ポランスキー監督新作『ゴーストライター』 9月7日
 ベルリン映画祭銀熊賞、セザール賞監督賞に輝く、ロマン・ポランスキー監督の新作『ゴーストライター』を観てきた。ロバート・ハリスの原作は二年前に邦訳されていて(『ゴーストライター』邦訳・講談社文庫)、とっくの昔に堪能済みだったが、その頃この日記でポランスキーの逮捕を報じている。2009年9月29日の「笹まくらとポランスキー」がそれだ。それ以来この新作は、いつ日本で封切られるのかお蔵入りなのか、ずっとヤキモキさせられたが、ポランスキーは保釈され、映画も何とか封切られて、感無量である。

 原作者と監督が膝詰めで脚本を書いたようで、原作に敬意を払った仕上がりとなっていた。原作は政治スリラーで、英国元首相の自叙伝のゴーストとして雇われた男が、前任者の謎の死や元首相の戦争犯罪、そして、英米の国家間の由々しき陰謀に巻き込まれていくストーリー。元首相の滞在する、米国北東部の真冬の避暑地の島に閉じ籠められ、追い詰められてゆく話なのだ。

 原作を読んだ時、なんとポランスキー好みの作品、と思ったもんだが、それもそのはず、当初ポランスキーは、ハリスの前作『ポンペイの四日間』(邦訳・ハヤカワ文庫)の映画化を希望していて、その制作にハリスもかかわっていて、この歴史大作企画が頓挫した時、その代わりにとハリスが書きあげた新作がこれだったのだ。実は原作が、ポランスキーの影響下に書かれたものだった。

 閉ざされたコミュニティ、閉ざされた空間、キュル=ド=サックな、閉所恐怖症的作風がポランスキーのオハコなので、まさにハリスの原作は、そんなポランスキーの過去の監督作へのオマージュに満ちていた。しかもハリス自身、かつて、英国首相だったトニー・ブレアのブレインを務めたことがあり、原作の「元首相」はブレアのことかと、スキャンダラスに取り沙汰されたものだ。

 原作の大部分の舞台となった「島」は、マサチューセッツ沖合の「マーサズ・ヴィンヤード島」で、ここは米国の大セレブ、ケネディ一家のスキャンダルに満ちた場所だ。1969年、上院議員だった四男エドワードが飲酒運転で車を水没させ、愛人を見殺しにした「チャパキディック事件」や、1999年、JFKの長男と妻が自家用飛行機で事故死したりと、何かとお騒がせな舞台だ。セレブリティのための避暑地も冬ともなると、まさに過去のゴーストの天下である。西洋では冬は怪談の季節だしね。陰鬱な曇り空ばかりの映像が、印象的な映画だ。

 そんな色んな意味でツボな作品だが、ポランスキーは米国の地を踏むことなく、ドイツ北部の島と、ベルリン市内だけで撮り上げた。だからスクリーンの中では無国籍に「島」とだけしか語られない。ご存知の通り、ポランスキーが米国に一歩でも足を踏み入れたら、即タイーホされるような状況だったからだ。ある意味、米国とハリウッドの犠牲になり続けた日々を、30年以上に亙って被ってきたポランスキーなので、この英米へのキッツイ皮肉の効いた作品は、ついつい観る者をしてニヤニヤさせてしまう。そんな私的怨念もこもった一本なのだ。

 原作もそうだが、主人公の「ゴースト」君には名前がない。有名人の名前の裏に隠れ日の目を浴びないゴーストライターは、文字通り名前がない。場違いな政治の裏側に足を踏み込んで苦しむ、この名無しのゴースト君をユアン・マグレガーが魅力的に演じている。映画の中に、英国人らしい控え目なユーモアを盛り込むのにうってつけ。同時に、この悲笑的ユーモアは、苦労人ポランスキーの持ち味でもある。彼は昔インタヴューで、「どんな悲劇的で悲惨な状況に遭っても、つい笑いを求めてしまう」と言っているし。

 そして、ピアース・ブロスナン演じる、演技的人格たっぷりの元首相も、実に可笑しい。私立探偵レミントン某やスパイのボンド君から始まって英国元首相ったあ、大した出世だね。そして元首相の妻と秘書役の女優たちも素晴らしい。主人公のゴースト君と元首相をめぐる、彼女たちの対照的なたたずまいが、映画にピリッと緊張感を与えているし、そのやりとりはまさに、オトナの世界だね。中年男女しか出てこない映画ってのも、なかなかいいです。やはりポランスキーは、子供向けロリポップではない、オトナのエンターテイメントだ。映画館の客層もかなり渋めだしね。皆さん、目の付けどころがよろしくってよ。

