さらばレバ刺し 6月29日
 来月から、焼肉屋の定番メニュー・レバ刺しが店頭から消えてしまう。なんという不条理。まじっすか〜〜〜〜?
 ゴマ油に塩を入れ、それをタレにして、あのプリプリしたレバーを食した時の、あの甘味・滋味の深さは、なんとも言い難い。ほのかな鉄分の香り、追い掛けて来る旨味、ああ、たまらん……。それを取り上げるったァ、言語道断だ。

 厚労省のお偉い方々が、「喰うたらイケン」言うんでやめざるを得んのだが、ちょっと待て。生レバーの中に細菌O‐157がある
可能性があるから、って、禁止する理由になるのかい? どれくらいの頻度で発見されるのか、またどれくらいの確率で重病化するのかも、ちゃんと発表せず、ただいるかもしれないから禁止ってか? フザケンナ!!!

 生き物を殺して喰えば、どんな鳥獣虫魚であろうと、その中に予期せざるものが潜んでいるのは当たり前のこと。なのに、殊更、生レバーだけをターゲットにするのかね? もとはと言えば、某激安焼肉チェーンが激安で出したユッケで五人も死人が出たのがそもそも、なのに、何故、レバー? 発端を作ったあのホスト上がりの焼肉社長をブン殴ってやりてえぜ、ったく。。。(てか、ぶっ殺してエエ…って鬼○ち○ろか!) 激安ユッケを喰う方も喰う方だし、まあ、生食は健康にもお財布にもリスキーであるという鉄則を忘れて、堕落した世間がイケないのだが。

 牛肉そのものの生食も、大変メンドウな手順を踏まないと駄目だとかで、出す店が限られているのだが、まあそれでも消滅した訳ではない。しかしレバ刺しは全滅だ。さよならレバ刺し。子供の頃、叔父に焼肉に連れてってもらって、そこで食してから早や数十年。まさか禁止になるとはな。

 色々レバーの生食について調べてもみたが、結局、ようわからんかった。いつ頃から食べられているのか、どこが発祥の食べ方なのか、わからない。つまり、庶民の食べ物で、いつの間にか存在していたらしい。お上品ぶった人たちは喰わないだろうから、お偉い役人や、政治屋のセンセイは多分、口にしないのだろう。そんな生ギモ、汚らわしいってか? 汚らわしいのは生の食べ物よりも、霞ヶ関や永田町のシロアリさんたちのほうが、遥かに上だろうに、とほざいてみても、遠吠えさ。

 昔、トルーマン・カポーティは、「金持ちは若い食べ物が好きだ」とのたもうた。若いとは“Fresh”、即ち、新鮮と言うこと。もとい、若い野菜、若い獣、若い魚、若い水、若いものの数々
(若い少年少女もな!(爆))。生食はその若さを存分に味わうための最良の食べ方だ。火を通しすぎると、食べ物は美味しさが減る。火を通しすぎない究極の食べ方が生食である。しかも、例えば猛獣は、獲った獲物のレバーからまず食べるそうな。そこは命の源であり、一番ウマいことを知っているから。

 しのごのほざいてみたとて、シチガツイッピからレバ刺しが消えるのは、避けようもない事実。なので、相方と一足お先に、お別れレバ刺しの会をやってきた。どこの店とは口が裂けても言えないが、いつも通っている、牛一頭買いの素晴らしいホルモンのお店だ。そこでけして安くはないレバ刺しを、其々二皿づつ食してきた。それで思い残すことなどないなんて、言う訳もないが、愚かな法律が改正されるまで、逢うことは叶わない。

 まあ、十人好きする食べ物でないことは確かで、うちの上品ぶった両親なぞ、あんなもん食べる気が知れん、などとニュースを見て言っているが、こればっかりは品質のいい物を食べたことがない人にはワカランだろうな。食べた事のない人、おきのどく。

 でもこの美しい輝きを見て御覧なさい。赤く光っているのは、イノチである。数時間前まで生きていた、体重数トンの牛さんの命を支えていた、そのイノチの源泉である。それを有り難くおし頂く。美味いに決まっている。それは悖徳であるからか……。

