5月1日(木) 「I'M NOT THERE」

月曜日に見たもう1本が「I'M NOT THERE」
http://www.imnotthere.jp/

こちらは正直、イマイチだったかな・・・
トッド・ヘインズ監督の作品は僕割と好きで
「ベルベット・ゴールドマイン」はなかなか面白かったし、「SAFE」も見ている。
だけどこの人はどうしても企画・アイデア先行で、
映画そのものとしての充実感はどっか置き去りにされている。
今一歩突き抜けない。歯がゆい思いをしながら見ることになる。
でも、この人映画が好きなんだなあという思いは伝わってくるし、
詰め込まれた多彩なアイデアが常に画面中を溢れてるってのが好感持てるんですよね。

ボブ・ディランの生涯を、6人の俳優で描くという野心的な作品。
・アルチュール・ランボーを名乗る詩人(ベン・ウィショー)
・ウディ・ガスリーを名乗る放浪する少年(マーカス・カール・フランクリン)
・新進気鋭のプロテスト・フォーク・シンガー(クリスチャン・ベイル)
・今をときめくロックスター(ケイト・ブランシェット)
・映画スターにして、破綻した家庭の夫(ヒース・レジャー)
・ビリー(・ザ・キッド)を名乗る西部劇のアウトロー(リチャード・ギア)
・カトリックの先例を受け、ゴスペルを歌う宗教家(クリスチャン・ベイル)一人二役

これら6人/7人のエピソーが互いに入り混じりながら機関銃のように語られ、
そのイメージが乱反射する。
色彩やコントラスト、映像のシャープさなど撮り方も変わる。
このアイデア自体はとてもいい。
確かにこれ、ボブ・ディランの複雑でミステリアスな姿を描くには持ってこいの手法。
「彼は常に変わり続けた」と言われることの多いボブ・ディラン。
それを端的に7つの人格に分けたっていうのが解決策として非常にスマート。

だけどこの手法が何らかの映画的感動を生むかといえば、それはまた別の問題であって。

ぶっちゃけた話、どのディランが僕の中のイメージに近いかなあ??
って比較しながら見て、結局誰もがそうだろうけど
ケイト・ブランシェット演じるロックスターが一番いいね、で終わり。
女性が演じることによって、最も得体が知れない、
しなやかでしたたかな生き物だった時期のディランが体現できたように思う。
映像も一番スタイリッシュな撮られ方してたし。

結局は「ボブ・ディランをいかに描くか?」がテーマ。
だから事前にボブ・ディランとはどんな人なのか、どれだけ偉大なのか知っておく必要がある。
全くの予備知識無しに、最低限「Like a rolling stone」を聴いて感動したこと無しに、
単なる伝記ものとして見てしまうと何がなんだかさっぱりわからない。
しかも7人も出てきて、これ全部同じ人??と混乱するだけ。
例えば、なんで最初と最後にバイクに乗ってるシーンが出てきて、最後の方は事故になるの?
このエピソードって大事なの?そうじゃないの?と。
「ディラン・フリークには当たり前のことをさらりと語る」ってことが
初心者にとっては敷居をかなり高くしている。

結果、ボブ・ディランを知っててトッド・ヘインズのファンじゃないと辛い映画。

---
そういう僕がボブ・ディランを本格的に聴き始めたのってつい最近のことなんですね。
正直、偉そうなこと言える立場じゃないです。

10代の頃、聴いても全然ピンと来なかった。
どの曲も同じに聞こえて、ブツブツつぶやいてるだけだし。
記憶に残ったのは「風に吹かれて」と「Like a rolling stone」ぐらい。
総じて地味。どこが偉大なのかちっとも理解できない。
ブライアン・フェリーだとかバーズだとか、他の人がカバーした曲の方が聞きやすい。

それが30過ぎてようやく、何かがつかめた。
いまだもってよく分からない。
だけどこの人はすごいなあ、道なき道を進んでいった人なんだなあ
というのは分かりかけてきた。

ぶっ飛んだのはブートレッグ・シリーズの
ローリング・サンダー・レビューの中で演奏された
原曲とは似ても似つかぬ「激しい雨が降る」
この人の音楽の捉え方はとてつもなく深いレベルで
なされているのだということを肌で知ることになる。
映画の中でも語られていたけど、何よりもまず音楽とは神秘的なものなのだ。

---
一番かっこよかったシーンは最後の最後にボブ・ディラン本人が出てきて
ハーモニカを吹いてるところだったりするんですよね。
負けちゃってる。本人には勝てない。

5月2日(金) 「パラノイドパーク」

29日の休日、渋谷に映画を2本見に行った。
「パラノイドパーク」と「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」

「パラノイドパーク」はガス・ヴァン・サント監督の最新作。
http://paranoidpark.jp/index.html
「エレファント」同様、高校生が主人公。
スケボーに熱中する普通の高校生がふとしたことから人を殺してしまう。
誰にもそのことを明かさずそれまで通りの生活を続けていたのだが、
1ヵ月後学校に刑事が現われ・・・
その1ヵ月の間に起こったこと。
両親は別居の末に離婚。
興味のないガールフレンドに引きずられる形で初めてのセックス。そして別れを告げる。
スケボーの練習は何とはなしに続け、別の女の子と会うようになる。
そういったことの数々。
彼は心の重荷を吐き出すために誰とは無しに手紙を書いて、
自分に降りかかった出来事を語ろうとする。
彼は自分がいかに小さな問題、小さな世界に捕らわれていたのか、気付く。
なのに彼のその小さな世界は今、閉じられようとしている。

それまで「グッド・ウィル・ハンティング」などで
なかなかいい話をなかなかいい感じで撮る普通の監督だったのが、
ある時からムクムクと頭をもたげてきた欲望に身を任せるようになって、覚醒。
「エレファント」がこの世ならぬものを描いてしまった大傑作だとしたら、
「パラノイドパーク」はその先に進んだ作品だと思った。
それが何を描いているのか、正直僕にはうまく言葉で言えない。
だけどそこには映画にしか描けない何かがあった。
「何かを描いたり語ったりする前に、何よりもまずそれは映画である」
という当たり前だけどどうにも難しいこと、
映画を志した人間の中でも一握りの人しか到達できなかったこと、
そこに向けて1歩近付いて、その純度が高まったという、そんな印象を受けた。

監督の故郷、オレゴン州ポートランドが舞台。その風景の美しさ。
8mmで撮影されたスケートボードの光景。その美しさ。
それだけで既に映画になっている。
90分弱の短い時間の中でその余韻に浸る。

時間軸は崩され、前後し、同じシーンが何回か登場する。
ありきたりな手法なのに、そうしないことには描けなかった、語れなかった。
主人公とその世界がどうなっているのか、
そこには何があるのか、何が変わったのか、何が変わらないのか。
主人公を取り巻く、静けさに満ちた混乱。

美しい映画。
語るべきものを持った、映画。

今やガス・ヴァン・サントは
高校生の何気ない生活を切り取っているだけで、
学校の廊下を歩いているというだけで映画になってしまう。
傷つきやすさ。大人になることへの不安。
様々な物事への疑問。
そしてそれは決して答えが得られないのだということ。
今も。大人になったとしても。

5月3日(土) Rolling Stone CAFE

昨日は本当は休むつもりだったのが、なんかそういう雰囲気でもなくなり、出社。
結局ゴールデンウィークはカレンダー通りの休みとなる。
朝ニュースを見ていたら「GW後半戦」とか言ってたけど、
こっちとしては「始まってもいないのに・・・」という気分。

