Rest in peace, Mr.Columbo 6月25日
 23日、ロサンゼルスでピーター・フォークが亡くなった。83歳。数年前からアルツハイマーを患っており、近頃は自己最大の当たり役さえ、覚えていなかったとか。シリーズ中期の名作『○○○○た○○○』の某大女優さんとは大違いだ。
 コロンボは旧新併せて79作撮られたことになる。旧シリーズの45作は廉価DVD-BOXやレンタルで常時観ることが出来るが、制作局が違う新シリーズのほうは、初期の何作かがDVD化された以外は、ケーブルテレビの再放送とかでしか視聴できない。確かに新シリーズは旧シリーズに比べると格がそうとう落ちるが、それでもコンプして手許に置いておきたいではないか。ユニバーサルさん、何とかしてください。
 フォークは数年前に日本でも自伝が翻訳されていて、それを読む限り、若い頃は波瀾万丈だった実人生も、コロンボ以後は恵まれていたようで、近年の映画での好々爺ぶりもよかった。何を演じてもコロンボと比較されて、俳優としては葛藤もあったかもしれないが、ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』(1987)で本人役で登場し、「地上の天使」を名乗っていたのも記憶に残っている。今では本物の天使の列に数えられていることでしょう。
 『刑事コロンボ』はミステリドラマの金字塔であり、まだご覧になったことのない人がいるなら、大変羨ましい限りだが、今夜は手許にある中からお気に入りの何本かをチョイスして、ゆっくりと黄金時代に浸るつもり。
黒鳥の湖 5月31日
 と言っても何も、六本木の有名なオカマ・ショー・パブに行ったのではないです。為念。日曜に映画の『ブラック・スワン』を観てきたので。

 黒鳥に取り憑かれた作家がいる。オーストラリア原産の真っ黒で不器用な鳥を、戦後を惨めに生き残ってしまった己の分身に見立てて、「黒鳥譚」「黒鳥の嘆き」「黒鳥の旅」「黒鳥館戦後日記」を書いた。黒鳥館主人を名乗った中井英夫その人である。

 中井の書く黒鳥は、生きる事の恥にうなだれながら水面を漂う哀しい生き物だが、そもそもクック船長が南半球の大陸から帰って、初めてその鳥の見聞を伝えた時は、誰もその実在を信じなかったらしい。サン=サーンスの謳い上げる気高い白鳥と姿かたちがそっくりなのに、色は鴉もかくやの濡羽色。白鳥と同じカモ科ハクチョウ属の鳥なのに、不細工極まりない。そもそも白鳥だって実際に餌付けしている所へ出向いて観察するに、図体がでかい上に廻りを睥睨し、餌の時には小鳥どもを蹴散らして、グワグワと喧しく鳴き声を出す、散文的な鳥だ。けしてロマンティックな生き物ではない。

 しかしことバレエとなると話が違う。チャイコフスキーの名作『白鳥の湖』は余りにも有名だ。バレエ音楽の代名詞とも言える。チャイコフスキーの三大バレエと言や『白鳥の湖』に『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』、その中でもスワンは彼が30代半ばに書いた最初のバレエ作品だが、実は生前はあまり評価されず忘れられていたらしい。彼が57歳で没した数年後に蘇った。

 話は単純かつ美しい。私のようなバレエ門外漢でも知っている。呪いをかけられ白鳥女王に姿を変えた姫が、月の光でたまたま元の姿に戻ったところを王子に見染められ、愛の力で果たして呪いが解けるのか、というハナシ。ラストはハッピー・エンドからバッド・エンドまで、演出する人によりけり。

 呪いをかけた張本人の悪魔が、王子を誘惑するために送り込んで来るのが、悪魔の娘の化身であるブラック・スワン。バレエではこのスワンとブラック・スワンを同じバレリーナが演じなければならない。余りにも有名な上に、高い技量が試される役だ。まさにバレエの花形、スワン・クイーン。

 いやー、我ながら前置き長かったですなあ。ここまで理解していないと、映画『ブラック・スワン』を観て、ポカーン ( ゚д゚)になりかねないのだ。監督のダレン・アロノフスキーは前作『レスラー』でミッキー・ロークに落ちぶれたレスラーを演じさせたが、今作は、ナタリー・ポートマン(『レオン』のマチルダも大きくなりました)がメンヘラ・バレリーナのニナを嬉々として演じている。どちらも肉体を極限まで苛め抜く芸を見せるものだし、おそらく姉妹作品として考えた方がいいでしょうね。

