『アバター』と『バガヴァッド・ギーター』 12月31日 
 「アバター」と聞いてほとんどの人は、ヤフー・アバターくらいしか思いつかなかったでしょう。アバターとは着せ替え人形のことか?と勘違いをされていても不思議ではありません。この言葉は、もともと英語にはない外来語で、インドの神の化身の「アヴァターラ(Avata(aの上に〜)ra)」が語源です。
 「アヴァターラ」は、神がより低い次元でその姿を現す存在、日本風に言えば「権現」「化身」のことです。不死の存在である神が、モータルな存在である人間に身をやつして、この世の危機を救いにやってくる、という本来の語意を考えると、現在ヒット中の例の映画の本質が、よほどあの、自意識過剰のくそまぬけな二次元着せ替え人形よりも、言葉の使用例としては見事にマッチしているのがおかしいです。
 さてジェイムズ・キャメロン監督の『タイタニック』(1997)以来の大作ですが、映像美は文句なく味わえます。かなり上質のファンタジー・ゲームの世界の映像です。3Dで見ると迫力満点で、映画館では少し入場料が高いけれど、3Dで見るのを惜しんではいけません。眼鏡の上から3D眼鏡をかけるという、屋上屋を架す作業も、いたし方のないことで、多少は裸眼の人よりも3Dの質感が下がりはしますが、それでも充分凄いですわ。思わずのけぞってしまう場面も多々ありました。もともとこういう3Dアトラクションとかに縁がないもんで、余計新鮮だったのかなあ。
 物語は、なんというか、ジブリ・アニメ(とりわけ『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』)がデジャヴュなガジェットだらけで、「こんなふうにジブリ作品がハリウッドにも浸透しているんだね〜」としみじみ相方と語り合ってしまいました。まあ、こういう換骨奪胎は悪いことではないと思いますよ。日本発のメッセージがじわじわと世界に拡がって行くのはまことに慶賀すべきこと。映画自体はとにかく面白いです。なかなかこの手の映画を誉めやしない私ですが、今回は素直に娯楽映画として楽しめると思います。ストレートなストーリイも、ステレオタイプな登場人物も悪くはありませんやね。

 ただ、ここはやはり幻想文学愛好家として、いえ、古今東西の古典籍の研究者として、注目すべき点があるのなら、それは、アヴァターラの出典であるインドの宗教詩『バガヴァッド・ギーター』の要素と、この映画に奇妙な類似点があるということ。
 この『バガヴァッド・ギーター』は、インド古典の傑作で、東西で人口に膾炙した作品です。もとは大叙事詩『マハーバーラタ』の一部分なのですが、「聖なるものの歌」の意味を持つこの部分は、突出してインドの人々に愛されてきました。
 「聖なるもの」、すなわち最高神ヴィシュヌのアヴァターラであるクリシュナへの、インドの民衆の篤い信仰が、背景にあります。クリシュナは青い顔をした美青年で長い髪を持ち(映画の中の原住民ナヴィの外見を彷彿とさせますね。とりわけその中でも、主人公ジェイク・サリーのアバター姿を)、この『ギーター』においては、戦場にて迷えるアルジュナ王子の御者として登場し、王子を鼓舞し真実へと導く賢者の役割を果たします。
 あまり映画の展開を語ってしまうとこれから見る方に興醒めになるでしょうが、この映画には色々な異世界生物が登場します。その中でも、人間(ナヴィ)に絶対なつかないレオノプテリクス(獅子頭の翼竜とでも訳しましょうか)を乗りこなすことで、ジェイクは一度失ったナヴィの信頼を取り戻す、という場面があります。相方はこれを見て、「『バビル二世』の怪鳥ロプロスかよ」とツッコミを入れてましたが、古代神ヴィシュヌは「ガルダ」という鴻(おおとり)を乗り物としています。この大鳥のナヴィ語での呼び名は失念しました。

 さらに、アヴァターラの出現する時代は先に記した通り、危機の時代なのですが、ここを『ギーター』から引用します。
  聖なる方は答えました。
  われにとり、またそなたにも、アルジュナよ、数多の過ぎにし生死あり。その一切を、われは知る。そなたは知らず、剛勇手ききの精兵(つわもの)どもよ。
  われ不生、本性不易なりといえ、かつまた、生けるものたちの主なりとはいえ、自らの本性に拠り、己が幻力もて出現す。
  そは、正法の衰微、非法の興起あるごとに、――バラダの御子よ――、いつにても、われは己を創出すれば。
