『内部の真実』のシンボル・玉蘭 6月4日 
 この日曜に、台湾旅行より帰ってきました。台北に3泊したので、基隆郊外の九■[イ分]以外は地方には行きませんでした。台北での楽しみは夜市に食べ歩きと色々ありましたが、私は今回初海外の地に台北を選んだ動機のひとつが、日影丈吉の名作『内部の真実』の象徴である「玉蘭」を尋ねる、というもの。鞄に『内部』の教養文庫を投げ入れて、相方に迷惑をかけつつ、思いを遂げてまいりました。紀行文は特別編でおいおいまたお目にかける所存ですが、こちらは幻想文学紀行です。
 日影が三十代半ばで召集され台湾に配属されたのは、今から66年前、昭和19年のこと。それから21年に復員するまで、日影は台湾に留まりました。たかだか3年弱の滞在ですが、のちに41歳で遅いデビューを遂げた直後から、ぽつりぽつりと台湾ものを発表し、絶筆『黄■[服鳥]楼』に至るまで生涯この島を書き続けました。長編もこの『内部』ともうひとつ、台湾南部を舞台にした『応家の人々』があります。作家にとって第二の故郷とも呼ぶべき地だったのですね。
 その日影が「私の処女長編」(エッセイ「華麗島の花」)と呼ぶ『内部の真実』は、昭和34年12月、講談社の書き下ろし叢書の一冊として刊行されました。この叢書は他に鮎川哲也の『憎悪の化石』、高木彬光の『死神の座』、佐野洋の『脳波の誘い』などを含むもので、全12冊のうち半分は純文学作家が畑違いの推理作品を書き下ろす、というコンセプトのもので(鮎川『憎悪の化石』長編全集版後書による)、日影長編もそういった純文学的結実を視野に入れて書かれた可能性があります。それだけにこの『内部の真実』は、本格推理としてのみならず、人間心理を巡る深い洞察を含んだ第一級の小説なのです。日影のビブリオグラフィーではこの作品は第3長編なのですが、ほぼ同時刊行の『真赤な子犬』にしろ、処女作『見なれぬ顔』にしろ、本人としては意に満たない作品だったようで、だからこそ、この『内部』に込められた彼の決意が分かろうかというものです。
 『内部』は「新竹州桃源街」に駐屯する憲兵隊の兵士の間で起こった、突発的な殺人事件を描いています。この「新竹州桃源街」という町にはモデルがあり、それは、現在、台湾の海外からの窓口となっている台湾桃園国際空港(旧名・中正国際空港、2006年に改名)のある桃園縣桃園市です。現在の桃園は鄙びた田舎町ではなく、空港の城下町として発展を遂げていますが、ほんの60数年前には事件の全てを覆い尽くすような、真の闇の迫る田舎でした。日影の年譜ではたしかに、この桃園に駐屯した経験があったようです。
 憲兵隊の曹長が部下の一等兵と、女を巡ってこともあろうに決闘をしようとしたが、何故か一等兵は闇の中から頭を殴り倒され、玉蘭匂う中庭で曹長は何者かに射殺されたという、怪事件。それを報告している軍曹の手記で話が進んでゆくのですが、捜査班の逮捕する容疑者は、決闘相手の一等兵から、決闘の原因となった本島人の美女、そして手記を認める軍曹自身と、二転三転します。それぞれが誰かをかばっているのか罪を認める告白をするのですが、いったいどの告白が真実なのか、闇に紛れて曹長を殺したのは誰なのか、全てを知っているのは、闇の中庭で咲き誇る玉蘭の花だけ…。この玉蘭のイメージは全編を覆うモチーフとなって、亜熱帯の皐月闇の恐ろしさをひしひしと読者に訴えてきます。ミステリとしての味わいの点でも、真犯人すらやがて自分の犯行と思わなくなるという、展開のあやにくが、余りにも面白く恐ろしいです。