 元バレリーナらしい過保護ママに監視されて暮らしているバレリーナが、念願の白鳥女王の役を貰って、演出家のセクハラや同僚のねたみそねみ、前のプリマの罵倒などさんざんな目にさらされながら、課題とされた邪悪な黒鳥の表現をなんとか我がものにせんと頑張る話だが、なんかね、ほんと『ガラスの仮面』とか『イヴの総て』とか、ああいう、女の黒い部分の噎せ返る作品でした。お腹一杯、ごちそうさま。

 ここからはネタバレするので、未見の方はお帰り戴いたほうがよろしいと思うのだが、とにかく観ていて痛い映画だった。体にも心にも痛い映画。もーやめてっ!!!と叫びたくなるような痛覚エピてんこもり。はて、バレエの話を観に来たのにいつの間にか、ポランスキーかアルジェントでも観さされていたって感じ。吉外ママに心理的に支配されている娘が、何とか精神的自立を果たそうとするのだが、背中には自傷行為の爪の跡。これを文字通り皮切りに、痛い映像がこれでもかと(恐)。

 ※※ネ※※タ※※バ※※レ※※ス※※ル※※ゾ※※

 白鳥の踊りを絶賛されて女王に抜擢されたはいいが、邪悪な色気むんむんで王子に迫る黒鳥の演技が出来ない。もとより肉感的な色気に乏しいナタリーなので(それでもストリッパーの役を演じたこともありましたなあ)、さながら怯える処女のようなこの役うってつけだが、それにしても、色気が出ないと踊りもダメとか言ってセクハラしてる演出家(『クリムゾン・リバー』やら『オーシャンズ12』のヴァンサン・カッセル)が余りにも古典的で笑えます。彼のセクハラ攻撃と同じくヒロインを追い詰めて行くのが、同僚のはすっぱなリリー(テレビ・シリーズ『70’sショー』で人気のミラ・クニス)。リリーは背中に黒鳥の羽根のタトゥーを背負っていて、踊りの旨さはニナに次いでいる。なので、ニナの苦悩も分かるし、アンダースタディ(万が一の代役)としては主役の不幸も望んでしまうと言う、アンビバレントな役回り。ママの少女趣味な地獄からニナを連れ出して、オトコとドラッグを与えてリラックスさせようとするが、既にシゾイドな妄想の虜となっていたニナは、ついに自我克服を図って、本番初日の幕間に挑発してくるリリーを殺害してしまう…。

 まさに、白鳥と黒鳥のコントラストを一人の精神に宿した娘のたどる、地獄のスワン・レイクである。映画観慣れたオッサンでもたじろぐニナのオナニー場面とかレズビアン場面とか、ほんまに必要なのか?と思ったが、内なる黒鳥のめざめを促す伏線としてはしょうがない。鏡がドッペルゲンガーを生み出す装置として配置されていたのも心憎い。鏡のかけらで殺したリリーは、まさにニナ自身の内なる嫉妬や恐怖心、リビドーの化け物だ。化け物を退治し、そのパワーを取り込んで、ついにニナは黒鳥と化す。

 内なるリビドーの攻撃に曝されて狂気に堕ちてゆく、というモチーフで、私はロマン・ポランスキーの『反撥』を思い出した。若き日のカトリーヌ・ドヌーヴが、アパートに一人取り残されて、妄想に「侵され=犯され」ながら狂ってゆく少女を演じていた。閉ざされた空間(ママと住む自宅や、鏡張りの楽屋)で狂気が育まれると言うのも、実はポランスキーのオハコだ。『水の上のナイフ』『袋小路』『ローズマリーの赤ちゃん』『テナント』『フランティック』『赤い航路』『死と処女』。どうやらアロノフスキーはポランスキー作品を参考にしてこの映画を作ったとおぼしい。あちこちのインタヴューでもそのことを明かしている。

 ポランスキー作品の人物は主に受け身で狂気して行くが、『ブラック・スワン』のニナは狂気によって脱皮し、「完璧な演技者」となる。結末は残酷だが、赤江瀑(そう言えば日本でバレエの狂気の世界を描いた小説って、彼の「ニジンスキーの手」とか「ライオンの中庭」くらいしか知らんなあ…)のラストに似て、爽快で快楽的でカタルシスさえある。観終わった後で「メンヘラ映画」と評する相方に応えて、「すべての芸術はメンヘラが必要」と言っておきました。おしなべて芸術とは神と悪魔の両方の協力が必要だが、『ブラック・スワン』はほとんどが悪魔の参加によって成り立つ系列の作品だ。まあ壊れっぷりが想定内だが。

