年間ベスト作品『安徳天皇漂海記』 12月31日 
 恒例のベストダズンのシリーズとなりました。今年も色々読んで楽しませてもらいましたが、決定打に欠けるものが多く、ここにオススメいたしますのは、国内外それぞれ1冊ずつとしました。

 国内オススメ
『安徳天皇漂海記』宇月原晴明 中央公論新社
  コメント…幻想古典ファンタジー。奇想に充ちた伝奇文学。個人的には10年に一冊の大傑作。壇ノ浦に沈んだはずの安徳天皇が、幼い姿のまま琥珀の中に閉じ込められて、鎌倉三代将軍の前に現れる…。幻想文学の名作『高丘親王航海記』や『見えない都市』とリンクするグローバルな逸品。これを読まずして幻想文学を語ってはいけないと思う。

 国外オススメ
『切り裂かれたミンクコート事件』ジェームズ・アンダースン 扶桑社ミステリー文庫
  コメント…英国マニアックなパズラー巨編。展開は目まぐるしく、謎の解明は大胆。しかも登場人物が一癖二癖あって笑える。P・G・ウッドハウスとか好きな方には超オススメ。埋れた名作である前作『血染めのエッグ・コージイ事件』のほうも復刊されたのでぜひともご一緒に読んでくださると、更に笑えて悶絶。色んなモノが飛びまくります!

 『安徳天皇』は今年の山本周五郎賞に選ばれた作品で、世間の認知度は高いのですが、年末ベスト類ではなぜかほとんど取り上げられなかったのがフシギです。決して読者を選ぶタイプの高踏的な幻想文学ではないのに、引用テキストの多さが嫌われたのかもしれませんね。でも、『平家物語』『金塊和歌集』『吾妻鑑』を始めとする日本古典や、『宋記』『東方見聞録』などの海外古典を縦横無尽に引用することで、タペストリーのような独特の世界を構築しているので、ここはやはり頑張って読んで欲しいものです。そういう先行作品をいつか突き抜けた場所に到達した時、えも言われぬ伝奇文学の快感が襲ってきます。これはまさしく澁澤龍彦の伝説の名作『高丘親王航海記』やイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』の方法論に他なりません。
 そして何より特筆すべきは、この作品を読んでいる最中、私の中の「古典する心」がブルブルと奮え続けたことです。古典文学って、数年前、自らの文学部での研究生活にピリオドを打って以来、つとめて忘れようとしていたジャンルでした。学者の道は棄てたし、古典なんてクソくらえとばかりに斜に構えていたのですが、この作品読んで涙ダダ漏れになりました。古典文学やっぱ大好きだったんじゃん、オレ〜、みたいなね。口調は陽気ですが、まだ不完全燃焼のままの気持ちに火が点いたのだと思います。
 歴史に翻弄され、運命の途次で命を絶たれた者たちの無念を、琥珀の中に眠り続ける安徳天皇に託して描かれたこの一大伝奇、私の心を久々に熱くしてくれました。正直言って、今までの宇月原氏の作品は戦国時代が背景で、司馬遼の『国盗り物語』とか想起させて、あんまり好んで読みたいほうではなかったのですが、私の専門としていた中古中世に時代が遡ってきたことで、こんなにも感動を得ることができました。何より、わが永遠の書のひとつである『高丘親王』が下敷きになったことで、この作品にまんまとしてやられることは明らかだったのですが。