 事件の発生したのは19年5月の設定で、ちょうど私が今回訪台したのと奇しくも同じ季節。私もその玉蘭に妖しく酔い痴れてみたい、と思って色々手をつくしたのですが、いかんせん、植物学上の研究が為されるような貴重種ではなく、民間の人に愛される民俗の花だったので、逆に植物園に特別展示とかされていなくて、カタコトの漢語で探すのは難物でした。そんな中、名物の胡椒餅を目当てに訪れた台北市萬華区の龍山寺の門前で、私たちは、濃厚に香る紅白の花を針金でまとめている花売りたちに出逢いました。紅いのはありふれた蘭ですが、白い細長い花弁のほうが濃密な薫り。まさかコレ?花売りに聞いてもはっきりと言葉がわからないので、歯がゆい思いで少々私は不機嫌になってしまいました。ああ、ここが日本ならすぐに調べがつくのになあ…。直前に訪れた植物園でも、折りからの雨に打たれて、花たちはみんな地面に落ちていたので、確かめようもなく、ただ、ネットで調べた「木蘭(ムーラン)科」というのを手掛かりに探したのでした。木蘭とは日本の木蓮のことです。
 なんだか実体の掴めなさは、島の人たちの見せるアルカイック・スマイルのようで、玉蘭を尋ねれば尋ねるほど、闇の中に香りだけが残されるような心許なさに怯えました。天候は滞在した4日間というもの大変な多湿で、佇んでいるだけで顔に滝のように汗か霧の雫が流れ、随分と体力を消耗しました。これでは梅雨時の沖縄の天候など、まだかわいいものです。
 お腹がふくれてホテルに帰ると、相方はたちまち寝てしまいますが、寝付きが悪い私は、毎夜ひとしきり『内部』を読み返していました。この小説は確かに読み返すたびになんらかの発見があるので、凡百のミステリと同じように扱うのは危険だな、と感じました。ストーリーにも大きな仕掛けがあり、それははからずも、手記の語り手が命を賭して仕掛けたレッド・ヘリングであり、作家自身の隠された自画像すら仄見える陰画です。こんな贅沢な小説ですが、小説に対する目が養われていない人々の前にぽんと投げ出されても、なかなか正しい評価は得られないでしょう。幻想文学の隠れた逸品として心ある人だけに愛されてきたのも、むべなるかな。
 日本に帰ってきて改めて調べてみると、あの龍山寺で売っていた白い細長い花弁が、まさしく玉蘭だったと判明。日本ではギンコウボク(銀厚朴)の名で知られ、沖縄や奄美でも見られる植物だとか。これが日影の言う玉蘭と、確証を得られぬまま探し歩いた短い日々は、台湾の温気の中にゆらめいた幻だったような気がします。
『アリス・イン・半端ーランド』 4月23日 
 ティム・バートン監督の最新作『アリス・イン・ワンダーランド』を観てきました。19歳になったアリスが、人生の岐路に立たされて逃げ出したら、またウサギの穴に落っこちる、という発端です。
 バートンは前作『スウィーニー・トッド』に引き続きイギリスものですが、どうなんだろう?私ははっきり言ってイマイチでした。バートンならではの「はぐれもの」への愛情が薄い、というか、人物背景の掘り下げが足りない感じ。
 もとがルイス・キャロルの童話『不思議の国のアリス』&『鏡の国のアリス』なんですが、そこからキャラクターを借りただけ、という気がしないでもないし、原作のオイシイ挿話だけを繋ぎ合わせたパッチワークにしか見えませんでした。なにもかも中途半端のハンパーランドでした。
 しかも3D映画なのでムリクリ戦闘シーンを入れたかったのか、ラストが怪物ジャバウォッキーと「剣士アリス」の一騎打ち。ここに至ってはもう、脱力するよりほかありませんね。原作ではジャバウォッキーは聖なる怪物です。それを、首をはねちゃいけませんなあ。
 バカ殿メイクの監督夫人がCGの赤の女王「デカヘッド」役ですが、本来のバートンならこういう嫌われ者の役どころの孤独感をうまく描写するでしょうに、いとも簡単にスルーして、最後にとってもヒドイ仕打ち。勧善懲悪の当たり障りのない映画となってしまいました。
 ところでバートンのアングロマニヤはいつから芽生えたのか気になっていたのですが、どうやらこの現在の奥さんの影響大のようです。奥さんのヘレナ・ボナム=カーターはひいじいさんが元首相のアスキス伯爵という上流階級出身で、バートンは彼女と同居するようになって以来、英国風味を増してきたようです。