どうしてもこの日・この週までに終わらせておくべき仕事はなく、気分はまったり。
昼、「遠出しようぜ」ってことで外に出たとき、
「タクシー乗って六本木まで行きますか」となる。半ばワルノリ。
芝浦から六本木まで、一応港区の中。越境していない。そう考えると近い。
というか港区が広すぎるだけなのか。
なんにせよタクシー乗ったらすぐ着いた。
けやき坂下で下りる。テレ朝とTSUTAYAの辺り。
以前この辺りを歩いたときに気になったシンガポール料理の店に入る。
名前は思い出せず。通りに面した白い建物。
月曜、28日もシンガポール料理ってことで
汐留の「海南鶏飯」でチキンライスを食べていたので
この日はシンガポール風のカレーを食べた。
ココナツミルクが入っていておいしかった。

食べ終わり、六本木まで来てこれで帰るのもなんだなとお茶でも飲みましょう、となる。
裏手にある建物、以前 Blue Man Group を見たインボイス劇場に隣接したビルの3階に
「Rolling Stone CAFE」ってのを見つけて入る。
http://www.web-across.com/todays/cnsa9a000000cqoz.html
http://www.syty.jp/2007/12/rollingstonecafe.html
http://rs-cafe.jp/

昨年12月にオープンして、まだ半年も経っていない。
そういえばその時期、「Rolling Stone」誌の日本版が創刊号を出していたような気がする。

落ち着いた感じの、大人な雰囲気の、
だけどどっか六本木っぽくゴージャスな余裕がにじみ出てるダイニングバー。
昼のメニューはアメリカンダイニング系のハンバーガーなど。
ケーキセットがあって確か
「松之助のアップルパイ」
「松之助のチーズケーキ」
「松之助のロバート・レッドフォード・チョコレートケーキ」
って名前だったか。
「松之助って誰ですか?」と聞くと、
なんかそういう名前の有名な店があって、そこのアップルパイが絶品なのだそうな。
提携してるんだろうね。
で、おいしいリンゴが取れなくなるからってことで
今ここにある3個がこの店で今シーズン最後のアップルパイ。
じゃあってことで4人いて3人頼む。1個足りなくて僕はチーズケーキにする。
ロバート・レッドフォード(!)のチョコレートケーキは残念ながらその日完売。

甘いものに興味の無かった僕は知らなかったけど、
「松之助」って有名みたいね。東京だと代官山にある。
http://www.matsunosukepie.com/index.html

店に話を戻して、壁には「Rolling Stone」の表紙が飾られていた。
僕らが座った席の向かいの壁は、左から Bob Dylan, Jim Morrison, Blues Brothers ...
John Lennon と Ono Yoko のが特別な額に入れられていたように思う。

夜のメニューを見たらバッファロー・ウィングがあったので食べてみたかったのだが、
夜来たら遊び慣れてない、僕らみたいな普通のサラリーマンは気後れして浮いてしまいそうだ。
(でも、どうせならこういう場所が場違いじゃない大人にはなりたいと思う)

同じビルの1階の「ZEL CAFE/GALLERY」にもおしゃれな、
というか僕らにはおしゃれ過ぎるカフェがあった。
http://roppongi.keizai.biz/headline/1432/
http://www.zelcg.com/
4月にできたばかり。
ギャラリーでは5月の半ばからあの元ブランキーの浅井健一の個展が行われるようだ。

5月4日(日) 今年のゴールデンウィークの過ごし方

昨日のこと。ゴールデンウィークの俗に言う後半戦、その1日目。

朝4時に目が覚める。雨が降っている。
前の日は午後9時に寝た。
仕事で疲れきっていて、定時で帰ってきてそこから先部屋の中で死にそうにぐったり。
「体力ねーなー」と思った。
「Cheap Trick at 武道館」の2枚組スペシャル・エディションを聞きながら
最近はまってる「2ちゃんねる新書」のうち、「オカンからのメール」を読んだ。
で、9時になって「もうだめだ」と限界になって寝た。

朝4時。「オカンからのメール」の続きを読んで、また寝た。
雨の音を聞きながら。
朝8時前。起きる。雨の音を聞きながら布団の中でウツラウツラする。
朝9時に布団から出る。12時間近く寝たことになる。

日記を書く。
Rolling Stone Cafe に行ったことだとか「There Will Be Blood」を見たことだとか。

10時。腹が減る。
ネギを刻んでタッパに詰める。1本がここ2日分4回の食事の刻みネギになる。結構な分量。
というか半分に切られて売られていたものを冷蔵庫の中に
1週間近く放り込んでいたので、鮮度がかなり下がっている。断面が茶色くなりかけている。
今日・明日で食べきっておかないと。
大家さんから貰った醤油ラーメンを茹でて食べる。
すりゴマ、先ほどのネギ、コンビニで買ったチャーシューと味玉。
バター。桃屋の味付けメンマ。結構豪華になった。
インスタントラーメンは伸びきった麺が割と好きなので、ゆるめに。
というか「オカンからのメール」を読みながら茹でて、モタモタしてただけ。

午後、後輩の結婚式のビデオ編集作業。テープからの取り込み。
何ヶ月か前の披露宴。愉快な瞬間が時々出てきて、部屋で1人笑う。
ゴールデンウィークに部屋に閉じこもって
他人の幸せな姿を眺めている僕は本質的に、暗い。

小説を書く。調子がとてもよかった。前向きな気持ちになる。
これであと連休中の残り3日続けることができたら、100枚の作品が一通り終了。
夏まで手直ししてどっかに応募できるか。
応募できる作品があるというとき、日々の暮らしに夢や希望があって、いい。
未来がそこにあるかもって感じで。

その後、このゴールデンウィークの間に自分に課したタスクとして
部屋の中の本を整理してトランクルームに持っていく、のこの日の分の一箱を消化。
夕暮の、雨の上がった荻窪の街を歩く。

戻って来て、うどんを茹でて食べる。
冷凍のうどんを冷凍庫で発見して、このところよく食べていた。
ネギ、乾燥ワカメ、フリーズドライの刻み柚子、それとコンビニで買ったイカのさつま揚げ。
明日食べる分は、さつま揚げの替わりに、なんとなくインスピレーションが湧いて
もしかしたらうまいかもとカニ風味カマボコのスティック。
まずかったらどうしよう。

片付けた箱の中身が漫画の箱で、
夜、岡崎京子の「リバーズ・エッジ」と山本直樹の「ビリーバーズ」を読む。
(引越しとか荷物の整理をしてるときの非常によろしくないパターン)

面白かった。他に山本直樹ないかと探すが、見つからず。
持ってなくて、昔誰かに借りて読んでたか、あるいは既にトランクルームの中か。
学生の頃に読んだ「僕らはみんな生きている」をまた読みたくなり、
amazonで探すも絶版のようだ。映画にもなったのにね。
それにしても山本直樹が描くようななまめかしい性行為って
世の中に実在するんだろうか?といつも思う。
僕が子供で知らないだけなんだろうか?

「リバーズ・エッジ」もまた、何年かぶりに。
岡崎京子の「文学」的到達点はやはりここだよなあ、と。
映画としてもすごいよなあ、と。
それにしてもなんで、岡崎京子の漫画は映画化されないのだろう?
言葉と絵のセンス、存在感。
原作を超えられない、と分かっているからなのだろうか?