  あまねく、善業の士らを擁護し、かつ、悪業のものたちを殲滅せんがため、正法を護持せんものと、世期世期に出現す。
                            『バガヴァッド・ギーター』(講談社学術文庫、鎧淳訳)
 「迷えるアルジュナ」=「剛勇の精兵」とは、地球で海兵隊員であったジェイクのことに他ならず、「過ぎにし生死」とは、科学者でアバター計画の参加予定者だったジェイクの双子の兄が非業の死を遂げて、同じ血を持つジェイクが身替りになって惑星パンドラへ送られてきたことであり、「幻力」とはアバターとシンクロするときの意識、「正法の衰微・非法の興起」は、まさにパンドラが地球の資本主義・軍事主義に曝された状態のこと。こんなふうにも読めなくもないですねえ。惑星の名が「パンドラの箱」なのも意味深。開けたら怖いってか?登場人物も皆、意味深なネーミングですが、英語に達者な方はご自分でお調べください。

 確かに各国の神話に似たようなガジェットが沢山存在するので、なにも特にインドの古典を引っ張ってこなくても、と仰る方もおられるでしょうが、甘いね。この『アバター』という映画自体、「構想十四年」だそうで、『アバター』=『アヴァターラ』というテーマで、ヤフーなんちゃらが出現する遥か昔から練られていた企画だったのです。2007年には同じく『アバター』というタイトルの映画をパラマウントとナイト・シャマラン監督が撮ろうとして、20世紀フォックスとキャメロン監督側にタイトルの権利があると争ったようです。結果シャマラン側が譲歩したそうな。ここでインド出身のナイト・シャマランが出てくるのも偶然とは思えませんが、残念ながらシャマラン版『アバター』は“降世神通 Avatar:The Last Airbender”なる中華テイストのアドベンチャーゲーム(なんちゃって『ドラゴン・ボール』?)の映画化のようです。シャマランたら、『レディ・イン・ザ・ウォーター』『ハプニング』とチョンボ作品連発したので、監督としての企画を選べなくなったのかな。うわ、見たくねえ…。
 全然、映画のアクション面とかハードの話題に触れず、エコロジーのテーマもさらっと流して、長々と語ってきましたが、まあ、この映画から『バガヴァッド・ギーター』を連想する物好きなど他にいなさそうなので、許してやってください。

 そう言えばキャメロン監督は、2002年にスティーヴン・“オーシャンズ11”・ソダーバーグ監督の『ソラリス』を製作していたんですね。ポーランドのSFの巨匠、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』(1961年発表、邦訳はハヤカワSF文庫)を映画化した…っつうか、あの旧ソ連の名匠アンドレイ・タルコフスキー監督のカルト名作『惑星ソラリス』(1972)をリメイクして見事にぶち壊したと評判の『ソラリス』…。
 『ソラリス』はソダーバーグよりはキャメロン寄りの明解さが身上で、そこが哲学的かつ形而上学的な『惑星ソラリス』と比較して色々言われたのですが、もとの映画の持つ二つの方向、ソラリスの知的生命体である「海」とのコンタクトという宇宙SF王道テーマと、「海」が主人公の意識を読み取って具現化させた亡き妻にそっくりの得体の知れないモノとの葛藤というメロドラマ的なテーマ、その後者にキャメロンが重きを置いたであろうことが、はっきりと判る映画でした。この亡き妻そっくりの「化身」も、人類よりより高次の存在である「海」が遣わしめた「アヴァターラ」として見る事が可能だと思います。ほらね、こうして、インド古典的宗教詩と、タルコフスキー監督の名作SFと、キャメロン監督の新作が、ひとつのキーワードで一直線に繋がりました。

 話は変わりますが、例年、最後のエントリで発表してきた、その年読んだ作品のベストダズンですが、今年はわたくしごとでなんとも多忙だったので、全く新刊が読めませんでした。数冊読んだ中には、心に残る作品もない訳ではないですが、これでは多読家の名倒れになりますので、今年はご容赦ください。そういうことで、この文章が今年最後の記事になります。皆様、よいお年を。
中島みゆき『今晩屋』ふたたび 12月4日 
 そろそろ知り合いの方々も皆、観に行ったことでしょうし、ネタばらししてくれるな、とのご要望でしたが、もうお話ししてもよいでしょう。夜会vol.16『本家・今晩屋』、はっきり言いますと、台詞のマイナーチェンジ以外は何も去年と変わっていなかったようです。目に付く変化というと、第1幕「縁切り寺」で厨子王の画家が持っているのが、絵筆ではなくて左官鏝だったというところくらいなのかなあ。