 滅びのさまをこんなにも優しく描いてくれたら、きっと平家、安徳天皇、源実朝、南宋最後の少年皇帝ならずとも、久遠の眠りに就くことができましょう。勝者の側から書かれた正史でなく、滅んだ者の鎮魂のために書かれた叛史、それがこの愛すべき伝奇小説の正体だと思います。「波の下にも都のさぶらふぞ」とは『平家』で安徳入水の時、祖母の二位の尼が幼い孫に言い聞かす言葉ですが、文学の営為とはつまり、波の下のあり得ぬ都を幻視することなのです。ないものをあると言い、絶対的なものを相対的と批判する、それが文学、永遠の虚業。そんな大切なことを日常にかまけて忘れていましたよ。あたしゃ、恥ずかしい。
 つい十数日前、壇ノ浦ではないものの、平家が屋島の戦に破れ西に落ち延び、崇徳院が「われ日本国の大悪魔にならん」(『保元物語』)と血染めの経を沈め、柿本人麻呂が流人の死体を目の当たりにして恐怖した海を見てきました。明るい陽の下ではとてもとても、そのように怨念悪果因業罪障渦巻く海には見えませんでしたが、私には確かに、血の色に染まる海が見えました。幻視することをやめては、幻想者として生きて行けません。この伝奇小説は、幻視する心がまだ私にあったことを教えてくれた作品でした。
 年末のクソ忙しい時にこのようにテンションの高い文章を読まされて、読者の皆様におかれましてはお気の毒様ですが、こういうことをいつも考えて生きている幻想馬鹿がいるのだなあ、と笑ってこらえていただけますれば、御の字でございます。願わくば、来年もまた幻想馬鹿の血湧き肉躍る作品に出会えますよう。
 奇特な読者の皆様に幸多からんことを。
銀の葉っぱの素晴らしき 11月24日 
 銀葉、というモノをご存知だろうか? 詩的な響きすらある名前だが、どうしてどうして、用途もまことに詩的、たいそう雅なモノである。聞香の用具のひとつなのだ。
 私は柄に似合わず香をたしなむ。それも、怪しいアジアン雑貨で売ってる香水みたいなインセンスではなくって(インセンスも嫌いではないが)、れっきとした香木を焚く。高価な聞香一式などさほど必要ではないが、香炉がわりに知人の台湾土産の中華湯飲みに灰を入れ、真ん中に香炭団を熾して埋め、そこに直接香木の白檀をのっけていた。
 時には火災報知機が検知しそうなくらいケムがあがり、部屋はヘビースモーカーを一匹飼ってるような有様となる。しかも高価な香木があっという間に灰になる。これはどうしたものか、と長年悩んでいたのだ。
 ある時、お香の専門店(銀座香十ざんす、おほほ)で私は「銀葉」なるモノを発見した。触れれば壊れそうな小さな透明なもの。パラプレートの親戚?顕微鏡で細菌でも観察するのか?まさかね。ところがこいつがとんだスグレモノだったのである。
 気になって調べてみたら、香木を炭団の上に直接置くのでなく、左の画像のように灰をかぶせた炭団の上に銀葉を置いて、さらにその上に香木のかけらを載せるのだと。
 ばかばかあたしったらおばかさんよね。恥ずかしい〜〜〜。私は今日まで、ちょっと調べりゃ判ることを知らずに、香木のケムに煤けて生きてきたのである。あほあほあほ、あほか〜〜〜。
 早速銀葉を使ってみた。ああ、かぐわしき、これぞほんとのお香のかほりよ。この銀葉、雲母の切片に銀の縁取りをした、見た目儚げなものだが、とんだ秘密兵器だった訳だ。素晴らしい。ブラヴォ、ブラヴァ、ブラヴィアータ!!!