冷蔵庫の中を整理していたら
最近買って今日の昼とかラーメンに入れてるのとは別の、
もう1つの桃屋の味付けメンマが出てきた。開封済み。
未開封だった場合の賞味期限がなんかの偶然なのか、ちょうど来週の今日。
まだ大丈夫そうだったので食べる。
これをつまみにビールを飲む。
もう1つの方のメンマの賞味期限を見たら、8月になってた。
最近買ったものだから、3ヶ月先が実質的な賞味期限という計算になる。
なので今日食べたのは3ヶ月前の2月に買ったものか・・・
ま、死ぬことはない。

夜10時を過ぎて、することもなくなって寝る。
「2ちゃんねる新書」のうち、最高だった「ヤクザだけどクッキー焼いたよ!」を
布団の中で再度読み返す。

残り3日間もこんな感じで過ごす。

この日、未聴の山からアトランダムに聞いたCD:

・「ブリュッセルより愛をこめて」
 クレプスキュールから昔出たオムニバスの再発。LTMから。元は80年発表。
 いい。とてもいい。
 Thomas Dolby, Harold Budd, Durutti Column, Michael Nyman など。
 Brian Eno やジャンヌ・モローのインタビューも収録。
 クレプスキュールからはマルグリット・デュラスやウイリアム・バロウズの
 インタビューが収録されたオムニバスもあったことを思い出す。

・R.E.M.の2枚組ライブアルバム
 新作の「Accelerate」を先に聞いてた。あれは最近の諸作ではベストですね。

・The Last Shadow Puppets 「The Age of the Understatement」
 Arctic Monkeys のフロントマンの別働隊。あまり耳に残らず。

・The Apples in Stereo 「Electronic Projects For Musicians」
 未発表曲集。割とよかった。

・The Black Crowes 「Warpaint」
 これも耳に残らず。新作。

・Nine Inch Nails 「Ghosts I-VI」
 最近出たインスト集。いいっちゃいいけど、Nine Inch Nails である必要なし。

5月5日(月) 「There Will Be Blood」

30日、会社の帰りに「There Will Be Blood」を見に行った。
http://www.movies.co.jp/therewillbeblood/site/index.html

日比谷シャンテシネはほぼ満席。驚いた。
アカデミー賞の作品賞にノミネートされていたから?
監督のポール・トーマス・アンダーソンのファンがあんな大勢いるとは思えないし。
主演男優賞をダニエル・デイ=ルイスが獲得したからかなあ。
とはいえ、元々ダニエル・デイ=ルイスのファンだった人が
新作が出たから見に行った、というのでもないだろう。

素晴らしい映画だったと思う。見応えあり。
ポール・トーマス・アンダーソン監督の前作「パンチドランク・ラブ」が
コメディー・タッチだったのと打って変わって骨太の作品。
奇を衒ったところ全く無し。純然たる正統派。
この人は次、どういう作品をどんなふうに撮るのだろう?
「マグノリア」も「ブギーナイツ」もそれぞれ全然違う作品だった。
そういう意味では毎回作風が変わる。
だけど常に一本、ポール・トーマス・アンダーソンとしての筋を通している箇所がある。
言語化できるレベルでは済まされない映像・映画としての何か。
一目見れば分かる、何か。
どの作品であっても
「人それぞれ人生というものがあって、それは誰しもが少しばかり奇妙なものである。
 そしてそれを貫くべし」
というメッセージが随所で伺えるんだけど、そういうのとはまた別の。

その数日前に見たということもあって
僕としてはどうしても「I'M NOT THERE」のトッド・ヘインズと比較してしまう。
トッド・ヘインズには無くてポール・トーマス・アンダーソンは持っている何か、というものがある。
これまたうまく言えないんだけど。
真夜中、炎上した油井の暴力的な美しさ。
弟と名乗る男性と過ごした真夏の海辺の美しさ。
先日「パラノイドパーク」で書いたことと一緒なんだけど、
見ててハッとする瞬間、
映画それ自体が秘める美しさ、暴力、イノセンス、・・・
様々な素性があらわになる瞬間をその映画が持っているか。
監督にはそのビジョンがあったか。それを提示する才能があったか。
映画が成立する瞬間を映画そのものが内在しているかどうか。
映画が作り手の意志を超えた生き物、もっと言うとバケモノになろうとしているか。
(そこまで来て初めて、映画は鑑賞するものではなく、体験するものになるのだと僕は考える)

「There Will Be Blood」はそういう生き物にはなりきれず、
まだポール・トーマス・アンダーソンの手の内にあるんだけど、
ところどころ上に挙げたような突き抜ける瞬間はあったように思う。
逆にトッド・ヘインズはそういうとこ、無頓着なのが魅力かも。

---
話変わって、この作品の魅力はやはり何と言ってもダニエル・デイ=ルイス。
ダニエル・デイ=ルイスを見るための映画と言い切ってしまってもいい。
すごいよね。今、地球上で最も優れた役者、褒め言葉としての役者バカなんじゃないかな。
すごすぎて他の役者が霞んで見える。全員書割の脇役。
前作「ギャング・オブ・ニューヨーク」がストーリー上の主役はディカプリオだったのに
完全に食ってて、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされたのは
ダニエル・デイ=ルイスだったという事実。

2時間40分と昨今の映画にしてはかなりの長尺なのに
ダニエル・デイ=ルイスに釘付けになってるうちに終わってしまってるんですよ。
むしろ短いぐらいに感じた。
たった1人の役者が映画を成立させ、その緊張感で支配してしまう。
それって役者がすごけりゃどういう作品でも可能かって言うとそんなわけなくて。
器=作品を用意して監督が迎え撃たなくてはならない。
がっぷり四つに組み合って。
とはいえ今回は若干ダニエル・デイ=ルイスの方が力が強かったか。

それにしてもよく出たなあ、
ポール・トーマス・アンダーソンなんてまだ「若手」じゃん、と最初思った。
映画を見終わった後では
ポール・トーマス・アンダーソンのポテンシャルの高さが伺えたものの
「異質な組み合わせ」という印象は変わらず。
結局これって異種格闘技ですよ。

---
あと、Radiohead のギタリスト、ジョニー・グリーンウッドの音楽も良かったですね。
Radiohead というとどうしてもトム・ヨークが取り沙汰されるけど、
BBC専属の作曲家(ジャンルは現代音楽ってとこかね?)にも選ばれた
ジョニー・グリーンウッドというもう1つ別の次元の才能が居合わせている、この不思議さ。
イギリスの作曲関係の賞を取ったという気になる作品「Popcorn Superhet Receiver」も
エンドクレジットを見たら使われてたみたいだけど。
サントラを見ると入ってるのかどうか分からず。
探してみたら配信しているサイトがあった。
http://idiotcomputer.jp/news/?itemid=2163

ジョニー・グリーンウッドについて調べていたら興味深いものを見つけた。
「Rolling Stone」誌の投票で、
2007年「史上最も過小評価されているギタリスト」で10位、
2003年「史上最も偉大なギタリスト」で59位にランクインされているという。
http://narinari.com/Nd/2007108020.html
でも、100年後には現代音楽の作曲家として人々の記憶に残っているのかも。

5月6日(火) 「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」

4月29日(火)ライズXで。定員36名だったかが満席だった。
もうちょっと大きい場所で上映してもよかったかもね。

ヘンリー・ダーガーは今や
アウトサイダーアートの巨匠、と言ってもいいだろうか。
1月7日に書いたことをそのまま繰り返します。
「非現実の王国で」として知られる約15000ページにも及ぶ絵物語を
1911年19歳にして書き始め、1973年に81歳で亡くなるまでに
アパートの1室で1人きり誰にも知られることなく執筆。正式名称は
「非現実の王国における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、
 あるいはグランデリニアン大戦争、
 あるいは子供奴隷の反乱に起因するグランデコ対アビアニアン戦争」

その生涯を描くドキュメンタリー。
しかも「ヴィヴィアン・ガールズ」の物語がアニメとなって再現される。
天涯孤独の身だったから、残された写真は晩年の3枚のみ。
記録映像無し。
そんな状況でよくもまあドキュメンタリーをつくる気になったもんだと感心する。
それって要するに「それだけの魅力、価値がある」ってことなんだよな。
記録映像として今の人たちに、そして後の人たちに伝えなくてはならないと心動かす何か。
1970年代初期より今に至るまで続く、
ヘンリー・ダーガーという名の芸術を埋もれさせるわけにはいかないという思い。

