフリして置いていく。

東京駅。新幹線の改札をくぐる前に、駅弁を買う。
昨晩は銀座でコラーゲンしゃぶしゃぶ食い放題ってのに参戦して
死ぬほど食っておなかいっぱいのまま。それでも駅弁を食べずにはいられない。
9時半という時間だったせいか主だった駅弁は売り切れていた。
崎陽軒でシウマイを買おうとしたら普通の15個入りのが完売。
倍の数の30個入りにするか、それとも倍の値段の特製15個入りにするか。
どっちも値段的に変わらない。迷わず後者にする。うまかった。
さらに駅弁は中華弁当ってやつ。これは普通。

4連休にして旅立つ人が多いのか、
東京発八戸行きの新幹線は僕の見てる限り満席だった。
仙台で半分以上下りていった。

新幹線乗ってる間、ハヤカワから出ている
「ベスト・アメリカン・ミステリ」という短篇のアンソロジーの2006年版
「クラック・コカイン・ダイエット」というのを読む。
「ミステリ」と名前についてるけど、いわゆる推理小説ではなく。
トリックやどんでん返しの見本市では全然ない。
編者の前書きにあるように、作品中のどこかで犯罪に触れた、
アメリカの優れた短篇を集めた作品集というのに近い。
犯罪と言っても物々しいものではなく、
人という生き物がそもそも罪を犯して生きていくものであるのなら
そのことに自覚的な小説は全て広い意味でのミステリであって。
なので読んでるとそもそもが今のアメリカを描いた良質な短篇ばかり。
読んでて唸らされる。小説って面白いなあと久々に心ゆくまで堪能した。
冒頭の「船旅」ってのが特にすごかった。
短い文章の中に1人の人間の人生とそれが向かうものを描ききっている。
そしてそこにはちゃんと「奇妙の味」もあって。
以後、他のどれも、きちんと人間が描けてる。
トリックやどんでん返しが鮮やかに決まってる
ジャンル小説としてのミステリもあったり。読んでて胸がすく。
最近仕事が忙しいってことでおろそかにしてたけど
僕も小説書かなきゃとやる気が出てきた。
「これぐらい書けたら!」という憧れが一番のエネルギー、発奮材料になる。

ビールを飲んで、コーヒーを飲んで、読書の心地よい疲れがあって、
盛岡の辺りからうたた寝。最近いつもこのパターン。

八戸で乗り換える。
野辺地を過ぎて、物陰にちらほらと雪が見えるようになる。

青森駅到着。雪はないが、気温は低い。
東京じゃ今ダウンジャケットでは暑いけど、青森だとちょうどいい。
コインロッカーにボストンバッグを押し込んで、
お土産の「とらや」の羊羹を1本取り出していつもの床屋へと向かう。
久しぶりだったので驚かれる。
去年帰ったときはご主人が入院で休業してた。
もしかしたら今日行っても店が閉まってるのではないか・・・
と思いつつ通りを歩いていたら、やってた。

待ってる間、棚にあった「稲中」に目が留まって読む。
何年かぶりに読んで腹抱えそうなぐらい笑った。
これってこんな面白かったのか!いや、面白かったんだよ!!
東京戻ったら部屋に全巻あるので最初から読み返さなきゃ!と思った。
テレビでは生中継で??土井宇宙飛行士が
宇宙ステーションからスタジオの人たちの質問に答えていた。
なんと福田総理まで出てた。
あちこちで吊るし上げにされてる今、
暢気にこういう番組出てていいの!?と他人事ながら気になった。

顔を剃ってもらっていると床屋の電話が鳴って、母からだった。
「お母さん、銭湯に行くからだって」と言伝を受ける。
新幹線で青森に帰ってきたその足でいつも床屋に行ってるので、
そろそろ床屋で髪切ってんじゃないかって頃に僕を捕まえようとして店に電話をする。
切り終えて外に出て携帯を見てみたら母から着信があって留守電も入っていた。

夜店通りの古着屋を回る。さらにシャッターの下りている割合が高くなった。
来るたびに「寂れてるなあ」「でもこの不景気も底を打ったんじゃないか?」と思うのだが、
今度こそ本物か。もう両手で数えられるぐらいしか残っていないのかも。
閉店セールをやってる店もあった。
昔からの店もなくなっていた。
古着屋じゃないけど、CONVOYがなくなっていたのが残念だった。
いい店だったのにな。もったいない。遂に閉店か・・・
新町の通りに人が集まんなくなってアスパムの前に移転したけど、
それはそれで人通り少ないだろうから。大丈夫かなー、と心配してたら案の定。
今回いっきにバタバタ来たような印象を受けた。壊滅状態。終焉。
何があったんだろ。単に不景気ってだけでは済まされない何かがありそう。
BATHING APE もなくなってた。
EVISU はかろうじて残ってた。

AUGA の中の PAX で CD を買う。
これまた恒例の、東京では既に店頭在庫なさそうなのを物色するという初日の習慣。
MOBY「HOTEL」の限定盤っぽい2枚組と Aqualang の日本盤。
他にもあれこれ買って聞きたいのはあったけど、東京でいつか買えると我慢する。

「さくらの」の食品売り場でカレー用のブロック肉を買う。
500g って言われてたんだけど安いパックのが足りなくて、精肉売り場で高いのを買った。

ボストンバッグを取りに駅まで戻って、その後バス亭へ。
ちょうど行ったばかりで30分近く待って次のバスに乗る。
僕の家のある路線はあんまり本数が多くない。
本を読み疲れて窓の外に目をやると
パチンコ屋が潰れてその跡地には大きなドラッグストアができて、
その近くに別のパチンコ屋ができて。そういう光景。

小学館文庫から出ている中上健次選集の「岬」を読む。
1976年の芥川賞を受賞した代表作の1つ。
書店にはもうないから、amazon で探して取り寄せた。
遅ればせながら生まれて初めて中上健次を読んだわけですが。
すげーよ・・・
さすが「日本のフォークナー」と呼ばれるだけあるな・・・
こういう書き方、こういう文体、ありそうでなかった。
うまい下手を超越して言葉の一文字一文字に魂を込める力がハンパじゃない。
聖なる地虫がウジャウジャとこの世の全てを埋め尽くし、這い回るかのよう。
30過ぎた今読んでこれだけの衝撃なのだから、学生時代に出会ってたら耽溺してただろう。
それは幸か、不幸か。

バスを降りて18時近く。外はまだ明るい。
この季節この時間に空はどこまで明るかっただろうか?
そういうこと、忘れてしまっている自分に気付く。

家に帰り着く。
荷物を置いて、すぐその足で銭湯へ。
帰ってくると餃子が焼きあがっている。母は息子の好物を用意して待っている。
よゐこの出ている番組を見ながら、もう食えないってとこまで餃子を食べる。
食べ終わって部屋に引き上げる。
普段使われていない僕の部屋の真ん中に母の服を架けたハンガーラックが置かれている。
めんどくさいから、他の部屋に移すことはしない。
食器を洗い終えた母から「拭いてよ」と頼まれ、母と並んで流しに立つ。
先日京都で行われた、会社の後輩の結婚式の話をする。

前に使ったのは半年前の夏か。
洗面所にて、仕舞われていた僕のコップや歯ブラシを取り出す。
スリッパも仕舞われていた。
電気スタンドやミニコンポの電源ケーブルを延ばす。
部屋のストーブをつける。
お茶を沸かすけど飲むかと聞かれて、部屋まで持ってきてもらう。
買ってきたCDを聞く。本の続きを読む。