 そもそもバートンの持ち味は、スティーヴン・キングに通ずるアメリカの少年マインドというか、アメリカン・オタクの権化だったのですが、アメリカ南部ゴシックにも目を配りつつ、『バットマン』や『スリーピー・ホロウ』を作っていたのです。でも『チャーリーとチョコレート工場』あたりから英国を意識することが多くなり、結果、次回作もロンドンで撮影の吸血鬼映画『血の唇』のリメイクだそうです。
 相方は以前から、バートンが『ハックルベリー・フィン』とか撮らないものか、と言っていますが、どうでしょう、現在のイギリスかぶれのバートンは撮らないでしょうね。でも、方向転換してまたアメリカン・チェリー・ボーイな作品を撮るとも限らないけどね。
 『アリス』については、あんまり言うことがないのですが、ディズニーが絡んでいなければ、もっとはっちゃけた映画になったかなあ、とそれだけが残念です。時間も100分ちょいと短いし、3Dばかり注目されてもねえ。ネズミー・ランドの新しいアトラクションの宣伝としかいいようがない。バートンも古巣ディズニーと組んで、果たしてよかったのかなあ。
 それでもあのキャロルの原作のキャラクターたちをCG駆使して見事に映像化したのは、さすがと言いたい。吉外帽子屋のジョニー・デップが意外と吉外ではなかったのがもったいないです。マッド・ハッターは全世界のミステリ・ファンに愛されるキャラですから、もっとぶっとんでほしかったなあ。あとバートン映画のお馴染みさんたちが声優で出ていたのもよかった。芋虫長老がアラン・“スネイプ先生”・リックマンだし、チェシャ猫がスティーブン・“ジーヴス”・フライ。クリストファー・リーがジャバウォッキーの声って…しゃべる場面あったっけ?
 最後に、芋虫のアブソレムが、アンダーランドでは死んで蛹と化し、転生して実存の世界で蝶になってアリスと再会する場面が、なんだか『コープス・ブライド』の最後の蝶の場面とオーバーラップして、ああ、これがバートンの死生観だと思いました。
サクラは鍋かお花見か 4月7日 
 もうそろそろ花見も盛りを過ぎた頃ですが、さる日曜日にお花見に行ってきました。まあどっちがメインかわからんのですが、花見ついでに桜鍋を食す、という次第。♪さくら〜さくら〜いつまでま〜ってもこぬひとと〜(坂本冬美ですね)
 お七も吉三と水茶屋かなんぞに行く前に食べたかもしれない、どこぞが元気になる馬の肉ですが、ここは吉原大門、日本堤の土手通り。とある老舗の桜鍋屋を訪れたわたくしたちです。隣の天婦羅屋はすごい行列でしたが、こちらもちらほらと数人の列。皆さんお目当ては限定30食というランチ。我々も3組目くらいで余裕でした。
 柱や欄間が飴色になった、老舗らしい座敷にあがると、オーダー。鍋を堪能しようと、あえて他のサクラ料理がついていないランチを頼みました。でもそれでは寂しいと、相方がバラ肉の馬刺しを注文。
 で、先にお酒と馬刺しが来たのですが、お皿の上に肉が4枚きり。なんという貴重なお肉でしょうか。値段はあえて書きませんが、一枚あたり4○0円でございます。ぶひぶひ。ありがたや、ありがたや。
 山葵を鮫皮でおろして、上にのっけていただきました。確かにうまいよ。脂身のとこが舌の上で溶けるし。でも最近我々は、かのドロンズ石本氏がオーナーの「馬肉屋たけし」にちょくちょくお邪魔していますので、どーしても比べちゃう。
 値段は石本さんとこのほうが、良心的かもしれませんね。いえいえ、こちらの老舗は、それだけではないのですよ。明治38年創業というお店の、江戸を感じさせる佇まい、粋な吉原の残り香を味わいに来ているのですから、値段なんてヤボなこと言ってたら、吉原の太夫に笑われますぜ。
 そうなのです。こちらの老舗は京都の古刹の如く「拝観料」がコミなのです!