 バッド・エンドなヒロインを演じたナタリー・ポートマンが、自身はこの映画で知り合ったバレエの振り付け師とできちゃった婚らしいから、逞しくも微笑ましいんだけどね。おまけに念願のオスカー女優だ。よかったんじゃないの?バレエに通じた人からは、ナタリーの踊りに対して非難囂々だが、どうせ俳優が演じているのだ、大目に見てやんなさいよ。本職連れて来たって、この映画撮れないよ。それにオスカーは、吉外演技が大好きなんだし。
シルクロードを味わう 5月4日
 まだまだ震災の悪夢覚めやらぬ中ではありますが、そうは言っても花のGW、遠出は無理でも近場でせめて美味しいものでも、と思って、さいたま市にあるウイグル料理の「シルクロード・ムラト」さんにお邪魔しました。
 ウイグル料理と言っても日本人には馴染みのないお国ですが、それもそのはず、独立国家ではなくて、中華人民共和国の西のはしっこ、新疆ウイグル自治区のことです。9世紀まではここに「ウイグル帝国」があったようですが、その後はモンゴルや清に征服されて、いわゆる「中国」の一部となりました。トルファンやカシュガル、ロプノールといった、NHK特集『シルクロード』(喜多郎のインスト・テーマ曲、懐かしいなあ…)で知られた地域です。
 ウイグル族はもともとムスリムですが、タクラマカン砂漠のオアシスに定住して、ちょうど、中国と西アジアの交流の中間という、地の利を活かした文化を築き上げて来ました。イスラムなので、肉はブヒではなくメエです。そしてやはりと言うべきか、料理はまさに中華圏とイスラム圏との双方の折衷したものです。面白いですね。

シシカワブ(メエの串焼き) ケリン(モーの胃袋塩茹で)
ラグメン(ウイグルのきしめん) ヤンユセイ(芋シャキシャキ炒め)
チョチュレ(ワンタンスープ) サワーチェリージュース
 この店は今回で二度目の訪問になります。前回はがっついて食ったので、まあ画像がなかったんですな(笑)。腹をすかせて店に行くと、気がついた時には皿はどれも空っぽという、毎度毎度のパターンです。今回は静音カメラで私がシャッターを切りましたが、どうも上手に撮れない。ボケボケ画像でお許しください。
 ケヤキ並木の浦所バイパスぞいにあるお店は、埼玉大学にも近く、常連さんや学生の客でにぎわっていました。お店の開店間もなく行ったのですが、お店のご家族にフレンドリーに出迎えていただきました。

 そもそも相方がここしばらく「羊が喰いたい…」とうわ言のように呟いていたので、辛抱たまらん気分で来たのでした。実は我々がよく通っていた東上線沿線の羊の美味しい店が、ここ数年で次々と店仕舞いをし(モンゴル料理にインド料理、イタリアンにジンギスカン…嗚呼…涙…)、メエをかっ喰らうのにちと不便になっていた矢先に、このお店を知ったのです。
 メエをもりもり食えるなんてシヤワセ、という、メエ嫌いからすると信じられない喜びを噛みしめるために、ここに駆け込みました。

 お酒はアカンので、サワーチェリージュースを頼みます。相方はハンドル握るので、やっぱりコーラです。そして念願の料理をホイホイと注文しました。
 まず山盛りの「シシカワブ」。シシカバブ、シークカバブ、シシュケバブなんて、国によって呼び名にブレのある料理ですが、それだけ広い地域の人々に愛されている証拠です。ここのはジューシイな羊肉を金串に大胆に刺して出てきます。一本180円なりなので、もりもり食べたい人にぴったり。今日は8本。串から頬張ると、スパイスの香るお肉から、肉汁が溢れるっての。う、うますぎ。これで、るーびー飲めたら言うことないんやけどなあ…。

 お次は「ケリン」。こちらでは牛の胃袋(多分センマイ)を柔らかく茹でて、黒酢にトウチーの入ったピリ辛だれで、これまたうまひ。前回は羊のタンの同じ調理法のを食べてこれも旨かったなあ。本来はこの料理、モーではなくメエの胃袋を使うようですが、日本じゃ手に入らないからねえ。

