今年のベストスリー 12月31日 
 年賀状用の目出度い歌を探して色んな書を繙いていた時、和泉式部のこんな歌を思い出した。

 数ふれば年の残りもなかりけり 老いぬるばかり悲しきはなし

 年の暮の歌であり、人生の残りを数える歌でもある。私もそろそろ「年の残り」を数える年にさしかかったもんだ、と言われているようだ。たかが四十でそんな先行き暗いことを、と言われるかもしれないが、案外、残りの蝋燭の長さは短いのかもしれない。厳密な診断の結果、「拡張型心筋症」との診断が下った。無理さえしなければそうそう死に繋がる訳ではないが、決して治らぬ不治の病だ。生活全般に厳しい制約がつき、この先の人生をかなり限定されてしまった、そんなことである。
 思えば十年も少し前くらいは、三十歳になるまでに成功できなければ自殺して果てたい、などと言っていた気がする。若気の至りのこっ恥ずかしい文句を、よくもまあ口に出せたもんだ。その後の十年をおめおめと生きて、ようやく今頃になって、「なんだか死なないような気がする」と、宇野千代みたいな心境になっていた矢先だった。
 私の血筋はどこを見ても長命の人ばかりで、なんだか人生八十年は有に生き果せることが確約されていて、四十歳ならたかだか半分じゃないか、と甘く見ていたので、この病気のことは心に痛かった。蝋燭の長さが意外に短いかも、という思いに至った訳だ。
 人生五十年の時代ならば、もう四十は立派な初老である。『論語』の「不惑」でもあるが、なに、日々迷うことだらけで、どこが不惑じゃ、と一人ごちる毎日だ。まだまだ初心、まだまだ未熟、まだまだ勉強、と気分がまだまだ青二才のままでいたら、知らぬ間に青初老になっていたらしい。玉手箱を開けた後の浦島の心境かもしれない。
 だから「年の残り」は大切にしないといけない。入院した時、病棟は軽症者用で、『いのちの初夜』の如く日々生死に向き合ったという大袈裟なものでもないが、自分の「この先」については、つらつらと考えざるを得なかった。生命は有限で、自分の存在も有限であるという、アタリマエの措定を反芻した次第。
 新刊もあまり読むことができなかったが、国内外のベストスリーくらいは書名を記しておこうか。

国内編
1『琉璃玉の耳輪』津原泰水[原案・尾崎翠](河出書房新社)
2『少女外道』皆川博子(文藝春秋)
3『シューマンの指』奥泉光(講談社)

国外編
1『秘密』P・D・ジェイムズ(早川ポケットミステリ)
2『森の惨劇』J・ケッチャム(扶桑社ミステリー文庫)
3『高慢と偏見とゾンビ』J・オースティン&S・グレアム=スミス(二見文庫)

