今年のベストダズン 12月24日 
 気が早いようですが、年末年始は多忙なので、もうベストダズンやっちゃいます。相変わらずラインナップが気に食わない『このミス』とはほとんどかぶっておりません(笑)。このHPは幻想&ミステリのバランスを考えた独自路線を貫きます。てか、今年の話題作全然読んでないし、読まなくてもソンはないし(あ、言っちゃった…)、敢えて流れの外の道を突き進む覚悟でございます。では、いざ。

国内編
 6位 『象られた力』飛浩隆 早川JA文庫
 5位 『根暗野火魂』淀川乱歩 新風舎文庫
 4位 『夜は満ちる』小池真理子 文芸春秋
 3位 『綺譚集』津原泰水 集英社
 2位 『お見世出し』森山東 角川ホラー文庫
 1位 『蒼煌』黒川博行 文芸春秋

国外編
 6位 『死の仕立屋』ブリジット・オベール 早川ミステリ文庫
 5位 『生ける屍』ジョイス・キャロル・オーツ 扶桑社ミステリー文庫
 4位 『赤い霧』ポール・アルテ 早川ポケミス
 3位 『ニューオリンズの白デブ吸血鬼アンドルー・フォックス アンドリュース・プレス
 2位 『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えたジェイムズ・ティプトリー・Jr 早川FA文庫
 1位 『蜘蛛の微笑』ティエリー・ジョンケ 早川ミステリ文庫

 国外編がなんともイヤーなベスト6になってますね。奇数の番号は見事に鬼畜作品ばっか。おフランス代表ジョンケの1位作品『蜘蛛…』は、エロとグロの混ざりようが完璧、はしたないったらありゃしない(誉めてるんですよ)。ペドロ・アルモドバルが映画化するそうで、さもありなん。愛人を麻薬漬けにして売春させる外科医、田舎屋に立てこもる強盗犯人、「蜘蛛」と名乗る謎の男に監禁される青年、の三つのエピソードが絡み合って、トンデモな結末へアナタを誘います。ジャプリゾやボワナル再びって感じのフレンチ・サスペンス、私のツボに見事にはまりました。フランスと言えば『赤い霧』『死の仕立屋』もよかったです。どちらもアングロサクソン風味フレンチですけど、ベスト6の半分をフレンチが占めるなんて、んまあ、快挙。人によるとフレンチ・ミステリって全く口に合わないらしいですが、そういう方が気の毒。
 美形吸血鬼レスタト様ファンの魂胆を寒からしめる『ニューオリンズ…』は、白人デブ吸血鬼と、黒人吸血鬼の美味な血をめぐる争奪戦の話。デブの血を吸い過ぎて自らもデブ糖尿になった主人公が笑えます。純文学作家オーツのサイコ・スリラー『生ける屍』は、ジェフリー・ダーマーを彷彿とさせる殺人鬼のモノローグ。エルロイの『キラー・オン・ザ・ロード』も真っ青のおぞましさ。人間の精神の暗部を正しく見せて頂きましたって感じ。ティプトリーのユカタン半島を舞台にしたファンタジーは小品ながらよい語り口で、彼女のSF作品とはまた一味違っています。
 国内編1位はいつもの幻想路線でなく、黒川の関西リアリズム風味クライム・サスペンス。これがもう物凄く面白くて、なんせ、3年ぶりの黒川の新作だし、京都日本画壇の暗部をユーモラスに描いてて、読んでる間は至福でした。あくの強い成り上がりの室生と、坊ちゃん坊ちゃんした稲山の、二人の大御所日本画家の芸術院選挙をめぐる権謀術数の物語。美の世界の裏側のドロドロをここまで活写できるのも、作家自身もと美術教師で奥さんが現役の日本画家だからか? 関西の闇社会を描くことの多かった最近の黒川ですが、警察小説時代に軽く触れていた画壇に斬り込んだお手並みはさすが。京都と言えば、今年のカドホラ新人の、京都の魔を描く短編『お見世出し』もあって、はんなりとおとろしおすなあ。
 ため息出るほど美しい津原の短編集も、ほんとなら一番上に持ってきたいところですが、実はネット限定e-novelsで買った短編集『T(じゅうのけつらく)』収録作がほとんどだったので。小池の短編集は『水無月の墓』『薔薇船』以来の幻想作品集。美しいです。あと、神をも恐れぬペンネームで書かれた『根暗…』はネクロノミコンのもじり。未知の新人の作品ですが、実に珍品でサタニックな美少年凌辱ホラー短編集です。いや、まさにチン品中のチン品。今は亡き某やおい雑誌に掲載された作品だそうな。飛浩隆はSFマガジンに掲載されたまま埋もれていた中編を集めたもので、『グラン・ヴァカンス』には及ばぬものの、ビザールな名作ばかり。新作の『空の園丁』が待ち遠しくてもう…。
 ということで、本年もHPご贔屓くださりありがとうございました。来年はまた性懲りもなくコンテンツを増やす所存です。ではよいお年を。
『ハウルの動く城』鑑賞 12月15日 
