6月21日 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 
 ひさびさに映画に負けた、と思わされる映画でした。ビデオで観たのですが、んー、正直言ってなんじゃこりゃと思いました。日本にもこのような女性受難映画は数多くありますが、どうもこの作品のヒロインが受身でない分、感情移入しづらい仕上がりですね。ビョークの音楽はエスニックで美しく、聞けば心を揺さぶられるのですが、はて、それ以外の部分はどうかと言うと、???って感じです。
 ビョーク演じるところの、ミュージカル好きな女性、セルマがヒロインです。セルマはチェコからの移民で、遺伝性の眼疾を持っていて、失明間近。しかもそれが息子にまで遺伝している。思春期前の息子はまだ手術を受ければ発病せずにすむ、ということで、セルマおっかさんはひたすら働いて、手術費用を貯めているのです。おお、これは難病かわいそ物語だったのか…。『ある愛の詩』『プラスチックの中の青春』『愛の選択』?? 普通なら泣け泣けわめけ、と迫ってくるのですが…。が…。んが…。
 彼女は、貯めた金を隣人に盗まれ、あげく隣人を殺すハメに陥ります。暗い映画がいっとう好きな私ですが、このサディスティックさにはちょっと…と違和感を感じてしまいました。例えば私の大好きな女人受難映画『テス』などと比べても、どうもそのサディスティックさではこの映画、勝っているようです。しかも科白の「ミュージカルでは怖いことは何も起こらない」を逆手にとって、これでもかとお約束を壊していくところなど、監督のラース・フォン・トリアーの悪意をひしひしと感じました。うーん、小説で言えばジャック・ケッチャム並だな。
 ミュージカルでは起こらないはずの怖いことがすべてセルマに降りかかって、彼女はまあ最悪の結末を迎えるのですが、珍しく私も泣けませんでしたね。その辺、この映画に負けた、と感じる所以です。ひさびさに二度と観たくない映画です。ブラックだけどユーモアはないしね。なんだろね、この映画。実験映画?
 まあ、ある意味、傑作ではあると思います。だけどもうちょっと圧倒的な映像美が欲しかった。ちょっとくすんだ色合いの、最近はやりの手ぶれ映像じゃ泣けないのよっっっ!!! リアリズム映像もほどほどにね。ストーリーはあんだけ現実ばなれしてたんだからさ。
6月16日 『京都人だけが知っている』 
 大変面白い本を読みました。タイトルは『京都人だけが知っている』(洋泉社、新書Y)。著者は入江敦彦さんとおっしゃる生粋の京都人。若手の映画・服飾評論家である。現在ロンドン在住。
 京都という街の判らなさは、そのまま今までは深遠さと勘違いされてきたのだが、ネイティヴである入江さんの「京都追放は覚悟のうえ」の歯に衣着せぬ筆致が、たいそうおよろしいのです。てゆっか面白過ぎ。
 京都人たちが今まで、「よそさん」には黙して語らなかった京都のメンタリティを、これでもかというばかりに暴き立てていて、正直、甘い夢見る京都ファンにはおすすめできない本では有ります。が、これを読めばあなたも京都がよく判るようになるでしょう。おばんざいや和菓子といった食物、喫茶店や料亭、きものなどを通じて、京都の魅力(と功罪)を語り、桜や水、あの世といったキーワードで京都の魔界を語る。これぞ私の待ち望んでいた京都論でしょう。それが実にユニークで若若しい文章で書かれていて、楽しい限りです。京都の長所も短所も知りぬいて、愛しているという風情が、好もしいですねえ。
 やっぱりこんなこと考えてたのね、京都の人は、という笑いがこみ上げてくる本です。京都を好きな方も嫌いな方も、ぜひぜひお読みになってください。
6月12日 罪無き者まず石を投げ打て 
 大変憂鬱な気分になる。例の大阪の事件である。なんかワイドショー好きの私も、テレビを見る気分を損なわされる。私がいやなのは身近の人たちの反応もテレビと似たり寄ったりということである。
 なんでそんなに簡単に死刑の極刑のと言えるのだろうか。いたいけな子供が殺されたから義憤を感じるのは判る。判るのだが、なぜそれが短絡的に犯人への報復になるのだろうか。この国は法治国家なのだ。勝手にくちぐちに死刑にしろなんて言わないで欲しい。簡単に死刑にしろなんて言ってる人たちも、実は子供たちの命を軽く扱った犯人と同じ高さの場所にしかいないのではないか。死をもって償わせるのは、結果的には裁判官の判断だし、ただ単に事件の結末としてスケープゴートが欲しいのなら、よそでやってくれ。繰り返す、この国は法治国家である。
 この種の事件が起きるたびに味わう、このいやな思いはなんなのだろうと思って、30年生きてきた。それは今後も変わるまい。私は自分が聖人君子でないことは承知している。ただ、想像力は人よりも激しく働くほうだ。なぜそんな罪を犯すことになってしまうのかも、だいたいなら判る。そしてそれは痛みを伴う。きっとこの痛みすら判らぬ人たちが一般大衆というもので、そういう人たちが常に道を踏み外した者に石をなげうつのだろう。でもよく考えてみればそれは善意に基づくリンチである。
 今回、特に私の気をめいらせるのは容疑者の父親の言動だ。おまえ、自分の息子だろ、いくらなんでも
「死刑にしてください」とか簡単にテレビの前で言うなよなあ、と思う。親だって保身のためにはそういうことを言わざるを得ないのかも知れないが、そんなバケモノだって人の子だし、あんたの子だろ、と言いたくなるのである。この世で親だけしか、わが子をかばってやれる者はいないのではないだろうか。あの親じゃ、このような犯人が出てくるのは当然か、とも思う。ただ容疑者の家庭環境はまだよく判らない部分が多いので、これ以上言及するのは差し控えておく。勝手なデマを飛ばす仲間には入りたくないからね。
 多くの人たちは、テレビで容疑者の姿を見ると怒りを覚えるらしいが、その怒りはなんなのか、私に教えて欲しい。私は少なくとも、罪そのものと人間とを混同するような教育は受けていない。これでも一応、大学の法学部で死刑廃止論を学んだ人間だ。そして決して死刑廃止論が甘ちょろいヒューマニズムの影響で唱えられているのではないということは知っている。日本では相変わらず代用監獄としての留置所と言うものが存在し、冤罪を生みかねない精神構造を警察や検察の人たちが持っているから、やはり死刑は恐ろしい結果を生みかねないと言っているのである。
 死刑の実態を知らずに、簡単に死刑を唱えるのは、それもまた暴力だし、こういうことを書いていると、「だったらお前はあの犯人をかばうのか」と勝手に激昂する、自称正義感の強い人たちもいることも、重々承知している。だが、そういう人たちに犯罪者を裁く権利はないのである。
 私だって犠牲になった子供たちのことを考えると胸が痛む。愛する者があまりにも不条理に生を奪われるなど、想像を絶する。犠牲者の親御さんはそりゃ、犯人のことを百回殺しても殺したりないであろう、とも思う。しかし、それで全てが解決するのか。むしろ、なぜこんなことをしでかしたのかきちんと調べないと、第二第三の同じ事件は起こってしまう。それからでは遅い。いやもはや、ずっと起こって来ているのである。おそらく社会的には弱者であるはずの人物たちが、この種の事件の犯人なのだろう。弱者がより弱い者に対して牙を剥く。まさにこの世は地獄である。なぜこんな地獄になってしまったのか、よく考えてもらいたい。犯罪者の身勝手なパーソナリティもよく見れば、自分自身の姿の影像である。
 聖書の言葉にこんなのがある。「罪無き者まず石を投げ打て」。この世に罪無き者などあるのだろうか。誰しもが神の前で罪人であるからには、どんな残虐な罪を犯したとしても、やはり更正の機会は与えられねばならない。よしんば更正不可能であるとしても、犯罪者の内面をちゃんと調べないと、「モンスター」は後から後から出てくる。死刑に犯罪の抑止効果などまったくないことは、誰が見てもあきらかだ。だから一時の義憤に駆られるのではなく、冷静にものを凝視めて欲しい。
 モンスターは外側にはいない。自分の心の中にあるのだと、言い聞かせて欲しい、罪なき人々よ。そしてモンスターを生み出すのは、他ならぬあなた方自身であると、肝に銘じていただきたいものである。
 この種の発言は、日記を書く本来の目的ではないので、もう二度と書かないだろう。次からはいつものお馬鹿な日記に戻りたいものだ。
6月9日 電波な人びと 
 さいきん街でよく出くわすのが、「電波な人びと」である。ひとりでブツブツ何か言ってるのはまだいいほうで、エスカレーターを逆走する奴(於、新宿南口)、電車の座席に立ってはばたく奴(於、有楽町線)、チ○をほりだして歌う奴(於、東池袋)など多種多彩。彼らはいったいどこから電波を受信しているんだろうか。北の国(それ以上言えん)か? それともM78星雲の彼方か?
 お気の毒な人ではあることだし、誰もが見て見ぬふりをしてしまうので、彼らはてっきり天上天下唯我独尊状態にでもなっているのだろうか。こういう人たちがみんな、犯罪の予備軍に思えて仕方がない人もいるだろう。昨日も大阪で精神安定剤を多量に服用した電波男による無差別殺人が起きた。電波はこわい。
 強力電波系の犯罪から身を守る方法はないのだろうか。やはり自分も電波になって応戦するとか。素敵だね、一億二千万の電波軍。大友克洋のマンガじゃあるまいし…。
 電波にもいろいろあるということを、私たちはもっと学ばなければいけないのかもしれない。人畜無害な電波人たちまで迫害するのは、やはりいけないことなのだから。しかし人畜無害な電波人であっても、それを見た人になにか、やーな気分を味わわせるのは、これは電波人たちの存在意義なのだから、どうしようもないと私は思う。「明日は我が身だぞ」。彼らはそう、私に教えてくれるのである。ありがたきかな電波人…。感謝のまなざしとともに私は彼らの後姿を、そっと見送るのである。
 ちなみに私は30歳。躁鬱病のケあり。ノイローゼも時折。さいきんは被害妄想を抱いている。いつ川を渡ってしまうのだろうか、心配である。でも街中でひとりごとは言ってません。
6月6日 クリスティー愛の小説 