 登場人物たち…異邦アメリカに滞在するイギリス人たちの悲喜劇は、荒唐無稽なポリティカル・スリラーに、人間味を与えている。ヒッチコック的な作品と評されることが多い今作だが、そもそもヒッチだってアメリカで活躍した英国人、英国要素たんまりである。ポランスキーは以前にもヒッチコックに対するオマージュ『フランティック』を撮っているが、ただしパリの街とハリソン・フォードの取り合わせのせいで、ピチピチしたケレン味に溢れていた『フランティック』や、ロス・マクドナルド的な、血族テーマ・ハードボイルドの持つ、陰惨なエロスが仄めかされる『チャイナタウン』に比べると、今作は大変あっさりとしていて、堅実だ。唯一、ラスト・シーンのキョーレツなシニカルさ以外は…。

 この唐突なラストは、大国の秘密機関の持つ、不気味さ・グロテスクさを出そうとしているのだろう。絶対人権擁護と口では言いながら、テロの容疑者(ないし淫行の容疑者)を他国の領土で逮捕する暴虐を曝すような大国の怖さだ。この映画の編集時期に、スイスの映画祭に招かれて、大国に使嗾されたスイス当局によって拘束されたポランスキーの立場は、まさにグロテスクなくらい映画の中の事象と一致する。怖いくらいだ。

 また、作中の元首相の置かれた「アメリカを一歩でも出ると逮捕される」状況って、「アメリカに一歩でも入ると逮捕される」ポランスキーのかつての状況の見事なネガだと感じた。他国の政治に容喙する大国を最終的に悪役にしたこの映画、まさにポランスキーからの、大国に対する宣戦布告だよね。そりゃ小憎らしくて逮捕したくなるのも納得。なんだか映画制作の裏側までもがシンクロしていて、妙に面白い一本だった。この映画がヨーロッパで賞をぶっちぎって、アメリカでは全くと言っていいほど評価されなかったのも、むべなるかな。笑える…。わりと内輪な、スリラー仕立てのブラック・コメディなのだが。