ヘンリー・ダーガーの住んでいた部屋(2000年まで保存していたが、取り壊された)の映像、
隣人たちの証言、そしてアニメーション。
たったこれだけで語ろうとするには無理があったか。
だけど、こういう人がいたという事実を知らずにいた人には
十分すぎるほどのインパクトがあると思う。
劇場には現代アートファンっぽい若者が多かった。
恐らく、ヘンリー・ダーガーの「芸術」はその経歴と共に
これから先も多くの孤独な人々を惹きつけ続けるのだろう。

興味を持った人は映画のサイトを見てみてください。ギャラリーがあります。
http://henry-darger.com/

---
一昨年たまたま出会って以来、アウトサイダーアートへの関心が尽きない。
画集を見つけると買ってしまう。
見てて空恐ろしくなる。
この世界は「常人にとってのルール」とでも呼ぶべきものを通して眺めているに過ぎない。
画一化を強いられ、僕らは無条件に受け入れる。
そうしないことには、僕らは何も語れなくなってしまうから。
はみ出すとしても、一定の枠の中で。
それを人は個性と呼ぶ。

しかし、本来その光景は一人一人にとって違うものであるべきだ。
端的に言って心の病で、あるいは「正式」な美術教育を受けていないことで
制約無しに描かれるこの世界、その風景のいかに危ういものであるか。
美しい、とは言わない。そうは思わない。
むしろ、恐ろしい。

ヘンリー・ダーガーの絵も、そうだ。
色遣いがきれいだ、題材がユニークだ、と語ることはよくても、
美しいと呼んではならない何かがある。
これを美しいと呼んでしまっていいのだろうか?
呼んでしまったならば自分は
「人とは違うんじゃないか、この世界で生きていけなくなるんじゃないか?」
・・・そういう恐怖心が心のどこかに仕舞われているのだということ、
そしてそこから生み出される、
自分もまた社会のルールに盲目的に従って生きていることへの嫌悪。
いろんな思いが一緒くたになった混乱の中に突き落とされそうで。
いつだって判断を留保する。

その一方で覗き見てはならない禁じられたものを見つめるという愉悦があって。
そう、本質的に社会に混乱をもたらすものだから、それは禁じられるべきものなのだ。

僕らはアウトサイダーアートに向かい合うとき、
「真実とは1つではないのだ」ということを知る。
そしてそれはどこかの誰かにとって、非常に都合の悪いものだ。
従順な僕らは自分で自分に規制をかける。
そして自らすり抜けようとする。
二律背反の論理を弄ぶことの気持ちよさ。
そこに陥ってゆく。

取り扱いに、要注意。

5月7日(水) 小学校がなくなるということ

ゴールデンウィークの間、ぷらぷらと家の近くを歩いていたときのこと。
小学校の敷地を通り抜けようとしたら、玄関に貼り紙が。
3月末をもって閉校した、とあった。
窓という窓にびっしりと貼られていた児童の絵や学級新聞が剥がされていて、
中を覗き込むと靴箱は空っぽ、
捨てそこなった教材の類が段ボール箱に入って置き去りになっていた。

少子化の時代だから、全然おかしなことではない。
来るべきときが来たのだということ。
僕とこの小学校との間には、
「住んでるアパートの近く」って以外に何の関係もなかった。
でも、なんかほろっと寂しいもんである。
いつもそこにあった何か大きなものが消えてなくなった、という感覚。

秋のある日、運動会の歓声が聞こえてくることはもうないのだし、
緑のおばさんが歩道に立つこともない。
赤・黄・白ときれいに植えられたこの花壇はこれから先誰が手入れするのだろう?
ほっとかれるのだろうか?それとも近所の人が気にして、ボランティアで?

そもそもこの校舎はどうなるのだろう?
地方だと、町や村が校舎を買い取って
研修施設や宿として再利用しているというのをよく聞く。
時々テレビで紹介される。
例えば、http://www8.ocn.ne.jp/~kumanoki/

でも、東京だと?
四ツ谷にある小学校が「東京おもちゃ美術館」になるというニュースを見つけた。
http://allabout.co.jp/children/toy/closeup/CU20070523A/
だけどこれも特殊なケースだろう。
検索していたら、障害者向けの施設として再利用、
NPO団体の活動の場として提供といったケースが出てきた。
必ずしも解体して更地にするわけじゃないんだな。

---
少子化。
僕が青森市で小学生だったとき、一学年に5組だったか。
教室が足りなくてプレハブだったクラスもあったなあ。
それが今、どっかで聞いた話では一学年2組まで減ったような。半分以下。
今見ても大きな校舎。その半分しか使われてないのか・・・
青森市の外れにあって、
周りに他に小学校があるわけじゃないから廃校にはならないだろうけど。

日本全国で統廃合が進んで、
自分が通っていた小学校が無くなったという人は今、結構多いんだろうな。

---
話はちょっと変わって。

家の近くのガソリンスタンドが廃業していた。
ついこの間まで営業していたはずなのに。
ガソリン暫定税率の例の件に関して、
4月の値下げに伴う混乱が関係しているのだろうか?

5月8日(木) 「だいすき」

ちょっと前の事件だが、岡村靖幸が覚醒剤の使用により逮捕。
先日2日、東京地方裁判所にて初公判。2年6ヶ月の懲役が求刑される。
3度目の逮捕、2度目の仮釈放の後すぐ密売人に連絡を取り、使用を再開。
理由はプレッシャー。
薬物は24歳の頃から使用していたという・・・
2日の陳述では自作の詩を朗読。
8日今日、判決が出る。
といったところがニュースの要約となる。

残念なことだ。
岡村靖幸を天才と称する人は今でも多い、はず。
僕も天才だと思っている。思っていた、ではなく「思っている」
音楽的才能が人間という枠組みを突き破って持て余している、数少ない本物。
「家庭教師」は僕の中で日本語ロックのベスト1か2。永遠に。
オザケンの「LIFE」と永遠に迷い続ける。

ゴールデンウィークにこれまで見てない DVD を見ようと棚を漁っていたら
岡村靖幸の「LIVE 家庭教師'91」が目に留まる。
そういえばこれ、見てなかった。
というか、あれだけ天才とか言っておきながら実は僕、
映像・動いている岡村靖幸って見たことがなかったわけです。
いかん、と思って即、プレーヤーに突っ込んだ。

すげー・・・
終始踊りまくり。ここまで踊るとは。
さすが和製プリンスと言われるだけある。関係ないか。
もっと楽器の演奏をしてるのかと思ってた。
ギターはずっと弾いて、時々キーボードというような。
とにかくクネクネと踊る。体育会系の男のダンサーまで2人従えて。
いやーなんか変なすごさ。
91年ってのがバブルがまだはじけてなくて、80年代とは地続きで。
そういう感じの、ゴージャスでペラペラの、ファンキー。

そんでまあ知ってる人は知ってますが「家庭教師」という曲では
バックの演奏が続いている中、「内容に沿った」一人芝居を。
セクシーな衣装を、少しずつはだけながら。
着てる服は何曲かで変わって、例えば素肌の上に襟ぐりの大きく開いたセーター。
スポットライトを浴びるステージの上では
天才は何やってもかっこいいんだなあ、何やっても許されるんだなあ。
つくづく、ため息が出る。

で、この時合わせて思ったのが、
20代からってことは恐らくこの頃から薬物を使用してたんじゃないかと。
そんなわけないか。だとしたらこんな溌剌と動けるはずがない。
恐らく、ツアーの後、「家庭教師」から5年と
極端にリリース時期の開いた「禁じられた生きがい」の間のどこかではないか。
「曲は書けるが詩が書けない」
「援助交際の時代に、男女関係について何を書いていいか分からなくなった」
当時そういう発言をしていたように思う。
そしてブクブクと(一説ではポテチで)太った。
新人アーティストのプロデュースを中心に音楽業界の仕事を続け、
人前には出なくなった。

世の中のファンたちは天才岡村ちゃんを求め続けたが、
それは結局仮面に過ぎなかった。
愛を求めて、生を求めて、弱々しく震える一人の人間に過ぎなかった。
そういうことになるのか。
それでも彼はファンの声に応えようとして、自滅した。
負の連鎖を断ち切ることができなかった。
そう思うと、なんだか悲しい。

