ダイバダッタが、釈尊のもとを去ってまだ間もない時のことである。釈尊は次のように、残った弟子たちを戒めた。
「修行者たちよ。人は生の苦しみ、老後の苦しみに苛まれ、道を求めて出家する。しかし、いつしか、名声と利養を手にして喜び、『私の心は満たされた』と思ってしまう。そして、『私の名声と利養は、皆より勝れている』と自慢し他を軽蔑するようになる」

釈尊は、巧みな譬えを用いさらに続けた。
「木の中心にある柾目の材木を探している人があった。森に大きな木があった。これなら大きな心材が得られる、と彼は思い、木を切り始めた。彼は心材の周りの『普通の材木』、『皮』、そして『薄皮』に目を奪われ、心材を求めるという、当初の目的を忘れてしまう。結局、薄皮を手に、意気揚々と帰ってしまう」

「名声と利養を手にして喜び『私の志は満たされた』と思う者は、仏道修行の『薄皮』で止まる者である」
「同じく道を求めて出家し、名声と利養への執着を捨て、戒律を修める者もいる。しかし、いつしか戒律を修めただけで喜び、『私の志は満たされた』と思ってしまう。この人は、『皮』を手に意気揚々と帰る人である。同様に名声と利養、そして戒律には執着せず、禅定(瞑想)に励むがそれだけで喜んで、『私の志は満たされた』と思ってしまうなら、この人は『(心材以外の)普通の材木』を手に、意気揚々と帰る人である」

「名声や利養、戒律、禅定をもって究極的功徳とせず、決して止まることなく、実践修行に打ち込む人こそ、心材を手にする人なのである」
                               (マッジマ・カーニヤ)

ー考察ー
人はある目的を追求するため、さまざまな手段や方法を用います。しかし、その手段が目的化し、当初の目的を忘れてしまうことがしばしばあります。


例えば、現在の教育で「点数偏重」主義の弊害が指摘されています。本来、点数は、達成度を見る
指標・手段の一つにしかすぎないのに、教師はその「点数」で生徒のすべてを評価してしまいがち
です。そのために生徒は一点でも高い点を取ることを、勉学の目的としてしまいます。

仏道修行でも同じ。それは絶えることなき人格練磨の道であるにもかかわらず、「名声・利養」や「戒律を守ること」「禅定に励むこと」など、人格練磨のための「方法」が、いつの間にか「目的」と化してしまうことが、よく見受けられます。自分の現状にとどまることなく、自らを高めつづける道を歩む事の大切さを、この経は語っています。
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