 皆さんも知ったかぶりしてとんでもなく恥をおかきになることありますでしょ?私にはそれがお香だった。今では変なケムに噎せることもなく、白檀本来のすっきりとした薫香が長時間部屋に充ちていて、粗末な住居ながら、雅やかな気分になれる。
 しかしまあ、この小さなちっこいモノがあるのとないのとでは、天地ほどの違いですな。考えた人は偉いなあ。ネーミングも奥床しい。伝統文化って凄いね。
伊藤潤二 美線の危機 11月16日 
 ホラー漫画家の伊藤潤二氏が今年の6月に結婚していたそうな。お相手はイラストレーターの石黒亜矢子氏だそうで、イトジュン先生、家庭を持ってこれから頑張るのか、と思いきや、漫画家生命の危機に見舞われているらしい。ひさびさに出た新作『潰談 新・闇の声』(朝日ソノラマ)のあとがきによると、作家活動20周年の節目の年だというのに、腱鞘炎のような右手の勤続疲労で作画が困難になっているらしい。そりゃ〜えらいこっちゃ。
 イトジュンの作風はなんと言っても、あの美線にあるだろう。ホラーで怖いのに綺麗なのだ。楳図かずおや大友克洋の影響を受けたと思しき稠密な画風で、怪しくもエロティック、しかも昭和のテイスト溢れる(誉めてるのよ!)奇妙な味わい。たまりませんな。随分昔にこの日記で伊藤作品の映画化について取り上げたこともあったような気がするが、ほんと、久々に伊藤作品に触れて嬉しかったの半分、作者の作家生命の危機にびっくりしたの半分である。
 今年は先生色々ミソのついた年で、4月に盗作騒動で迷惑をこうむっている。代表作の「なめくじ少女」を新人にパクられたのだ。言葉の文言の盗作問題(例えば松本零士VS槇原敬之とか(笑))と違って、絵のパクリはほんと一目瞭然。コマ割りやアングルまで似ているのだから笑っちゃう。イトジュン先生もこれにはさぞかしお腹立ちだったろう。盗作を見抜けなかった某誌の編集部が「これは盗作ではない」と否定一点張りだったのも、腹が立つね。
 それにしても美線の危機に、長年のファンとしましては、うたた同情を禁じえない。昨年単行本になった『地獄星レミナ』(小学館)が、のーしよーもねー超駄作だったのも、そのせいだったのね、と勝手に納得。『うずまき』(小学館 実は絶版らしい…信じらんない!)や『死びとの恋わずらい』(朝日ソノラマ)で極まった感のあるあの美線が、滅びることのないよう、右手の症状の完治をお祈り申し上げる次第である。それにしても、勤続疲労で作画の危機とは、イトジュン伝説のひとつ、「あの微細な絵なのにアシスタントを使わない」ってのはホントなのかもしれないね。
 せっかくの新作なので、一言評すると、相変わらず話はエグく突拍子もない。「双一前線」は前作『闇の声』(朝日ソノラマ)に収録の「お化け屋敷の謎」の続編で、コミカルな双一シリーズの最新作。○オチってのはねーだろー、と思わず読んでて声出してツッコんでしまいました。でも許す。「合鏡谷にて」「幽霊になりたくない」の奇想にはびっくり。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』のホラー版「蔵書幻影」は、蔵書家のわたくしも大変身につまされますです。前作「死刑囚の呼鈴」にも通ずる実にイヤーな味わいの異色作が「闇の絶唱」。人間の暗黒面に鋭く挑んだ作品で、正直あんまり読み返したくない。前作の「グリセリド」みたいに生理的に来るのが「潰談」。どれをとってもイトジュン不条理ワールド。満足しました(笑)
『デスノート the last name』 11月9日 
 ゲーム性の強いサスペンスとして見れば、わりと結構な出来だったかもね。いや、素直に面白かったと言えばいいのかな?なかなか面白かったよ。Lの先制攻撃(詳しく言えばネタばれじゃ)には呆気に取られた。
 前回、この日記で取り上げた時は、死刑(=私刑)容認論へのNO!ということで、いささか時事ネタな取り扱いだったのだが、それでは映画も浮かばれまい。あくまで漫画のデスノートのルールをきちんと把握した上での、今回続編の大胆なオチで、どんでん返しの妙を感じた。俳優陣の演技がちぐはぐとか、そういう不満がオチでぶっ飛ばされた。