「だいすき」とか「イケナイコトカイ」とか
「カルアミルク」とか「どぉなっちゃってんだよ」とか。
そして、「あの娘ぼくがロングシュートを決めたらどんな顔するだろう」
あの頃の楽曲は今聞いても光り輝いていて、僕は普通に聞いてしまう。
懐かしいからではなく、ただ単純にいい曲で、しかも何年経っても古びてないから。

「家庭教師」には岡村靖幸が求めてやまなかった、
そして(恐らく)得ることができなかった愛と生が渦巻いている。
求道的なまでに求める性急な気持ちが、エロティックなものとして昇華する。
そしてそれは即物的な性欲を扱っているようでいて、照れくさそうに
本当はこの世界にたった一つしかないはずの真実というものを探していた。
そしてそれが音楽を通して見えたような気がした。
愛と生に、手が届きそうになった。
そんな、稀有な瞬間があった。

判決がどう出るか。それをどう受け止めるか。
一人の人間として、この世界に戻って来てほしいと思う。
もうこれ以上、強がらなくてもいいから。

5月9日(金) ミルクカレーヌードル・「寝ているだけで170万円の報酬」

今、地震が。オフィスが揺れた。
一昨日の夜だったか、寝てたら地震があった。目が覚めた。
CDラックが倒れてこないかとヒヤヒヤしたが、なんともなかった。

気を取り直して。
日清からカップヌードルの「ミルクカレー」が発売される。
「ミルクシーフード」に続く第二弾。
去年、カレーヌードルやシーフードヌードルをホットミルクでつくるとうまいと聞いて、
試してみたらほんとにうまかった。
以来、病み付き。

日清のサイトに「ミルクシーフード」の開発秘話があった。
http://www.cupnoodle.jp/campaign/milk_seafood/sp/

---
話は変わって、昨日見つけたニュース。
「寝ているだけで170万円の報酬:NASAが実験参加者を募集」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080508-00000003-wvn-sci

これが本当なら、僕も3ヶ月寝て暮らしたい。
これを1年通してやり続けたら僕の年収よりも上じゃないですか。
しかもずっと寝てるんだから使い道ないし、ほぼ貯金。
10年続けたら家が建つ。

でも、普通の暮らしができなくなるんだろうなあ。
筋力が衰えて寝たきりになるのかも・・・
というか最初の3ヶ月やったら、ドクターストップで延長不可だろうな。

思い出した。
前に書いたことあるかもしれないが、
学生時代に薬剤投与の実験のバイト、
俗に言う「被験者バイト」のことを聞いて、登録しに行ったことがある。
血液検査をするだけで1000円もらえる。
結局僕は実験に参加することは無かった。
受付で、これから先行なわれる実験のスケジュールを印刷した紙をもらった。
どこかのセミナーハウスでカリキュラムが並んでいるかのようだった。
何日拘束されるか、どういう制約で生活するか、金額はいくらか。
「○月○日〜×月×日7日間、食後に投薬と1時間のトレーニング、10万円」

研究施設は池袋から歩いて住宅地に入って、地味な場所にあったと思う。
被験者はそこで寝泊りするわけだ。
誰かサークルの後輩が実際に経験したはず。2泊3日ぐらいの軽めのやつ。
「この実験だけで暮らしてるような、得体の知れないおっさんがたくさんいましたよ」って言ってた。
そういう人たちが半分と、金のなさそうな学生が半分と。

こういう実験に参加するに当たっては誓約書を書かされる。
「この実験の後、後遺症が発生しても当診療所では責任を負いません」みたいなやつ。
それが半年後だろうと、10年後だろうと。
で、実際に後遺症が出た人がいるという噂をあれこれ聞いて、
びびった僕はバイトを申し込まなかった。

「この実験だけで暮らしてるような」そういう投げやりな人生もあるわけで。
どういうことを考えて日々生きているのだろう。不思議に思う。
何が楽しくて生きているのだろう。
死ぬほどの意志もない、と惰性で生きているだけなのか。

こういう場所で働く人たちと、被験者たちの悲喜こもごもって
小説や演劇のいい題材になりそうに思う。
たまたま出会って、人生を語り合って、そして分かれる。
そこで出会った人たちがその後どうなったのかは、知ることが無い。

5月10日(土) 結婚式雑感

最近何かにつけて書いていることであるが、
2月に2つ結婚式のビデオ撮影をして、しばらく土日忙しくて作業が滞っていたのを
このゴールデンウィークにかなりなところ進めた。
頭の中のモードが「編集!」となって、楽しくなる。ランナーズ・ハイのよう。
今週は会社から帰って来ると
寝るまでにちょっとした時間しかなくても、映像をつなげたり縮めたり。
昨日はものすごく早く帰ってくることができて、
空がまだ明るいうちから夜中までずっと作業。疲れきって死んだように寝る。
今日もまた朝早く起きて今まで作業。
一気に詰めたので1本目はラフな編集が一通り完成した。
もう1本の方は明日から本格的に。これも5月中にラフが完成しそう。

これまでに手がけた結婚式・披露宴のビデオ編集は3本。
あーでもないこーでもないと同じ場面を何度も何度も繰り返し眺めて、
当の本人たちよりもその日の出来事について詳しくなっている。
新郎・新婦の笑顔が頭に焼き付いて離れない。
部屋に閉じこもってPCに向かって、他の人の幸福な姿を見つめている毎日。
余りにものめりこみすぎて作業していると、
今、手にしている断片にのみ意識が向かっていると、ある瞬間に
「あれ?なんでこの人たちはこんなに笑顔なのだろう?」と不思議な気持ちになる。
ふと我に帰って、「あ、そうか結婚式だからか」と気付く。
一つの言葉を頭の中で繰り返し反復して唱えているうちに
その言葉がグルグルしだして音と意味が乖離する、そういう現象に近い。
こういうビデオの編集をしていると、
「幸福」というものについて微分か積分をやってるような感じになる。
一つ一つのコマで映像として描かれているものはその瞬間の「笑顔」でしかない。
しかしそれを連続して眺めたとき、「幸福」というものが立ち現われてくる。
この間にあるものはいったいなんなのか?

---
3組の結婚式・披露宴。全然違う。
結婚式:新郎の入場、新婦が父親に付き添われて入場、誓いの言葉、指輪の交換、誓約書にサイン・・・
披露宴:新郎新婦が入場、2人の生い立ちを披露、主賓の挨拶、乾杯、
    ウェディングケーキ入刀、ファーストバイト、友人のスピーチ、お色直し、
    戻って来てキャンドルサービスや写真撮影やワインを告ぐなどで各テーブルを回る、
    2人のこれまでの写真を動画ファイルにしてスクリーンに映写、
    新郎新婦から両親に記念品贈呈、新婦の手紙朗読・・・

どれも基本的には同じことを行っているはずなのに、印象がどれも違う。
会場と参加者と司会者、そして新郎新婦が違えばこうも違うものなのか。
上で挙げたものはあくまで枠組みでしかなくて、
内容としてそこに収まるものは千差万別なのだということ。
高校に3年間通う、同じクラスで同じ授業を受けていたはずなのに
それぞれが見る風景と思い出として残る出来事は人によって大きく異なる。
そういうことに近いのかもしれない。

---
これまでの編集作業を通じて、
結婚式・披露宴というものについて無駄に詳しくなった。

・ブーケプルズは紐がこんがらかるからあまりお薦めできない。
・指輪を指に通すときはまず相手の指の上から、真ん中まで来たら今度は下側から通すとよい。
・どれだけ頑張って思い入れのある曲を選んで流したところで、出席者はまず間違いなく聞いていない。
・新郎がお色直しで会場から消えた瞬間、それまでの悪事が各テーブルで語られる。