 そしてこの店の看板メニュー「ラグメン」。ランチで人気のようです。麺かご飯か選べるようですが、ここはやはりご当地の麺を。きしめん風の麺を選びましたら、これがまたなんつうか、けっこうコシのある讃岐っぽい麺に、微妙にイタリアンで中華なアンが絡んで、時折羊が存在を示すためにメヘ〜と鳴きます。この麺うみゃい。噛みごたえもあるし、なかなか麺の終りが見つからないので、いつまでもずるずる食えて、ささやかに幸せになります。

 「チョチュレ」と申すワンタンスープには、実にカタチの可愛らしいちっちゃな餃子がひしめいていて、さっぱりとしていました。中華のようでもあり、中東のようでもあり、印度のようでもあり…で、ワンタンの中からメエの味…オマエは一体どこのどいつじゃ〜、はっきりせえ! でも美味しいから許す。

 最後に「ヤンユセイ」なる見た目中華料理のチンジャオど真ん中なでぃっしゅがきました。ふと香る中華のアレのかほり。これはいつも嗅いでるアレかいな?
 ジャガイモを生のまま千六本に切ってメエやらぴーまんやらトンガラシンとシャッキシャキに炒めて、片栗粉でとめたようですが、やっぱり皿に最後に、八角の角のカケラが残りました。

 正直ビミョーなエスニック料理も多いんですよ。オシャレ雑貨店まがいだったり、居酒屋に毛が生えた程度だったり、料理がワンパターンだったり、もうええわ…って店も数知れず。でもここはリピートしたくなりますね。メエ以外にも鶏肉が選べる料理もあるし、お手頃に異文化のかほりに触れることのできる、なかなか楽しい店です。
 それにしても、ランチとは言え、お酒を飲まずにこの料理は、もったいないとは思いながらも、晩春のしらふの宴でした。たらふく食って店を出ると、中国大陸から遥かに飛んで来た黄砂が、街に吹き荒れていました。ウイグルというと、二年前に中国国内でウイグル民族と漢民族の対立が激化し「ウイグル騒乱」となりましたが、シルクロードの道々で異民族の蹂躙に耐えて文化を守ってきた民の鬨の声が、春の嵐に木霊しているようでした。
黙祷と罵倒 4月11日
 あれからひと月経ってしまった。死者不明併せて2万8千人近く。ひとことで2万8千と言えど、それぞれにかけがえのない人生があったのだ。それが震災で奪われてしまった。今日の午後2時46分には、何を措いてもまず、黙祷を捧げたいと思う。死者の無念の思いをかみしめて、私たちはこれからを生きていかねばならない。生き残った人たちの、体と心の傷の早く癒えんことを願う。
 いつも大きな災害や事故が起こる度、「自分が生きている間にあと何度、このような悲惨なものを眼にしなければいけないのか?」と、カミホトケを呪いたい気持ちになっていたが、今回は余りに惨状が酷過ぎて、そう感じる余裕すらなかった。しかしそれでよかったのかもしれない。受け止め切れない大きな痛みもあるのだ。直接の被害に遭わなかった者は、出来得るだけの喜捨をし、淡々と日常に復帰し、復興を祈るより他ない。


 昨日は相方と、新宿御苑で花を見てきた。先週自粛の嵐の中、御苑で花見をした剛の者もいたらしいが、花はほとんど咲いておらず、寒波にぷるぷると打ち震えたそうだ。この日曜は、花は満開、陽気もよくて、花見日和だった。
 どこぞの老害が先月、「このような状況で花見をするのは不謹慎」だから自粛しろ、と言ったが、花見はまさに鎮魂の、失われゆく命を惜しみながら見る花鎮めなのだ。もとより他者を謗る人間と言うのは、知ってか知らずか、罵る理由が我とわが身に充ちみちているからであって、あの吉外爺さんは、己が天罰天災に値する存在だということは分っているのだろうか。分ってりゃ言わねえか。


 昼飯を高田馬場の、ミャンマーはシャン族の郷土料理の店で軽くすませ、同じ馬場でベトナムのサンドイッチ「バインミー」を買って、花見と洒落込んだ。だが、それが、御苑の入口で、んがっ…30分以上行列する羽目になった。今年は開花が遅れて待望の満開だったのと、御仕着せの自粛ムードがようやく緩んだのと、天気が良くなったので、どえらい人出だった…。
 思わず、「願わくば花のもとにてわれ食わん、その如月の望月のころ」と呟いてしまったよ。食慾の業の深い西業上人だよ。
 行列の脇で酒盛りを始める脱落者も数々いたが、なんとか私と相方は御苑に入場できた。しかし、御苑の芝生広場は、歩く道もないくらいびっしりとシートが敷き詰められて、大勢が思い思いの休日を楽しんでいた。花は素晴らしく咲いていたが、果たしてどれくらいの人が花を見ていたんだろうか。ひと月の緊張の解けた後の弛緩の時を、満喫していた。余震くらい揺っていたかもしれないが、そんなん気にならない。