 去年今年貫く棒の如きもの 虚子

 では、皆さま、良い年を。
井上陽水、枯淡のエロス 12月9日 
 井上陽水の4年ぶりのアルバムが発表された。『魔力』というアルバム。最近やたらとベスト盤を乱発していた感があったので、ひと月経っても発売されてたのに気が付きませんでした、すんません。
 ひと通り聴いてみて、いや、しばらくぶりに、エロ全開やわ、と感心したのでした。なかなかいいぞ、このアルバム。前作の『LOVE COMPLEX』やその前の『カシス』、『Blue Selection』(これはセルフカバーなのでベスト盤に近い)等がことごとくイマイチだったので、つまり今世紀になってから発表されたアルバムが全てアカン訳で、私の心の中で「もう終わったアーティスト箱」に入れられていたのですが…わからないもんですね。
 声質は全盛期に及ばず、掠れ声も入った中音域で、もはやあの高音の魅力は失せたのですが、それでもまだパワーが溢れていて、なんだか耳が離せない。
 「覚めない夢」という甘いピアノをフィーチュアした、諦念のような夢幻的な曲(NHKドラマ「さよなら、アルマ」主題歌)から始まり、♪エミリー、エミリー、ホホホホ〜、と呼びかける「Black Sister」や、映画『今度は愛妻家』の主題歌「赤い目のクラウン」、NHK「ブラタモリ」(面白かったのになんで終わったんだろ?)の最後にかかってた「MAP」、資生堂のCMでよく耳にする「Love Rainbow」、そして映画『ゼラチン・シルバーLOVE』の主題歌「LOVE LILA」などが収録されてます。おお、フォーライフの営業さん頑張ったんだね。
 こんなにタイアップついたのは1993年のアルバム『UNDER THE SUN』以来かもしれんけど、まあそれだけ今回のアルバムは営業的にプッシュしたいのかなあ。なんだか前作なんて曲も詞もぶっ飛び過ぎて、付いていけんかったからなあ。
 とにかく枯淡の境地にあるにもかかわらず、エロい(歌う谷崎?)。いやあ、還暦過ぎてまだお元気でなにより。しかしフト気になってググってみたら、ここ最近の陽水さん、とある女芸人と噂があったようですね。ええっ?
 そのミス・お笑いさんは某黒白ゲームの黒い方だそうで(モロバレ?)、彼女の顔を思い出しながら、♪丸いキュートなデカメロン(さてこれは何の隠喩だろう(笑))、なぞを聞くと、すまんが、笑うてもたわ。彼女、かつてはナイスバディで鳴らしてヌード写真も披露したことアリなのに、アラフォーになって最近はめっきり激太りと老け顔になりつつあるのも、なんだかジイ様の芸のコヤシに吸い取られたのね〜、と納得、同情しました。奥方の石川セリさんとは別れてないみたいだし、アルバムでは実の娘の依布サラサと共演もしたりしてる陽水さんなので、まあおイタも大概にせえよ、とは思いますが、さすが「快楽音楽の帝王」です。
 まあゴシップ書きたいがためにこのエントリを書いたのではないので元の話に戻りますが、このアルバムの聴きどころは「赤い目のクラウン」。全盛期の妖しいぬめり感を彷彿とさせる一曲で、鳥肌です。かつてヌメヌメ高音(アタクシは、陽水初期のフォーク時代よりも、『LION & PERICAN』や『バレリーナ』『UNDER THE SUN』『永遠のシュール』等のぬめぬめ高音が好きです)で聴く者の心を妖しい色に染め上げた魔術師の魔力は、老いても衰えていませんでした。最後の曲「LOVE LILA」も、溜息めいたエロスの残滓が響いていて、聴く者をして妖美な眠りにいざないます。
 これを機に、気に入らなかった最近のアルバムを聞き返してみましたが、不思議と悪くありません。一時期聴きたくなくなっていたのは、単に、私が飽きていたからだったのか、それとも高音が衰えつつあることに拒絶反応でも起こしていたのか…。でも、口を横に一文字のまま発音する陽水発音(としか言いようがない…)の不気味さは、ちょっと今回よりも勝っていました。
 老いてもなお、エロいけど心に染みる、そんな境地はなかなか他者には出せないので、貴重な60代を迎えた井上陽水さんのこれからに期待が持てます。来年は全国ツアーもあるとか、みゆきさんも負けてられませんぞ。
みゆきさんのコンサートツアー感想 11月27日 
 わが心の歌姫、中島みゆき様のツアーを木曜の夜に、観て参りました。東京国際フォーラムの8列目という、今までになかった前の席で、緊張するわ〜。ありがたや、でじなみ様様と思いつつ、座席表をみれば、しかも真ん中寄りの通路そば。隣が片方しかないし、ふくよかなアタイにはもってこいだぜ。通路あるのでみゆき様もバッチリ見えるし、ありがたやありがたや。。。
 こんな最高の席で聴くみゆき様、ア○タリ○トの効果もバッチシで、どんなに神々しいかと思いますれば、結構笑い上戸モードでいらっしゃいました。前半の、恒例のおたよりコーナーで、「キーボードのタッチミスで『
島みゆき』を『バカ島みゆき』と打ってしまい、ごめんなさい」、というお便りがツボにハマって、しばらく笑い転げていらっしゃいました(確かに、キーボードを見ると、NとBは隣り合わせだわ)。
 今回のツアーは久々にコーラスとして坪倉“ポンポコリン”唯子嬢が戻って来てくれたので、いつもの杉本和世嬢と3人で、懐かしの初期夜会のテーマ「二雙の舟
(以前は「隻」の字を使っていたけれど、現在では意味に沿ってこの「雙」が正式タイトル)」を歌ってくれました。これが感動もの。「夜会 vol.2」DVDでさんざん観た冒頭の「二雙の舟」の場面がまなうらに浮かんで、ウルっときました(アテクシは、チケットが入手できなくて、vol.3からのナマ鑑賞です)。
 そして、2部構成の第2部ののっけから、「真夜中の動物園」に因んだ、ワイルドオレンジな衣裳で、踊りまくそでいらっしゃいました。時々チラ見える太腿も悩まし…いえ、そんなとこ見てんじゃねっつーの。後ろの背景もなんとなく荒野のイメージでしょうか、そこに謎の型枠がデーン!これは野生の扉かしら…。
 心配された歌詞間違いもこの夜は目立ったものはなく(ちょっとつっかえてアヤしくなったのはあったけど)、懐かしい「時刻表」「夜曲」「しあわせ芝居」「銀の龍の背に乗って」「悪女」などが聴けて、感激しました。最新アルバムの曲はみゆきさんが歌詞を覚えきれな…ごほごほ…いえ、取捨選択の末、4曲だけでしたが、ようやく覚えられた…いえ、前のアルバム2作からも5曲選んで歌っておられました。とりわけ、前々作『I Love You,答えてくれ』のプロテストソングたち。。。
 現在の社会状況に対して怒っているのでしょうね。色恋よりも社会的メッセージのほうが濃い、みゆきさんの最近の傾向です。「サバイバル・ロード」に「顔のない街の中で」、極めつけが「Nobody Is Right」。「ノーバデ」の歌詞の、「争う人は正しさを説く/正しさゆえの
争いを説く/その正しさは気分がいいか/正しさの勝利が気分いいんじゃないのか」の「争い」を、「戦争」と言い変えて歌っていました。折しも、半島の境界線辺りやら、どこぞの離れ小島やらキナ臭いことばかりで、みゆきさんがここで反戦歌としてこの歌を歌っているのは明らかです。そして彼女が言う皮肉交じりの、「正しいものは誰もいないね」というメッセージを胸に刻んでおきたいものです。
 そして、かつての名曲「傾斜」に触れて、「としをとるのはステキなことです/そうじゃないですか」の部分を、「としをとるのはステキなことです/そうかしら〜」などと言って笑いを取りつつ、自分もメンバーも、そして観客も徐々に年を重ねる途上にあることを言っていたのが印象的でした。今回のツアーのテーマがおそらく「年を取ることを恐れるな」だったのでしょう。
 だからアンコール前のトリの2曲「鷹の歌」と「時代」がなんとも心に染みました。特に「鷹の歌」の神がかった歌唱は素晴らしく、アテクシ、涙腺が緩みました。まあこの歌は下の日記に書いたように、色々わが身に降りかかった時に聴いた切実な歌なので、おそらく一生涯忘れることが出来ない歌の一つでしょう。その後のお客一人一人の「人生への拍手」には泣かされました。その後に「時代」ですよ。思い出してもさぶいぼ立つわ。
 そんなこんなで、ツアーを今年も観ることが出来てラッキーでした。まだ年明けにも東京公演はありますが、そっちのほうは発売同時に売り切れで手に入らなかったので、これっきり。DVDにでもしてくれんかね。
 あと、ツアーグッズ、なんとなくこんなガム・セットを買っちゃいました。懐かしの「マルカワのオレンジフーセンガム」のパッケージを、全部、今までに発表したみゆきさんのオリジナルアルバム37枚の表紙にして、プラケースに入れて売っていました。ちっちゃいけどちゃんとお馴染みのアルバムの画像で、嬉しいやら可笑しいやら微妙な気持ちです。全部同じオレンジ味ですが、『生きていてもいいですか』だけ梅干し味にすりゃいいじゃんか〜。『10wings』は手羽先味とかな(ラジオとか聴いてなかった人には判らないでしょうが、かつてみゆきさんたらこのアルバムを『十手羽』とおっしゃてたんです)買って帰って来て、何なんだコレハ…と悩んでいます。中身はオレンジガム4粒ずつ入ってる、あのまんまの品ですが、もったいなくて当分開けられそうにありません。なんなら通販でもう一ケース買ったろか、と考えています。あの安っぽいオレンジガム好きだったんだよね〜。噛みたいけど、これは噛めない。。。
心地いいんだけどね…『マザーウォーター』 11月22日 
 やってもうたな〜…思わず観終わって呟いてしまったのでした。映画としてはやってはいけんところに足を突っ込んだ感じ。正直、一連の小林=もたい系映画を好きな人以外には勧められません。…これはこの映画の最大賛辞です。何がやりたかったか、それは一目瞭然です。「全編此れ、飲み食いする場面で映画を作りたかった」。これに尽きると思います。しかもずっとテーブル目線。監督、あんたは小津安二郎かっつうの。
 ストーリーはありません。それは観る前に買ったパンフレット(黄金のパンフ!秀吉の茶室か!)に「ストーリー紹介」がない時点で、既に判っていました。観に行ったのはそろそろ宵の口、という時間帯で、寝る時間の早い相方がいつ墜ちても仕方ないなあ、と時々チラチラ窺ってしまいましたが、杞憂に終わり最後まで観てくれました。
 とにかく登場人物が頻繁に飲み食いします。それは一連のかもめがね路線を継承しています。ただ、かもめがね監督の荻上直子氏が先に『トイレット』を公開して、コメディセンスを発揮していたのに対し、新人の松本佳奈監督は、美味しいだけのイメージビデオになっちゃったかなあ。昨年の『プール』も、ほぼ似たようなキャストなのに残念賞だったのと同じく、『マザーウォーター』、残念賞です。「この世界のどこにでもあるようで、どこにもない場所」を描こうとして、空気しか撮れなかったのですね。テーマの料理すら撮れてない。美味しそうに食べる場面は多けれど、料理のアップ画像がないので、何を食べてるのかいちいち想像しなくてはいけない。これはいけません。相方は、小林聡美がビフカツサンドをさくっと切る場面が欲しかった、と言いました。同感です。たとえPASCOのCFになっても、入れるべきだった。
 どこぞのエコロジー雑誌かニッセンのカタログから抜け出てきたような人たちが、およそ生活感なく暮らしている街。ヤフーレヴューを参考にすると、「登場人物は全員死者で、次に行くところは来世」という、いみじくも笑えないものがあって、私もここまで過激ではないけど、ちょっとそれに似た軽ーい浮遊感を味わいました。なるほど、死者ねえ。ここは京都なんかではなく、この世とあの世の間の「中有・中陰」だったのね。ナットク…。四十九日経ったら成仏して旅立って逝くってか?それにしてもよく食う死者だな。
 相方が観終わる最後まで、京都が舞台と判らなかったらしいくらいで、京都言葉もまるで喋らず、それも異様でした。何も、京都が舞台だからって、みんなが山村美紗サスペンスよろしく「どすどす」言わんでもええんですけど、ここまでやると、関西人としては、造り手の悪意を感じます。「場所は心地いいけど、ネイティヴの中に交わって住む所ぢゃない」、という京都の特徴をシッカリと捉えてはるみたいやわ〜〜イケズだらけの恐ろし都!
 一人もイケズが出てこないだけでもあり得ない京都でしたが(笑)、ロケ地は、鴨川べりとか疏水べりかな〜見たことあるし、と私は即思いました。もろ下京辺りの光景。でもあちらこちら映ってたので、おそらく京都全域でロケしたんでしょうね。それだけKYOTOオールロケなのに、アレかい…
 私はイケズではないので一応見所言っときますと、京都は三方山に囲まれ、かつては盆地全体が断層湖だった名残で、今でも名水がわんさか湧く水の旨い都。「母なる水」に引き寄せられてきた人々が主たる登場人物で、それぞれ豆腐屋さん、喫茶店、バー、風呂屋などを営んでいます。でも生活感なし。昼の日の高いうちから飲んだり食ったりできて、ええ暮らししてはります(←こういうこと言う奴をイケズと言うんでは?)
 風呂屋のあるじオトメさん(光石研)にはまだ足の立たない男の子がいて、「ポプラ」と名付けられています。この子が登場人物たちの間を取り持って、なんとなくいい感じのサークルめいたものが存在し、その人たちが揃いも揃って「よそさん(ネイティヴの京言葉ですな)」という話。うーむ、そう考えると、やはり此岸と彼岸の境に見えてくる…。元の場所に戻った若人(永山絢人)がひとり、そーか、彼は臨死体験をしていたのか!(爆)
 ああ、誉め切ることが出来なかった…でも決してイヤな映画ではないんですよ。優しくて物分かりのよい人々がのほほんと暮らす街、それはある意味ユートピアです。人生に疲れたらちょっと立ち寄りたい街。ハツミ(市川実日子)の立ち寄って縁台で豆腐食ったり、セツコさん(小林聡美)のバーで水割り飲んだり、タカコさん(小泉今日子)の喫茶店でコーヒー啜ったりしたいなあ。そんな中を日々ぷらぷらするマコトさん(もたいまさこ)やヤマノハ(加瀬亮)みたいにね。
 どこかしら不安はあれど、哀しみも葛藤も不満もない、幽霊みたいな人々が暮らす、どこにもない桃源郷の映画でした。同じ食べる場面ばかりと言っても、かもめがねとは全然違うし、ましてや『タンポポ』や『ツィゴイネルワイゼン』、『コックと泥棒、その妻と愛人』などとは異質です。「食」が決して「欲」に結び付かない「草食系」映画でした。
失われた時を求め過ぎて…プルーストで関ヶ原 11月20日 
 鬱然たる大聖堂…なんて言い方をされそうな、マルセル・プルーストの大長編『失われた時を求めて』だが、近頃あっちこっちに大聖堂が林立して、ちょっとした合戦の様を呈している。全7部の長大な作品群を個人が翻訳したものでは、定本として、ちくま文庫の井上究一郎訳と、集英社文庫ヘリテージの鈴木道彦訳が出ていて、それぞれに読者を獲得していたのだが、ここにきて、あーた、光文社古典文庫と岩波文庫が殴り込みをかけたのである。
 手ずれで色変わりしたちくま文庫の表紙をご覧になってわかるように、私は長年、井上訳を愛読していたのだが、それはひとえに、入手可能な文庫版がちくま文庫しかなかったからで、集英社で発表されていた鈴木訳が文庫化されて、比較対象の為に買ってみたら、案の定、それぞれ個性が際立って面白い結果になった。しかしまあ、今年になって三か月のあいだに、別々の書肆から翻訳されるなんてねえ、スワン君も驚きだろうて。
 井上訳と鈴木訳はいずれも、全集ないし単行本としてまず数年越しで刊行され、文庫化されたものだが、今回の企画は文庫で訳し下ろしである。途中で翻訳者がどうにかなったらどうするんだ?と要らぬ心配をしてしまうのも、岩波文庫の旧版『西遊記』(小野忍訳)のように、途中で訳者が亡くなることもあるからね。どちらもまだ最初の巻しか刊行されていない、光文社の高遠弘美氏、岩波の吉川一義氏ともに、ご健勝を祈るのみですな。
 さて、せっかく、第1巻第1部「コンブレー」だけでも個人訳が四種類も揃ったので、なんぞ比べてみたくなるのが人情だが、ここはやはり、超有名な書き出しの「不眠の夜」で比較してみようか。面白い事がわかってくるよ。
 