 私は原作コミックは途中までしか読んでないので、映画終わった後で相方に、根掘り葉掘り原作のストーリーを聞いたのだが、映画はやっぱり浪花節的な面が強調されていて、それがよかったのだな、と思う。原作とおりのラストだと、映画見終わったカタルシスがないだろうね。頭脳戦の緊迫感だけが残るかも。それならそれで珍品が出来たかもしれないが、堂々たる作品にはなり得ない。
 それにしても三連休に見に行ったもんで、シネコンのモギリ場がえらいことなってた。ガキガキガキ、デスノ目当てのガキまみれ。私が親なら倫理観のない子供には見せたくない映画なのだが、親子で並んでるのもおったな。まあ、ちゃんと勧善懲悪で終わるので、許すとすっか。
 しかし、この映画、ハリウッドでリメイク検討中なんだと?キラ並のひとりよがりの独善を振り回しているあの国で?ははあ、自浄作用ってやつですかい?それとも日本よりはるかにエグい犯罪の横行する国なので、より私刑のリアリティあってよいかもね。
ポール・モーリア死去 11月5日 
 メールだけ見てもう寝ようかと思っていたのだが、ヤフーのトピックスでポール・モーリア死去のニュースがあったので、すごく驚いてこの一文を記している。81歳、数年前にオーケストラを弟子に譲って引退していたので、いつかひっそりとこの日が来るだろうということは判っていたはずだが、幼年時代から思春期を通じて親しみ続けた音楽家がこの世からいなくなったのである。彼がいなければ私はピアノなど習っていなかっただろうね。今では手狭なマンション暮らしで家にピアノすらないし、成人してから音楽の好みもぐっと変わって、歌のないイージー・リスニングはほとんど聞かなくなったので、彼のCDというのもほとんど持ってない。ただ実家に帰れば、お宝のようなレコードがそれこそ何十枚とある。幼い頃からコレクター体質だった私は、お気に入りの彼のLPを親にねだって買ってもらっていた。関西でコンサートがあれば必ず行った。実は父がモーリアを好きだったので、私が刷り込まれてしまっていたのだ。
 彼のアレンジする曲はどれもキラキラしていた。クラシック出身の指揮者にしては最先端のシンセサイザー等を巧みに取り入れて、軽やかなそれでいてラテンの血の為せる業か哀愁もたっぷりと漂わせ、子供ながらも耳から入る快楽にうっとりと日々身を委ねていた。ヤフーのアーティスト情報では「自身で作曲することは少ないが」等と書かれていたが、ヤフーほどの大手がものを知らないのにいい加減なことを垂れ流すのは困る。モーリアは日本でも数年前にCMで使われたフレンチ・ポップスのヒット曲を書いている。有名でこそないが素晴らしいメロディも数限りなく書いている。だからネットはダメなのだと嘆息する他ない。正確な情報なんてごくわずか、本当に知りたいことなどどこを探してもない。あるのはネット世代の無知と偏見と誤謬に充ちたカッコつきの「情報」だ。
 幼少のみぎり、ピアノを習っていた頃、クラシックを丁寧に教えたがっていたピアノの先生は私のモーリア熱に呆れたようだったが、それでもこちらの要望に応えてモーリアの楽譜集を買ってきてくれた。彼の書いた楽譜を前にピアノ椅子に座った時、難しそうな譜面と、それを弾きこなせた時の喜びを想像して、幼い私は打ち震えていたと思う。好きなメロディを好きな楽器で弾きこなす快感は、はっきり言って大人のベッドでの快楽にも勝るものだ。私はショパンだのドビュッシーだのクラシックの高みには目もくれなかったので、正道を歩む音大出の親友には馬鹿にされそうでこんなこと話したことはないが、ポール・モーリアが私の音楽嗜好の原点であるのは譲れないね。
 実はレコード会社の権利の複雑なことが災いしてか、彼のCDはごく一部の有名曲を除いて、ほとんど現在手に入らなくなっている。イージー・リスニング自体、すっかり廃れた感もある。有名どころのルフェーヴルやクレイダーマンなどもCDがさっぱり出ないのが現実だ。だからこそ、1960年代70年代を通してイージー・リスニングを引っ張った巨匠の全集(300曲くらいは欲しいところ)を出してくれないものだろうか。子供の日のあの頃に戻ってまた聞きたいもの。粗野な音楽が満ち溢れる今だからこそ、聞きたいね。そしてマジックショウの「オリーブの首飾り」しか知らない若い人たちに、あのキラキラした魔術のような音楽を聞かせたいね。