第1作
『愛の旋律』
1930
 近頃、アガサ・クリスティーの普通小説を読んでいます。「愛の小説」と銘打たれたそれらの小説は、ミステリでも殊更ロマンスの要素を扱うことの多かったクリスティーらしい小説となっています。
 これらはメアリ・ウェストマコット名義で書かれ、最初はクリスティーが本当の作者であると知られることもなく、ひっそりと出版されていたようです。今でも華麗なミステリ群のかげに隠れて、あまり話題になることもないようです。だがこれらの小説には多かれ少なかれ、彼女の人生が投影されていると思われます。それ故にファンにとっては必読の書だし、愛の哀しみや喜びを知る読者にもっと読んでもらいたいのです。
 クリスティーは女性としては波乱の人生を歩んだほうでしょう。最初の夫、アーチボルド・クリスティーとの結婚。アーチーの心変わり。そして有名な失踪事件。離婚。2番目の夫、マックス・マローワンとの出逢い。近年暴露されたマックスの不実。仮面夫婦として一生を終えたこと。愛の理想と実相のはざまで揺れ動き続けた生だったのでしょうね。
 クリスティーのミステリにおいていつも、愛は残酷な結果をもたらします。その反面、いつもロマンスが生まれ育まれています。愛のふたつの顔を描き続けた作家の残した、珠玉の小説がこれらの6冊という訳です。これらの小説が、30年代から50年代にかけてのクリスティーのミステリ黄金期と並行していることも特筆すべきことでしょう。
 ただ若い人のロマンスのみでなく、夫婦の危機、親子の絆、姉妹の葛藤など、愛の諸相を、クリスティーは1930年から1956年までの長きにわたって書き継いだことになります。そこに重なるのは、彼女の第2の結婚生活――最初は甘く、やがて苦いものへと変わった――に他なりません。
 ときおりむしょうに読みたくなるのがクリスティーですが、今回はひとあじ違った感慨に耽ることとなった次第です。