 原文 Longtemps, je me suis couche de bonne heure. (coucheのeはアクサンテギュ付き…HPビルダーでは表示できない…嗚呼)
 井上 長い時にわたって、私は早くから寝たものだった。
 鈴木 長いあいだ、私は早く寝るのだった。
 高遠 長い間、私はまだ早い時間から床に就いた。
 吉川 長いこと私は早めに寝むことにしていた。

 原文通り、という点では高遠訳が逐語訳に近くなるのだが、戦前の『失ひし時を索めて』(武蔵野書院)の頃からプルースト一途の井上が、個人全訳という偉業を成し遂げた後に刊行したエッセイ集が『かくも長い時にわたって』(筑摩書房)と題されたように、訳者の思い入れの深い冒頭文だということが、よく理解できる。もちろんこの題は、フランス映画の名画の一つ『かくも長き不在』(アンリ・コルビ監督)をも踏まえていることは言うまでもないが、言っておかないと若い人にはわからないだろう。
 このほんの短いセンテンスからお分かりの通り、実は井上訳は文章が結構ダラダラと長い。まるで吉田健一の悪夢を見ているかのような箇所さえある。鈴木訳はセンテンスが短くパキパキしているが、「私は寝るのだった」などと、一見意味の通らぬ日本語を不用意に使っている。だからどちらが良いかなんて、比べようもないのだが、比べる人もいるらしい。作家の加賀乙彦が、他ならぬ鈴木訳の文庫版第9巻の解説で、井上訳を「文章が長く、切れ目なしに続くので辟易した」と言い、かつて篠田一士と井上訳の是非について酒の上で議論をして、井上訳を絶賛する篠田に対し暴言をうっかり言った、という思い出を語っている。篠田存命中のことだろうから昭和の時代の事だと思うが、その中で気になることを言っているのだ。
 「鈴木道彦訳が完成して、私のプルースト読書は格段の別世界に抜け出た思いがする。とにかく、読みやすく明晰で歯切れがいい。篠田が生きていれば、『木曾川の東のプルースト』ができたと冗談を言えるのだが、好漢逝きてまた帰らずである」。
 「木曾川の東のプルースト」ったあ、なんだ?
 よくよく考えれば、篠田一士は岐阜県生まれ、井上究一郎は大阪府出身、加賀乙彦と鈴木道彦(父親はフランス文学の大学者・鈴木信太郎である)は東京の人だった。なんだ、東西で綱引きをしていたのだ。他愛もない…いやいや、名古屋以西の関西言葉のセンテンスの膠着ぶりは確かに長々しい。京の都の言葉なんかも非常に息が長い。それに比べると下町っ子山の手っ子問わず、東京モンの言葉ははきはきと切れ目が短い。たかが口調の違いと言うなかれ。それが翻訳にも如実に表れるのだ。文体の好き嫌いにも、ね。
 そして今回も、驚いたことに、高遠弘美が長野県出身、吉川一義が大阪府出身と、東西で分かれていた。まさに関ヶ原の様相である。どちらも戦後生まれ、プルースト専門の学者なので、これから両方読み比べて楽しめるのではないだろうか。え?「そんな迂遠な楽しみ方は、オマエだけだろ」って?はいはい、その通りですが、これもまた翻訳を楽しむ一つの方法でしょう。
 たとえばプルーストでなくとも、本邦の永遠の名作『源氏物語』の現代語訳を、与謝野晶子(角川文庫)に谷崎潤一郎(中公文庫)、円地文子(新潮文庫)に田辺聖子(新潮文庫)、瀬戸内寂聴(講談社文庫)に尾崎左永子(集英社)、大塚ひかり(ちくま文庫)に林望(祥伝社)、と比べて読んでみるのもよいかと思うけど、やる人いないだろうねえ。アーサー・ウェイリーが英訳したものを逆に和訳したという珍品も平凡社ライブラリで出ているし、各社それぞれ有名人を引っ張り出して『源氏』を商品にしようという意気込みがあって、大変よろしい。プルーストだって、こんなふうに各社が競って、訳者の特色を出した翻訳を定番にしてゆけばいい。
 あ、そうそう、光源氏が自ら語る橋本治の『窯変源氏物語』(中公文庫)と、なんと、亡霊になった六条御息所が語り手の林真理子の『六条御息所源氏がたり』(文藝春秋)はやりすぎ。目が点になっちゃいます。現代語訳としては…認めがたいなあ。一番いいのは原文で読むことだけど、現代人には平安時代の言葉も、もはやフランス語並に知るヴプレ〜な異国の言葉であるので、無理にとは言いませんよ。
ようやくみゆきさんのニューアルバムを聴けたの記 10月26日 
 ↓の日記を書いた日、かかりつけの大学病院を訪れたら、そのまま拉致収容されてしまいました(T_T)。鬱血性心不全…。なんだかここんとこ、息が出来ないのは、肺に水がたまり、丘にいて確かに溺れていたのでした。しかも心臓肥大。「このまま仕事を続けて入院を拒否していたら、おそらく五年は持つでしょうが、十年はないですよ」と、ドクターにショッキングな宣告をされて、入院を決意しました。まだ親がいるから死ぬわけにいかないし、なにより、相方との将来を捨てることができない。まともな仕事も残してないし、これからでしょ?
 三週間以上入院し、ようやく週末に出ることになったが、ちょっと体重の減ったわたくしです。
 心臓を病んだ原因はおおかた、睡眠時無呼吸症候群と呼ばれる、近頃注目のあの病気。肥満や扁桃腺の肥大、生まれつきの形態が原因で、睡眠中に舌根が気道を塞いで、無酸素状態を引き起こし、心臓や肺に過大な負担をかけて、最終的に死に至る、ってえの。いびきがひどいのは昔からだし、寝てる間に息が止まってる、と相方や家族に言われたこともあるし、まあそれを放置していたからこうなったんです。家族と相方と、幼馴染の親友以外は誰にも知らせないで、静養させていただきました。
 入院中はテレビも見ず、本もエンタメは全く読まず、ひたすら、天井と向い合う日々でした。症状が軽くなってからはノートPC持ち込んで、講義用のレジュメ作ったり(無呼吸睡眠で入院しているさ中に、古典講義用に調べていたのは『夜の寝覚』(笑))、持ってきてもらったDVDを観たりしていました。胸にモニターが付いてて、病棟から出してもらえず、中をぐるぐる歩き回ってウォーキングしてました。退院のとき、CPAPという無呼吸症候群の無呼吸睡眠を撃退する器械を渡されて、これを毎日つけて寝ています。
 これからもしばらくは元の日常生活の半分ぐらいしか用を足せないのですが、無事、症状も回復したのでここにご報告する次第です。入院中に中島みゆき嬢のニューアルバムとニューDVDが出て、予約していたのですが、予約の詳細が本人しかわからず、取りに行けなくて、ついに退院後、聴けました。
 37枚目のオリジナル・アルバム『真夜中の動物園』。凄い…凄すぎる。五十代も後半にして、こんな野心的なアルバムを出すなんて、みゆきさん、凄すぎ。今までにないパターンのタイトル曲「真夜中の動物園」が、なんともスバラシイ。幻想的な歌詞が絶品です。アーシイなサウンドもスバラシイ。近頃のアルバムに多かったおらび声系は身を潜め、ストレートで突き刺さる歌詞が聴く者の心をなぶります。しかも、このアルバム引っさげて、来月からツアー!もちろん私も東京フォーラムのチケットはおさえてありますから、これで入院とか長引いてコンサート行けんかったら、タマシイだけ紛れ込んで「
ワタシニモキカセテ…」と呟いてやろうかと、本気で思っていました(かぐや姫のカセットテープかっ)。
 そういや、入院前にケータイをiphoneに買い換えた矢先だったので、まともにメールすら出来ず、歯がゆい思いをいたしました。それにいたところが心臓病の病棟だし、建前上はケータイ禁止でしょ。仕事のキャンセルとかぐらいしか連絡できなかったのをお許しくださいませ。iphoneはいまだにメアドやWi-Fi、iTuneの設定すら、ちゃんと出来ておりません。…もうっ、iphoneのイケズっ!
 でもipod機能には随分慰められました。たまたま入れてみたくて、みゆき様の全曲をipodに入れていたので、入院中は全曲満遍なく聴くことが出来ました。他のアーの曲は入れてなかったので、聴き飽きてもそれを聴くしか…いえ、みゆき様に飽きるなんて、あり得ませんです。でも、ニューアルバム発売わずか二週間前だったので、結局、今まで持ち越し。。。
 それはさておき、『真夜中の動物園』には核になる歌がもうひとつあります。「鷹の歌」。これ聴いて、私、思わず号泣しました。だって退院後数時間で聴いたし、こういうの、はまりすぎです。おそらくみゆきさんが私淑してきた先人(おそらくは男性たち)に捧げる「老いの限りなき肯定」。女性の老いについては、みゆきさんは早い時期に「傾斜」という名曲を書いていて、おのれの将来を遥かに見据えた完成度を誇っていますが…。
 かつて「鷹」と呼ばれ時代の先端を走っていた男たち(おそらく、みゆきさんの周囲で探せば、みゆきさんの大恩人で先年亡くなったヤマハの会長とか、テレビ界を引退すると宣言した倉本聰、或いは癌を克服したけどツアーから引退した吉田拓郎…などなど)が、老いさらばえて他人にいたわられたり、軽視されたりするようになりながらも、老いを直視し、「見なさい、生きることを恐るなかれ」と説く歌です。余りにも重い…でも切実。鷹どころか、まがいものの夜鷹(宮澤賢治?)にすらなっていない、ピイピイの椋鳥野郎の私でさえ、身体の衰えに泣かされたものですから。
 このアルバムは早い時期に曲のタイトルだけ発表されていて、「ハリネズミだって恋をする」だの「サメの歌」だの「ごまめの歯ぎしり」だの「まるで高速電車のようにあたしたちは擦れ違う」(長っ!)だのといった、トチ狂ったようなタイトルが並んでいて、またもやみゆきさん御乱心?と言われていたのですが、なんのなんの、蓋を開けてみると、近年稀にみる名アルバムでした。信者でないライト層には受けないでしょうが、信者には稀に見る「ありがたい経典」(と親友が言っておりました)です。