3月21日(金) 青森帰省 その2

8時に起こされる。
朝食。サラダ、ハム、目玉焼き、ご飯、味噌汁。
食後にリンゴを食べる。お茶を飲む。

居間、玄関、台所と掃除機をかける。

母に頼まれて一緒に郵便局に行く。
僕名義の定期預金があって、満期になって、どうのこうの。
何年か前から郵便貯金の制度が変わって、
本人を証明する書類が必要だったり本人そのものが必要だったり。
最近は帰省するたびに何かしらそういうのが出てくる。
郵便局まで歩いて行って、窓口であれこれ書類を書いて手続きをした。
住所を変更したり新しく口座を作って移し変えたり。
母の金であって、僕の金ではない。
何がどうなってるのかよくわからない。特に知りたいとも思わない。
何も考えず言われるがまま名前や住所や生年月日を書く。
母が通帳を取りに家まで戻っている間、椅子に沈み込んで眠った。
目を覚まして母が戻ってきたことを知る。
母は僕が高校時代に着ていた白のハーフコートを、
10数年後の今に至るまで着ていることに気付く。

帰ってきて、古本屋に売るために母が選り分けていた本を段ボール箱に詰める。
BOOK OFF に売る。その買い取り手続きは東京で既に済ませてある。
ネットで申し込んで、日時を指定して、宅配便が引き取りに来る。
玄関に山と積まれた本を見て、母は「準備」をしているのだなと思った。
単に要らない本を売りたいというのではなく、
今から少しずつ少しずつ身の回りのものを整理していくのだということ。
いつか来るその日のために物を少なくしておく。
いくつかの本は背表紙に見覚えがあった。
父の持っていた本だ。小さい頃から本棚でよく目にしていた。吉川英二全集であるとか。
だけど僕が手に取って読むことはなかった。小さい頃であれ、大人になってからであれ。
それが今、二束三文で売られていく。
母の本や小さい頃の僕らの本も混ざっていて、
佐藤愛子の「娘と私の部屋」とシャーロック・ホームズ全集、
それと子供の頃によく眺めていた小さな料理の本を手元に取っておくことにした。

昼に昨日の餃子を温めて食べて、
午後中上健次を読んでいると宅配便業者が段ボールを取りに来た。

その後ずっとむさぼるように、中上健次。いっきに読み終える。
これかなりやばいね。小学館文庫の選集全部集めて読まないと。
しかも会社の行き帰りにちょっとずつ読むんじゃなく、
今回みたいな機会にガツッと読みたい。
むせ返るような言葉の渦に浸りたい。
「岬」とそれに続く連作を読んだばかりの今、
その終着点にして最高傑作とされる「枯木灘」が読みたくてたまらない。

で、次に読み始めたのが講談社文芸文庫から出ている
林京子の「祭りの場・ギヤマン ビードロ」
中学か高校の国語の教科書に乗っていたのをふと思い出し、ずっと読みたくていた。
今度帰省したときに、とずっととっといていた。あーようやく読める。
(講談社学芸文庫の棚の前に立ったとき、津島祐子とどっちを読むべきかかなり悩んだ)

銭湯に行って、帰ってきて早めに夕食。明日朝早いため。
母の作ったカレー。
2杯食べたかったが我慢する。

青森帰ると確実に太る。
昨年夏帰ってきたときは夜、すき焼きだっていうのにさらに刺身があって。
さらにあれもあってこれもあってとたくさん出てきて。
ごはんはお代わりしないのかと。
なのに食べてる途中で「腹八分目にしときなさい」と言われたりする。
・・・矛盾してるじゃん。
中学生や高校生のようにバクバク食べて太らなかった頃から、
母の中で時計が止まってるんだろうな。そういうのを計る時計が。
で、世の中の大半の巣立っていった息子を持つ母親ってのがそういう感じなんだろうな。

明日の父の27回忌にあたって、位牌を忘れないようにと母が言う。

3月22日(土) 青森帰省 その3

7時半起き。昨日の残りのカレー。家中に簡単に掃除機をかける。
その後しばらく待つ。「ベスト・アメリカン・ミステリ」の続きを読む。
9時半頃だっただろうか、津軽線に乗ってきた祖母を伴って妹が来た。
妹が運転して、4人で車に乗って、本町にあるお寺へ。父の27回忌。

岡町の田んぼを貫くようにして高架橋のようなものができていた。
聞くと「青森新幹線の操作場の・・・」ということだった。
その関係で僕がそれまで知らなかった場所にトンネルができていて、くぐる。
平地に出る。この日は天気がよく、八甲田山だけではなく、珍しく岩木山も見えた。
その後海沿いの道に出る。
港の方を走っていたら「船の博物館」ってのがあった。

11時より法要。
4年前の23回忌に来たときには、映画を撮っていたから、
そういうの全部ビデオカメラで撮っていた。
今回はそういうこと、もちろんしない。
僕とそれほど年の変わらない若い住職が広間に入ってくる。
僕ら側は椅子が用意されている。正座する必要がない。
鐘が叩かれ、読経が始まる。小さい頃はこの時間が苦痛でじっとしていられなかった。
今はそうでもない。とはいえ、聞いてても意味がよくわからないのは変わらない。
住職がお経を読む声を聞きながら、取り留めのないことを考える。
父のことを考えるわけではない。ただ、最近のあれこれを。

法要が終わって、母は片付いてよかったと言う。
昨日の郵便局での手続きや古本を売り払ったこと、
今回の帰省ではあれこれいろんなことが片付いたようだ。
その後、また車に乗って森林博物館の向かいにある和食の店で食べる。
この店は前回、昨年の夏に来たときも母と2人で来た。
天ぷらの食べたい気分だったが、夜のホテルで出るだろうと掻き揚げ丼にする。

位牌を落ち着かせるためにいったん家に戻る。
野辺地の温泉ホテルに4人で泊まることになっていたが、
祖母は体の調子が思わしくないということで行かないことになった。
津軽半島の先、今別町の家まで送っていくことになる。
最初は妹だけのはずがせっかくだからと僕も母も乗っていく。
今別の家も実に4年ぶりだ。
小さな頃は夏休み・冬休みともなると
すぐ津軽線に乗って泊まりに行ったものであるが。
4年前の正月に泊まったのが最後。
それ以後、そもそも正月に青森に戻ってきていない。

新しいバイパスを走って、一本道をいっきに奥内・後潟・蓬田・蟹田と抜けていく。
晴れていて、車内は暑かった。ダウンジャケットを脱いだ。
山間の道を走る。この辺りもほとんど雪が解けている。
途中でウトウトしているうちに到着する。
村というより、集落。津軽の奥地。山の中の小さな一帯に家が寄り集っている。
日用品と食料品を売る店がいくつかあるだけ。
週に2回だったか、遠くの町から野菜や鮮魚を売るトラックが止まる。

祖母の家へ。中に入ると叔父が1人でテレビを見ていた。
飲め飲めと缶ビールを渡され、飲む。
運転してる人もいるのだからと母はいい顔をしない。
それでも勧められたのだからと飲む。すぐ飲み干して2本目を飲む。
空になった焼酎のボトルに山ウドを水に漬けたのを、祖母は持っていけと言う。
「祖母に」と持ってきた養命酒の瓶を見て、母と叔父はいつものと違うという話をする。
棚に仕舞っていたのを持ち出して、ラベルが違うと。だけどメーカーは一緒じゃないかと。
どうも薬屋で薬用に売っているものと酒屋で売っているものとで区別している、
ということだった。本来は同じ物。でも値段も薬用の方が安いようだ。