 この一年、いろいろとこの舞台について、もやもやしたものを抱えたまま過ごしたのですが、いざ蓋を開けてみると、今晩屋の奇妙な輪廻転生の世界がしっくりとくるのでした。さまざまに絵解きをされた方のHPなども読ませてもらいました。なるほどと思う点、失笑する点、いろいろでしたが、やはり原作とされる鴎外の「山椒大夫」から離れられないのは皆同じ。私も何度か「山椒大夫」とその基になった説教節の「さんせう太夫」を読み返しました。その結果、みゆきさんが歌詞を書く時、相当、鴎外の文章から付かず離れずの状態だったのがわかりました。もちろん、過去の名作に手を加えて舞台なり映画なりにするときは、同じ作業があるのですが、独立独歩のシンガーソングライターとしてやってきたアーチストが、ここまで他者の作品に準拠して作品を構築するなんて、やはりみゆきさんの思い入れの深さが感じ取れるのですね。かつて唐十郎氏のドラマ「安寿子の靴」の音楽を担当した頃から、「安寿と厨子王」物語の、みゆき版再話というものを考えていたのでしょうか。
 唐氏も入水した安寿の残した靴に注目して一本のドラマを書き、みゆきさんもまた、安寿の象徴として残された藁沓を登場させています。前回私がここで言った通り、安寿の靴を身につけている時が、その人が安寿のうつしみなのだ、という象徴性は紛う方もないのですが、不思議と安寿を主に演じている演者の土居さんに、台詞がないのが気になりました。安寿は言葉なき存在なのでしょうか。他の三人は記憶を失っているとはいえ、自分の切れ切れの過去についてかなり雄弁に物語るのですが、ひとり、「愚かな禿(かむろ)」と呼ばれ、「逃げた花嫁」と呼ばれる安寿の転生は、語りません。成人する前に死んだから?さ迷える安寿の霊は、何かに怯えているかのようです。
 あと前回は第3幕「舟」の展開がなんだか唐突でわからなかったのですが、原作を読み返すと、一家が離れ離れに連れ去られる舟の場面で、

  母親は佐渡に言った。「同じ道を漕いで行って、同じ港に著くのでございましょうね。」
  佐渡と宮崎とは顔を見合せて、声を立てて笑った。そして佐渡が云った。「乗る舟は
 弘誓(ぐぜい)の舟、著くは同じ彼岸(かのきし)と、蓮華峰寺の和尚が云うたげな。」
  二人の船頭はそれきり黙って舟を出した。佐渡の二郎は北へ漕ぐ。宮崎の三郎は南
 へ漕ぐ。「あれあれ」と呼びかわす親子主従は、ただ遠ざかり行くばかりである。
                  ちくま文庫版・森鴎外全集第5巻『山椒大夫 高瀬舟』より

 要するに、死んで三途の川を渡る時に乗る舟はみんな一緒じゃ、とからかったのです。親子が引き裂かれてゆく時に、なんと心無い言葉でしょうか。それぞれに後悔を残してさ迷う冥府の闇が、1幕「縁切り寺」と2幕「水族館」の世界で、悔やんで悔やんで迷った煩悩の闇を赦されて川を渡るのが、3幕の弘誓の舟だったのです。
 今回も「ほうやれほ」を歌う場面は、難解な物語の中にあってもっとも悲痛な場面で、まわりでもすすり泣く気配がありました。判断を誤って我が子を奪われた母親の後悔こそ、もっとも深いのだと言っているようでした。時代こそ違え越の国には、娘をさらわれた両親が居て、母親を海に投げ捨てられた娘が、この現代にもおります。その辛さ哀しさまでも背負って、みゆきさんの演じる母親はおらび泣いて歌っているかのようでした。悲劇はけして終わっていないのだと、あらためて身の引き締まる思いがしました。
 ただいまだにわからないのが、「赦され河、渡れ」の前に置かれた「紅蓮(べにはす)は目を醒ます」という歌。ふつう、紅ハス、ぐれん、というと八寒地獄のひとつ「紅蓮地獄」を連想します。この地獄に堕ちた者はあまりの寒さに肌が裂け血を流して、それが赤い蓮の花に見えるという凄酸さ。果たしてここで、登場人物たちは紅蓮地獄に堕ちたのでしょうか?地獄から這い上がって、赦され河を渡った?「蜘蛛の糸」のカンダダじゃあるまいしね。お釈迦様の蓮の花は何もくれなゐに決まっていませんし。ここはDVDで確かめるしかなさそう。
 さてそのDVD化ですが、夜会にはとっても怖いジンクスがあります。「二隻の舟」を歌わない、パンフレットの表紙が青、という時はDVD化されない、というものです。今回も、vol.11&vol.12『ウィンター・ガーデン』、vol.15『元祖・今晩屋』と同じく、「二隻」なし!パンフ青!