などなど。

---
編集をしていると、どうしても自分の場合と置き換えてしまう。
もしこれから先、僕が結婚式を行うならば・・・
確実に言えることは、大学の友人たちからひたすら飲まされて、
ことあるごとにビールをイッキして、バケツに捨てることは許されず、
最初は理性があって拒もうとしていたのが
途中から酔って自ら全部飲むようになり、もしかしたら記憶をなくす。
あるいはそれ以上の失態を。
そう考えるととても怖い。
でも、絶対飲んでしまうと思う。

それともう1つ。
僕もまた、その時が来たら、
これ以上ないってくらいに幸福な笑みを終始浮かべているのだろうか?
それはそれでなんだか怖い。

5月11日(日) Tribute To Cloverfield

メールも電話もつながらない××国の奥地からたった今帰ってきた。
当初2ヵ月の予定だった水質調査は
機材関係のトラブルや天候不順など様々な要因で結局4ヶ月にまで伸びた。
××国を発つ日、首都の空港から妻に国際電話をした。留守電になっていた。
出発の時間まで時間があったから、何回か掛けてみた。
だけど留守電のまま。時差を考えても向こうは真夜中だったりすることもなく。
どうしたのだろう?と思ったのだが、そういうこともあるかとメッセージだけを残した。
○○航空の何時の便で空港に到着する。そこから急行に乗って何時頃には到着する。
手紙はこちらでの受け取りが事実上不可だとしても、
こちらから送ることだけはできたから
(ただし、検閲されていなければ、杜撰な郵便制度の影響を受けていなければ)
同じ内容の要件は事前に伝えている。

入国審査を終えて、税関を通過して。
××国帰りだったから入念に健康のチェックを受ける。血液検査をする。
空港の到着ロビーで妻が待っていた。僕の姿を見かけると大きく手を振った。
僕も小さく、振り返した。
「おかえり」「ただいま」
妻が僕のスーツケースを替わりに持とうとする。「電車乗るまでね」
エレベーターを下っていく。「いない間、何かあった?」
妻が驚いた顔で僕を見る。「知らないの?」
「何を?」
「大変だったんだよ?世界的なニュースにもなった。ほんとに知らないの?」

現地で生活していると、何の情報も伝わってこない。
辺境の村。人伝えで何かしら知らせは伝わっては来るが、
何人・何十人と経るうちにその情報はぼやけたものになってしまっている。
そういえば先月、「あなたの国で大変なことが起きたらしい」と聞いた覚えがある。
だけどその詳細は誰も知らない。
戦争が始まっただとか、地震で首都壊滅だとか本当の大惨事ならば
すぐにも呼び戻されていただろう。
(すぐと言っても情報の混乱の中でまあ何週間か何ヶ月か掛かっただろうが)
そういう様子でも無さそうだったから、そのときは「ふーん」ぐらいにしか思わなかった。
オリンピックで金メダルを取ったとしても「大変なことが起きた」と伝わるのだから、仕方がない。
2ヶ月前に1度、本社からの交代要員が到着したことがあったが
彼に聞いたときも特に大きなニュースはなかった。
与党と野党の対立、中学生が引き起こした猟奇的な事件、断続的な物価上昇。
いつも通りの話だった。

妻は言う。「大変だったんだから」
何が起きたの?
二人分の指定席を買って、ゆったりとしたシートに沈み込む。
「実際に見た方がいい。言葉で言っても、何も伝わらない」
それっきり、別の話題になった。
僕のいない4ヶ月の間に起きた、共通の友人の話、親戚の話。
疲れていた僕は途中、眠り込んでしまった。

到着して、さらに乗り換えて。
住んでいる町に戻ってきた。
改札をくぐって駅から出ると相変わらずの見慣れた風景。
それも今は懐かしかった。
何の変哲もない。いったい何が起きたと言うのだろう?

タクシー乗り場に並んで、マンションまで。
車窓から街並みを眺める。ふとした瞬間に、どこか違和感を覚える。
しかしそれが何なのか分からない。タクシーは通り過ぎてしまっている。
マンションに到着して、30階までエレベーターで。
「驚くよ」と妻が呟く。
鍵を開けて、中に入る。
スーツケースを玄関に置いたままにして、リビングへ。
ソファーに座ろうとしたら、妻が先に立ってカーテンを開けた。
「見て」
僕は立ち上がって、リビングを横切って、隣に立った。

遠くに見える、向こうの町が消えてなくなっていた。
いや、正しく言うならば、更地になった部分と瓦礫の山とが混在していた。
そこにはオフィス街のビルと高層マンションとが建っていたはずだ。
「何が、あったの?」

「怪獣が」
「え?」
それっきり何も言わない。
「怪獣?」
そんなの漫画や映画の中の話だと思っていた。
現実にあるわけがない。

「ここは?大丈夫だったの?」
「真夜中だったんだけど、大きな物音がして目が覚めて、携帯が鳴って、
 見たらもうそれは戦闘機から撃たれた何かで倒れこんでて」
そいつがもたれかかったビルが崩れた。
その爆風で台風のときみたいに窓がミシミシと揺れた。
砂や石の破片がここまで飛んで来た。粉塵がひどかった。
ここからだとそれは黒い塊にしか見えなかった。
同じマンションの人たちの多くは避難していたけど、
妻は目の前の光景を見つめて、「もう終わったことだ」と感じた。
朝になるまで、眺め続けた。

翌朝から2週間かかって撤収作業が行われた。
各国の報道陣が周辺の町に押し寄せてきた。
妻の携帯にもあちこちから掛かってきた。
「大丈夫」「私は生きている」と答え続けた。

怪獣が放っていたものなのだろう、ひどい匂いがいつまでも空中に漂っていた。
今でも風向きによってはその匂いがするように思う、と妻は言う。
話はそれで、おしまい。

この話を聞いて僕がぼんやり思ったのは、
映画の中の地球防衛軍って弱っちくて
怪獣にいくらミサイルを打っても何の効果もないのに、
現実だと割と強いんだな、ということだった。
いや、怪獣の方がただたんに図体がでかかったというだけで
元々そんな強いものじゃなかったのか。

「何だったの?それは」
「わかんないまま」
ニュースもワイドショーも毎日のように騒いでいたけど、それも治まった。
たくさんの人が死んで、追悼式典が行われて。
怪獣の肉片のサンプルを受け取った各国の研究所が
それぞれ調査を行っているが、たいした情報は得られず。
それが宇宙から来たものなのか、深海から生み出されたものなのか。
結論は出ていない。
いや、結論は出ているのかもしれないけど、公表されていない。

インターネットで検索したらたくさんの画像が見つかった。
ニュースを時系列に沿って追っていくこともできた。
しかしそこから得られるものは生気を失った「事実とされるもの」でしかない。
リビングのカーテンを開けて目の前に広がる、
ぽっかりと空いた空間の異様さ。その生々しさ。
リアル過ぎて逆に何かの間違いかのように思う。

---
この国に戻って来て、妻と僕の生活はこれまで通り続くことになった。
何日かすると、このことを話題にもしなくなった。
30階からの風景にも慣れてしまった。

しかし何かが僕らの生活に忍び寄って、隣り合わせているかのような感覚が常にある。
見慣れたところで、傷跡は傷跡なのだ。

妻はこのマンションを売り払ってどこか別の場所に住もうと言う。
僕もそれに同意した。
休日になると良い物件がないか探しに、遠くへと出掛ける。
電車に乗って、車に乗って、遠くの町へ。
マンションの見学をする。