 何も敬虔な仏教徒ではないが、お肉はパックに盛られてこの世に誕生するのではないと、教えてくれる食べ物だ。それを禁止したり、目に触れないようにするから、イノチというものを尊ぶことの出来ない愚かな人種が生まれてくるのだ。簡単に人を殺したり自分の命を絶ったりする輩がな。だから、マスゴミも役所も心せよ。そして私にもう一度、あのとろりプリプリした味わいを、口にさせてくれ。

 これで怖いのは、レバ刺しのみならず、衛生の名のもとに様々な食べ物が駆逐されやしないかということである。生ガキ、川魚の背越し、魚卵、ケジャン、生ハム、なまこ酢…。一番怖いのは、卵かけご飯の禁止だ。現に愚舌国家アメリカでは、卵のレアはお店では出してはいけない決まりになっている。目玉焼きも“Sunny Side Up”はご法度らしい。どこまでアホな国だろう。ってか店ではカチカチの目駄目焼きしか喰えんなら、愚舌国家に用はない。まああんまり行く気もしないのだが。

 さらばレバ刺し。しばしの別れだ。バカの国の大政翼賛連中が死に絶える頃、また逢おう。
赤江瀑氏急逝 6月18日
 

小説家の赤江瀑さんが死去

読売新聞 6月18日(月)19時31分配信

 伝統芸能や古美術の世界を舞台にした幻想的な小説で知られる作家の赤江(あかえ)瀑(ばく)(本名・長谷川(はせがわ)敬(たかし))さんが8日、心不全のため死去した。

 79歳だった。本人の遺志で告別式は行わない。自宅は山口県下関市長府宮崎町9の22。喪主は弟、友紀(とものり)氏。

 下関市生まれ。日本大芸術学部演劇学科を中退後、放送作家を経て1970年に「ニジンスキーの手」で第15回小説現代新人賞を受賞。74年に「オイディプスの刃」で第1回角川小説賞、84年に「海峡」と「八雲が殺した」で第12回泉鏡花文学賞。

 赤江さんは一人暮らしで、8日夕に自宅を訪ねた助手が、居間で倒れているのを見つけ、18日公表した。

最終更新:6月18日(月)19時31分


 ええええええ???? 嘘だろ〜〜〜!!!! 十日も前に亡くなっていたの? そんな……。つい先ほど私は、ヤフーニュースで赤江氏の訃報を知りました。愕然としています。

 活躍中の作家の中で、私が一番尊敬し、鍾愛した作家です。色々影響も受けたし、赤江さんの小説なくては生きられぬ体となっている。なのに、これからどうすればいいのだろう。いちいち他言はしないが全作品を読み返すこと幾たび、その度に酔わされ惑わされ奈落に突き落とされた。新作を読みたさに欲しくないオヤヂ小説誌も買った。年齢からも、いつかはこんな日が来るのだろうと思ってはいたが、突然過ぎます。

 今はまだ、動揺がおさまらないので、読売新聞のサイトの記事を貼り付けただけだが、これからまた赤江瀑世界の全容を未知の人々にお伝えするために、何かしないといけないと思っている。思えば昨年は、例のオヤヂ小説誌に一編も作品が載らなかった。活字になった近作は「問題小説」2010年10月号の「天泣」だ。その後「問題小説」が若手向けの「読楽」にリニューアルされて、先生の不在をいっそう濃く感じていた矢先だった。先生は他の媒体にはほとんど作品を発表されなくなっていたが、それでも今、単行本未刊行の短編が20編以上残っている。出版社は速やかにその作品を世に出すべきだ。古いものになると先生の意思であえて本にされずにいたのかもしれないが、先生が白玉楼中の人となられて新作が望めぬ今、断簡零墨まで求めるべきなのが本当のファンだろう。

 今となっては恥ずかしい話をすると赤江氏は、私が現役の作家にファンレターを書いた唯一の人だ。高校生の頃だから、二十数年前、昭和の御代の頃だが、その頃は文芸春秋の出していた手帖に作家の住所録が載っていて(個人情報保護法のある現在からすると隔世の感だ)、その下関市の住所あてにファンレターを出したのだ。拙い内容、へたくそな字、さぞかし先生はうんざりなさったことと思う。そんな手紙が山ほど届くので、読まずに破棄されたかも。いや、むしろそうなっていたほうが有り難い。