 だとしたら、安けりゃいーってもんぢゃありませんなあ。ここはひとつ、豪気に刺身をたいらげてだね、次にやってくる桜鍋をガーっとかっこんで食らう。そうすりゃ、口内天国間違いない…。
 したら〜、すごいかわいい鉄鍋に肉がちょろっと突っ込まれて、割り下とともに運ばれてきました。ここでもかなりの貴重さです。そりゃ、お馬さんだってそうそうご馳走に化けるために飼われていないでしょうし、ギューだのトンだのみたいに一山いくらでは売ってないでしょう。だから貴重なのよ、と自分に言い聞かせるわたくしたち。
 まあ最初から据えてあるコンロのかわいらしさから、だいたい量の予想はついていたのですが、バラとロースと二人前入っているはずなのに、これなら吉牛の特盛のほうが多いかも〜。
 ♪この鍋は〜いつか見た鍋〜、ああ〜そ〜だよ〜、どぜう鍋でも〜どぜう煮ていた〜〜〜(山田耕筰メロディでどうぞ)。まさにあの「駒形どぜう」でどぜうが行儀よく並んでいた鉄鍋です。
 ザク(「ガ○ダムの?」とボケて相方に無視されました)とお麩と白滝とトーフのごーか四点セットがついて、これをちまちまと煮ながら食します。味は文句はないです。さすが老舗、割り下の具合が辛目でグッド。蕎麦つゆとおんなじ辛口で、江戸っ子だね!甘くないのでわたし好みです。
 量がアレなのであっという間に完食まぢか、そろそろ「あとごはん」でシメようかとすると、仲居さんがやってきて「あとごはん」は、トーフと麩を鍋でぐちゃぐちゃにして卵でとじ、ごはんにぶっかけるものと判明しました。ドスの効いた声で「菜っ葉を食べちゃってください」と言われましたです。すいません、ちまちま残していたわたくしがいけないの。だって〜、お鍋の上がさみしくなるんだもん!
 親子丼の肉抜きのようなものを、ごはんにぶっかけて食すと、ちょうどほどよくお櫃も空になり、ごちそうさま。ここでご飯のおかわりを頼もうものなら、「とんかつ屋でも行ってください」とか言われそうです。すいません、ひとえにわたしが、おおぐらいなのがいけないんです。馬肉は精力がつくのでこれくらいがちょーどいーんです。でないと、店を出たところでナニをまろびだして、ストリーキングしちゃう御仁が出てくるからね。これくらいでちょーどいいの…と言い聞かせるわたくしたち。
 カード払いの機械があるのに、カードはダメと言われて相方が何か言いたそうにしていましたが、とりあえず気持ちよく店を出てから、思わず口をつく言葉たち…。
 「ナニ、アレ、仲居さん、怖っ!」
 「あれって吉原の遊女を取り仕切る人が憑いてるよね」
 「遣り手婆のこと?」
 「そうそう」
 「あそこの仲居さん、遣り手婆が憑いてるんだ。どーりで折檻しなれてるわ〜〜」
 「しかも量すくなっ!隣の天丼食える〜〜」
 隣の天丼は、はなぢが出るくらい、ものすごい行列が出来てたので、あきらめました。
 「それに、限定のランチが終わりましたって張り紙出てるけど、30人も客いたか?」
 「西原理恵子なら暴れてるよな〜」(いや、『恨ミシュラン』で悪口さんざん言われるだろうけど…)
 いろいろとわる○ちのタネは尽きない感じでしたが、老舗の貫禄にがぶり寄られて負けたってことです。このあと、ヤリテババアが肩に乗っかっていると怖いので、三ノ輪駅前の浄閑寺の、吉原総霊塔にお参りしておきました。
 さて、かんじんのサクラのほうですが、例年なら我々は新宿御苑で優雅な花見をしているのですが、場所柄近場でもあり、上野公園に行ってみました。国際子ども図書館とか美術館とかコンサートホールとかあるので、わたしはちょくちょく来ているのですが、相方はあんまり馴染みがないらしい。わたしも花見時は初めて。
 で…一言で言うなら…カオス…。カオスついでに言っとくけど、公園内の東照宮に詣でようとして、人の波に漂っていること約10分、よく見りゃ、フェンスに絵を描いた東照宮でした。こんなかきいれどきに改修中とか。それにしても遠目には絶対わからんて。
 あまりのリアルさに騙されてそばまで行ってしまいましたが、ちょっとたちが悪いです。
 公園内はものすげえ人。1メートル歩くのすらままならぬ。しかも桜見てるのか見てないのか、ありとあらゆるところにビニールシートの座敷が出来ていて、このくそ寒いのに、冷えたビールで「寒波い」。おお、寒っ!