なんとか尖閣 10月1日 
 ここ数日、急激な秋の訪れと、異例の猛夏の疲れが出て、喘息状態で不眠である。肺水腫かもしれない。秋雨や春雨の頃になると、息が出来なくなり、まるで丘にいて水に溺れているような状態になるのだ。何をするにしてもイライラが募る。
 テレビをつけると、連日、「日の没する國」との領土問題で、イライラが更に募る。はっきり言って、「見ん衆党」がここまで外交で無能だとは思わなかった。その上、某国との太ーいパイプがあるにもかかわらず、政権奪取のネタにしか思ってなくて、与党叩きしか出来ない「痔眠党」にも吐き気を催すが、所詮外交ってあんなもんだろう。子供っぽく騒ぎたてた方が勝ち。ちょっとイケない場所を覗いた民間のリーマンをぱくって、制裁するなんて、まあ、あの「日没國」は、かつて天安門広場で民主化を求める学生たちを戦車で踏み殺して以来、なーんにも変わっていない。一党独裁恐怖政治。まあ、一党独裁のバカ政治はどこぞの国も最近までそうだったので、ヒトのことは言えません。
 そして、外交の本質を何も伝えず、ひたすら相手の国に対しての嫌悪感だけを与え続ける、マスゴミ。テレビなんてつけるもんじゃないわね。来年の地デジ化で、私の部屋の98年製28インチも放送が見れなくなるそうだけど、だったらもう、後は映画のDVDのモニターでいいじゃん?とか思っちゃう。何も液晶で観なくっても、『テス』も『ルードヴィヒ』も『サクリファイス』も『陽炎座』も『ロード・オブ・ザ・リング』も、充分に美しいと思うよ。
 我が家でも、アタマのゆるい弟御が、ニュースを見る度に、「クソ中国が」とか言ってて、数年前、韓国とギクシャクしてた時は、「クソ韓国め」とか言ってたな〜、と季節の便りの春風のやうに受け流すわたくし。こういう人たちが、先の見えない無謀な戦争を支持する「イパーンタイシュ」というもんなんだな、とあきあきする。かつての、鬼畜べいえー、うちてしやまん、よ。
 どこぞの党の中の勢力争いがもとで、日米同盟が天秤に掛けられた結果、ちょっと亀裂が入ったかな?と思った「日没國」がお試ししたのが、今回の問題だろうけど、ほんとに馬鹿馬鹿しいねえ。馬鹿馬鹿しいけど、あの海域でもしドンパチでも始まったら、私の後輩で海自に入って潜水艦に載ってる人とか、身が案じられる。イラクやアフガンにあたら命散る米兵のようにはなってほしくない、と切に思う。
 不況だろうがリーマンショックだろうが知ったこっちゃないが、ぬるい平和の世の中が果てしなく続いて、出来れば、それが武器を手に猛り狂う人たちの許にも届いて、みんなのアタマにお花が咲いたらいいよね。わたしゃ、もとよりアナーキーな文人なので、経済だの権力だの軍備だの外交だの、が通用しない世界に身を置いているつもりだが、けれど、こういう時ばかりは、うつし世のもろもろとの縁を切れないのが、うすら寂しく思う。
 「日没國」の故事でアレだが、君子が賢明で世の中が平和でジジイが腹鼓を打って、撃壌歌を歌えるのが、なによりだと思うよ。私はまだまだダイエットして痩せる訳にはいかない。
『トイレット』には流せない 9月7日 
 荻上直子監督の最新作『トイレット』を観てきました。佳作です。『かもめ食堂』『めがね』の路線とはちょっと違っていて、今回は、カナダのトロントが舞台で、主人公の三兄妹はカナダ人。そこに「ばーちゃん」と呼ばれるもたいまさこが、日本人唯一のキャストで登場します。
 私も相方も、今までの荻上作品を気に入っていますので、今回も楽しみにしていましたが、案の定、肩の力を抜いて、うふふ、とほくそ笑む感じでした。爆笑、ではないのです。あくまで、微苦笑、時々涙。そこはかとないペーソスと、理不尽なシチュエーションが絡み合って、実に楽しい。
 ここで例の通りならば、登場人物紹介とかするんでしょうね。ママを亡くしたばかりの三兄妹と、ママが死ぬ前に日本から呼び寄せた「ばーちゃん」が同居する家が舞台なのですが、ごくフツウの家なので、トイレはひとつしかありません。「ばーちゃん」は毎日、朝からそこに長く座っては、出て来て深ーい溜息をつくのです。英語をしゃべれない「ばーちゃん」と、日本語のわからない孫たち。
 三兄妹もどこにでもいそうで、しかしどこか現実に折り合いを付けられない、不器用者たち。長男のモーリーはピアノの天才だけどひきこもり(これってサヴァン症候群?)、次男のレイは日本のロボットプラモのオタク、末っ子のリサは生意気だけど自信なさげな大学生。そして血が繋がっているんだかいないんだかよくわからない、「ばーちゃん」。それからママの残した猫「センセー」。
 別居していたレイが、アパートの火事で小さな家に帰ってくるのですが、もとより家の中は台風状態。意志疎通のできない「ばーちゃん」と、ひきこもりの兄の面倒を見るのに疲れたリサがわめきちらし、センセーのキャットフードさえ忘れ去られる始末。
 七三分けのオタクだけど、唯一社会人として生計を得ているレイは、なんとか彼らの間を取り持ち、彼らの引き起こす騒動の尻拭いをしようとするのですが、そのせいでオタク命のプラモを買うのもままならず、挙句の果てにヒステリーを起こしたり。
 そんなギクシャクとした家族ですが、やはり欧米人は「かまって度合い」が日本人より強い!なんとか「ばーちゃん」と意思の疎通をはかろうと、けなげな努力を惜しまない。そのおかげかどうか、お互いにすれ違っていた兄妹もなんとなく理解できるようになり、なにより「ばーちゃん」とギョーザを作ることもできるようになります。このギョーザが、荻上作品の例によって例のごとく、とってもオイシそう。毎回裏で作品を支えている、フードスタイリストの飯島奈美さんが協力しています。
 ヒステリーを起こし、晩飯を食べ損ねたレイがひとりでポテチでビールを飲んでると、「ばーちゃん」がわざわざギョーザを焼いて持ってきてくれます。このギョーザが、口に入れた途端に焦げ目の「シャリッ!」という音さえ聞こえる逸品で、たまりませんな。相方が「絶対これ観たら夜はギョーザを作りたいって騒ぐだろ〜」とシャクなことを言うので、その日はなんとかこらえましたが、明日あたり挽肉こねてそうで、あー、危ないな(笑)
 荻上監督がいかにもたいさんを好きか、よーく分かる映画ですね。実年齢でいえばまだ還暦になっていないし、この三兄妹みたいなでかい孫がいるような御歳ではないのですが、若い頃から何故か、ばーさんが似合う女優で、あの故・ナンシー関氏から「若くしてばあさん映えする女優」とのお褒めを戴いております。ドラマ『やっぱり猫が好き』の長女かや乃役も大好きですが、今回思い出されたのは、ドラマ『すいか』の、バー「泥舟」のママ。ほとんどしゃべらないし、盛り上がる客をドスの効いた「あんたたち、帰って頂戴」の一言で追い返す、いつも苦虫噛み潰したような表情のママ。今回の「ばーちゃん」はまさに、あの「泥舟」ママの再現でした。
 でもそんな「ばーちゃん」も、必死で色々と頼ってくる孫の言うことがなんとなくわかるようになり、笑みのひとつも見せるようになり、そして、長男モーリーが再起を賭けて臨んだピアノコンクールの舞台で発作に襲われた時、唯一のセリフを叫びます。ここが映画のクライマックスだよね。思わず泣き笑い。
 最後はなんというか、日本のウォシュレット((C)TOTO)の壮大なコマーシャルとも言えるオチですが、それもまた、笑い涙。確かに日本のトイレは凄いです。こないだ台湾行って、あちらのトイレ事情のひどさに悶絶した身としましては〜〜(以下略)。
 この文章に添えた映画のパンフも、相変わらず気が利いていて笑えますね。なななな、なんと、パンフの間に○○○が挟まってます!しかも、蓋を開けたら○○○がっ!!!相方が、「なんで中心に落ちてないの?」と不審がっております。うーん、産み落とす時に、ちょっとミモダエしたのかな?映画を観たなら、ゼッタイこのパンフも買いなさいね。ウケを狙えます。
 この映画をわからん奴は…などと、信者まがいの言質を取るつもりはございませんが、こういう映画を見てほっこり出来る人がいいですね。ストーリーだけ、シチュエーションだけを取り上げると、はっきり言って理不尽です。「おしりだって洗ってほしい」と、戸川純嬢がのたもうてから早30年。TOTOさん、ここまで来たんっすよ!いやもう、ウォシュレット万歳と言うしかないような…。
戸棚の中の骸骨、或いは即身成仏考 8月25日 
 英語で“Skelton in the Cupboard(アメリカではCloset)”と言うと、「他言を憚る家族内の秘密」という意味のイディオムなのですが、まさにこの夏、日本各地で続々と、普通の家庭の中から骸骨が発見されております。布団の中や、押し入れの中から、挙句、リュックサックの中からコンニチハしたりしてね。所謂、「消えた高齢者問題」です。
 葬式代の出せない貧困や家族のネグレクト、相続税を払いたくない、年金の不正取得、などなど、色んな理由があるのでしょうが、役所の怠慢が一番大きいでしょうなあ。所在の分からない高齢者の数が、関西の方面に多いのも何をかいわんやです。
 中には、自宅で亡くなったにもかかわらず、腐敗していて顔の確認が出来ず、係累との連絡が取れなかったり、血縁者がいなくてDNA鑑定が出来なかったりで、結果、役所の判断で「無縁仏」になってしまう場合も多々あるとか。結婚もしない地方出身者の中年男としては身につまされますね。ホームレスになったり、見知らぬ土地で自殺したりで、「行旅死亡人」(要するに「行き倒れ」のお役所用語)になってしまう人も多数。皆さまがお住まいの市町村の官報を御覧になると、必ず月に1件や2件は、「××市○○地内で発見された行旅死亡人」のお知らせが載っていると思われます。それくらい、行き倒れる人は多い。