長居せず、すぐにも出て行く。
僕はロングの缶ビールの6本パックをもらう。
帰りの車の中で、この辺の木は何なのか母に聞く。
杉と松、ところどころヒバ、ということだった。
周りに葉を落とした木々が立ち並ぶ中、
3月のこの時期、杉と松は深緑の葉をつけていた。
「この辺りに立っているのは赤松で、海辺に立つのは黒松、男松」
ラジオをつけてこの日開幕したばかりの高校野球を聞く。
宮城の東北高校と滋賀の北大津高校。
最初は東北高校が勝っていたのが北大津高校に逆転されて負けた。
そういえばダルビッシュは東北高校だった、ということを思い出す。

蟹田から、海辺を走る。
海の色は穏やかな青。津軽の冬の灰色の海ではない。
青森に春が来たのだということを知る。

15時頃着。家に立ち寄って温泉へと向かう。
正式名称は「まかど温泉富士屋ホテル」
パンフレットの写真を見るととても大きかった。
箱根の富士屋ホテルのチェーンらしい。
青森の温泉っていうとよく名前を目にするなあと思い、
最近できたのかと聞いてみると、そうでもなくて昔からあるようだ。
ただ、経営者が替わって、それから大きくなって有名になったのだと。

野辺地までは1時間ちょっと。
合哺公園から造道の方に出て、浅虫温泉へ。
青森駅前は寂れてしまって久しいが、
この辺りの、青森市の大動脈である国道4号線、
それを挟むロードサイドの店舗はそれなりに栄えていた。
アメリカ屋であるとか、駅前から撤退した昔からの店も残っていた。

夏泊半島、平内、野辺地へと進んでいく。
「大和山」の標識の前を通り過ぎる。あれこれ聞く。
青森では有名なようだ。僕は知らなかった。
その次に見えてきたのが「夜越山公園」
子供のための遊戯施設やサボテン公園がある。スキー場もあったような。
小学校の低学年の時、遠足で来たことがあるのを思い出す。
山の斜面をおもちゃのソリのようなもので滑り降りた。

海の向こうに下北半島。
白い棒のようなのが何本も何本もニョキニョキと生えている。
ここからでも見えるから、相当な高さだ。
後にホテルの人から六ヶ所村の風力発電施設だと教えてもらう。

道路沿いに「711.3 km」というふうに小さな標識が立っている。
東京からの距離。恐らく日本橋を基点とする。
そうか、東京から青森まで 700km もあるのか、と今更ながら知る。
ちょうど 700km の地点は平内と野辺地の境目だった。

平内を過ぎて野辺地に差し掛かる。
母が以前訪れたとき、「津軽と南部の境目」を示す物が建っているのを見たのだそうな。
探しているうちに通り過ぎてしまう。
ちらっと見たら海沿いの小さな広場に、関所のようなものがあった。

ホテルに到着する。立派な構えだった。
ロビーは吹き抜けで、小さなねぶたが飾られている。
客間に案内されてさっそく温泉に入る。
奥内の大浴場と露天風呂がある。
露天風呂と言ってもたいして景色がいいわけではなく、
まあ屋外に風呂があるといった程度のもの。
4年前の法事の時の浅虫の温泉の方が眺めがよかったなあということを思い出す。
あの時は椎間板ヘルニアだと知らず、
左肩がやけに痛いなあ、温泉で直らないかなあと思いながら入ったものだった。

温泉に浸かって、あれこれとりとめもなく考える。
主に今書いているのと、次に書こうと思っている小説のこと。
どちたも舞台のモチーフが青森となる。
ここ何日かで見た、特に昼に訪れた津軽の奥地の風景のイメージを言葉に重ね合わせる。
仕事のことは考えなかった。
今回はここ何年かの帰省の中では珍しく、仕事の悩み・不安が全く無かった。
忙しくて今この時期休んでる場合じゃない、ってのに目をつぶれば。
それ以外は心に引っかかるものは何も無く。
穏やかな気分で温泉に入ることができた。

温泉を出た後は部屋で缶ビールを飲みながら、
「ベスト・アメリカン・ミステリ」の続きを読む。
18時半になって食事。部屋に運ばれてくる。
貝焼き味噌、牛のしゃぶしゃぶ、ホタテ釜飯。これらは固形燃料に火をつけて温める。
その他にアワビと海老と鯛の刺身、金目鯛の煮付け、小さな壷に入ったビーフシチュー、
などなど。豪華なもの。27回忌の法要の締め括り。
生まれて初めてナマコを食べた。
「出されたものは全てきれいに平らげる」をモットーにしている僕は
茄子の漬物だと思って間違えて口に入れて、仕方なくそのまま食べた。
それまでの人生で「これは絶対自分に合わないだろう」と思って食べてこなかったのだが、
正にその通りだった。ナマコとホヤだけは口に合わない。
ウニや一枚貝のいくつかも苦手。つまり魚介のうちでグロテスクなもの。
でもこれで一通り、「今まで食べたことがない」という食べものはなくなったかもしれない。

食べ終えてまた温泉に入りに行く。
19時半だったか。
周りは食事の時間だったのか、男湯は最初僕だけだった。
星空を眺めながら一人で露天風呂に入った。

温泉を出て、部屋に戻る。
ハーゲンダッツのバニラを食べながら「ベスト・アメリカン・ミステリ」を読む。
21時頃。母も妹も寝ていたので、僕も布団に入る。

3月23日(日) 青森帰省 その4

慣れない布団、というか慣れない空調のため
完全に寝てるのとうたた寝を行ったり来たりする。
たくさんの夢を見る。寝てる間ずっと夢を見ていたように思う。
ものすごく長く寝たような気がして、物音がして目が覚めたら6時だった。
母は既に一風呂浴びた後だった。
外は寒くて、露天風呂に入ったら風引きそうになったと言った。
僕も入りに行く。6時だというのに結構な人がいる。
昨日・今日と、遊びたい盛りの小さな子供と一緒の父親をよく見かける。
土日に家族で訪れるにはちょうどいいのかもしれない。

朝食は1階の広間で。2人用、3人用、4人用など分かれている。
貝焼き味噌ではないが、ホタテ貝の上に出汁と帆立など具材を入れて焼くのが出てきた。
焼鮭に漬物など。その他、生野菜のサラダやご飯、味噌汁はバイキング形式。
野辺地町の隣の平内町はホタテを全面的にアピールしている。
もちろん野辺地もホタテが取れるはずであって、旅館やホテルの食事はホタテがメインとなる。

会社と大家さん向けに東京土産のお菓子を買う。
昨日、部屋に通されたときに食べたお菓子が不思議な味わいで、これにしようと思う。
会社で食べようと南部煎餅も買った。

そういえば昨日書き忘れたが、ここのホテルには「ディスコバー」なるものがあった。
2階にあって、営業開始前に行ってみたら分厚い両開きのドアが閉じられていた。
青森の片田舎のディスコ。どんななのだろうか・・・
とても気になった。ユーロビートでパラパラを踊ってそうな・・・
そうか。ディスコってのはこういう地方で化石のように、退化した姿で生き残っているのか。
10年前にススキノのキャバクラで聞いたような、けたたましいテクノもどきが鳴ってそうだなあ。
で、赤とか青とか黄色のフラッシュライトが入り乱れて。
あーちょっとでも覗いておけばよかった。
団体さんが中で2次会やってていい年したオヤジが盆踊りみたいなのを踊ってて。
女性の店員がサクラで踊ってるのだろうか。ペラペラの衣装を着て。
もし誰か専属でダンサーがいるのだとしたら、それ、とても気になる。
旅館で働いている人にはそれぞれ触れてはならぬ「過去」と「本名」があるとするならば
(全員が全員そんなわけないけど、というか少数なんだろうけど)
同じようにホテルで住み込みで働いているダンサーにも過去があるはずで。
昔は地元の札付きのヤンキーで青森を飛び出したんだけど、
結局戻ってきて今でも化粧は濃いとか、そういうやつ。
夜のそのディスコの店員だけだと食えないから、昼は普通に布団の上げ下げをやってるとか。
こういうのを設定に小説が書けるなあと思った。