 私の分のバインミーはパクチーたっぷりにしてもらったので、とても食べ辛かった。どうせならパクチーを刻まずに、長いままほりこんどいてもらった方が、こういう野天では食べやすかっただろうね。相方のノーマルなやつは味のバランスがとれていてた。
 後ろに戯れるガキの吹くシャボン玉が食いもんにたかりそうになるが、怒らない怒らない。ここはみんなの御苑だ。本当は天皇さんの御庭なのだろうけど、ギョエンは新宿近辺最大の憩いの場所だ。


 日差しはなかなかにじりじりと熱く、天然の放…いえ、紫外線をたっぷりと浴びた。しかしまあ、360度見渡せばいづこも、ヒゲ姐さんの集団が盛り上がっていたので、御同輩をウンザリするくらい見る羽目になった。どこを向いてもそれと分る人たちが、立ち上がってホゲていたので、どうしても目立つのだ。御苑は場所柄普段でもニチョの人々が多い所だが、昨日はどっぷりおニチョになっていた。
 ま、ノンケの家族連れ(ガキが騒ぐ騒ぐ…)やら、会社の花見やら、外国人の集団など、和気藹藹の無礼講だった。


 ♪てのひらを太陽に〜透かして見るまでもなく、生きていることを実感するには、ちょうどよかろうね。


↓立て看板をよく見ると…ん?口封じ?
 ただ予想以上の人出にたちまちザセツして、我々は早々に御苑を引き上げた。引き上げがてら、御苑新宿門のほとりに立てられた、都知事選の看板を見ると、思わず笑える仕打ち。
 そりゃそうだ。「新宿 VS. 石○○太郎」だからなあ。アイツが歌舞伎町の繁栄を滅ぼし、二丁目を取り締まったんだもんな。言ってみりゃ、新宿の街の天敵だ。選挙のポスターを破るのは選挙妨害で、本来はケシカランことなのだが、道行く誰も直そうとか、御苑のスタッフも貼りなおそうとか、そういう気配は微塵も見られなかった(ポスターはそもそも勝手に触れないのだしな)。老害吉外の暴力専制主の顔だけ、ぴらぴらと春風に舞っていた。


 しかし案の定、夜になって選挙の結果はああだった。都民は○○か? かつて私が都民だった時代には石○はおらんかったけど、まあ、あの頃も都知事選の度に大概な候補ばっかりだったが、今回ほど投票したい意欲を失くす選挙も珍しかっただろうが、それにしても投票率57.8%かよ。過去の都知事選の投票率に比べて別段低くも高くもないが、それでも、4割以上の人間が棄権。4割のアンタたちの意思はないものとされているのだぞ。


 それにしても恐ろしきサイレント・マジョリティ。アジアの人たちを「三国人」と罵り、「同性愛者は頭が足りない」とのたまい、漫画やアニメやアキバを弾圧し、東電とつるんで原発を推進し東北にそれを押し付け、築地市場を毒塗れのゼッタイ液状化する埋立地に移転しようと企み、今度の震災を「天罰」などと言う、モノホンのじじい放談かましまくりのボケぢいさんをまたしても選んでしまうとはな。石○に票を投じた者は、はっきり言ってヤツと同罪だと思っていただきたいが、ひとの痛みを感じないマジョリティだからこそ、こういう結果を生むのだ。うん、よく分ったよ。


 …などと毒づいているうちに、2時46分になってしまった。心落ち着かせて祈りをささげないと、あの天災野郎と同じになってしまうではないか。
 乞い願わくば、天災ぢいさんが任期半ばにして、天罰によって、天寿を全うされんことを願うぜ(ああ、やっぱり心穏やかにはなれんかった…)。
 人を呪わばアナ二つだが、これくらいは非情の神仏も赦してくれるだろう。よしんば、私が地獄に行った時に、閻魔様かアケロンの船のおっさんだかに、「気持ちも分かるが」と言ってもらえれば、そ れ で 上 等 だ。