 「消えた高齢者」たちの多くは、こうしてこの世から密かに静かに退去して行ったものでしょう。数年前、豊島区の廃墟から、20年前に亡くなった住人の白骨遺体が見つかった事件もありましたしね。川越街道と山手通りの熊野町交差点のすぐそばだったとか、私もこの付近は馴染みが深いので、余計に驚きを覚えたものです。
 しかし、この問題の発端となった足立区の111歳男性S・Kさんの場合は、なんだかちょっと雰囲気が違うようです。区の職員や民生委員が家を訪問するたびに、家族が「弟がいる岐阜県の寺で説法している」などと苦しい言い訳をして追い払っていたのですが、死亡が発覚した後も、「おじいちゃんは即身成仏すると言って部屋に籠ったが、怖くて部屋の戸を開けられなかった」などど言っています。このKさんの白骨化の背景には、どうも宗教的な匂いもいたします。遺族の言い分を鵜呑みには出来ませんが、もしかすると、この方は現代の「即身成仏」を目指した稀有な人だったのかもしれませんよ。
 日本の即身仏で一番時代が遅い方と申しますと、新潟県村上市の観音寺におはします「仏海上人」です。上人は文政11年(1828)当地に生まれ、火災で焼失した湯殿山注連寺(即身仏で有名)の復興時の住職などを歴任、40年以上の五穀断ちの修行を経て、明治36年(1903)に満75歳で入寂し、そのまま棺に納められ、「世界の人民の救済のため、死後30年したら掘り出して即身仏として祀ってほしい」との遺言を残しましたが、当時、既に墳墓発掘禁止令が出ていたため、昭和36年に村上市教育委員会とミイラ研究者グループによって取り出され、新潟大学で復元されたそうです。
 明治半ばにまだ衆生済度のために即身成仏を願う人がいたというのも驚きですが、かの足立区のKさんは、上人の入寂時には既に生まれておりました。たかが100年、されど100年、ましてや111年。実際に即身仏として崇尊されている人と、現代にそれを願ったかもしれない人が、同じ時代に生きていたのです。不思議な縁を感じませんか。
 そして、かくも人心荒廃した今の世の中こそ、迷える衆生の救済のために誰か、即身成仏して見せてくれてもよかろうと思います。ただし、即身仏への道程は険しいです。湯殿山の仙人沢という所には、即身成仏を願った修行者たちの道半ばで死んで葬られた墓が、山のようにあるそうです。よほど身体頑健でなければ、一千日の木食断食行(五穀断ち・十穀断ち)を経て、即身仏にはなれなかったということでしょうか。
 軽い気持ちで書く日記ではないのでしょうが、私の気になる「骨」がらみの事件でしたので、記した次第です。なお、山形・新潟両県に存在する即身仏のお名前に必ず「海」の字が入っていることから判るように、彼らは皆、湯殿山真言宗の修験者で、空海が開祖です。この弘法様も、私の田舎・和歌山県の高野山では、生身の入定即身伝説が根強く残っていて、紀州の奥深い槙立つ山のどこかに、まだ即身にして現身の空海上人がいらっしゃって、釈迦の入滅より56億7千万年後の弥勒菩薩の下生を、ひたすら待ち続けているのではないか、とふと思わされたものです。
Coccoニューアルバム『エメラルド』 8月21日 
 Coccoのニューアルバム『エメラルド』が先週発売されたのですが、それ以来ヘビロテで聞いてます。何と言うか、前作『きらきら』(2007)のほのぼの感を宇宙の彼方へ蹴とばし去ったような、毒と語呂とハイテンションに溢れたアルバム。凄いパワーです。
 それはまるで、愛する夫を生贄にされた恨みで、泣いて叫んで万里の長城を崩壊させた、かの孟姜女の伝説を思い起こさせます。長城のように崩るるべきは、居座り続ける基地であり、欺瞞の政治体制であり、沖縄を侵食する本土であり、そしてそれを手を拱いて見ている沖縄人自身なのです。
 このような作風になる予感はありました。先行発売されたシングル「ニライカナイ」でも、聞く人の好き嫌いを無視したなんじゃこりゃチューンで、驚かされてますから。いきなり「イーヤッ!ハイヤッ!スイスイスイサッサー!」という沖縄風の合の手とともに琉球國祭りの太鼓が鳴り響き、久々のダークな曲調が繰り広げられて、最初は違和感をたっぷり味わいつつも、やがて否応なしに引き擦り込まれてしまう曲。気がつけば自分もお風呂で歌ってましたね。
 今までのプロデューサー、Dr.StrangeLoveの根岸・長田両人の護送船団に守られた作風ではなく、様々な人にアレンジを託し、自らもアレンジし、初のセルフ・プロデュース作となったのですが、随分とトンガリました。沖縄言葉とロックを融合させた、独自の進化を遂げていたのです。単に「癒し」のイメージだけではない、ナマの沖縄のうめき声です。
 思えば三年前、前々作シングル「ジュゴンの見える丘」で基地問題にリンクした時は、まだ人と人との対話が残されているという、癒されるような、たをやかな作風でしたが、三年後の「ニライカナイ」では、龍神が怒り獅子が叫び、降伏の白旗を象徴する「白妙の雲」を奪い取って、「右に左に火を吹く」有様(右翼にも左翼にも加担せず攻撃する、という意味らしい)、さてもウチナーのウナイ神(つまりCoccoのこと)の怒りは如何程か、と思ったものですが…。
 一曲ずつ丁寧に見て行くことができないので、軽く触れると、まず「三村エレジー」。本来陽気な労働歌のはずの沖縄民謡「三村節」の歌詞にマイナーコードのメロ(だからエレジーなんですな)をつけて、「皮肉たっぷりに」歌っています。オリジナルの歌詞の部分はおそらく基地問題にリンクしているものと思われます(♪張り巡らされるの金網/蓋をされるのブルーオーシャン/ねつ造やしが おもろ町/ヘソで沸かした 茶も冷える…「おもろ町」は那覇新都心のこと)。
 基地問題を想起させる歌詞はこの後もことごとく続いていて、今回のアルバムが、近々の沖縄情勢にコミットメントするものだということがよく判ります。ここから「ニライカナイ」の怒りまでの距離は、実に近い。
 「Spring around」「のばら」では、RYUKYUDISKOにアレンジを依頼して、軽いディスコティックのノリに言葉遊びの強烈な毒を含ませていて、実に快感。性的な歌詞がモロバレの前者と、首を吊る一歩手前の狂躁を歌った後者は、歌は可愛らしいが余りにも毒々しい。
 「玻璃の花」「Light up」「Stardust」の抒情的な歌には、喪われ行くものへの哀惜が限りなく込められていて、胸に迫ります。ひたすらメロディーが美しく、まるで追悼ミサの葬送歌です。
 「蝶の舞う」「十三夜」は初期のCoccoのダーク&ヘヴィーな響きが再現されていて、声に迫力があり、復活後からファンになった人は度肝を抜かれるでしょう。
 「4×4」「クロッカス」「あたらしいうた」のようなフォーキイな可愛らしい歌でも、常にナイフの刃を喉元につきつけ、民謡「ちんぬくじゅーしー」をフィーチュアした「カラハーイ」は、これまた勇ましげな独自のメロディーとリズムをつけて、苦悩する世界のコンパス(からはーい)となるべきは、お母さんの作る里芋ご飯(ちんぬくじゅーしー)のゴチソウだと、ささやかな幸せが世界の底辺へと敷衍してゆく様が歌われます。
 最後の一曲「絹ずれ〜島言葉〜」は、前作シングル「こっこさんの台所」のメインであった名曲「絹ずれ」を、敢えて島言葉に翻訳して歌っています。ウチナンチュの誇りと言うべき一曲です。沖縄の人はどこで暮らしても結局沖縄に帰って骨を埋める、という帰属意識があってそれが、日ごろおのれを亡国の民と感じる私なんぞには、とても眩しく感じられて羨ましい。しかも、単純に故郷を賛美するのでなく、時に激しく刃を向けるあたり、いったい、Coccoはどこでそのバランスを学んできたんでしょうか?
 この一文を書くにあたって、Coccoが新聞<沖縄タイムス>に連載している「こっこタイム。」を読み返しました。自作解説とも言うべき回があって、彼女がアーティスト活動をする理由=歌う理由がよくわかります。それと、’07年のコンサートツアーに同行して撮られたドキュメンタリー『大丈夫であるように―Cocco 終わらない旅―』(監督・是枝裕和)を、主に参照しました。沖縄に帰って子供を為したことで、「リストカット」「成熟拒否」「自殺」といった、それまでの自己否定的な世界観から一歩前へ進んだ、新しい段階がここにあることを証明しています。
 ツアーの最中に青森県六ケ所村や神戸の震災慰霊碑、広島の原爆慰霊碑を訪れ、「沖縄にいると新聞は沖縄のことだけしか伝えていない」という島国批判(これは日本すべてにもあてはまることですが)、更に、被害者意識だけでは平和運動はやっていけないという認識を得て、このアルバムに辿り着いたのでしょう。彼女の韜晦的な比喩は、リテラシー(基礎力・教養)の死に絶えた他力本願ネット社会においてはともすれば誤解を招き易いのですが、それでも歌の感動に託して多くの人に伝わって欲しい、そんなアルバムです。
『インセプション』、夢の中の人生 8月4日 
    「安芸之介どのは、夢を見たのにちがいない」
  一人が笑いながらいった。「安芸之介どの、不思
  議だなどと、どんなものをごらんになられたか」
    そこで安芸之介は、自分の見た夢を――常
  世の国の莱州に、二十三年とどまった夢を――
  語った。すると二人は、実際に彼が眠ったのはほ
  んのわずかであったから、びっくりした。
    小泉八雲「安芸之介の夢」
        (新潮文庫『小泉八雲集』上田和夫訳)