 ああ、こんなこと書いてたら、我知らず涙が出る。好きな作家が亡くなってもさほど悲しくなかったのに、なんでだろうね。音楽ってやっぱり人の感情の一番根源に根付いているんだろうか。こういう時、普通なら亡くなったマエストロを偲んでCDでもかけて、と行きたいところだが、わが身の不実ゆえ、そのCDすらないので、偲びようもない。
 近頃色々わが身と時代の乖離を感じること多いせいか、ひたすら悲しい。ただ悲しい。
私はダリでしょう? 10月28日 
 特徴のあるヒゲですぐわかるのだが、フジテレビで流れる爆笑の太田のスポット―ヒゲをしごきながら「私はダリでしょう?」と言うアレ、東京は上野の森美術館でやってる「生誕100年記念ダリ回顧展」を日曜に見に行ってきた。
 ダリを象徴するヒゲもあちらこちらに点在したが、全体的に地味な展覧会だった。回顧展、と銘打ったもので、シュールレアリスム以前のダリの絵が結構な点数で、それはそれで日本で見られるのは珍しいのだろうが、あまりそそらなかった。
 ダリと言えば、ぐんにゃり時計が木の枝にぶらさがった「記憶の固執」だろう。今回は十数年を経てレスポンスされた「記憶の固執の崩壊」が来ていた。これが目玉なのだから言うに及ばず。
 相方が「宗教臭い」とのたもうていた一連の作品があったが、おそらく、中世絵画のダリ風再構築作品をそう評したのだろう。中世に絵画は宗教抜きで描かれることはなかった。芸術の場では神の業を褒め称えることがまず第一義だったからである。ダリも敬虔なカトリック信者のスペイン人だったので、ああいう宗教モチーフを描くのは当然である。「世界教会会議」という有名な大作も今回見ることができる。聖母に擬したダリの最愛の妻ガラが飛翔する名作である。
 それにしても凄い人出だった。入場まで30分待ち!ここでめげては本物のダリには会えない。皆様においては平日に休みをとって行く事をオススメします。
 ダリの絵は隅々までびっちりと色んな意匠が凝らされているので、立ち止まって黙考することしばし、これは何?とツレと議論する人もいて、なかなか前に進まない。途中からズルして順番をぶっとばして見たいものだけ見てきたが、それでも二時間余、足が棒になった。
 私がダリを好きなのは、その奔放なイマジネーションに幻惑されるからなのだが、今回はその幻惑が足りなかった。生誕100年のダリの人生を駆け足で通り過ぎたみたいな印象。シュールで雄弁な作品群はあまり来ていなかったし。ただ、大々的なダリ展は日本ではもうしばらくないと思われるので、気になる方はそれでも見に行ったほうがよろし。
 「焼いたベーコンのある柔らかい自画像」のポスターを思わず買ってしまったが、飾る壁がない。さてどうしよう。
馬鹿クラシック炸裂!『のだめ』ドラマ版 10月24日 
 まったくもってアホである。いーえ、誉めてんのよ。二ノ宮知子氏の『のだめカンタービレ』のドラマ版が先週から月九で放映中なのだが、原作のマンガ読んでて軽く笑って済ませてた「バカ演奏」が、みごとに再現されていて、もうね、大笑い。月九ドラマなんぞハナから見る気がなかった私であるが、これは続けて見ねば、と思ったのです。
 昨日は、クライズラー・カンパニー(懐かしいな…)もマッツァオの峰君(瑛太)のベートーベンの「春」ね。うけまくり。何がおもろいかって、もとのマンガでギャグとして描かれていた「馬鹿クラシック」が本当に演奏されてるのが凄い。これからハチャメチャ演奏を繰り広げるであろう、スペシャルオケの活躍が楽しみだ。
 ストーリー自体は、そんなに動かないでしょうね。原作みたく留学編までいかず、学園奇人ドラマで終わると思う。同じカテゴリーになる『動物のお医者さん』のドラマ版がそうであったように、きりがいいところまででやってくれればいいっすよ。ドラマはどーしてもラブコメにしたいらしいが、俺様男とゴミ女でラブコメは微妙に成立しないのである。早くその辺見切りつけて奇人伝になってくれれば、それでよし。
 それにしても、竹中直人のミルヒ、怖すぎる。もじゃもじゃの白髪に真っ黒な顔。何人?世界的指揮者に見えず、南洋土○の長老にしか見えん。それとも江戸川乱歩の「白髪鬼」か?