 ということは……
 ひええ、こんな難解な歌詞を逐一知りたい夜会が、映像記録化されないなんて、考えるだにオソロシイ。なんとか来年のDVD化、切に希望いたします。みゆき様。紫綬褒章にケチつけて申し訳ございませんでした。むにゃむにゃ……
中島みゆきが紫綬褒章ねえ… 11月23日 
 文化の日を前にしてこのニュースを聞いたとき、何だかビミョーな気分になった。こういう「勲章」を頂戴するようになると、立派な「オトシヨリ」にカテゴライズされてしまうだろうし、何よりも国家体制から頂戴するので、反体制的感情を常に持ち続けているゲージツ至上主義者の私としては、「そんなもん貰いやがって」と思わず呟いてしまうのだ。なーにが、「棚から本マグロ」だって?
 しかしまあ、そこを目指してアーチスト活動をしてきたならともかく、むしろ彼女の世界の奥深さにやっとこさ開眼した、国家公職の方々のほうから乞うて、国語審議会に参加したのだろうし、今回の受章もその結果とすれば、まあよかったね、と思ってスルーするのが筋だろう。
 彼女の最近の活動のひとつに、ミュージカル『SEMPO』に曲を提供したというのがあるのだが、去年、一応相方と観に行ったものだ。吉川晃司が主演で主人公の杉原千畝を演じているので、昔からの吉川ファンである相方を誘い出すいい口実になった。ミュージカルとしてはなんというか、いまひとつ残念な感じが否めなかったので、この日記にも書かなかったのだが、主題となった千畝氏の「日本のシンドラー」としての行動は、国家への忠誠を重んじられた時代にそれを裏切り、ヒューマニズムに従って多くの人命を救った、ということになる。みゆきさんの作った歌詞にもそれがきっちりと盛り込まれていて、すがすがしい思いを味わったものだ。
 その『SEMPO』オリジナル6曲と、夜会問題作『元祖・今晩屋』のオリジナル曲7曲が、A面B面のように収められたアルバム『DRAMA!』が今月発表された。聞く前は、こういう経緯のアルバムなので、半ば諦めの境地で惰性で待っていたものだが、いざ、聞いてみると、これが、なかなかよろしい。あんまりミュージカル性に拘っていると「中島みゆきのオリジナル・アルバム(36作目!)」としての価値がゆらぐし、純粋にCDとして楽しませてもらった。
 みゆきさんのアルバムの意義というのは、結局、ほぼ毎年コンスタンスに発表されてきたという持続性から省みても、アーチストとファンとの間の「年に一度の歌の贈り物」であるので、はっきり言ってファンでない人に向いてのサムシングは、ないほうがファンは嬉しい。暴論だが、ますますシビアな売り上げ至上主義と化した音楽業界にあっては、これくらい言ってもかまわないと思う。心ある人のもとだけに届けばよろしいと。
 万人好きのするような人生応援歌でもなく、阿呆にもわかり易い失恋ソングでもない、そんな不可思議な『DRAMA!』収録曲たちを寝る前に音楽ケータイで繰り返し聴いていると、みゆきの描く世界の無限広大さが改めて感じられて、まことに痛快。与えられた課題を易々と乗り越えた『SEMPO』と、一部のファンを恐慌に陥れている難解さの『元祖・今晩屋』。この真逆のベクトルの歌がひとつになった地点が、みゆきの「詩の世界」のバニシング・ポイントということだろう。
 なんだかその消滅点に、今回は国家行事の褒章なる現象が、すっぽりと呑み込まれてしまったかのようだ。してみると、中島みゆきはブラックホールか?それならそれで、ブラックホールのウォッチングを三十年近く遂行してきた当方としては、ただ呑み込まれ翻弄されにゆくより他はあるまい。という訳で、もう赤坂で始まっている夜会『本家・今晩屋』を来月どあたまに観に行ってこようと思う。チケット確保するのに、結構赤くなったり青くなったりしたので、大変楽しみだ。二階席だけどな。
鬼束ちひろの新アルバムは怖い 11月13日 
 鬼束ちひろの5枚目のアルバム『Dorothy』が、10月28日に無事発売になった。なぜ「無事」と思うかというと、私はタイトルが発表されたときからビビッていたのである。ドロシー、ってあんた、『オズの魔法使』かよ?という危惧は、九月にアルバムジャケが公開されて、裏打ちされてしまったからだ。