ここには居酒屋もあって、夜、本を読みながら酒を飲もうかと考えたんだけど、
どれも座敷の席だったので雰囲気が違うなと諦めた。

食後、すぐホテルを出て青森に戻る。
帰りの車の中は特に話すこともなく。
あっという間に1時間もしないで到着する。

昨日から食いすぎの傾向なので昼は食べない。
「ベスト・アメリカン・ミステリ」を読み終える。

カレーの残りやお土産など、あれこれを荷造りして段ボールに詰めて宅急便に出す。
明日の夜、東京で受け取れるようにする。

夕方、銭湯へ。
16時といつもより早めに行ったらいつもと違って大勢入ってた。早々に出てくる。
夜、母とイタリア料理屋 Adesso へ。
魚系のラビオリや虹鱒のソテーを食べた。うまかった。
話しているうちに母方の親類の話となる。祖父よりも前の時代のこと。
「青森市内の高校(当時は中学)に合格したんだけど、
 津軽半島の先っぽの今別まで合格通知が届くのが余りにも時間が掛かって、
 手続きが遅れて不合格扱いとなった」といった話。明治のこと。
叔父がその当時のことを聞き書きでまとめてて、
その小冊子がまだあるとのことで家に帰って探したら、あった。
家系図が載っていて、何代か前に僕と同じ名前を見つける。

5日間の休みも4日目が終わろうとしている。早いもんだ。

部屋の中には僕が高校時代3年間に乏しい小遣いの中から捻出して
レンタルからCDを借りてきてダビングしたテープが山のようにある。
帰省すると夜、懐かしくなって聞いたりする。
(まあたいがいはその後大学生・社会人になってCDで買い直してますが)
これらテープはそのときの気分でどれかを聞くというよりは
ここ何年か聞いてるのはだいたい一緒。
Todd Rundgren のベストと、Peter Gabriel の4枚目と5枚目。
ああ、僕はこれらのアルバムがとても好きなんだなー、と知る。
こればっかり聞いてる。聞きやすくて、耳にとても馴染んでる。
無人島に1枚だけ持っていけるとなると別なもの選びそうだけど、
5枚まで持っていけるとなると、この2人のアルバムは絶対入るのだと思う。

3月24日(月) 青森帰省 その5

8時に起こされる。
知人にもらった弘前のレストランのハンバーグなんだけど、おいしそうだからどう?
と聞かれて、レトルト入りのハンバーグを温めて食べてみる。確かにおいしかった。

食後、家中に掃除機をかけて、部屋の拭き掃除をして。
外の窓は冬の間の汚れを落としていないからいい、と言われる。
石油ストーブが「給油」のアラームが鳴って、電源を切る。
この冬はもう使うことはないだろうからちょうどいいタイミングだった。

後はもう、出るだけとなる。
八戸行きの特急は11時40分。
青森駅へと向かうバスは10時40分の前が10時5分しかない。
間が悪く、早過ぎるが10時5分のに乗っていく。
母が自転車に乗ってバス停まで送りに来る。
今日は風が強く、寒かった。ダウンジャケットでちょうどいいぐらいの。
バスは遅れてて、いつまでたっても来ない。
「東京は今日、雨らしいよ」と母が言う。
バスが来て、乗り込む。

古川で下りて、(青森県観光物産館である)アスパムへ。
青森県立美術館より奈良美智グッズを買ってきてくれとリクエストがあって、
そりゃ遠くて行けないよって返答をしてたんだけど
(バスを乗り継いで片道2時間近くかかるので、半日仕事となる)
アスパムのお土産コーナーならもしかしてなんかあるんじゃないかと
あんまり期待せずに試しに入ってみた。
探してみると「A to Z」とかいう企画で
奈良美智デザインのワンカップ大関3個入りセットみたいなのがあって、
それを買うことにした。

アスパムの裏は青森港。陸奥湾の写真をった。
今日は曇っていて気温が低かったので
それを感じ取って海もまた灰色の寒々しい色をしていた。

成田本店で帰りの新幹線の中で読む本を探す。
取り立てて今読みたい、と思った本はなかった。
中山康樹の「ディランを聴け!! 」を見つけて、暇つぶしにいいかなと買う。
「マイルスを聴け!!」のボブ・ディラン版。
これ、確か絶版で手に入らないんじゃないの?と思って
今帰ってきて調べてみたら正にそうだった。
amazon で中古で3,000円とか5,000円って値段になってる。
買っといてよかった。定価の\1,000ちょっとで買えたのは
もしかしたら今回の帰省で一番の収穫かもしれない。
さすが青森。意外なものがあっさりと売れ残っている。

(駅ビル)LOVINAのお土産屋コーナーに立ち寄って、「豊盃」を探す。ない。
三浦酒造の、最近話題の。昨日、青森ローカルの番組でも取材されていた。
前回買って帰って飲んだらうまかった。あったら買っときたいなあと思った。
この前は駅のキオスクで見かけたんだよなあとそっち行ったらあった。
大吟醸が\3000もして高かったので、普通の吟醸にする。こちらは半額。

駅弁を選ぶ。
乗り換えの八戸で選んだ方が種類は多いんだけど、今回は青森駅で買うことにした。
あっさりしたものがいいなあと「津軽の笹寿司」というのを買ってみる。
笹に包まれた寿司が5個。鮭が3個で鯛が2個。
青森に住んでいた頃に食べた笹もちを思い出す。
どこが製造元なのだろうと包装紙を見てみたら
家のすぐ近くに工場があるということが分かった。
近所のヨシミで贔屓目に見るわけじゃないけど、割とうまかったように思う。

八戸で乗り換えて、新幹線は盛岡・仙台で雨。

林京子「祭りの場・ギヤマン ビードロ」の続きを読む。
面白かった。とても面白かった。読み終えるのが惜しかった。
幼いときに長崎で被爆したことの体験を連作集として語っていて、
そこに後世の読者の好みが出てきそうですが。
しかしこれをいわゆる「被爆文学」として遠ざけるのはもったいないことだ。
人には何かしら全生涯をかけて語るべきものが何か一つあって、
この人にとってはそれが長崎での出来事だったというだけにすぎない。
(「すぎない」と軽く片付けるわけにはいかいないんだろうけど・・・)
その「全生涯をかけて語るべきもの」の先には
優れた作家ならば誰しもが語っている「人間とは」「生きるとは」に対する
その時々での答えが悩みながらも語られていて、
そこに触れられるということこそが文学を読むという行為の醍醐味なのだ。
日本語で書かれた素晴らしい小説を読むことができて、日本人でよかったと思った。
この人の文章は他の言葉に翻訳されたならば
単なる出来事と感情・情緒の細かな羅列になってしまって
大事なものが失われてしまうだろう。
そういえば結局、どれが国語の教科書に載っていた文章だったのか
読んでて僕は思い出せなかった。

