『ライラの冒険』観てきました 3月26日 
 新潮社から出版されているフィリップ・ブルマンのアングロ=サクソン・ファンタジー(ASFと略す)三部作『ライラの冒険』の第1部『黄金の羅針盤』が、『ロード・オブ・ザ・リング』(ASF王者!)のニューラインシネマによって映画化されました。例によって「第1部」の文字はナシ(笑)。原作未読で一部完結かと思っていたら、とんでもなかったですわ。続編『神秘の短剣』『琥珀の望遠鏡』も同じキャストで映画化されるそうですが、なるべく早い目に作って欲しいです。『ナルニア国物語』なんて、前作のキャストをすっかり忘れてしまったってばさ。
 映画の出来はまあまあで、昨今のファンタジー大作の中でもよく出来たほうだと思いますが、なにしろ、原作も多分そうなんだろうけど、無邪気な装いの下の植民地主義がミエミエで、ついついブラックな笑いを漏らしてしまいましてよ。だいたいが、コドモが見ても、作品世界の背景とかさっぱりわからんと思うよ。「マジステリアム(教権)」って要は、使い古された「カトリック教会の陰謀」のことだし、人語を話すシロクマなんて、もろロシア人(英米ではよくロシア人を白熊に喩えるからな)。カトリックと戦うのはアングロ=サクソンの学寮(オックス・ブリッジだな多分)の出身者たちとジプシー(作中はジプシャン)。
 この作品の特色は、なんと言っても、作中世界=パラレルワールドにおいては、全ての人間が、自分の魂を外に動物の形として持っていて、それをダイモン(daemon…demonと同義語、二面性を持つ霊を言う。守護霊と悪霊の両方の要素か?)と呼んでいるところ。子供たちの未成熟なダイモンをめぐっての争奪戦が、作品の戦いの背景なのです。
 まあきな臭い背景は置いといて、この映画の見所はなんと言っても、ニコール・キッドマンが楽しそうに演じる、ゴージャスなビッチ、コールター夫人。近年『コールドマウンテン』や『毛皮のエロス』、『めぐりあう時間たち』、『ドッグヴィル』などで演技派志向を強めつつあるニコールですが、どうやら原作者から「あなたを念頭においてコールター夫人を書いたので、是非とも出て欲しい」と言われて、ノリノリで出たようですね。いかにも自己愛の強そうなキャラクターを嬉々として演じています。しかも、彼女のダイモンはキンシコウ?ゴールデン・マンキーであります。金ぴかだけどサルなのねってこと。てか、ニコール、コケにされてねえか?(笑)
 さて例によって観た後で相方に感想を聞いてみました。「クマの背にライラが乗って疾走する場面は、まんま『ネバー・エンディング・ストーリー』で、ちょっとイラっと来た」そうです。まあ、そう目くじら立てないで、過去のファンタジー作品へのオマージュってことで。
 で、さて、ニューラインシネマ商法だが、次回からは『ライラの冒険 第2部 神秘の短剣 ♪行こか戻ろかオーロラの下を』とか、タイトルが長くなるのだろうか。オーロラ云々は大正時代の流行歌ですけどね。
『虚無への供物』10歳のお誕生日 2月29日 
 昭和39年2月29日にこの世に生れ落ちた希書『虚無への供物』。それが10歳の誕生日を迎えた。なんとも喜ばしいことだ。単純に年数計算するだけなら40周年である。でも閏年の閏の日に生れ落ちた鬼っ子だから、まだ10歳にしかなっていない。ということはまだ真価が問われていないということか。
 黒鳥忌だの青い薔薇だの事ある毎に話題にしてきたこの大作、私は本当に十全に理解して読んできたのだろうかと、しばしば自問自答することがある。象徴と冗談に目くらましされた結界が存在していて、真の姿を見誤っているのではないかという不安。そんな大袈裟な買い被りは必要ないよ、という世間の声。
 国文学の世界でもちらほら、『虚無への供物』論もお見かけするようになった昨今だが、私なりの『虚無』像が汚される気がして、敬して遠ざけてもいる。海に注ぐワインで刑事コロンボの「別れのワイン」を連想したりして、馬鹿馬鹿しいやら可笑しいやら。
 一冊の奇怪な書物の誕生日なのでケーキを買って祝うこともままならない。さてどうやって祝おうか。
暗黒文学の新しい名作『伯林星列』 2月2日 
 SF作家・野阿梓氏の久しぶりの長編『伯林星列』(徳間書店)を読んだ。すごい。一種の歴史改変小説なのだが、眼目は、一人の少年の悦楽と被虐の地獄巡りである。これぞまさに暗黒文学。