 いやあ、もう面白いとしか言いようのない映画ですね。まだ観てない人は、こんなショッタレ・レビューなぞ読んでないで、映画館へ走りなさい。私としてはまさに、ツボ中のツボ映画でした。やっぱ、クリストファー・ノーラン監督、天才。『メメント』『インソムニア』『プレステージ』『ダークナイト』いずれもツボなので、これも期待大で観に行ったのですが、期待は裏切られませんでした。
 この作品の最大の特徴を一言で言い表せば、「夢の中の夢」でしょうか。つまり、「入れ籠(こ)構造の夢」ということ。幻想文学愛好家としては、常日頃、この夢の多重構造に関心を寄せていたのですが、ここまで完膚なきまでに映像化されると、ただもう戦慄するしかありません。入れ籠の夢は、甘美なようでいて、それだけ怖いのですよ。しかもそこに、愛と言う名のトラップが仕掛けられている。怖すぎる…。
 まず、この作品は、「夢の共有化」が前提にあります。ここで既にフィクショナルなレベルなので、観客は楽しんで映画を観ることができます。でなければ怖いよ〜〜。

 強力な催眠状態を造り出して、他人の夢を乗っ取って、そこになんらかの潜在意識を植え込む(インセプション)のが、主人公コブたちに課せられた仕事です。どうやら彼らは元は、「植え込む」のではなくて、夢から「盗み取る」ことを生業にしていたようです。
 ある巨大企業の後継者に、その企業の解体を目論む「インセプション」を行え、というのですが、その後継者が現代の御曹司らしく、夢をコントロールする訓練を受けていて、夢のハッカー(つまり主人公たち)に攻撃をしてきます。この辺のアクションに至る設定も魅力的ですね。夢の中で攻撃されて死んでしまうと、その下層レベルの夢の中に閉じ込められ、現実的には廃人になってしまうというリスクもあります。
 この玉葱の皮状の夢の中でそれぞれのレベルに応じた戦い方をしなければなりませんが、一行を率いる主人公には仲間に明かせない重大な秘密(妻の死にまつわる)があって、その秘密ゆえに苦戦を強いられます。
 とにかく面白いし、観ようによっては哲学的にもなり得るテーマです。意識と記憶のはざま、乃至、アイデンティティーの問題は、ノーラン監督のこだわるテーマで、今までも繰り返し語られてきましたが、今回はその壮大な映像とも相俟って、総決算的完成を見せてくれます。
 私が特にいたく感動したのは、主人公コブとその妻モルの悲しい結末です。
夢の中の人生に充足し、現実を拒絶するようになった妻に対して死に至るインセプションを行ったことが、主人公のトラウマになっていて、トラウマが生み出す妻の虚像が、彼の作戦を事あるごとに邪魔してくるというのが、この作品のミソ(ここまでネタバレなので反転)。これは例えば『惑星ソラリス』(リメイク版でも可)で、主人公の自殺した妻の虚像が惑星の海によって生み出され、次々と主人公の元に送られてきて、彼を苦しめるのに似ています。こういう贖罪意識を持った人物像が私好みです。

 夢の中の人生で妻に死に別れた、というと、私は小泉八雲の『怪談』集中の一編、「安芸之介の夢」を思い出しました。これはいわゆる「邯鄲一炊の夢」のモチーフで、一瞬の夢の中に自分の一生を体験してしまう、というもので、安芸之介は夢の中で一人の女性を愛し、その人と二十三年間を仲睦まじく過ごし、そして死別した後、夢から覚醒します。「莱州」という島で夢の人生を過ごした安芸之介は、原典は「邯鄲」の故事を日本風にアレンジした説話なのでしょうが、それを原作としながらも、安芸之介の人物像は、おそらく八雲自身の姿が投影されています。ギリシャの島に生まれ、アイルランド、カリブ海の島マルティニク、そして日本と、島国を渡り歩いてその時々に理想の女性を探したラフカディオ・ハーン、彼こそが、莱州島で妻と暮らした安芸之介なのです。