 ここ数日の寒さにもかかわらず、ソメイヨシノは見事に咲いていました。わたくしたちも周囲に負けじと、ウチの近所の駅のスーパーで購入して持参した、チーズとワインで花見の宴をしたのでした。でも人ごみにあてられてぐったりしました。
 来年はいつもの新宿御苑で、ゆーがに花でも愛でようかと言いながら、帰途に着いたのでした。
クロフツ最後の未訳作、翻訳刊行 3月25日 
 これでクリスティー、クイーン、カー、ヴァン・ダイン、クロフツ、という5大本格作家の作品が全部訳されたことになります。ということでまとこに慶賀の至りですが、思い起こせば、カーの『ヴードゥーの悪魔』もなかなか翻訳されなくて、「失敗作だろう」とか、「面白くないんじゃないか」とか、憶測を呼んだものですが、出てみれば、いつものカーで、大変面白く楽しめたものです。クロフツも2作ほど長編が残されていて、その片割れの、『フレンチ警部と漂う死体』が論創社から出たのが、かれこれ2004年のこと。長かったなあ。
 『フレンチ警部と毒蛇の謎』は創元推理文庫から刊行されたのですが、これも1985年刊行の『シグニット号の死』訳者あとがきで予告されてから25年!長いよ〜、創元さん。まあ、よく「出す出す詐欺」などと言われる創元が、四半世紀の約束を守ってくれたなんて、感動的ではありませんか。
 左はクロフツ全作積み上げ状態。なんだか超レア作品『フレンチ警視最初の事件』『列車の死』なんかも、もちらちらと見えてますね。ふふふのふ。
 さてその『毒蛇の謎』は倒叙推理なのですが、主犯ではない人物の視点で進行するという珍しいパターン。『クロイドン発12時30分』や『二重の悲劇』など、倒叙の傑作をものしたクロフツならではの、倒叙の新機軸を狙った作品です。まだ私も読んでいないので、評価はこれからですが、決して駄作なので翻訳が取り残されていた訳ではないようです。
P・D・ジェイムズとイースト・アングリア 2月19日 
 ひと月の間になんとP・D・ジェイムズの長編を6作品(『黒い塔』『わが職業は死』『罪なき血』『皮膚の下の頭蓋骨』『死の味』『策謀と欲望』)も読んでしまった。昨年とは打って変わった読書量である。
 まとめて読んでみると、今まで三十年にわたってぽつぽつと読んできたために見えてこなかった、ジェイムズとある英国地方との蜜月ぶりが理解できた。その地方とは「イースト・アングリア」、イングランド東部地方である。厳密にはブリテン島の中下部に、北海と英仏海峡の境辺りに飛び出したダンゴ状の半島を指す。ノーフォーク州、サフォーク州、エセックス州の三つの州が含まれる。そこに隣接するケンブリッジシャー州の東部も含めると、完璧。
 なぜに突然英国の地理などに目覚めたかと言うと、最近、英国の詳細なロードマップ(輸入物)を手に入れたので、ジェイムズ作品片手に英国地図を堪能しているのだ。地図マニヤの私としては、遅きに失した感もあるが、意外と英国の地理って日本人には遠い存在かもしれない。イングランドだけでも47の州があって、日本の県と同じくそれぞれの州の地方性が際立っているので、実は英国文学を読むときは看過してはならない重要点なのである(あるいは「ケンミン・ショー」的な下世話な興味も持てる)。