僕はいつも最初に、リビングからの風景を眺めてみる。
そしてそこに想像上の怪獣を重ね合わせる。
いつだってそいつはそこにいる。
そこに、見えるような気がする。

5月12日(月) 四つん這いで進化

眠れない夜に、もし人間という生き物が
猿ではなく犬から進化したのならばどうなっていたかということを考えた。
とりとめもなく思い浮かぶ中でそのとき前提としていたのは
「前足は物を掴むことが可能であるが、原則は四つん這いのまま進化すること」
後ろ足で立ち上がることはできなくもないが、
楽な姿勢は地面に四つ足で立つこと、走るときもそう。
ハシゴや階段というものは好まれない。
なので、生活の場において高さという概念が発達しない。
階層状態がありえない。ビルやマンションなどもってのほか。
一足飛びにエレベーターをまず発明するということはないだろう。

人口が増えたらどうするか?
高さで補う代わりに、地面という地面を利用し尽くすようになるはずだ。
未開の奥地なんてものはありえない。
そんなの残していたら、あっという間に人=犬に侵食される。
地球上のありとあらゆる地表が道路と家で過密状態になる。
それでいて四つ足だから、道路には各種のボタンが設置される。
その方が便利。横断歩道のボタンであるとか。

道路をいかに多目的に利用するか?が共通命題になるんだろうな。
歩いたり走ったりという移動のための経路ではなく、
コミュニケーションのツールとしても利用されなくてはならない。
だからたぶん、壁ではなく道路上に公共のモニターが設置され、
歩いたり走ったり立ち止まったりしながらそれを眺めることになる。
広告やビデオクリップが流れる。
視点が低いため渋谷のような離れた壁面に、
とはできないから巨大なものにはならない。とても小さくなる。
そして上記のようなボタンがあって、立ち止まってる状況にて
各自放映される広告のジャンルやカテゴリを選べるようになる。
そうなると競争原理が働いて
世の中の様々な趣味嗜好に基づいたチャンネルの細分化が徹底的になされる。
大都市の道路はびっしりとモニターで埋め尽くされている。
結論:マスメディアとしてのテレビは
猿から進化したときよりも犬から進化したときの方が発展する。

・・・といったことを考えた。
あれ?なんかもっと本質的な部分で考えるべきことがあるはずだ。
服は着てるのか着てないのかとか。
まあ着てるんだろうけど。
いや、そうじゃなくて。犬ならではの。
例えば、聴覚や視覚よりも嗅覚に重きを置いたコミュニケーションの技法であるとか。
尻尾の利用の仕方であるとか。

この問題、そのうち時間があったらもっと掘り下げてみたい。
犬じゃなくて猫だったら?象とかカバだったら?とかも含めて。
哺乳類から進化するのが前提とするならば、
クジラやイルカだった場合を考えてみると面白いだろう。
というかイルカってのはこれから先何万年・何百万年という時間があったら
独自の進化を遂げそうな気がする。
言語を発達させて。道具もなんらか使えるようになり。
そのためには地球環境が破壊されずに残されている必要があるけど。
果たしてどうなっているのか。

つうかこれから先何万年・何百万年という時間を経たときに人類はどうなっているのか?
どういう進化(ないしは退化)を遂げているのか?
コンピューターを操作してロボットに仕事をさせるようになった結果、
体を使わなくなって頭だけ大きくなって
昔の漫画に出てきたような火星人みたいにヒョロヒョロしているのか。
どうなんだろうか。
個人的意見として爪はいらなくなってんじゃない?なんとなく。

あるいは空前絶後の脱毛ブームが訪れて
ありとあらゆる人間がありとあらゆる箇所の脱毛を施したら
それは進化として反映されるのだろうか?
というかそこまでしなくても何千年か先には「毛」全般が無くなってそう。
体温調節として必要、という理由はこれから先もう無いのだし。
雑菌が体内に侵入するということを防ぐために耳毛や鼻毛だけが残っている。

つうか、更に、つうか、
バイオテクノロジーが発展していった末には人類の進化の方向性も決められるというか
デザインできるようになるんだろうね。

5月13日(火) ゴールデンウィーク近辺にmixiに書いたこと

今日も手抜きです。
ゴールデンウィーク近辺にmixiに書いたこと。

-------------------------------------------------------------
2008年05月11日18:08

気の持ちようによっては、
今日までがゴールデンウィークです。

5/7-9 はゴールデンウィークの間の出社日に過ぎません。

今年の場合、
4/30-5/2の出社と5/7-9の出社と何がどう違うというのでしょう?

とはいえ、そのゴールデンウィークも今日で終わりです。

-------------------------------------------------------------
2008年04月30日23:06

そういえば一昨日の夜、
帰りに家の近くを歩いていたら
カサコソという音がして、

見ると、あるのは電柱の陰のゴミ袋だけ。
中で何かが動いていたのか・・・

なんだったのだろう。

-------------------------------------------------------------
2008年04月27日21:08

そういえば、以前書こうと思って
忘れていたことを思い出したので、書く。

焼酎のお湯割りに
ちょっとだけ七味唐辛子を入れるとうまいと思う。

柚子胡椒でもうまいんじゃないかと思って
買ってきて入れたことがあるんだけど、
たくさん入れすぎて大変なことになった。
以来、試してない。

そんなこんなで焼酎お湯割の季節も過ぎた。

-------------------------------------------------------------
2008年04月27日13:35

先月青森に帰ったときに床屋で稲中を久々に読んで、面白かった。
予定のないゴールデンウィーク、この機会に全巻読もうと思った。

部屋の中で見つからなかったので
トランクルームに持っていったのだろうと探しに行く。
わざわざ「稲中」とダンボールに書いていたからすぐわかるはず。
部屋の中を整理しようと思い立ったときに赤のマジックペンで書いた。

・・・のはずが、ダンボール開けたらぎっしりと文庫本。

どうも部屋→トランクルームと移動した際に
かなり無頓着に箱詰めしたらしい。
「ちゃんとやれ!!」「バカ!!」
何年か前の自分を呪う。

トランクルームの中は同じような箱の山。
(わざわざ運送業者からたくさん
 同じサイズのものを仕入れたので全部一緒)
これ1コ1コ開けて探すのはありえない・・・
途方にくれる、というか日が暮れる。

ついさっきの話。
なので今、無性に稲中が読みたい。

だけど、買うわけにもいかない。

-------------------------------------------------------------
2008年04月26日15:07

VISAのポイントがたまったので
商品券に引き換えようと
三井住友VISAカードのサイトを探して、
カード番号と暗証番号を入力してログイン。
・・・うまくいかない。

暗証番号が間違っているのだろうか?
以前問い合わせしたときの通知書が見つかったので、
その通り入力する。なのにダメ。
カード番号が間違ってるわけではないし・・・
どうしてなのだろう?

コールセンターに電話して問い合わせてみる。
つながって、話し始めて、その瞬間「あっ」と気付く。
僕のカードは三井住友VISAカードじゃなくて
DCのVISAカードだった。
その後しどろもどろになって適当に電話を切る。

妙に、恥ずかしかった。

CMのイメージが強いのか、
僕の中でVISAと言えば三井住友。

-------------------------------------------------------------
2008年04月23日22:47

(ry とは (略 のことなんですね。

初めて知りました。

5月14日(水) 映画部の新人歓迎会

月曜は会社の映画部の新人歓迎会。
竹芝本社の社食の半分が夜は仕切られて居酒屋っぽくなるという通称「2パプ」で。
(そういえば何年か前、テレビのニュースの街の話題的なコーナーで
 「ユニークな社食」ってことで取り上げられたことがある)

来てくれた新人は五人。
映画の話はほとんどなしで、会社のことばかり聞かれて話していたように思う。
新人たちは今、どの事業部に配属されるか発表を前にしている時期なので
一番興味があるのはそこのところ。
研修の場で出会う以外の「普通」の先輩たちを前にして、
どの事業部はどういう雰囲気かということが気になって仕方がない。