 暗黒文学と言えば澁澤龍彦なのだが、その澁澤が翻訳したマンディアルグの『城の中のイギリス人』(白水社)の一節「エロスとは黒い神である」をエピグラムとした本作品は、まさに、マンディアルグやバタイユが目指した地下出版による暗黒のエロス文学の薫陶を存分に受けている。人間性を底の底まで剥奪し穿ち描く容赦ない描写に、生ぬるい読者はたじろぐだろう。野阿氏が掲げることろの「やおい小説」の域をも遙かに超えた、黒暗淵(やみわだ)を覗き込む小説である。
 時代は1936年、2・26事件のクーデターが成功したパラレルワールドが舞台である。ナチス独逸の宣伝によるオリンピック開幕を控えたベルリンに各国の間諜が乱れ飛び、その中に放り込まれた日本人貴族の美少年(設定のこの辺、山藍紫姫子だの榊原姿保美を思い出しますね)が悖徳の館で調教され、要人たちの放恣な欲望の的にされる。その調教のすさまじいこと。ポルノグラフィックかつホモエロティック満載。
 小説の中でも引用されるアポリネールの『一万一千本の鞭』(富士見ロマン文庫)をはじめ、レアージュの『O嬢の物語』(講談社文庫)、バタイユの『マダム・エドワルダ』(角川文庫)、クロソウスキーの『バフォメット』(ペヨトル工房)、そしてなによりもマルキ・ド・サドの『ソドム百二十日』や『悪徳の栄え』(ともに河出文庫)を彷彿とさせる。澁澤龍彦、生田耕作といった暗黒エロスの大家の訳した危険極まりない作品。
 2・26事件の思想的指導者として現実には処刑された北一輝が生きていて、その密命を帯びた男が、かの淪落した美少年に救いの手を差し伸べるのだが、さてどうなるか。
 ポーランド侵攻と真珠湾まであと数年、御国のため思想のため自らのために暗躍するスパイどもと、それを掌中に転がすナチス将校。皆川博子氏の描く一連のドイツものをさらにエロティックに仕上げたかのごとき逸品だ。千数百枚の大長編を読み終えて、私の口をついて出たのはしかし、寺山修司のあのマッチ歌の下の句だった。身捨つるほどの祖国はありや?…今年もオリンピックイヤー、それぞれの国のうざいナショナリズムが吹き荒れるんだろうねえ。
『スウィーニー・トッド』観てきました 1月23日 
 ティム・バートン監督の新作『スウィーニー・トッド』を日曜に観てきました。ミュージカルの巨匠スティーヴン・ソンドハイム(『ウェストサイド物語』『イントゥ・ザ・ウッド』『太平洋序曲』)の作品をジョニー・デップ主演で撮った話題作です。
 原作は日本でも篠原涼子のダンナが主演で上演された有名ミュージカルですが、18世紀のロンドンを舞台に、復讐に燃える床屋のスウィーニーが、歌って踊って咽喉を掻っ切る猟奇的ミュージカルを、さほどてらいもなく映像化したという印象です。バートンらしいと言えば言えなくもない、グロと美しさが入り混じったタイトル映像が、一瞬、前作『チャーリーとチョコレート工場』を思い出させますが、そこはそれまで、後は、『スリーピー・ホロウ』や『エド・ウッド』のようなグルーミイな場面が目白押し、さぞかし“スウィーツ”な観客の皆様は度肝を抜かれたことでしょう。ザマあ見ろってか?
 相方が最近の2ちゃんねる用語と言って教えてくれた“スウィーツ”ですが、まあ、昔風に言えば“ミーハー”ですな。『ショコラ』とか『パイレーツ・オブ・カリビアン』とかしか知らないジョニデのファンをそう言いたくなるのはやまやまですが、デップのほうでも、そういうにわかファンを篩い落としにかかったとしか言いようがない珍作でした。
 殺人衝動にかられて咽喉を掻き切るスウィーニーの被害者を、共犯のミセス・ラヴェットがミートパイにしちゃうのがステキで(笑)、私はついつい、牧逸馬の実話「肉屋に化けた人鬼」(『浴槽の花嫁』現代教養文庫・絶版!)のフリッツ・ハールマンを思い出しました。うげ。もっとも、フリッツは20世紀初頭の肉屋さんなので、こっちがスウィーニーを真似したのかも。ドイツは他にもカール・デンケやゲオルグ・グロスマンなど、人肉肉屋さんを輩出しており、なかなか肉食へのこだわりがグルメですね。
 観終わってミートパイが無性に食べたくなって(爆!)、いろいろ美味しい店を探したのですが、なかなかサイタマの田舎には売ってなくって、『かもめ食堂』の時のオニギリのようにカンタンに作れないし、ちょっと悔しい思いをしました。ミスター・ドーナツにも売ってますが、ここはやはり、ラヴェット夫人の店のような評判のいいやつでないと!