 宮崎駿の新作『ハウルの動く城』を観て来ました。ちょっとですね、不完全燃焼ぽい作品でした。これから先、ネタバレありますんで、もう劇場に行かれた方か、ネタバレされても見に行くよん、という方だけ、ご覧の程宜しくお願い致します。
 お話は、ヨーロッパのどこかの国、魔法使いが存在する世界の物語です。原作はイギリスのダイアナ・ウィン・ジョーンズ女史の『魔法使いハウルと火の悪魔(原題:Howl's Moving Castle…映画と同じ題)』徳間書店刊行。宮崎作品の原作物としては『魔女の宅急便』以来ですね。
 帽子屋の長女、ソフィーが街で魔法使いのハウルと出会い、そのせいで荒れ地の魔女に呪いをかけられて90歳の老婆にされてしまいます。ババアになったソフィーはなんとか呪いを解いてもらおうとハウルの城に忍び込み、そこで暮らし始めます。という話なのですが、ですが、んが…
 とりあえず原作と映画は別物として考えて、映画はようわからん展開が多過ぎて、ファンタジーのガジェットに慣れない人は多分シンドイだろーなー、と思いました。
 内容は『千と千尋の神隠し』が微妙に谺した感じで、魔法使い湯婆婆と弟子のハクの関係が、今回のサリマン先生(戦争の張本人!)と弟子だったハウルの関係に変奏されていました。よくない魔法使いに弟子入りした青年の悲劇、という感じかな。蛇足ながら、魔法って大量破壊兵器か何かの暗喩なのでしょうね。
 ま、跡取りの長女ゆえに、自分に自信のない少女ソフィーが婆さんに身をやつしたことで、逆に自信を身につけていく、という成長物語として見るのが、一番穏当かと。世界戦争の件ははっきり言って、宮崎監督の勇み足ですね。『ナウシカ』や『ラピュタ』などの初期に、「右翼アニメーター」とか言われて叩かれたのがよっぽど身に染みたのかな、無理に反戦テーマを入れちゃったって気がします。
 おかげで、私は色々暇を見つけては、過去の宮崎作品を寝る間を惜しんで見返したのでした。最近の宮崎アニメって、ドキドキハラハラが少ないですね。エンターテイメントではもうないのかな。『千と千尋』があれだけ良かっただけに、惜しいですね。
バカ・テクノでGO! 11月7日 
核P−MODEL『ビストロン』 バカ・テクノというと悪口のようだが、違うんです。現在「培養」中のテクノバンド、P−MODELのリーダー・平沢進がひとりで頑張って出したアルバムの自己解説で、ある曲のことをそう呼んでいるのです。「バカ・テクノ」…ええ、響きやなあ。
 バカ・テクノをヘッドホンでガンガン大音量で聞いていると、なんかこうラリった気分になろうかというもんです。で、そのアルバム、バンド名「核P−MODEL」、タイトル『ビストロン』は実にゴキゲン。以前から私、P−MODELの大ファンだったのですが、1999年の「培養」宣言以来活動停止状態で、このHPの日記で取り上げようにも取り上げられなかったのです。それが、先月、嬉しいことにニューアルバムを…。
 核、とついてるくらいで、ホンモノのP−MODELとは違うらしいのですが、音的にはまさにテクノ王道、ハードでチープ、キッチュでノリノリ、面白すぎます。
 のっけ、インストの「二重展望3」からして、ノリノリなのに非ダンサブル、素朴な音楽ファンの鼻面引き回すよな軽快な曲調。次の「Big Brother」は某国のことをおちゃらかしたゴキゲンさ。謎の言葉、“亜種音語”飛び交う「アンチ・ビストロン」から、ア、ガ、メ、ヨ、ワレハティービー…のコーラスが笑えておふざけ全開の「崇めよ我はTVなり」、和風のシンセが光る「巡航プシクラオン」、ノリノリでハードの極み「暗黒πドゥアイ」「パラ・ユニフス」。爽快なテクノナンバー「Space hook」。メインタイトル曲「ビストロン」から、物語を湛えたファンタスティックな「アンチモネシア」。棄て曲なしのアルバムです。
 ネットの批評を見ると、これまでのP−MODEL作品、或いは平沢ソロ作品の焼き回しばっかり、という声もあるようですが、焼き回しがあかんのやったら、どのアーティストも過去の作品の焼き回しばっかりでアカンということになりますわなあ。優れたアーティストが過去の自己生産品に似たものを定番商品として産出するのが悪いことと決め付けるのは、飽きっぽい似非ファンの言いがかりみたいなもんでね。
 歌詞も相変わらず難解で訳わからんし、そこがサイコー。かと言って、決してとっつきにくい音楽ではないと思うんですが、ほら、日本の音楽ってお子ちゃま向けばっかりでアレだから、なかなか理解者も少ないのかなあ。なんて、そんなこと言ってたら強面のヒラサワさんに噛みつかれますね。
 復活ついでにライブもあるそうで、時間があったらいきたいですね。オール・スタンディングだけど、老体に鞭打ってがんばりたいな〜。聴くDRUG、バカ・テクノでノリノリでGO!