 ジェイムズはオックスフォード生まれ、というアタマで長年読んできたので、うっかりとこのイースト・アングリアとの縁を見過ごしてきたが、ふと顧みれば、処女作の『女の顔を覆え』(サフォーク州内陸部)以来、『不自然な死体』(サフォーク州海岸)、『女には向かない職業』(ケンブリッジ)、『わが職業は死』(ケンブリッジシャー州東部沼沢地方)、『策謀と欲望』(ノーフォーク州海岸)、『正義』後半(イースト・アングリア各地)、『神学校の死』(サフォーク州)、と7作品もこの地方を取り上げている。
 スコットランドヤードの警視長、アダム・ダルグリッシュが自慢の愛車ジャガー(おお、英国! 王室御用達!)を操って、これらの地方を駆け巡る。架空の村や地域を描いているのに、そこに行くまでの描写が実際に即して細かいこと。地図の上で大体見当がつく。
 決して数が多いとは言えないジェイムズ作品の、実に7作までもが舞台とするイースト・アングリアだが、そのノーフォーク州の州都ノリッジに、イースト・アングリア・テレビというローカル局があって、実は、ダルグリッシュ警部シリーズのドラマを制作しているのがここの局。英国人なら充分、ジェイムズと東部地方との深い縁を知っているという訳だ。
 このドラマは日本ではVHSビデオ発売のみで、現在はレンタルで借りるのも難儀な代物だが、『女の顔を覆え』から『正義』までのダルグリッシュもの全10作をかなりの長尺で撮った、渋い佳作なのだそう。ロイ・マースデンというロイヤル・シアター出身の長身の俳優さんが「詩人のアダム」((C)瀬戸川猛資)を演じている。
 他に英国東部地方が舞台と言えば、カーター・ディクスン名義の第1作目『弓弦城殺人事件』(残念ながらHM卿は登場しない)が、サフォークの海岸近くの古城を舞台にしている。それと、サスペンスの名匠アンドリュウ・ガーヴの『遠い砂』(ノーフォーク)や『カックー線事件』(エセックス)などが、この地方を舞台にしている。そして何より、ジェイムズが師と仰ぐ巨匠ドロシー・L・セイヤーズの名作『ナイン・テイラーズ』。「フェンズ」すなわち、沼沢地帯が舞台で、クライマックスで大洪水に見舞われるのだったな。他にもあるかもしれないが、今思いつくのはこんなところ。
 おお、そうだ、イースト・アングリアといえば、ブラウン神父を忘れてはいけない。南部サセックスの出身で「ノーフォークの団子のような鼻」を持つイギリス庶民の代表選手だ。そう言えば、ダルグリッシュの父親もノーフォークの牧師という設定だし、英国地方人の、一見封建的な体質を表しているのだろうか。
 ジェイムズの作品をかくも短期間にまとめて読んで、いささか中毒気味だが、『原罪』以降の間延びした作風は読み返して辛いかもしれない。若干お年を感じてしまう感も否めないが、それでも最後におん年88歳の作『秘密』が控えている。心して読まねば。先が楽しみだ。

3.18追記 その後、『人類の子供たち』『原罪』と読み進んだが、さすがに飽…、いえ、ちょっとひと休み。
最近読んだ本の感想など 1月24日 
 もう1月も終わりごろになっているので、年始の挨拶もマヌケなのでいたしませんが、今年最初の日記(と言い張る?)です。最近は、読書生活のリハビリ中です。去年の8月以降、月に一冊ずつP・D・ジェイムズの作品を発表順に読んだり、正月からディクスン・カーのバンコランもの4部作を読んだり、主に英国系を読んでいます。アングロマニアだからね。