 映画自体はまあまあの出来で面白いっちゃ面白いですが、ソンドハイムのオーソドックスなメロディがやや物足りず、間延びして浮いてました。もしかして原作舞台に忠実に作りすぎた?スウィーニーとアラン・“スネイプ先生”・リックマン演ずる判事が唱和するクライマックスなど、ブラックでユニークな場面は沢山あるのですが、それは原作の舞台からあったもので、バートンのオリジナルな感性はいまひとつ感じられませんでした。ストップモーション・アニメのミュージカル『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』の作曲家ダニー・エルフマンのほうが監督と息が合ってるかもしれません。バートンと長年コンビを組んでいるエルフマンのセンチメンタルさが、ファンの耳にも染み付いているかもしれません。
『魍魎の匣』観てきました 1月11日 
 あけまして結構経ってますが、今年もよろしくお願いいたします。今年の干支は鉄鼠だね。
 先週、初詣でM神宮に参り、そのついでに、神奈川県某所まで足を伸ばして元祖イケメソ・ラーメン店主を見れずにすごすごと都内まで帰ってきました。イケメソはフレンチ紛いの新店舗の営業で忙しかったみたい。
 そんで、新宿で映画『魍魎の匣』を観てきたのですが、見終わって相方に感想を聞くと、「地味…」といわれてしまいました。原作はあんだけド派手な話ですし、「なんで〜〜?」と尋ね返すと、「『トリック』とかああいう派手なところがなかった」と言われました。ああ、要は、見た目に判り易い物理的トリックとか満載の、「名探偵」の活躍譚だと思ってた訳ね。
 確かに映画前作『姑獲鳥の夏』は京極堂がやたらと目立ってたっけな。でも京極作品って「トリックよりはロジック」、論理で落とす傾向がありますからねえ。しかもマトリョーシカを思わせる、箱の中から箱が次々と出てくる構造の物語ですので、その箱開けのスリルこそが命なのです。
 しかも、周知のように、京極堂シリーズってのは群像探偵ものの代表選手で、映画は中年仲良し4人組を殊更強調するような作りになってましたので、こういう感想になったんだなあ、と納得しました。それにしても、地味…。
 魍魎という妖怪の性質上、人間に憑いたりしないので落とせないから祓うだけ、というなりゆきから派手な折伏がないのが、弱さの一つなのかなあ。「御筥様」の教祖をやり込めるところが、京極堂最大の見せ場だったしな。前作のいしだあゆみの憑き物落としの場面とか、凄かったもんなあ。あれに比べると地味だよね(笑)。
 原作は日推協賞受賞の立派なミステリなのですが、どうも映画化は本格謎解き映画を作る、という意識が希薄だったような気がします。敢えて言えば、監督の原作解釈につき合わせられたってカンジかな。中国ロケで昭和20年代の東京を再現するという離れ業で、全部がおじゃんになった気もします。ドラマ『華麗なる一族』も中国ロケを取り入れていたそうですが、私は生憎観てませんので、なんとも申せませんねえ。どっからどう見ても中華な町並みに、京極作品の登場人物が放り込まれているのもねえ…
 かなり原作をいじった展開になっていたのは、原作のあの分厚さから鑑みて、これはまあしょうがないとは思いますが、最後でミステリから違う異次元に突き抜けてしまった映画でした。私は映画のラストシーンを観て、乱歩の「押絵と旅する男」を連想しましたよ。原作もはっきり言って、乱歩の味わいが濃厚な作品ですが。『盲獣』(いーもむし、ごーろごろ!)とか『一寸法師』とか『蜘蛛男』といったB級娯楽長編のノリ、バラバラ死体乱れ飛ぶ魔都のオハナシね。だから映画も魔都をイメージした「上海楽園」撮影所が使われたのかな。
 まあ異論はたっぷりありそうな映画ですが、こういう昔なつかし探偵小説テイストを持った作品が映像化されるのは、滅多にないことですから、文句を垂れるよりは誉めておきたいなと思うのですが、一言居士で何か言いたくなっちゃうもんで。
 特筆すべきは映画のパンフ。コミック本のサイズで作られたわりと厚目のパンフが、読みどころタップリで楽しいです。映画館でぜひぜひお買い求めになられることをオススメします。