悲と喜と両行の涙をおとしけ 10月30日 
 江戸末期、越後塩沢の文人・鈴木牧之が著した『北越雪譜』初巻に、「雪吹(ふぶき)」という一文があります。越の国の吹雪の凄さを書いた文です。その中に、ある農民夫婦の災難の挿話があります。塩沢近隣の農家の若夫婦が、嫁の両親に初孫を見せるために、二里ばかり隣の村に向い、その途次で吹雪に襲われ命を落とします。村人達が雪に埋もれた二人の遺骸を発見したとき、二人は手を握り合ったまま息絶えて、幼い子だけが母の袖にくるまれて、雪の中で生きていた、という悲しい話。息子達の遺体と孫が帰ってきた時の親たちのことを書いた文章をそのまま載せます。
   かの両親(ふたおや)は夫婦娵(よめ)の家に一宿(とまりし)とのみおも
  ひおりしに、死骸を見て一言の詞(
ことば)もなく、二人が死骸にとりつき、
  顔にかほをおしあて大声をあげて哭けるは、見るも憐(
あはれ)のあ
  りさま也。一人の男懐より児をいだして姑にわたしければ、悲(
かなしみ)
  と喜(
よろこび)と両行の涙をおとしけるとぞ。   岩波文庫『北越雪譜』

 先週の土曜、中越地震に見舞われた地域はまさしく、牧之の住んだ塩沢の隣町の一帯で、母子三人が車ごと土砂に呑まれた悲しい事故を彷彿とさせる、江戸時代の挿話でした。まして幼い男の子だけが生きていたこの奇遇。遺族の方々の思いはまさに、「悲と喜と両行の涙をおとしける」という心境でしょう。
 豪雪地帯として知られる魚沼・古志郡一帯に、本格的な冬の訪れる前に、なんとか被災された方々が最低限の日常を取り戻せますよう、お祈り申し上げます。阪神淡路の震災の時、私も親類や友人を喪っていますので、今回の地震で大切な人を亡くされた方の思いいかばかりかと思います。早く体と心の傷が癒えますように…。
虚無に捧げる青い薔薇 10月28日 
虚無への供物 講談社文庫旧版 中井英夫の『虚無への供物』(1964)で、トリヴィアルなウンチクが語られる中、青い薔薇が重要なモチーフのひとつになっていることは、お読みになった方ならお分かりでしょう。青い薔薇は植物学的にはこの世に存在しない植物で、元来、実在不可能なものの例えに使われてきたのです。まさに青い薔薇こそ虚無に捧げる供物だったのです。そう言えば、講談社文庫の旧版(1974初版)のイラストもまさに、闇に佇む青薔薇の精でしたね。
青いバラ 最相葉月 今年6月、サントリーがカルジーン社と共同開発した青い薔薇が発表されました。遺伝子組み替えで、青色色素「デルフィニジン」を合成するパンジーの青色遺伝子をバラに移植したのが、ようやく身を結んだものです。商品化は2007年とまだ先のことですが、今までの「青薔薇」に比べると、段違いに青いらしいです。10月に入り、園芸植物としては稀なことに、今年度のグッドデザイン賞金賞も貰ったそうな(受賞のニュースが先日読売新聞で報道されて、今回日記で取り上げることとなった次第)。この青薔薇の研究開発の歴史を描くノンフィクション、最相葉月氏の『青いバラ』(新潮文庫)もあります。
薔薇幻視 平凡社カラー新書版 従来の青いバラは、薔薇に含まれる赤色色素を抑えることで、なんとかほの青く見えるものを作り出してきたものです。十数年前に「ブルームーン」なる青薔薇を戴いたことがあるのですが、かなり名倒れで「なんじゃこのくすんだ灰色は!」とがっかりしたものです。まあ強いて言えば「