あと、会社での過ごし方。偉そうにもあれこれ助言する。
「今は研修でJAVAをやってるから、JAVAができるできないってのが
 仕事ができるできないに直結するように見えるけど、
 実際にプロジェクトを通じて何年かやっていくようになると
 そこのところは重要なファクターではないことに気づく。
 もちろんJAVAであるとか、IT技術に詳しいに越したことない。
 しかし、それだけが全てではない。
 世の中にはいろんな人がいるように、いろんなSEがいていい。
 僕中は入社時点でWindowsに初めて触って、何にも分からず。
 でも結局そんな感じで10年やってこれた」

「お客さんの前できちんとものが言えて物事を決められる、
 そのときお客さんが言ってた、あるいは言おうとしていた
『思い』を漏らさず汲み取ることができる。
 そういうことができなかったら、うちの会社だと
 いくらJAVAができたところで仕事にならない。
 SIerはつまるところゼネコンであって、
 工程管理や仕様管理、リスクやコストの管理がメインの仕事になる。
 ゼネコンの一社員は建設現場に足しげく通って状況をウオッチして
 問題があったら手を打っていくだろうけど、自ら釘を打つことはない」

「個人的な意見として、情報処理の資格よりも簿記を取得した方がいい。
 いろんな業界のいろんなお客さんのプロジェクトに関わることがあって
 その業界ごとに業務知識ってのは千差万別だけど、
 会計に関する知識はどこに行っても一緒。
 そのバックボーンがあるかないかでかなり違う。
 お客さんの担当者が経理部門の人だったりすると
 最低限の簿記の知識がある前提で話してきて、何も知らないとかなり辛い。
 直接会計に関係のないシステムを構築することになったとしても
 そのシステムで金と人と情報はどう流れていくのか?
 それはどういう形を取って流れていくのか?
 という視点で物事を考えられるようになる。
 その業界特有の上っ面に惑わされることが減ってくる」

「おまけとして。朝早いと一目置かれるので、朝は絶対早い方がいい。
 忙しくて毎日夜遅くて終電とか徹夜になりそうな状況だったとしても
『その分君は朝早いから』ってことでさっさと帰れる雰囲気を醸し出せる。
 朝2時間早く来ることと、夜4時間多く仕事することだったら、前者の方が得」

などなど。読み返すとほんと偉そうだ。
別に僕、簿記を持ってるわけでもなんでもないんだけど。

今年は4月頭の新人向けクラブ紹介も若手に任せて、僕は出席せず。
例年僕が発表していたのだが、「暗い」「やる気がない」と不評だったので・・・
というか僕が中心になって動かしていて
僕がいないと何も動かないという映画部だったんだけど、
そこから脱却したくて。去年からそれを強く意識しだした。
今年は若手が自ら作品を撮ってくれそうなので
それが軌道に乗ったら僕はもうご隠居みたいになれるのかも。

5月15日(木) 「イン ザ・ミソスープ」

未読の本を積み上げた山の中に見つけて、
村上龍の「イン ザ・ミソスープ」を読んだ。
面白かった。とても面白かった。
一言で言えば猟奇的殺人の話なんだけど、
単なる「猟奇」的な「殺人」にとどまらない。
それ以上の何か根源的なもの、根深い社会的病を描いている。

村上龍って基本的にものすごく小説がうまい。
文章がうまいというのとはちょっと違う。
普通の言葉を普通に組み合わせているだけのはずなのに、
小説としての凄味がドクドクと湧き出てくる。
小説家としての基礎体力を計測してみたら絶対国内トップクラスだよね。
過去100年間の日本の作家を範囲としても。
読んでて、構わないなあとため息が出る。
もっとたくさん読まないとな・・・
読んでて「勉強になる」と思わされる作家ってなかなかいない。

本編のストーリーとは別に、登場人物の独白みたいな感じで
ところどころ小さなエピソードが紹介される。
その1つ1つの発想が奇抜すぎて
そこに何よりもこの人の作家としての怖さを感じる。
「イン ザ・ミソスープ」だと
山手線の床に座って積み木を積み上げる話とか。
原宿で大きなカーブがあるから崩れやすいなんて出てきて、
はっとして、その後すぐゾッとした気持ちになる。

あと、村上龍独特の、人と人とのつながりとしてのこの社会やこの世界、
あるいは人間そのものに対する考え方。
それはいったいどういうものなのか?どんな姿・形をしているのか?
どれだけいびつで、どれだけ病んでいるのか?
どんなシステムを通じて物事(人・モノ・金・情報)が流通していくのか?
どんなふうにして人の思いは伝わっていくのか?
希望や絶望といった生々しい感情、その裏返しの「無関心」
冷徹な視線で理論化される。
村上龍の作品にて描かれていることは常に、
この壊れてしまった世界の中で人間性を取り戻す作業なのだと思う。
毎回、何読んでも虚をつかれる、とても引っかかる箇所が出てくる。
今回はここ。引用します。
「外国人とつき合う仕事を二年近くやって、一つのことに気づいた。
 イヤなやつはイヤな形でコミュニケートしてくる。
 人間が壊れているというとき、
 それはその人のコミュニケーションが壊れているのだ。
 その人間とのコミュニケーションを信じることができないときに、
 そいつを信じられないやつだと思う」
(幻冬舎文庫、213ページ)

---
小説家には2種類あるのだと最近僕は考える。
結局誰しもが人間というものが分からなくて
その作品を通じて追い求めることになるのだが、
具体的な事象を通じてその作品それぞれの中で答えをその都度出す人と、
抽象的に全ての作品で思考し続け、結果答えを出しえないという結論に達する人と。
村上龍や夏目漱石なんかが前者だし、村上春樹や太宰治なんかが後者となる(と思う)。
その瞬間、その断面においては何かしら答えはあるのだと考える人と
瞬間のつながりのなかでトータルで何かを感覚的に語る人と
言い換えてもいいのかもしれない。

多くの人は書き手として後者を選択するのではないか。
悪く言えば、結論を先送りするのだから
その作品の中には良いも悪いもないということになる。
しかしそれはある意味、気が楽だ。
(断わっておくが、だからといってここを基準に文学作品の優劣が決まるわけではない)

前者、作品という枠組みを通して意思表示を行うには多大な勇気、思いきりを必要とする。
もしかしたらそこで述べる意見は間違っているかもしれない。
それでもそういうものとして人というものを、この世界を描く必要があって、
その都度決断して言い切らなくてはならない。
何よりも大事なのは、その熱い思いに駆られるのだということ。

僕なんかにはできない。
うまくは言えないが、村上龍はこの前者の代表者であって、
自分には到底真似できないから、なんだかとても憧れる。

前者の姿勢を貫く、ということが
「13歳のハローワーク」の出版や「JMM」の発行といった
「小説を書く」にとどまらない境界線を押し広げる作業、
世の中に一石投じる行為につながっているのではないか?
同じ場所にとどまっているならば
個々の瞬間における変化のスピードが鈍くなってしまう。
誰よりもまず多大な情報の中に身を投じ、
それを「編集」して投げ返さなくてはならない。

自らの内面、あるいは目の前の出来事を見つめ続けて変化を求める作家もいれば
どこまでも遠くへ、前人未到の遥か彼方へそれを求める作家もいる。
僕の知る限り村上龍はその距離感と
その到達の仕方への力強さが日本人の作家の中では随一。
それゆえに描けるものというのがあって、
そこが最大の魅力となっているのではないか。
バックボーンが強靭なのだから、日本人のスケールでは規格外なのだから、
そりゃ小説としての凄味がドクドクと湧き出てくるのも当たり前なわけであって。
ものすごくマクロな視点を持ちえるから、ものすごくミクロにも振れることができる。
しかもかなり具体的に。
つまり、現時点で最高の観察者。

無理やりつなげるならば、
「イン ザ・ミソスープ」の山手線の積み木の話、
引用したコミュニケーションの話も
そういうところから生み出されているのではないか、ということ。

(もうちょっとうまくまとめたかったけど、時間切れ)


All Rights Reserved. Copyright (c) 2000-2009 岡村日記