 某音大出身の親友がかつて話してくれたのだが、音大って、ほんとにあれに近い世界だとか。オソロシクてここではとても言えませんことよ(失笑)。
『レディ・イン・ザ・ウォーター』 10月3日 
 ディズニーを離れたのに、ファンタジーを撮ってしまったナイト・シャマラン監督の問題作である。ちょっとこれでは人に薦められない。というか見る人を相当選ぶので薦めづらい。一応見てきたのでご報告。ネタばれしてるので、知りたくない人は読まないでね。
 さて、テーマは水の妖精、なのである。〈ナーフ〉と呼ばれる妖精らしいが、このナーフ、『世界の神話事典』でもひっかかってきません。いったいどこから取ったの?更に怪物〈スクラント〉とか、大鷲〈イートロン〉とかどこが出典なのかさっぱりわからん固有名詞でした。まさか、まさか……シャマランのデッ…もとい!創作か?
 ストーリーは全然カンタン。世界を救うためにこの世に遣わされてきたナーフの「ストーリー(妖精さんの名前ね)」を、主人公の住むマンションの一癖も二癖もある住人たちが協力して、元来た「青の世界」に送り届けるというもの。Tさんは「妖精がわざわざ何しに来た」と言ってたが、世界を変革する本を書く男に、お前の書く本は重要なのだ、と告げにきたのね(なんか、世界を変革する本って、マルクスの『資本論』や、ヒトラーの『わが闘争』を想像してしまった。怖い怖い)。シャマラン監督自身がその本を書く青年役で出演していて、まあ、美味しいとこどりですねえ。お得意のどんでん返しなし。
 シャマラン・タッチと言われる朦朧とした映像が炸裂で、前半ははっきり言って睡魔との闘いだった。『サイン』の時に感じたあの眠さである。ナニが起こっているかをはっきりと描写しないところもシャマランらしい。でも、この曖昧さはシャマランがインド系アメリカ人だからとか、そういうエスノロジーに収斂するのはどうかと思う。単にこの監督の個性でしょ?
 ストーリーもてっきりスペンサーの古典『妖精の女王』(ちくま文庫 全4巻)あたりをなぞっているかと思ったが、家に帰って紐解いてみると、ぜ〜んぜん(笑)。怪物も大鷲もおらんがな。東洋の伝説にも見当たらんぞ。じゃあ、エンドロールにあった通り、ほんっとにシャマラン監督が娘に枕元で語ったその場しのぎのお伽噺なのか?それを映画化する?
 登場人物の中に、いい加減なこと言って主人公を混乱させる「映画評論家」がいるが、シャマラン、個人的に映画評論家連中に恨みを持ってて、ここで怪物に襲わせて溜飲を下げたっぽいね。
 けなしてばかりでもつまらんので、いいところも拾っておくと、この映画、途中で「癒し人」「記号論者」「守護者」「職人」という役割探しの面白さがある。一度は失敗する(「映画評論家」がいい加減なこと言ったから(笑))が、再びパズルのピースがぴったり嵌まっていくように符合して行くところが、見所である。ここでご都合主義とか怒る人は、ファンタジーなど見なくてよろしい。
 結果、監督の私怨に溢れる心温まる(爆!)ファンタジーなのであった。°・()_()・°。「妖精は半透明であって欲しい」とT氏が申しておりましたが、でもそこまで判りやすいと、それこそディズニーを離れて撮った意味がないのでは?
 リアルな妖精を演じたのは、ブライス・ダラス・ハワードという無名に近い女優(『ヴィレッジ』にも出てたって。えっ?)。実はこの人、映画監督ロン・ハワード(『スプラッシュ』『コクーン』『ウィロー』『ガン・ホー』…近頃では『ダ・ヴィンチ・コード』)の娘さんだそうで。初期に通好みのファンタジーを山ほど撮った監督さんの娘かあ、と思えば感慨も一入である。特に『スプラッシュ』なんて人魚ネタだし、『レディ』で娘が水妖役を演じるとはね、わかっててキャスティングしたんかい?
 癒されたい方、信じやすい方はぜひどうぞ。シニカルな方にはオススメしかねます。