東京に着く。母に電話する。東京は雨が降っていなかった。
アパートで荷物を片付けていると、宅急便が届く。
お土産の幾つかを大家さんのところへ家賃と一緒に持っていく。
母の作ったカレーを温めて食べる。
これで今回の青森帰省は、終わり。

寝るまでの間、小説を書く。
書く気になっていてもたってもいられなくなった。
正月から書いていた長編は同時並行でちょこちょこ書きつつ、
100枚の先日書いた筋書きのやつを。
帰省してあれこれ考えていくうちに僕の中で何をどうしたいのかがわかった。
何を言葉にしたいかがはっきりすると、それをどうしても書きたくなった。
帰りの新幹線の中で携帯で打ち込んだ。
4月の土日に書いていってゴールデンウィークにはいったん書きあがると思う。
今、仮のタイトルは「見張り塔から、ずっと」

3月25日(火) 黒豚コラーゲンしゃぶしゃぶ

青森に帰省する前の日、19日の水曜日、
2年間所属していたPJの飲み会があって急遽参加。
仕事が忙しいし最初断ってたんだけど、
「黒豚コラーゲンしゃぶしゃぶ食い放題」ってのがどうしても気になって。
なんだよ、コラーゲンでしゃぶしゃぶって!?
食べずにはいられなかった・・・
その日やっておきたいタスクは多々あって終電で帰ろうかなあって
ぼんやり考えていたの、全て投げ出して。
その日デッドラインのタスクだけ終わらして、会社飛び出す。
場所は銀座に新しくオープンしたばかりの「春夏秋豚」って店。
http://r.gnavi.co.jp/g310111/

後輩が昼に、「できたばかりだから絶対、店員の応対よくないですよ」って主張してて、
「いや、まさか。銀座だよ?」と僕は言う。
が、・・・正にその通りだった。
とにかく出てこない。何も出てこない。
オーダーした飲み物が出てこないし、そもそもデフォルトのコースメニューも出てこない。
これって僕らだけじゃなくて、僕らの前の席にいた人たちもやんわり文句言ってた。
どういうシステムなのか。
店の中が暗くて注文を取るリモコンみたいなのが見えない。店員が操作できない。
そもそもそういうレベルに始まるテイタラク。
「銀座だからしょうがないよね。ペースが遅くても。
 肉のハナマサの食い放題じゃないんだし」という声も上がるも、僕は激怒。
「銀座だろうと何だろうとこっちは金払ってるんだし、
 食い放題・飲み放題がメニューにあってそれ頼んだんだからちゃんとやってほしい。
 むしろ銀座だからこそプロ意識をもって臨んでほしい。話にならない」

飲み放題だっていうのに、全然来なくて5回も6回も呼びつけて、
それで最後店長らしき男性が出てきて「すいません、入ってませんでした」と・・・
いったい何がどうなってんだか。
肉も最初来なくて、どころかそもそも鍋が来なくて。
学生時代、吉祥寺のカニ食い放題 \3,980 の店に行ったら、
僕らのテーブルだけ店員のおばちゃんがオーダー取りに来なかった。
結局お代わりできたの2回だけ。あれは最悪だった。それに近かった。
ようやく飲み物が来た時に「またどうせ来ないから」と
来たその場で即、人数分よりも倍の量のビールやウーロン茶を頼む。
それがポツポツ来出してテーブルの上を占領し始めて、
なんかいきなり僕らのテーブルだけ
新橋の白木屋で新人歓迎会の終電前って状態になる。

なんて書くといいことなさそうだったけど、
しゃぶしゃぶそのものは、肉そのものはうまかった。
それまでブーブー言ってたのが一瞬でチャラになるぐらいの。
目が大きく見開いて、両目に「!!」って浮かぶ感じの。
西原理恵子が昔言ってたところの
「リーチ目」の女性がいたら連れてきたいと思う、あのレベル。
2人でゆっくりとおいしいしゃぶしゃぶを楽しみたい。

が、この日は僕ら男6人だったので・・・
このテーブルはひたすらがっついて。肉、また、肉。
大皿で5人前届いたら即、「追加であと、5枚!」って叫ぶような。
で、1枚1枚鍋に入れて「しゃぶ。しゃぶ。」ではなくて
いっきに全部はがしてガーッと突っ込んで流し込んで。
煮えたら肉を塊ごとタレの中へ。まるで寄せ鍋。
薬味が9種類あって、その1つ1つの違いをそれぞれ楽しむべきなんだろうけど
「めんどくせー」つって何種類か一度に混ぜ込んで。
ポン酢しょうゆの中にもみじおろしと抹茶とネギとゴマとおろしにんにくを、みたいな。
でも、それでもうまかった。

どうせこねーだろと肉をたくさん頼んでいたら、
最大8皿がいっきに届いて。5皿届いて、さらに3皿。「オーダー入ってましたよ」と。
それまでに確実に10皿は食べてて。
その時点ではまだ食えてたのが、途中からみな食えなくなり・・・
せっかく頼んだんだからといやいや食べる。
「漢(おとこ)足るもの」と精神論を語りだし。
あれだけ店の悪口言っといて頼んだ肉食べ残したらそれこそ恥でしょ?
足を引き摺ってでもなんとか完走しようとする「肉マラソン」状態。
そんで結局、負けた。
勝負にも負けたし、試合にも負けた。
さすが銀座。侮れない。
終始向こうのペースにやられっぱなし。要約すると
「来ねーじゃん」
「来ないことを見越してたくさん頼んだら、ほんとに全部来た」
「いっきに来られても食えないよ!って逆切れ」
せめて最後の3皿を断る勇気が僕らにあれば。
締めの雑炊は「もう食べれません」って断った。
ほんと、屈辱だった。
この僕が、食べ残すなんて・・・

そもそも男6人で来てコラーゲンのありがたみなんてあるわけないのに。
肌がツヤツヤになったところでどうするよ?
とにかく、次は女の子見つけて、2人で来ます。

3月26日(水) 青森にいる間に、思い出したこと

青森にいる間に、思い出したこと。
昔書いたことがあったかもしれない。

小学校4年生だったか5年生だったか、
バレンタインデーの日にクラスの子からチョコをもらった。
生まれて初めてのことだった。
家に帰って母にその話をした。母が笑って、喜んだ。
ホワイトデーの前日、母が近くのスーパーで買ったクッキーがテーブルの上にあって、
その子に学校で渡すように言われた。
僕は次の日、学校でその子に渡した。
何て言って渡したのか、その子がどんな反応を示したのか、覚えていない。
僕はムチャクチャ照れて、恥ずかしそうにしていたのではないかと思う。

その後その子とは特に何もなく。
その子が僕のことを好きだという話はどこかしらから聞こえてきてたけど、
僕はただの子供だった。思春期はまだだいぶ先のことだった。
だから好きだのなんだのということがどういうことなのかよく分かっていなかった。

中学校に入った頃には何もかもが消えて無くなってて。
その子と廊下ですれ違っても何が起こるわけでもなく。
その子はヤンキーになっただろうか?
いや、違う。その予備軍みたいなところにいたような気がする。
たぶん中学に入ってから、話したこと1度も無かったのではないか。

高校はぜんぜん違うところに行く。
その後会うことは無かった。
何年か経過する。
僕は東京の大学に通うため上京して、青森にはたまに帰ってくるだけになる。
その子がどうしているのかは風の噂で聞くことも無かった。