 それにしても御年78歳のポランスキー、早くも次作を製作中とか。ファンの一人としては、次はもう、こんなにヤキモキさせずに観せてほしいと心から願う。映画マニヤの私にとって、一番好きな監督さんだから。
宇宙へと飛び立つアルバトロス 8月9日
 SFの巨匠が虚無へ旅立った。先月26日、小松左京氏が亡くなった。享年80。平成になってからは小説の発表こそなかったが、エッセイ、ノンフィクションの方面ではまだ数年前まで著書も続いていて、なんだかずっと健在のような錯覚を持っていた。しかし、伝え聞くところによると、ここ十年くらいは病んでおられたのだそうだ。長い晩年だったようだ。ちょっとその在り方が、鮎川先生に似ている。
 かつて渾名された如く、まさにブルドーザーのごとく地を均して、SFの発展に尽力した一生だった。長短編併せて500作近くを執筆した巨人が、震災で日本が(文字通り)沈没した年に、その歩みを止めた。
 長編小説に有名なものが多く長編型の作家と思われがちだが、私は小松氏の短編が好きで、一時期全文庫を揃えていた。今ではハルキ文庫で再刊された分しか手許にないが、充分再読に値するものばかりだ。品切れていたハルキ文庫が追悼フェアで、おおむね再刷されるそうで、あの名作たちが、巨人の名を忘れていたあるいは知らなかった人々の手に渡るのは、有難い。
 「夜が明けたら」という短編なんて、大震災の夜、思い出しては震えあがったものだ。「くだんのはは」もそう。そこにある終末を描かせたら、小松氏の右に出るものはいないんじゃないか。その最たるものが長編群、『復活の日』や『日本沈没』、『首都消失』なのだが。
 …なんだか昔好きだった作家の訃報は書き辛い。今更思いをぶつけてもしょうがないし、まあ一時期は全然本を引っ張り出す事もなかったし、それがうしろめたくもあり、こうしてまた再読出来ることが嬉しかったり、再読してみてやはり、短編は文章の喚起力がすごいと思う。長編は長編であんまり美辞麗句を連ねるとしんどいシロモノになってしまうので、ほどよく没個性な文章が望ましいのだが、短編は、どーぞ、お好きなように、というはっちゃけ具合がよろしい。そのうちでもとりわけ凄いな〜、と思ったのが、後期の作品集『ゴルディアスの結び目』。ハルキ文庫でも、オリジナル作品集で唯一単体で出ている、代表作だ。
 四つの中編からなる作品集だが、冒頭の「岬にて」がたまらなく好きだ。SFでも何でもない、旅のスケッチめいた短編だが、宇宙と直接に対峙する場所がこの世界の果にある、と教えてくれる。ポール・ボウルズの言う「シェルタリング・スカイ」すらない、むきだしの宇宙がある。そこから飛翔すれば、宇宙はまさに目前だ。
 フォークランド諸島とおぼしき孤島の崖にそれはある。海からの逆風に煽られて命を落とす者もいる。そこに棲むアホウドリたちは、暗愚で悲しき人間の仮の姿に外ならない。年老いたアホウドリの中には、崖から飛び立とうとするものもある。
 まさにその年老いたアルバトロスこそ、作者の最期の姿だと思ったのである。科学や原子力や、今では疑問符がついたもろもろの「未来」をまだ信じたままで、飛翔したのだと。やはり凡人には真似できないのだ。
 その巨匠の一般的な代表作『日本沈没』を読み返していて、いやーな箇所を見つけた。第五章「沈み行く国」第八節で、日本列島が沈没すると発表されたのが「3月11日」だったのだ。まさかねえ…。
地デ鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき 7月24日
 私の部屋の98年製28インチテレビが、モニターと化す。重くてでかいので、本棚に埋もれた部屋から持ちだす事も出来ず、また、震災以降色々と出費がかさんで、安いチューナーすら買うのをためらっていたからだ。先週偵察に行くと、チューナーはどこの電器屋も売り切れ。地デジ対応テレビも景気良く売れまくり、電器屋にとってタナボタ特需たあ、このことだ。
 電器屋喜ばすのがイヤさに地デジ化しなかったわけではない。もともとテレビなんぞアフォの見るもの、とは暴言してきたが、そういう自分も毎週楽しみにしている番組も結構あって、天に唾するに等しいと言われたら、ぐうの音も出ない。しかし、テレビというメディアは、独特のグラマー(文法)があって、それを踏まえて見ないと、ただの盲信者になってしまう、という危機意識は常にある。
 テレビのグラマーって、年寄りには時々わからないらしい。特にうちの両親のように、長年忙しく働いて来て、今になってテレビを見る時間が出来た人には、さっぱりわからなかったようだ。私たちがフツーだと思って見ていることが、昭和ひと桁浦島状態の親には、全然理解できなかったらしい。そも、CMを挟んで同じ映像を流したり、発言を改竄したようなテロップを出したり、芸人が雛段に座って口々に喋ったり、・・・。ワケワカランことは今でも多いらしい。
 もともと映画の次世代として生まれたテレビだが、映画関係者からは「今までは映画が、最低の芸術表現と言われたが、これからはテレビがあるので助かる」と皮肉られてきた。映画もテレビも要するに、ダラダラ撮った映像をエディッティング(モンタージュ)して、製作者の意図通りに見せるものだ。その意図の部分に、政治や金が密接に絡んでいる。
 5年ほど前になるか、池田信夫氏の『電波利権』(新潮新書)という本を読んで、誠にキタナイ電波を廻るおカネのシガラミの世界を知らされたが、もっと怖いのが、電波によるデマゴーグである。つまりは、テレビいっこで、世界革命・世界戦争すら起こせるのだ。
 毎日毎日テレビが垂れ流し続ける、毒のある映像が私たちを蝕む。知らず知らずのうちに、為政者の都合のよいように洗脳されるかもしれない。いや既に、私たちは安っぽい愛国主義や、底の浅い感動や、拝金主義、善意の全体主義に毒されているではないか。それが利権と権力を有する者たちにとって、どれだけ好もしいことか。そしてその中で敢えて、正しい個人主義を標榜する表現者の、文字通り首を絞める。震災以降の優しさや励ましの安売りの影で、本当はどれだけ多くの被災者たちが泣いているか、私たちは知らされない。
 そういうもろもろのことがイヤになって、テレビなぞもう見なくてよろしいと、敢えて私の部屋だけは地デジ化しなかった。あの番組もこの番組も見れなくなると困るなあ、と迷った時もあったが、地デジ化したくなったらその時にチューナー求めればよろしいし、多分しないだろう。テレビ見る暇あったら、人生の残り時間を考えて、積ん読を消化した方がいいでしょう。まあコレクションしているDVDやVHSは見るけどね、そのためのモニターよ、デカいモニター。
 ということで、本日深夜をもって、砂嵐を有難くお見せいただけることとなった次第。七月は、旧暦では秋だし、百人一首をもじって、鳴かない地デジカを鳴かせました。上の句までパロったら長くなるし、皮肉の効いたのが思いつかなかった。というか、そもそも地デジカ、なんでレオタード姿なの? 地デジ化終わったら、黄色のレオタード脱いで、奥山へ帰るんかい!!! アナログ放送終了の際、ひと声鳴いてみろっての。

25日追記 深夜に終了したのはTOKYOMXとテレビ神奈川だけでした。なんで映ってるのか、一瞬狐に化かされた気持ちになりましたが、よく調べてみると、ケーブルテレビを通じてデジアナ変換しているところは、2015年3月までそのまま見れるのね。なんか悲愴な気持ちで書いた日記だけど、過ぎてみればいい恥さらしでした(^^;;) まあ、恥の上塗りでこのまま残しておくといたしましょう。くそっ、地デジカに騙された!!! 鳴いたのは吠え面掻いたワタクシでした。