 夢の中の人生を生きた先達の話に終始しましたが、映画『インセプション』のメイン・テーマもおそらくこの夢に囚われた夫婦の物語でしょう。アクション映画としてもSF映画としても優れた作品ですが、仮想現実としての夢だけならば、『マトリックス』シリーズという先行作品がありますので、ここでやはり新作の意義を読み取るためには、夢のブラックボックスに妻を閉じ籠めてしまった男の葛藤を、身近に感じた方がいいでしょう。
 また、多重構造の夢において、下層になっていくにつれて、時間の進行が遅くなるというのも、支那の書生・蘆生が見た一生ぶんの夢が、ご飯が炊けるまでの僅かなうたた寝の間だった、という「邯鄲一炊の夢」を彷彿とさせます。この映画は、夢の中の時間進行のスピード差を、サスペンスを盛り上げるためのトリックとして見事に使っています。

 その夢を司る主人公をレオナルド・ディカプリオ、夢の中にしか存在しない妻をマリオン・コティヤールが演じています。おっさんになっているのにビミョーに童顔のレオナルド・ディカプリオはまさに夢をスパイする男にうってつけ。そしてこの作品の禍々しいミューズというべきマリオン・コティヤールは、エンドロールで突如エディット・ピアフの「水に流して」(だと思う…)が流れるところから、重要な人物だということがわかります。なにしろ、マリオンが注目されたのは、数年前の『エディット・ピアフ』という伝記映画でしたから。実にドラマティックで悲惨な人生を送ったシャンソンの女王を、マリオンが鬼気迫る演技で演じていたのは、記憶に新しいところです。
 計画を遂行するためだけに飛行機会社まで買収しちゃうという、セレブでアグレッシブなサイトー役の渡辺謙も実にいい味出してるし、コブのチームの面子もそれぞれハマり役で、なんとも贅沢な映画です。相方は「これ観ちゃったら『○ア○ン○ー』なんて観に行く気がしなくなった」と言っています。まさに虚実の皮膜をめくるようなサスペンスとゴージャスな映像美。ナイト・シャマラン監督の、なんちゃってドラゴン・ボール系ファンタジーじゃねえ…たちうちできませんって。
冷たく愛して冷やしラーメン 7月29日 
 昔は大人しく、甘酸っぱい冷やし中華やつけ麺を食べたものだった。しかし、ある年、私は冷たいスープに冷たい麺を入れた、一杯の涼しい硝子の器に出遭ってしまったのだよ。それ以来、冷たいスープを口にしないと夏がやって来た気がしない、という性向になった、ただそれまでのこと。冷やし中華やつけ麺は、もはや必要とは思わない、ただそれまでのこと。

 その一杯は何だったか…池袋のサンシャイン近くにあった、今は亡き「ラーメン名作座」の一店、「福助」かもしれない。ここは山形ラーメンを東京に紹介した多摩の名店「天童」の支店だったかな。それは衝撃だった。「紅花冷やし」と名付けられたその一杯は、ググってみれば多分ひっかかるであろう、それはそれは美しい逸品だった。見た目も味も清涼感も申し分なし。
 この「福助」、2006年2月で閉店しているので、おそらくその前の年に食べたものだろう。画像は「ばぶのらーめん劇場」というサイトから勝手に頂戴したもので、誉められたことではないが、実食した時は残念ながら画像を残していなかったものでね。これまた勝手にリンクさせていただきまする。この店の跡地は、これまたグーグルアースしてみれば、更地になっとるがな〜。栄枯盛衰盛者必滅南無阿弥陀仏ラーメン食いたい…。
 ね、美しいでしょ?この一杯のせいで、この翌年辺りから、私と相方は夏が来れば冷やしラーメンを求めて、あちこち彷徨うようになったのである。主に、私がウワゴトのように「冷やし〜〜、冷やし〜〜」と呟いているのを、相方がフビンに思うからだろう。このままでわ、お菊さんのように硝子の皿を数えかねないしな。いっぱ〜い、には〜い、と…執念だね。

 今年も「あ〜〜、冷やし…いっぱ〜い、には〜い、食べてない…」と思わず言ってしまう季節になったのだね。激しかった梅雨は去り、猛暑が街にやってきた。日に数本のスポ・ドリ・ボトルを飲み干しても、熱中症の恐怖に怯え暮らす。そんな暑いアッツい夏が来た。
 さて、街のラーメン屋さんは、ブームでこそなけれ、ここ数年冷やしを出して喜ばせてくれる店がけっこうある。そんな訳で日曜ごとに我々は、冷たいラーメン啜りに、暑さをものともせず街へ出ている。暇を見つけては、週日にさえいってる。病膏肓である。
 んな訳で、ここ数回、食べた冷やしをご紹介することにした。ごっつう感心したところあり、まだまだ冷やし方が足らんてぃーのあり、色々だが、みなさん工夫をしている。いいことだ。生ぬるいつけ麺なんぞに負けるな。「痩せ蛙負けるな一茶ここにあり」の境地だ。
 さんざん無駄話で引っ張るのは相変わらずですが、まあ、そんなこんな、冷やし。

 まず大変気に入ったので、この夏中にも一回食べに行きたいと願っているのが、高円寺駅出たところの「ラーメン横丁」に入っている、「湯島天神下大喜 高円寺分店」の「辛味冷やしとりそば」。スバラシイ。完璧。しかも杯数限定ではない。いついってもある。これは奇跡だ。まじすか〜〜〜?
 本店は湯島天神近くの、行ったことないけど何度も前は通ったことある名店で(いーかげん行けよ(笑))、とりそばで有名。確かにさっぱりこくがありそうで旨そう、好みなカンジ。「冷やしとりそば」も夏の定番。ところがこの分店、それをさらにアレンジして、ピリ辛風味を加えている。夏はちょっぴり辛口がいい。お酒はぬるめの燗がいい(八代亜紀?)、ようにな。
 麺も仄かにピンクで、トンガラシンを練り込んであるが、やり過ぎではない。そして、ちょっぴり辣油の垂らされた、ジュレ状の冷たいスープがよい。「こうゆうのが食べたかった〜〜!」と小一時間叫びたい(過剰反応…)。
 上にはワンタンの皮をかりかりに揚げた薬味がてんこ盛り。これよ。このしゃりっとした爽快感。これはいい。他の具も旨いなあ…。

 さて、そんな数行ってる訳ではないが、次点として、文京区春日にある、「信濃神麺 烈士洵名」の「冷製パーコータンタン麺」。ここはテレビで紹介された「かき氷冷やし麺」を目当てに行ったのだが、そいつはなんてこたない甘酸っぱい冷やし中華のバリエーションで、私的には大いに盛り下がった。しかし、相方が頼んでいた「パーコータンタン麺」がばりうまで、目から鱗が落ちた次第。この日は都営三田線にイヂワルされて、冷房効き過ぎで自分が冷やしにされていて、危うくオナカピーピー(OPP)の状態だったのだが、これを食べて元気が出て、ハシゴも出来た。
 上に乗るパーコは台湾でも喰ったけど、まあ、デフォな旨さだね。でもこの坦々スープの冷たく濃厚なこと。まるで、胡麻とトンガラシンの入ったポタージュじゃ。途中から相方の器を奪って、じゅるじゅると完食してしまったがな〜。こういうのも好き(はあと)。
 気持ち悪いのでオッサンの(はあと)はなしだが、この「冷製パーコータンタン麺」は一日10食限定だそうだ。みなさん、三田線の冷房に負けず、走ってください。ただし大江戸線(春日駅)・丸の内線(後楽園駅)からも行けます。

after ↓
 ええい、テキスト長文ウザいけど、もう一杯おまけじゃ。毎年「冷やしえびそば」の「紀州梅冷やし」の「シトラスライムの風」の、と冷やしで工夫を凝らして楽しませてくれている、高田馬場の「二代目海老そば けいすけ」が今年も硝子の器を引っ張り出してやってくれました。
 その名も「冷やしラーメン 緑の豆乳と胡麻のエスプーマ」。え、えすぷーまってアンタ…。すっぺいんの三ツ星店「エル・ブジ」のフェラン・アドリア氏が開発した、画期的調理法だよね。あの世界一予約が取れないと言われているレストランの…。食材を、亜酸化窒素を使用した特殊なボンベでムースの泡状にして出す方法ですな。うーむ、そいつはなんとしても喰わねば。
 で、日曜の開店直後に行きましたがな。一日20食限定。こちらも貴重な限定品です。
 カウンターで待つ事しばし、二杯の硝子杯が並べられました。ここは普段の海老そばの器も斜めカットで、なんつうか、現代アートのようなたたずまい。硝子の器も斜めカット。一瞬、トイレの朝顔のようにも見えなくないが、そういうオロカな雑念は払うべし。
 その朝…いえ、ごほごほごほ…その器の中に、これまた、美術館で会った人だろ的に盛られた美々しい具!ここはほんとに美しい。行きつけの「麺や七彩」とここの盛り付けは、都美館に展示して飾って欲しい。
 具は夏野菜…オクラや茄子、南瓜など、そして、赤いレバ刺しみたいに見えるのが、近江生まれの赤こんにゃく。別にトンガラしているのでないけれど、見た目で選ばれたみたい。
 それを包み込む豆乳のスープが口当たり柔らかくて、すごくヘルスィ〜。〆た麺がそれに絡まって旨い…のだけれども、ここはひとつ、いっつも難点がある。全体的にぬるい…。厨房がわりと狭いのでそのせいかもしれないけれど、いまいち冷え具合がね…。ここは三田線並にギンギンに冷やしてくれい!
 さてくだんのえすぷーまだが、少し食べてからこれを入れて味を変えて下さいと、小皿に乗ったムース状のものを出される。半分くらい食してからこれを豆乳に投入すると(ああ、片腹痛いオヤヂギャグだぜ)、坦々麺ふうに変身。
 エスプーマに驚きつつ、具の南瓜をスープに潰して溶かし込んだら、もっと旨くなることを発見。夏野菜の恵みにいたく感心した。