 『オズの魔法使』という映画自体は、ファンタジー映画のさきがけとして全世界で愛されているのだが、問題は、子役…のはずのジュディ・ガーランドのトンデモ話。『オズ』公開時は17歳だったはずのジュディだが、それこそ、下のエントリのポランスキーのスキャンダルではないが、13歳の頃からプロデューサーの夜のお供をして役を手に入れて、ついでにヤクも手に入れていたという顛末。酒井ラリぴーさんもびっくりの覚醒剤中毒で、むしろ、覚醒剤の力を借りて歌い踊りはじけまくった演技を見せていたのである。アンフェタミンでラリって「おーばー・ざ・れいんぼー」しちゃってたんだな。
 そんな『オズ』をまともに意識したようなアルバムで、インナーも意味深なファンタジー仕立て。カカシさんではないが、豚さんが何故かドロシーのディナーのお供である。なんだかなあ。
 アルバムの内容は、二年間のうちに発表されてきたシングル4枚とそのカップリング2曲が入って、半分以上が既発曲というものだが、ほとんどの既発曲のアレンジに手が加わっているのが、丁寧でよろしい。バラードが多めで、激しいのは2曲だけだが、そのひとつ、「Steal This Heart」がなんというか、ヴォーカルいじりすぎ。いじりすぎは声のみならず、先駆けてニコ動で発表されたPVが、トンでもない代物だった。
 4人の外人ミュージシャンと、頭を金髪に染めたちひろ嬢が、トチ狂った感じでロックしているのだが、途中でミュージシャンたち全員とベロチュウしてしまうという、噴飯もの。いや、別にちひろ嬢が誰と舌を絡ませようと私がご飯をぶっ飛ばす義理は何もないのだが、それがあまり美しくない映像になっちゃっているから、非難轟々なのだ。
 どこへ行きたいのだ?何をしたいのか?謎が深まるばかりだが、他の曲を聴くと、なんとなく納得してしまう。「ストーリーテラー」という曲の一節、「少しの幸福なんかより/官能的なものでありたい」や、「過激に楽しみたいの/颯爽と連れられて/不可思議な期待で/次の扉が開く」、「健全で痛みもない/そんなふうにはなれなくて」を鑑みれば、なかなかどうしてヤバイ方向が見えてきて、これはこれでアリかなと思わされる。この日本のお子ちゃま向け音楽の中で、屹然と、頽廃官能の美を希望するのなら、おおいに喝采を贈るべきだろう。
 もー、好き勝手にするがいい、とファンは皆、匙を投げたっぽいね。好きなようにやって、その結果を歌作りに反映させることができるなら、私生活がどうであろうと、ドラッグがコカコーラに入っていようと、ハーケンクロイツのキャップを被ろうと、関係ないのだが、なんだか、初期の聖女めいた「月光」あたりがお好みのうぶな男子には、さぞキツかろうねえ。
 でも、「トト、ここはカンザスじゃないみたい」(『オズ』のドロシーの有名な台詞)だからね。巨乳目当ての餓鬼どもは、さあ、帰ったほうがよかろう。この先は多分、茨の道(海、ではないんだな)だろう。退屈で道徳的な明日はいらないねえ。
笹まくらとポランスキー 9月29日 
 かさこそと、風に震え音を立てる笹の葉むら。そして、その僅かな音にさえ怯え、眠りを妨げられる逃亡者。丸谷才一の傑作長編『笹まくら』は、藤原俊成卿女の歌「これもまた/かりそめ臥しの/さゝ枕/一夜の夢の/契りばかりに」の第3句を題にとって、「かさかさする音が不安な感じでしょうね。やり切れない、不安な旅……」と主人公に言わせている。この主人公は、戦時中、徴兵忌避して日本中を逃げ回り、戦後、一般市民としてのうのうと暮らす男である。徴兵忌避がばれたらそれこそ死刑もあり得た時代を、笹枕に怯えて過ごしたのである。そしてこの過去が公に暴かれたとき、彼の運命は思わぬ方向に陥ってゆく。
 映画監督のロマン・ポランスキーもまた、笹の枕を心に刻んだ人間である。彼が『戦場のピアニスト』で描いた、主人公のユダヤ人ピアニストの逃亡生活は、監督自身の、戦火のポーランドで家族を失い、ひとりさ迷った少年時代のそれなのである。発見されれば収容所に送られ、殺されるかもしれない。そんな極限状況を潜り抜けた男が、かつての逃走(=闘争)を回顧して描いた映画は、カンヌ・パルムドールでアメリカ・アカデミーで絶賛された。私は『ピアニスト』を見る度にいつも、主人公だけの体験でなく、いたいけな子供がこのような逃亡生活を送ったことに涙を禁じ得ないのである。