第4作
『暗い抱擁』
1947

第2作
『未完の肖像』
1934

第5作
『娘は娘』
1952

第3作
『春にして
君を離れ』
1944

第6作
『愛の重さ』
1956
6月1日 だっこでクンクン 
 今朝はおそめに起きてTVを見ていました。すると、ワイドショーに挟まれた時間帯で、某通販会社のCMをやっていました。
 本日の出物は「だっこでクンクン」。レトリーバーとテリアの2タイプ(だったよな)がセットでロッキュッパ。んまあ、お安いのねっ! 新宿伊勢丹前のダッチうさぎよりもお安いわっ!! 奥様、ご覧になりまして?
 というような会話のあるはずもなく(そりゃそうだ)、半睡のアタマでボエーと眺めておりましたが、けっこうこれがきゃわゆいのです。ふかふかの毛並みに、愛らしい動作。しかもだっこすると「ク〜ン」と鳴いて、目を閉じて眠っちゃいます。いびきもかいたりして(ホント)。
 あう…。犬好きの私としては、ホンモノを飼えないアパート住まい故、こういうのを見ると、ぐっ、と来てしまいます。私が子供の頃はここまで精巧なオモチャなんてなかったのですよ。たぶん私がいま5歳だったらきっとママに、買って〜とねだるだろうな。
 ところでこれに似たよなオモチャと言えばアイボがありますが、私はこの日記の某月某日でアイボをさんざんにケナしたことがあります。「だっこでクンクン」とアイボは、値段もけた違いだし、ICの量もダンチでしょう。かたや通販ロッキュッパだし、かたやマジものコンピューター搭載だしねえ。
 でもなんであのアイボがイヤなのか、自分なりに判ったような気がします。表情がないのです。犬のチャーミングなところは、ご主人と接する時、おなかすいた時、ちょっとへつらう時、etc.のあの目つきなのです。
 以前、藤原新也がバリ島でみかけた「マユゲ犬」(いたづらでマユゲを書かれた犬)の写真を本の表紙に使って、広く賞賛を浴びたことがありました。これもまた犬の顔にまつわる大好きなエピソードのひとつです。
 やっぱ顔のないアイボは気持ち悪い(また言ってら)のです。アイボ撲滅。お子様には「だっこでクンクン」で情操教育をはかりましょう。私が買うのは気持ち悪いですがね…。
 でも最近の子供が、アイボのあのソリッドな質感のほうが好きだったりしたらどうしましょ。やばっ!!!