あれはいつの年だったか。
大学院1年目だったか2年目だったか。
夏休みで1ヶ月ぐらい帰省してて、今夜深夜バスで東京に帰るという日。
なんかの用があって僕は自転車で駅前の繁華街まで出かけ、
その帰りに青森市では「バイパス」と呼ばれている西側の国道を走って、
ロードサイドの大きな家電量販店に入った。
母に頼まれた何かを買いに行ったはずで、ビデオテープだったように思う。
なんでビデオテープがそのとき必要だったのかはよく覚えていない。
とにかく、なんかそういうものを手にレジへと向かった。
そのときの僕は突然の夕立に遭ってずぶ濡れだった。
途中で傘を買うことも無く、雨に打たれるがままその店に入った。
雨に濡れたTシャツが肌に張り付いていた。
髪も顔もびしょ濡れだった。

僕が並んだレジをふと見ると、その子が立っていた。
胸に名前の書かれた札はつけていなかったけど、見てすぐに分かった。
(いや、つけていただろうか?)
驚いた、というかドキドキした。どうしよう、と思った。
その場を離れて隣のレジに移る?あるいは何か買い忘れたフリをして列から抜ける?
迷っている間に僕の番が来て、
レジカウンターに置いたビデオテープをその子が手に取ってレジに入力をした。
僕の手は濡れていて、掴んでいたビデオテープも濡れていた。
僕はその子を見るでもなく、目を伏せるでもなく、
どこかを、強いて言うならば状況の全体を、見ていた。
彼女は20代になったという以外には何も変わっていなかった。
僕に気付いただろうか?ってことが気になった。
何かを僕は言うべきだろうか?
「やあ、僕は小学校のクラスの同級生なんだけど、覚えてる?」みたいなこと。
間が抜けてるよな、と思った。
後ろには僕の次に待っている人がいて、周りには同じようなレジが並んでて。
何の会話もなく機械的に物事が進んでいっている。
そんな中ではこういう話、できそうになかった。
それ以前に僕には、勇気が無かった。
話し掛けられなかった。

23歳か24歳。
向こうはどういう境遇だったのか。
ずっと青森にいたのなら、結婚して子供がいてもおかしくはない年頃だ。
そしてレジ係はレジ係であって正社員ではない。
結婚して、あるいは離婚して、昼の間パートに出てたのか。
それともまだ家にいて、アルバイトで通ってたのか。

財布からお金を取り出して渡して、お釣とビデオテープの入った袋を受け取って、
「ありがとうございました」か何か言われて
(声はまさしく彼女の声だった、・・・ように思う)
全てが終わって、僕はその場から去った。振り返りもしなかった。
小降りになったものの雨はまだ降り続けていて、
僕はそのまま自転車に乗って濡れながら家に帰った。

向こうが僕のことに気付いたのならば、僕のことをどんなふうに思ったのだろう?
誰だか思い出せないけど、どっかで会ったことのある人だ、ぐらいには気になっただろうか。
いや、仮にも僕はその子が生まれて初めてチョコを渡した相手なのだ。
だったら覚えていてもおかしくないんじゃないか。
でもそのときの僕は顔も髪も雨に濡れていて・・・
そんなことをウダウダと考えながら、夜行バスの中で眠れずに過ごした。
時間が巻き戻ってその日をやり直せるなら、僕はどうしただろう?

今、書きながら考えてみた。
33歳か34歳。あれから10年が経過している。
あの子はどこでどうしているのだろう?
まだレジを打っている、ってことはさすがにないだろうけど。
意外と東京にいるかもしれないとか、だったらどういう職業に就いているだろう?とか。
そういうとりとめもないことを。
あの子は僕のことなんて、きっと忘れてしまっている。

3月27日(木) 花粉症もそろそろ終わり

周りで、今年から花粉症になったことを認めない人が何人かいる。
「3月入ってこの土日から鼻水が出るんだよね」
「花粉症です」
「やー、ただの鼻風邪だと思うんだけど。風邪薬飲んだら出なくなった」
「花粉症です」
「梅が咲いてからっぽくてさぁ。梅って花粉が飛ぶんだっけ?」
「だからそれがスギ花粉なんですよ!!」

誰だって、最初は認めたくないと思う。どんな病気であれ。
しかもそれが死に至らしめることは無く、季節ものだとしたら。
ただうっとうしいだけ。
水っ洟が止まらなくて、目が痒いというのは見た目しょぼくもあり。
「この私がそんなしょうもないものに屈するわけがない」

で、一度なってしまったら永遠。
死ぬまで付き合っていくってのがちょっと怖い。そこが一番のポイントか。
一過性のものだったら誰もが気軽に、
「ああ、私ここ2・3年花粉症」って言い放つだろうに。

自分が今年から花粉症となったことを認めない人にとって
花粉症を自覚している人たちの輪の中に入っていくのを嫌がる気持ちは、
新興宗教に入信する人たちを嫌悪する気持ちに似ているのだと僕は考える。
傍から見てると(それでも鼻をかんでいて)効いてるような感じがしないのに
薬を買って飲むという行為を信じて、そこにしがみついているようだ。
そもそも健康そうなのにマスクをして外を歩いているのが怪しい。
花粉症であることを認め、
その後の人生をスギ花粉という「目には見えないもの」に左右され、
寄り添って生きていくことは「帰依」と呼ぶに等しい振る舞いなのではないか。

---
先日、青森から帰ってきた日になんとなく風邪っぽい気がして、夜、風邪薬を飲んだ。
このシーズンは会社から支給された、「プレコール」だったかなあ、
抗ヒスタミン剤が入ってないんだったか眠くならない風邪薬をよく飲んでいた。
風邪っぽいなあとちょっとでも思ったら飲んで寝る。
これがよかったのか、今シーズン本格的に風邪をひいたのが1回だけ。

この薬を飲んだ次の日、普通に花粉症の薬「アレグラ」を飲んだら急に眠くなった。
眠くなったというか抗ヒスタミン剤の入った薬を飲んだとき特有の
頭の中が麻痺して動きが鈍くなったような状態。
飲み合わせがよくないのだろうか。

以前もこういう状態になったような気がする。2回目。
これって僕だけなのか。

その後、アレグラの効きがよくなくてずっと鼻かんでばかりいる。
ここ何日か鼻が詰まったような感じになってグダグダと過ごしている。
これはもしかして「プレコール」に関係なく、
「アレグラ」が効かなくなってきたのか!?
それともスギ花粉がラストスパートで猛烈な追い込みをかけているのか!?

それとも、青森から帰ってきてからどうも調子よくなくて、それが関係しているのかも。
青森と東京とスギの種類が違ってて、
青森のスギに対する免疫の無さがこういう事態を引き起こしたのか!?