 ポランスキーは戦後も、常に大きな力から迫害され逃げ続ける運命を余儀なくされる。まず、祖国で撮った処女作『水の中のナイフ』が、反逆的で退廃的だとして、社会主義体制から睨まれて、西側へ亡命する。
 そしてイギリス、アメリカと渡り歩き、ハリウッドで女優シャロン・テートと二度目の結婚を果たすものの、シャロンはマンソン・ファミリーに八つ裂きにされて殺される。ある意味、とばっちりの犯行なのだが、この事件のトラウマが、彼の映画に常にドロリと流れる血の色を添えることになる。事件の最中に製作されていた『マクベス』は、シェイクスピアも驚くばかりの血まみれである。
 ハリウッドもこのちびのポーランド人の成功を歓迎しなかった。『チャイナタウン』でアメリカン・ハードボイルド映画のマスターピースを作り、巨匠の仲間入りを果たすも、友人アンジェリカ・ヒューストンの家で13歳の少女を強姦したとして逮捕、保釈中に逃亡する。今回、スイスで彼が逮捕された罪因がこれである。もう32年も昔の事件であるが、海外逃亡中の期間は時効が発効しないらしい。
 それ以来、ポラはアメリカ国内に足を踏み入れていない。『ピアニスト』がアカデミーをもらった時も、授賞式には出ていないのである。
 この男のロリータ趣味には同情の余地はあまりない。『テス』で一世を風靡したヒロイン、ナスターシャ・キンスキーとも十代前半から関係があったというし、いやはやである。しかし『テス』においては、そのロリ傾向も吉と出たか、ドイツの田舎娘だったナスターシャを女優として開眼させた。
 実はヒューストン邸でのレイプ事件の実態は不明である。13歳のモデルの少女(しかも、非処女だったという)がアナルまで挿入られたという破廉恥な事件だが、当時から、ポラがハリウッドで成功したことを妬む人々による差し金だという話がある。お馬さんの前にニンジンをぶら下げておけば、得たりと食いつくだろうという魂胆。
 逃げることを運命付けられるのは、なにもドラマの『逃亡者』の医師だけではない。ポランスキーもまた、笹の葉音に怯え逃げることによって創作を刺激されるタイプなのではないかと、私は睨んでいる。その後、フランス(もともとポラは、パリでポーランド系の両親から生まれた移民だった)で監督活動を続け、『テナント』『フランティック』『赤い航路』『死と処女』といった、密室的恐怖の映画を撮り続けている。
 もともと初期の『反撥』『袋小路』『吸血鬼』など、閉ざされた空間の恐怖を描くことに定評があるが、この閉所恐怖症的傾向と、逃亡の歴史とはまさに背中合わせのものである。
 フランス政府は彼を名誉市民として受け入れ、過去の犯罪を不問に処した。その裏で、永世中立国とアメリカが、この有名な逃亡者をまんまと罠にかけたのである。チューリッヒ映画祭で栄誉賞を贈与するからおいで、といううまい話の裏に陰謀があるかもしれないと、年老いた逃亡者は匂いを嗅ぎ付けられなかったようである。幸せな生活の中で、笹の枕の葉ずれの音を、彼はすっかり忘れていたらしい。
 別に死刑になるわけでなし、ポランスキーが収監されようとされまいと、作品にはなんら関係はないが、76歳という年齢から言って、あと一作二作撮れるか撮れないか、という状況なので、できれば、アメリカの司法当局には寛大な措置を期待する。数年前から製作中のロバート・ハリス原作の政治スリラーもクランクアップしたのかしてないんだか、これでお蔵入りにならないことを望むものである。
『プール』は人の心を写す鏡 9月24日 
 映画『プール』をこの日曜日に見てきました。小林聡美主演の『かもめ食堂』『めがね』に続くプロジェクトです。でも監督は、前2作の荻上直子氏から、大森美香氏にバトンタッチ。大森さんって、今月九でやってる『ブザー・ビート』とか、『マイ・ボス・マイ・ヒーロー』『カバチタレ』とかの脚本家でしょ? はっきり言って、そういう、王道ドラマな人がなんで地味な企画を?