藤色」ですかね。生前、薔薇の熱烈なブリーダーで知られた中井も、「プレリュード」なる「青薔薇」を初めて見た印象を、カラー文庫の『薔薇幻視』(1975)で「フォルマリン漬けの胎児を思わせるような、むしろ薄気味の悪い色」と記しています。まあ我が家の庭で作ってみる気も起こらなかったと見えて、その種の青薔薇が、羽根木の中井邸の庭には植えられることはなかったようです。
サントリー 青いバラ 奇しくも『虚無』開幕の1954年12月10日の夜、通称「サロメの夜」から50年の今年、青薔薇の決定打が出るなんて、今更、奇妙な符丁の一致に驚かされること頻りです。以前、2002年12月の日記でも書きました通り、中井英夫と言う作家はこの種の不可思議な暗合が多く、死後もそれが続いているのかと思うと、奇妙を通り越して慄然たる思いを禁じ得ません。この世に存在しないはずの青薔薇の一束は、芸術の魔神に呪われた一生を送った作家への、何よりの手向けになることでしょう。あなたもサロメの夜、青薔薇と黄薔薇と赤薔薇の花束を前に、『虚無』の一巻を紐解いてみてはいかがでしょうか。
河を渡る前に思い出して 10月15日 
 埼玉の集団自殺事件、衝撃的でしたね。若い人ばかりかと思ったら、私とほぼ同い年の人なんかもいて、言葉は悪いけど、バラエティに富んだ人選です(^^;)。その中に一人、ネットの自殺志願掲示板で決行の呼びかけをした「教祖」的な女性がいたとか。彼女はインディーズのバンドを率いていたらしい。彼女のHPの名前はズバリ「死にたい症候群」。死はもはや一人きりで行く運命の道でなく、「赤信号みんなで渡れば怖くない」式のヤケクソに似たものに成り下がってしまったらしいです。
 確かにニンゲン、生きてりゃ死にたくなることなんて、山のようにあるのです。私も夏以降、繰り返し襲ってくる痛風の発作と不眠症に随分弱らされていて、輾転反側する夜を幾多過ごし激痛に喘ぎながら、今後のことを思えばいっそ…、と思わないでもないです。痛風如きで…、もっと重い病に苦しむ人もいるのだし、と痛みを知らぬ他人に軽く思われるのも癪にさわってイヤだし、体質の遺伝による病気なのですから、生活習慣病の名の元に片付けられるのも困ります。人それぞれ深刻な悩みは色々あれど、なかなかそれが他人には判らないのが、今の世のディスコミュニケーションの為せる業でしょうか。
 物質的にどんなに充ち足りた世の中になっても、充たされない部分を持ちながら人は生きていかざるを得ません。ただバブル経済と言う名の戦争に負けて以降、つまり平成という時代になってから、私たちの心を深く蝕むアパシー(無気力)の正体はなんなのだろうかと思います。とある訳知り顔の評論家の言う「終わりなき日常」から、脱却したいと願うのもその表れなのでしょうか。
 しかし、忘れてはいけないのは、人ひとり死ねば、後に残される人が出来るという事です。それを俗に「後ろ髪を引かれる」と言います。私には大切な愛する人もいますし、年老いた両親もいます。たかだか体が不調だから仕事が思わしくないからと言って、彼らを置いてこの世にオサラバするなんて、到底無理なことです。彼らの存在を自分の唯一のレゾン・デートル(存在理由)、或いはおめおめと生きることの言い訳にするつもりはないですが、例えば臨死体験の如く、忘却の昏溟の河を私が渡ろうとするとき、きっと彼らが私のことを呼んでくれるものと信じています。そう思える私は、おそらく幸せな部類の人間なのでしょうね。
 このぎりぎりの人間肯定すら出来なくなった時、人は河を渡って逝ってしまうのでしょうか。集団自殺は多分、死んだ彼らの思惑通りに世間に物議を醸しましたが、日々どこかで人知れず自ら命を断ってゆく人のあまりに多い昨今です。河を渡る前に誰かの顔を思い出して、と陰ながら願うしかありません。