火神への供養を熱心に行うバラモンがいた。
今月も火神を祭る儀式を行い終えると、彼は考えた。
「この火神への供物のお下がりを、どなたか立派な方にさしあげたいものだ」

彼は釈尊が樹下で静かに座しているのを見た。
彼は思った。この人はバラモンではない。どうも低い身分のようだ・・・・・・。
そして言った。
「あなたは、何の身分の生まれか」
釈尊は一喝した。
「生まれを問うてはいけない。行いこそ問うべきである」

そして続ける。
「火は、どのように小さな木片からでも生じるだろう。同様に、常に自らの心と行いを反省する人は、いかなる生まれであろうと、高貴な人となる」
その堂々とした態度に圧倒されたバラモンは、手にしていた供物を差し出した。

「止めよ。私は”祈祷の呪文”を唱えた供物を受け取らない。それは仏法の道理に合わない。真の道理は、まさしく現実の生活法である」仏は厳しく言った。

更に、こうも続けた。
「バラモンよ。火の儀式を行ったからといって浄らかさが得られるなどと考えてはならない。それは、単に外面的なこと。外面的なことによって、清浄が得られると考える人は、慢心である。まさしくそのような考えが、人を清浄から遠ざける。
バラモンよ。内なる火を絶えず燃やし続けよ。
整った人格こそ。”世界の輝く火である”」
                               (サンユッタ・ニカーヤ)

ー考察ー
仏教の最大の特徴の一つを明確に示しているエピソードです。
その特徴とはーーー「呪術に頼って自己の研鑽と成長を忘れる性向との決別」、と言うことが出来るでしょう。
仏法は「現実の生活法」と明言されています。
真の宗教とは、外面的な儀式ではなく、現実の中で人間の内面を磨き鍛え輝かせていくものである。そんな仏教の主張が、この話には明確に表れています。

また、釈尊の言葉が「火」をめぐって語られていることは、相手が「火の儀式」を行うバラモンであることを考慮してのことでしょう。相手が執着を持っていることを逆手にとって、正しい方向へ導くーーーまさしく「人間の教師」釈尊の面目躍如たる話です。

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