 マダム小林以外の出演者は、もたい・かや乃・まさこに、『めがね』で雰囲気を出してた加瀬亮、新人の伽奈、そしてタイ人の少年、のみ。相変わらず低予…いえいえ、落ち着いた配役でいらっしゃること。原作は、『やっぱり猫が好き』のタイトル・イラスト以来の長〜いお付き合いの、桜沢エリカさん。そして『めがね』の製作陣。これで期待するなというほうがムリなのですが…果たして…。
 タイの古都チェンマイのゲストハウスが舞台なのですが、ここで正直、なんでタイ? というギモンが。あまりタイを前面に押し出していないというか、『めがね』の時も与論島をある種架空の島のように撮っていた感じで、今回も、「この世のどこかにありそうでいて、かつ、なさそうな不思議な空間」に見せていました。
 プールのあるゲストハウスなのですが、客はナシ、プールもみんな足を漬けるだけ、ありえねー感じ。マダム演じる母親・京子と、日本に置きざられた伽奈演じる娘・さよの、母娘の葛藤がさらっと描かれます。ここでびっくりしたのは、いつも自分探しをして悩みを抱える役ばかりの聡美さんが、なんにも迷わない、翔んでる母親をやっていたこと。これは意外。そうしたいからと言って、娘をおっぽりだしてタイに来ちゃった母親役…うーん…かすかな違和感。
 まあ映画人たるもの作品が違えば演じる役の性格が変わるのも当然なのですが、おそらくこのあたりが、『かもめがね』路線を期待する観客をして、裏切られた、と言わせるところなのでしょう。でも、悩まない役もまたいいもんです。
 母と娘の対話が描かれる鍋パーティーの場面で、相方が、「鍋に虫がウジャウジャたかってた」と言うてました。確かに虫はおりましたな。やっぱり南国、虫まみれ? 虫が取り持つ親子の縁(笑)
 もたいさん演じる菊子は、どうやら病気を患っていて余命いくばくもないらしいのですが、満ち足りた日々の中で「私死ぬ気がしないんですよ」という名台詞を吐いておりました。「死ぬ気がしない」って、あんたは宇野千代か?
 加瀬君演じる、ゲストハウスの雇い人市尾が一番フツーな感じの人物でしたが、どうやら日本での色んなしがらみから逃げてきているようで。『かもめがね』にしろ、今作にしろ、「しがらみから開放された異郷で、自分を見つめなおす」というテーマが一貫しています。今回は自分を見つめなおすのが娘のさよだったってこと。マダムは悩みません。マダムの悩みなき心を映すかのようにプールの水面も明鏡止水。なんだか悟り切った人物ばっかりで、物足りなかったな〜、というのが、偽らざる感想です。
 荻上直子監督はもともと『バーバー吉野』(もたいさんの床屋さんが傑作!)や、『恋は五・七・五』など、コメディを得意とする人で、『かもめがね』両作は実に程よいコメディ・リリーフで笑わせてくれたのでしたが、大森美香監督は、徹底して笑いを排除していたので、物足りなかったのかもしれません。
 『プール』は後半、みなしごのタイ人の少年・ビーを巡る、母親探しの顛末が、話のヤマになるのですが、この辺はちょっとウルウルきますね。タイの風物、熱気球をとばして願掛けをする習慣が絡められていて、なかなかよかったです。
塩味のあんこは結構イケる 8月5日 
 二ヶ月前くらいでしょうか。日テレの『秘密のケンミンショー』で埼玉名物として、「いがまんじゅう」というモノが紹介されました。あんこの入ったフツーのマンジュウを、お赤飯でくるんで蒸し上げると言う、なんというか、いやはや、大胆な食い物であります。放送直後、これを食べたさに、私と相方は埼玉北部のイガマン地帯へ車を走らせて、どこの店でもイガマン売り切れ御免の飢餓状況にマイッタことがありました。結局、名もないばーちゃんがやってる和菓子屋で、なんともショボ…いえ、品のよろしいイガマンを発見し、食べて「うーむ…」と絶句したのでした。美味しかったからかって? むひひひ…それは、ご自分で確かめておくんなせえ。