もうそろそろ終わりかねえ。とのんびりとした気持ちになりかけていたのに。
予断は許さない。

3月28日(金) ヒトデとイソギンチャク

(割とグロテスクな話になるので、苦手な人は読まないように。絶対、絶対、絶対)

先日、生まれて初めてナマコを食べたことを書いた。
その後、考えた。

ウニ、ナマコ、ホヤを人は食べるが、ヒトデやイソギンチャクは食べない。
これはなぜなのか?
毒があるから?
それともただ単にまずいから?
(もしかしたら、地方や国によってはあるのかも)

昔の人は絶対食べてみたのだと思う。
ナマコを食べてみて、ヒトデを食べてみないわけがない。
それにしてもナマコのどこがうまいかね?
僕が世界で最初にナマコを食べた人類だったら、
「まずい。後の代まで食わんでよろしい」と切り捨てるけどね。

逆に、味覚音痴かつアレルギーのあるチャレンジャーがエビやカニを前にして、
「足がたくさんあって、しかも甲羅が固い。なんとグロテスクなんだろう」と思いつつも
勇気を出して口にしてみたら、
「まずい。後の代まで食わんでよろしい」となっていたかもしれない。
しかも毒に当たったようになって。
僕らは永遠に、忌まわしい生き物としてエビやカニに手を出さないようになっていたかもしれない。
そう考えたとき、21世紀を生きる僕らはなんと幸せな先祖を持っていたことか。
エビフライ万歳。かに道楽万歳。

青森市から平内町、野辺地町と陸奥湾沿いを車で走っていたら
ホタテを中心に海産物を売っている店があって、そこのノボリに「珍味フジツボ」とあった。
ゲーッ・・・と思ったよ。まじで。
味噌汁のダシにするとうまいと聞いたことはあるが、さすがにそれ、試してみる気にはなれない。

長野ってイナゴを食べるんでしょ?
それどころかアジアの国々、例えば中国では漢方薬の一種として干した××××を食べるんでしょ?
(これは今、思い出しただけで具合悪くなった・・・)

山奥を歩いていてたまたま見つけたキノコが「きれいだなあ」と、思わず手が伸びて食べてしまう。
どこまで本当か知らないけど、派手な色のやつはたいがい毒キノコなんでしょ?
(派手な色は、自分には毒がある、危険というアピール)

なぜ人はそこまでして「食べる」のか?
一つには、食べ物がなくなってやむにやまれず食べてみた。
一つには、裕福になって珍しいものに手を出してみたくなった。
結局は、好奇心なのだと思う。
もっと言うと、どこかねじまがった欲望。ある種の征服欲。
その生き物を食べるということは、その生き物を取り込むということでもある。
そこには象徴的な意味もあるし、実際的な意味もある。
例)魚の目を食べると目にいいというのは、昔は半ば迷信のようなものだった。
  しかし今はそこに科学的な根拠があることがわかった。

初めてウニを食べた人は「ああいうトゲがあったら、戦いで強そうだ」と思ったのだろうし、
同じくナマコを食べた人は「あんなふうに海底で寝そべってたいなあ」と思ったのではないか。
そしてヒトデやイソギンチャクに対しては特に憧れを抱かなかった。たぶん。
そういうことなのではないか。

とりあえず今日のところはそういうことにしておく。

3月29日(土) 「ノー・カントリー」

コーエン兄弟の最新作「ノー・カントリー」を見に行って来た。
今年のアカデミー賞で作品賞・監督賞を獲得したことで
関心を持った人が増えたのか、日比谷シャンテシネは朝の初回だったのに満席に近かった。
そういえばこれ、去年のカンヌでも下馬評が高かったんですよね。
「4ヶ月、3週と2日」とどちらかがパルムドールを取るだろうとされてて。
でも、両方見てやっぱ普通、「4ヶ月、3週と2日」だと思う。

http://www.nocountry.jp/
テキサスの荒野が舞台。
麻薬密売がらみの殺し合いが行われた直後にたまたま通りがかって、
残された現金200万ドルを持ち逃げした男を謎の殺し屋が追いかける。
男のことを知っている保安官もまた、その行方を追う。
話はたったこれだけ。なのにこれがすこぶる面白い。
コーエン兄弟らしくなく、余計なお遊びを一切振り捨てて丹念に描写を積み重ねて、
息詰まる逃走劇の果てに、例によってあっけらかんと人生というものを語ってしまう。
トミー・リー・ジョーンズ扮するところの保安官は
事件を追いかけた果てにアメリカの今を見出す。
善も悪もなく、理由もなく、ただただ悪事だけがなされ、
人が殺されてゆくこの時代というものが、目の前のテキサスの荒野にも広がっている。
何もかもが変わってしまった。
やり場のない寂寥たる思いを内にそっと抱えて、彼は残りの人生を生きていく。
(誰も彼もが殺されて、彼だけがたった一人、たまたま生き残って)

今回のコーエン兄弟については「成熟した」という言い方がぴったりだと思う。
大人になった。遂に。しかも本気出した。
シリアスだろうとコメディーだろうとやんちゃなことばっかりしてて
「ま、面白けりゃなんだっていーじゃん?」って遊び心全開で。
そこが何よりの魅力だったので、今作でそれを封印したとなると
一見つまらなくてボソボソした映画になりそうなもんだけど。
それがそうならないってのが「大人」ってこと。
なんつーのかな。イチイチ悪ノリしなくても余裕シャクシャクで
面白いこと語れるようになったというか。
これまでのようにお茶目な小道具を振りまかなくても
ハビエル・バルデム扮する殺し屋が常に持ち歩いている圧搾空気銃1つで
カラカラに乾ききったブラックユーモアがじんわりと滲み出ている。

何作っても最高だった、神がかってたのは「ビッグ・リボウスキ」まで。
「オー!ブラザー!」と「バーバー」がそれなりによかったけど
往年のキレがなくなったユルイ感じで。
「ディボース・ショー」「レディ・キラー」は正直つまらんかった。
2作ダメなのが続いて、コーエン兄弟は終わったと思った。
それがよもやの復活劇。
映画ファンでよかった。
こんなふうにスティーブン・ソダーバーグも復活してくれんかな。

個人的には最高傑作はやはり「ファーゴ」で、
映画として何かとてつもないことを語ってしまった
芸術的ピークは「バートン・フィンク」これは絶対に揺ぎ無い。
今回の「ノー・カントリー」がこの2作の域まで達したかというとそれはない。
だけど、どこか新しい領域へと踏み込んだようには思う。

殺し屋役のハビエル・バルデムが秀逸。
アカデミー賞で助演男優賞獲得も納得の圧倒的な存在感だった。

原作であるコーマック・マッカーシーの「血と暴力の国」も読んでみたくなった。
この人の作品は以前「全ての美しい馬」を読んだことがある。
美しくも荒々しく、気高さに満ちた素晴らしい小説だった。

「つぐない」「ジュノ」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」などなど
アカデミー賞に絡んだ秀逸な作品がこれから先次々と公開される。
どれもこれも見たいものばかり。
ゴールデンウィークは劇場で映画見てばかりになりそう。

3月30日(日) 父の墓参り、井の頭公園と石神井公園の桜

金曜の夜、部門の解散会。
解散と銘打ってるが、消えてなくなるわけではなく。
4月の組織改正に伴って部門の名前が変わり、分割されるだけ。
僕自身は特に変わらない。元の部署のまま。
銀座で飲んでて2次会。
午前0時を過ぎて若手を中心に大勢残っている。20人近くいたか。
僕と先輩は途中抜けて駅まで急ぐも、山手線が行ってしまった直後。
山手線そのものはまだ走ってて東京駅まで行くことができたが、中央線は終わっていた。
タクシーに乗って帰る。ああ、あと5分早く出ていれば。
こういう出費は痛い。
それにしても、残っていた連中は皆帰れたのだろうか?
タクシーで帰ったり朝まで飲んでたのか。

土曜は昨日書いたとおり映画を見に行って。
その後銀座と新宿でCDを買う。
駅前の西友でポストカードのフォルダを買って、
たまっていた映画のポストカードの整理をする。
夜、小説を書く。部屋に山積みになっていた新聞を読む。