 という訳で冷やしラーメンはまだ八月いっぱいあちこちで食べられたらいいね。あの幻となった「紅花冷やし」は、都心ではもう食することは出来ないのだが、各店、精一杯工夫を凝らして、冷たいラーメンを盛り上げてください。スープが冷えて歯に凍みるくらい行きま〜す。
書物の行方、電子書籍、そして「自炊」 7月7日 
 今年は電子書籍元年だとか。i-padやらKindleやら、ようわからんアルファベットのやからが発売されて、本は本屋で買うものでなく、ダウンロードして件の端末で読むものになるのだとか。ふーん、へーん、ほーん、と感心しない溜息を吐いておられる皆様も、さぞかし多かろうと思います。
 かく言う私も電子端末なんぞで小説を読むなんてもっての外、だいたい、電子書籍がキター!と騒ぐのは、本なぞまともに読まない連中が多いのも事実で、おまえら普段から本を読まないのに、電子になったからって読む訳ねーじゃん、この文○メ、と毒づいてしまうのです。読まないくせに騒ぐな、愚民(わ、ひどい言葉!)。でも私は、頭ごなしに電子書籍否定派ではないですね。
 まあ正直、本は、場所塞ぎの重量過多の整理不能の金食い虫の群れたがりの行方知らずになり易いので(本に関する罵詈雑言がすらすら出るのは、日々悩まされているから(笑))、こいつらが全部一枚のディスクにでも収まってくれたら、私の部屋がダンゼン広くなって、生活空間もすっきりして、人生バラ色になるかもしれんと思うことも度々ありますが、結局は、地震の度に本に圧死させられやしないかと、怯えて暮らすより他にないのですな。
 論文やレジュメ書いてて、突然アレを参考にしたい、と思ってもなかなかその本が見つからず、一晩本棚をひっくり返して探し回って、頭掻き毟ってヒステリー起こした揚句、翌日早々に図書館へとひと走り、なんて惨劇も度重なると、検索クリックしただけでその文章が読めるなんて夢のよう、と憧れずにはいられません。
 だから、電子書籍もデータの在り方としては、大いに賛成なのですが、でも自分で読む本は死ぬまで紙の本でしょう。紙の本の装丁の美しさ、紙の本の手触り、紙の本の重り、紙の新刊のにほひ…ああ、恍惚…。本って、内容とデータだけではないのですよ。この本好きの一番肝心要の気持ちがわからないと、電子書籍なんざ、ヒットも夢のまた夢だし、電子書籍にも未来はない。
 ところが最近、自分の手持ちの本を裁断してバラバラにして、それをスキャナで取り込んで、画像ファイルにして簡素化を図る人たちがいるそうです。この蔵書をぶっ壊すやり方を「自炊」と言うそうな。
 ををを!これはかつて私が見かけた恐ろしい「ばり読」(2001年10月20日の日記で書いた、って今調べた…)を凌駕する、驚愕の書物凌辱破壊行為!ああ、なんて破廉恥な行為かしら。羊や馬とS○Xするよりもハレンチよ、ジュリエット。
 サド侯爵様に意識を乗っ取られそうになりましたが気を取り直して、この「自炊」に関するブログを読んだのはここひと月以内の事ですが、既にそれがどこのブログだったのかもわからなくってアレなのですが(生理かボケか?)、ウィキせんせーの「自炊」の項目に、ネットスラングとして掲載されておりますので、もはや市民権を得た言葉なのでしょう。
 うーん、自分の大切な本たちをばらしてスキャンするなんてもっての外ですが、しかもこの「自炊」を自分の代わりにやってくれる会社もできたらしい。手持ちの本をそこに送って幾許払えば、背の所で断裁しスキャンして、データを送ってくれ、バラした本の亡骸は代わりに処分してくれるとか(シュレッダー行きね)。徹底して現実的ですごいけど、スキャン途中で失敗したらどーするんでしょうね。誰が責任とってくれるんだ?
 我が家にははっきり言って、愛書家垂涎のシロモノがかなりあります(さりげない自慢)。それをカバー剥ぎ取ってページをバラしてスキャンするなんて、可哀そうで仕方ありませんが、そういう「自炊」の人たちはバラして悔やむような、大した蔵書もないんでしょうね(あ、さりげなく喧嘩売ってる?)。
 その辺の揶揄はともかく、私もこの「自炊」の方法を読んで、はたと膝を打つことがありました。それは大量に蔵しているコピー。どこぞの国会図書館とかに通いつめて、あれこれ貴重な本や雑誌を、著作権法の許す限りコピーしまくった大量の用紙。これが、十年も経つと、トナーが色褪せて、書かれた文字が読めなくなるのです。ならば「自炊」してデータ化してディスクに残しておけば、日々薄れつつあるコピー文字と戦わなくてもよくなるのでわ?
 こんなことを思いついたら、余暇を全部使ってコピーをスキャンして自己満足しそうですね。なるほどこれが「自炊」の醍醐味かと。まあ、うちに大量にあるのは大概、単行本化されていない雑誌に載せっぱなしの小説が主で、これは作者と出版社双方の怠慢を責めたくもなりますが、この未曾有の出版不況下ですので、ますます埋もれる作品が増えるかもしれません。画像化したそれをコッソリこのHPに載せたり、なんてのはさすがに著作権法違反もいいところですが、それでもやはり、なんとかしないと埋もれる一方だしという危惧はかねてからあります。
 ましてや、電子書籍業界なぞ、今までの全書籍をダウンロード可能なデータ化にできる訳もないし、売れないもの知名度が低いものはまるきり無視されてしまうでしょう。出版業界の未来は明るくない…。読者一人一人が自衛(それとも自炊?)しないと、という時代になりつつあるようです。私なりの意見…自分で電子書籍を買うのはイヤだけど、図書館やデータベースがデジタルデータをフル活用させてくれるのは諸手を挙げて賛成。でも、本を読むのにi-padやKindleは要らん。そういうことです。
P・D・ジェイムズ再読計画の続き 7月4日 
 P・D・ジェイムズ再読も『灯台』を残すのみとなり、新作『秘密』が待ち受けているが、改めて最近ネットと早川ミステリマガジンで、意気軒昂なジェイムズ女史の近況を知ることが出来た。英国の国営放送BBCの役員報酬の不透明な部分について、テレビでお偉いさんをやっつけたらしいのだ。BBCったら、受信料を強制的に徴収するのは日本のNHKと一緒で、かつ、大スターだの謎の役員だのに不明瞭な出費をしているのも一緒かも。そこをジェイムズにピシリと言われたらしい。国民大喝采。
 ジェイムズの作風は高級官僚のインサイダー世界をちらちらと見せる事が多いので、ともすれば、一般庶民と乖離した雲上の話かと思われがちだが、いつも底辺に流れているのは、居所なしのアウトサイダーの悲哀である。世俗から一歩退いた時代遅れの世界が描かれることが多いのも、そういう現代社会に馴染めない人たちの拠り所を舞台に選んでいるからだ。
 最近読んだ『神学校の死』の聖アンセルムス神学校など、国教会内で「仕分け」の対象にされて、存続は風前の灯火という施設である。そこで起きた生徒の怪死。『殺人展示室』もまた、時代遅れのデュペイン博物館の存続に絡む理事殺しが描かれる。
 時代から取り残された者の悲哀。老境に至ったジェイムズが好んで描くテーマとしては、これ以上相応しいものはないようにも思われるが、その一方で主人公ダルグリッシュの壮年の恋が語られる。これをジェイムズの敬愛するドロシイ・L・セイヤーズにおける、ピーター卿とハリエットの恋愛になぞらえるのは普通だ。ピーター卿シリーズ第5作『毒を食らわば』(1930)で初登場した女流探偵作家ハリエットと、ダルグリッシュ警視長シリーズ第11作『神学校の死』(2001)で登場した大学講師のエマに、同じニオイを嗅いだ読者も多いと思われる。老残の悲哀と、新しい恋愛の対比。これがここのところのジェイムズ作品を支える原動力になっているのは確かだろう。
 あと一息の全作品読破計画、そろそろラスト・スパートと行きたいところだが、なにせ、80歳代になっても堅牢な作りの重厚な作品は相変わらずで、読み始めるのに普通以上の助走が必要だ。でも楽しい。