 その店で他にも発見した食べ物がありました。それは「シオアンビン」。漢字で書くと「塩餡餅」とでも書くのでしょうか。塩味のあんこが大福の餅にくるまれています。最初、相方は塩味のあんこと聞いてキモチ悪がっていましたが、一口喰ってみると「いけてる」。
 メキシコ料理に、小豆やインゲンを塩味で煮て潰した「フリホーレス」なる食べ物があるそうですが、まさに和風「フリホーレス」なのね。あんこに砂糖は入っているかもしれないけれど、とっても微量。塩味のあんこは、フツウのあんこのように水飴とか入ってないから、さらさらしてもそもそして、それがまた独特の風味。けっこうね癖になるのよ。
 これがちょっぴりクセになって、こないだも、「シオアンビン買いに行こう」って、鴻巣市行田市方面へ車を走らせました。今度は名もないお店でなくて、「ケンミンショー」で紹介された品切れ店へ。そしたら、やっぱりイガマン人気は続いているのか、日曜の昼下がり、お客は列を成していました。
 イガマン3個とアンビン3個を意地汚く買い求めて、車の中でイガマンを早速パクつきました。あのばーちゃんの店とは明らかに違うどっしり感。重い…マンジュウが掌に重い…。しかも中みっちり。
 アンビンのほうは粉が吹いてるので、家に帰ってからゆっくりとかじりつきましたが、これこれ、このやーらかい餅の中が、塩味の想像し難いアンコ。うまっ!
 まことに不思議な食べ物ですね。シオアンビン。前のばーちゃんのとこのは、餅のつき具合もお年寄りな感じで、優しい感じでしたが、この老舗のは、ものすごく主張が激しい。わしゃモチじゃー、アンに負けてたまるか〜という感じで歯を跳ね返します。しかもでかい…(笑)
 うまいのはうまいのですよ。しかし、一個でおなかイパーイ。相方などは、自分の分を置いといて、翌日の朝飯にしたらしい。それくらいしっかりとした食べ物です。おそらく農民が、農作業の合間に腹を充たすために考えたもので、しかも砂糖がまだ貴重品だった頃の名残でしょう。
 それにしてもシオアンビンすごいわ。腹持ちのよさったら、もうね…。
 イガマンが全国的に有名になってしまいましたが、こっちのシオアンビンもなかなか乙なものです。埼玉北東部方面へお越しのさいは、ちょっと和菓子屋さんの店先で探してみてください。私も相方もイガマンよりオススメです。
その後の報告 7月16日 
 ひさしぶりの日記更新です。今夜遅く、おばあちゃんが息を引き取りました。介護地獄が終わったとか、悲しいとか、そういう感情は今はまだ湧きません。クリスチャン用の葬祭場が埼玉には何箇所もないので、葬儀の日取りがいつに決まるかもわからず、状況は混沌としています。
 年齢から言ったら大往生となるのですが、最期は進行の非常に遅い癌に苛まれ、随分と苦しみました。そばで看病する家族も憔悴し切っています。誰しも最期はぽっくり逝ければ楽なのでしょうが、幽明の境の橋を渡るのは並大抵の苦労ではありますまい。
 来月になれば満で99歳となるはずでしたが、もう「来月」はありません。私は昼間、所用で池袋に出かけたのですが、たまたま入った喫茶店で平井堅ねーさんの歌う「大きな古時計」が流れていました。百年動いて停まってしまった時計は、おじいさんの命の暗喩だったのだと、その時気づきました。今までさんざん耳にしていたのに、まったく思いもよらぬことでした。迂闊だった、と唇を噛むしかありませんでした。
 物心ついてから同居していた肉親が亡くなるのは実は初めてで、辛いような戸惑いのような気持ちにとらわれています。昨日は私の誕生日だったのですが、親類も危篤の知らせで呼ばれていて、とてもバースデイどころではなかったです。相方がメールでお祝いしてくれただけ。まあ、それさえあれば何もいらないのですが。今後、私の誕生日と祖母の命日がほぼ一緒になってしまうので、若干複雑な気持ちです。
 とにかく、長い年月を家刀自として生きたひとは、故郷を遥か遠く離れた埼玉の地で眠りに就きました。最後の数年を都会で暮らして、果たして祖母にとってよかったのか悪かったのか、私には判断がつきません。
 来週から社会復帰できると思います。しばらくは喪に服させてください。