 正月に読んだ『夜歩く』『絞首台の謎』『髑髏城』『蝋人形館の殺人』は、純粋に面白かった。もう何年も再読していなかったのに、結構覚えているところがあったけど、そんなの気にならない。活劇的な味が濃くて、好きです。唯一ポケミスの、悪訳で名高い『蝋人形館』だって、楽しくてもう…。
 昨日読み終えたのはジェイムズの『黒い塔』。もちろんポケミスで。そうこうしているうちに、来月、ジェイムズの新作が翻訳されるとかで、いささか焦っています。でもひと月にジェイムズは一冊以上は服用ムリ!重厚すぎ。でもそこがいい。かつて故・瀬戸川猛資氏が『夜明けの睡魔』(現・創元ライブラリ文庫)でジェイムズを取り上げたとき、ジェイムズ長編を読むコツみたいなのを伝授していたが、本当に、コツが必要です。
 ただ昔は気にならなかった、故・小泉喜美子氏の訳文の間違いが目に付きました。十代の初読の頃には知らなかったけど、この作品、「文豪トマス・ハーディの国」とも言える英国南西部・ドーセット州の海岸が舞台で、インテリのダルグリッシュ警視はちゃーんと、旅に出るとき、ハーディの長編『帰郷(Return of the Native)』を携えています。が、小泉氏はそこを「ハーディの詩集『原住民の帰還』」なんて訳してて、まあ…。英国作品訳しててハーディの代表作も知らんかったんかね。
 小泉氏のオリジナル作品はうちのHPでもページを設けているくらいで、まことに素晴らしいのですが、こと訳本に関しては、教養のなさがもろばれな訳が多くて、残念なことです。彼女の翻訳に対する態度、ミステリ観に関してはブレがあるというか、どうしても好きでないタイプの作品を訳したり文庫の解説を書いたりしなければならないときの苦衷が偲ばれます。彼女が心底楽しんで翻訳できたのは、クレイグ・ライスか憧れのチャンドラーぐらいだったのではないでしょうか。英国のヤーなオバサンたちの作品、ジェイムズとかレンデルとかは、辛かったのでは。
 いっぽう、そんなヤーなオバサンたちの小説が大好きな当方としましては、特にジェイムズのような、彼我での評価が全く正反対の作家については、もっと読んで欲しいと思うのですが、最近の二三作と、かわいい女探偵、コーデリア・グレイものの『女には向かない職業』『皮膚の下の頭蓋骨』以外は絶版という、きびしい状況では何をかいわんや。
 初期の三作を経て『ナイチンゲールの屍衣』で開花した、こってりとした描写が、『女には』を挟んだこの『黒い塔』では大全開。私設長期療養所という、ゆきどまりの場所で繰り広げられる、絶望的な人間関係の摩擦が、これでもかと展開して、これは、ほんと軽いものしか読まない・読めない人には、辛いでしょうね。でも古今東西の文学のいろんなタイプの文章を読んでいれば、これしきのもの、たいしたことないはずですよ。読書のスキルが絶望的に下がってしまった10年代の読書界には、ムリなのでしょうけれど。
 なんだか読書力のない人を見下して喜ぶていの文章になってしまいましたが、それもこれも、愛書家ゆえの絶望的なアピールだと思ってください。こうでもして挑発したところで、もう手遅れになりつつあるのです。本は読まれなくなり、雑誌はつぶれ、活字の本はキンドルに取って代わられ、時代遅れのメディアとなった書物は、愛書家とともに炎で焼かれるしかありませんな。ブラッドベリの『華氏451度』のように。まあそうなったら私のこともぜひとも山のような蔵書のタキツケに使っていただきたいもんです。よく燃えるぜ(笑)。
 のっけからこんな暗い日記になったのも、もしかするとジェイムズのせいか?