4日の盛岡旅行(総勢14名)の準備をそろそろ本格化しないとなあと
金曜は昼、本屋でまずは「るるぶ」を買って
夕方は丸の内のJTBに新幹線とホテルのチケットを取りに行った。
仕事の合間に当日の集合場所やタイムチャートを書き出してみる。
夜の焼肉屋はどこにするべきか、次の日昼のわんこそばはどうするか。
土曜の昼は4日行きの新幹線の中での
「ビールの空き缶で窓を埋め尽くせ」企画の撮影のためビデオテープを買いに行く。
監督兼出演兼旅行の手配兼・・・
本気で遊ぶ、そのためにきっちり段取りをする。
大変だけど楽しいっちゃあ楽しい。

日曜。9時まで寝てる。
BOOKOFFに古本を売ろうと前の晩に準備をして
ダンボールに詰め終わって後は宅配便の業者が取りに来るだけ。
・・・のはずがいつまで経っても取りに来ない。午前で指定したのに。
調べてみたら僕は来週の日曜で指定していた。しまった。忘れてた。

午後、自転車に乗って父の墓参りへ。
吉祥寺〜保谷〜大泉学園〜石神井公園と辿るコース。
ここ何年かでルートが定着。
父の命日29日近辺の休日でどこか1日の、恒例行事となった。

吉祥寺はCDを売りに行くため。
青森帰ったり盛岡行ったりで今月そもそもお金がないのに
金曜の夜にタクシーで帰ったりしたもんだからその損失を埋めようと。
査定の間井の頭公園に行ってみる。
丸井前の横断歩道から大勢の人で身動きが取れなくなり、
いせやの階段でピークに。収拾がつかなくなっていた。
花見客を当て込んだ一年で一番の書き入れ時ってことで
通りの店はどこもかしこも路上に陣地を広げて
趣向を凝らした弁当やつまみを並べて、
氷の入ったクーラーボックスで缶ビールを冷やして、
ソーセージや串焼きの肉をその場で焼いて。
飛ぶように売れていた。
いつだったか井の頭公園に来たときのように
「ケーニッヒ」で辛口のチョリソーを買って食べた。ここのソーセージはほんとうまい。
一緒にドイツビールを飲みたかったんだけど、墓参り前なので我慢する。
井の頭公園は地面という地面がビニールシートで覆い尽くされていて花見最高潮。
ゆっくり桜を見てる感じじゃなかったので早々に退散する。

自転車に乗って吉祥寺通りを北へ。青梅街道にぶつかって西へ。
雨が降りそうでポツポツと来てたんだけど、
本降りになったら引き返すかとそのまま走り続ける。
ついてたことに雨が強くなることはなかった。

旧:保谷市役所、現:西東京市の市役所の裏の、
昔祖母の家があった辺りまで行ってみる。
道路になるってことで家を取り壊したのに、いまだ更地のまま。
通り過ぎて大泉学園のお寺さんへ。
ここは桜がきれいで、僕がこの時期墓参りを欠かさないのは
人気もなく静かに3月末の満開の桜を見れるからってのもあると思う。
先週青森で27回忌の法要を行ったから
わざわざ墓参りに来る必要はなかったかもしれないけど、
結局「行かなきゃ」という気持ちになってしまった。
近くのコンビニでワンカップ大関を買って墓に供える。
どうせ後で自分が飲むんだからと店にあった一番高いのにする。
「しぼりたて 純米特選」夜、温めて熱燗で飲もうと思う。
2月・3月と家では一滴も酒を飲まずにいた。
その禁を破ることになるが今回ならばいいだろう。
墓には白や黄色の菊など、たくさんの花が供えられていた。
しおれ具合から察して昨日の命日ではない。
父の兄がお彼岸のときに来たのではないか。

帰りは石神井公園へ。ここでもまた桜を見る。
井の頭公園のような混雑はない。
去年焼き鳥を買った店がなくなっていた。
池の東の外れにある売店までそのまま自転車で行って
フランクフルトとナンコツ入りの鶏つくね棒ってのを買って
ボート乗り場の近くのベンチに空きを見つけて座る。缶ビールを飲む。
何時間も走ったあとのビールはうまかった。
ぼけーっとボートを眺めながら過ごした。
僕はこれまでボートを漕いだことはなく、
これから先の人生でもボートに乗ることってないんだろうなー、なんてことを思った。
後ろのベンチに座っていた女性2人が
ずーっと月9の歴代のキムタクのドラマの話をしていた。
平和な日曜の午後。
雨は今にも降り出しそうなまま、いつまで経っても降り出さず。助かった。
帰ってきて1時間後、降り始めた。
今日の夜は雨ということになっている。

そんな感じで日曜も終わり。
何も予定が無いようでいて、あれこれバタバタと忙しかった。
時間があったら結婚式のビデオの編集もしなければ・・・

金土日と大きな本屋に入る度に中上健次先週を探すが、「枯木灘」は見つからず。
土曜に買って聞いたCDのうち、
Lightspeed Champion と ADELE という新人のデビュー作がなかなかよかった。

3月31日(月) 10年選手

今日が平成19年度の終わり。明日4月1日から平成20年度になる。
入社式があって新入社員も入ってくるだろう。
僕は10年目になる。遂に大台に乗った。
そのことに思い至ったとき、めまいがした。
「え?もうそんななるの?早いなあ」に始まり。
「結局僕はこの会社を辞めることができず、グダグダと続けてしまった」という自己嫌悪。
甲斐性なし、根性もなし。楽な方楽な方と流され続けて、今、岸辺に打ち上げられた気分。
砂浜に寝転がって、途方にくれている。
こんなはずじゃなかった。
どこで間違ったのだろう?
いや、間違ったのではない。
決断すべき全ての瞬間。それはこれまでいくらでもあった。
そのことごとくについてなんだかんだ言い訳して「現状維持」を選んだのだ。

同期の大半が辞めた。少しずつ少しずつ減っていって。もう半分以下か。
「辞める辞める言ってる奴が一番辞めない」
僕はその典型だった。

あと2・3年で腹を括らないとな。35歳。
そのときもまだ「現状維持」って言ってたら、それって会社に骨をうずめるってことだから。
しかもその頃には今と違って
「そこそこ仕事してたら黙ってても会社にいられる」って年次じゃないだろうし。
出世できるように自分を変えていかないと生き残れなくなる。

はあ。
たぶん僕はこれから先2年か3年、同じように過ごすんだろうな。
いろんなこと先送りして。
目の前の仕事が忙しくて、没頭してるフリをして。
そしてある日突然、後にも先にも進めなくなっている自分に気付く。

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気分が思いっきり暗くなったので、話題をちょっと変える。

生き残っている同期の中に何人か、社内ではよく知られた有名人がいる。
仕事ができて、この業界のことに詳しくて、昇進も早い。人望も厚い。
社外にも着々とコネクションを作りつつあったり。
彼らは最初、入社当時は目立たない存在だった。全くもって。
それがいつのまにか頭角を現す。

入社当時元気がよくて目だってたようなヤツはたいがい、すぐ辞めてしまった。
サークルで仕切ってたような、仕事も遊びもできるようなヤツ。

続けていくことができて、伸びていける人ってのは学生時代の尺度では計れなかった。
そのことを考えたとき、不思議な気持ちになる。
ただ単にそういう業界なのか。
たまたま僕の周りがそうだったのか。

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30過ぎた今、いかに楽しく生きるかが大事であって。
仕事にそれがないのなら、他に求めればよくて。
だけど会社の中にも楽しいことは何かしらあるはずであって。
そういうスタンスで10年目を過ごす。


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