 なんだか混乱したことしか書けない。弔いの酒を汲むにも、アルコールはご法度の身だし。朝まで先生の小説を読み耽っていよう。ただそれだけが手向けの花だ。ブログに書くのもなんだか軽い気がして、わざわざ日記に記した。ただただ寂しい。先生は翼を携え虚穹の空華となってこの穢土を離れられて喜んでおられるだろうが、後に残されたファンはこんな舞文曲筆を曝すしかない。先生の存在は、なんだかこんなク○みたいな世の中に生きて行ける「よすが」だったような気がする。ただ一掬いの赤江瀑の言葉に比べれば、なんと猥雑でつまらない世界なのだろう。滅ぶなら滅べばよい、こんな世界なぞ、な。
リング、トリフィド、ツリー、ゆ〜らゆら 5月23日
 先週ごろから近所の子供の間で、「5月22日に大地震が来る〜」というウワサが流れていた。悪質なデマである。オカンの知り合いもその話を真に受けて、地震嫌いのオカンに吹き込んだものだから、「怖い怖い!」とわめきどおしだった。全く迷惑なことだ。
 ネットの情報によると、とある知障の子供が昨年の頭に、「3・11、ゆ〜らゆら」と呟いていたとか。その3月11日にあのような震災に襲われた。そして、その子が今年は、「5・22、ゆ〜らゆら」と口走っているそうな。ホンマかよ。俄かには信じ難いハナシだが、ヲカルト好きの非論理的な人々に受けているのだろう。

 その前日は、かの金環日食。932年ぶりの広範囲な金環食とかで、国内では、これを見逃すと生きているうちには多分ムリ。そんなことで、日食眼鏡もよく売れたそうな。
 22日は、朝から我が家の付近はうっすら雲があるものの、晴天。朝起きると、もう既に東天の太陽は欠け始めていた。家族でかわるがわる眼鏡を掛けて、三日月になりゆく太陽を鑑賞。出勤前に見れるなんて、まあスバラシイ。皆さまの一日の話のネタになりましょうぞ。
 …やがて空は翳り、冷たい風が吹き抜け、鳥がざわめき、人は固唾を呑む、その時。

 キター!!!! リング!!!! (画像はネットで拾った22日のものです)。
 騒ぐだけのことはあります。いつもは燦々と、光をわたしたちに浴びせてくれている母なる太陽が、禍々しくも何物かに喰われ形を変えて行く、その衝撃。なるほど、これは理屈が頭でわかっていても、けっこう神秘的で怖いな。古来、天変地異の前触れと言われてきたのも、むべなるかな。明日は大地震が来るらしいしな。
 え〜、ふと気になって932年前を調べると、、承暦四年(1080)。確か『今鏡』がその時代のことを書いてたな、と紐解いてみるも、記事はなし。でも記録に残っているらしい。『扶桑略記』だそうで、さすがに平安の世ともなると、日食で大騒ぎとはならなかったようだ。
 これが神代だと天の岩戸の神話になったり、邪馬台国の女王・卑弥呼は日食のせいで王座を追われた(一説には殺された)とか、そんな不穏な話にもなるのですが、王朝人はわりと冷静だったんですな。

 現代人もさすがに驚きはしませんが、あれだけテレビで日食をじかに見るなと言うとったのに、日食網膜症で全国で115人が病院に行ったとか。テノヒラをタイヨーに透かして見るのはかまいませんが、いくら食状態でも、太陽をまんま見てはいけません!
 それを聞いて思わず、ジョン・ウィンダムの古典SF『トリフィド時代』(創元SF文庫…今でも出てるのか?)を思い出しました。空に現れた彗星を見た人々が麻痺状態になり、その間に食人植物「トリフィド(わりとグロ可愛い)」が地球侵略を企んで蠢いている、というお話。日食に見とれていたアナタ! そのアナタの足元に、もしや、トリフィドが…?

 さて、その翌日は一天かき曇り、肌寒い冷雨。奇しくも東京の新名所の開業日でありました。そのスカイツリーは、展望台のチケットはプラチナ越えで到底手に入らず、あたくしゃ、そんなすぐに行けるとも行きたいとも思わないもんですが、世間は大フィーバー。
 ところが雨風が妙に激しくて、竜巻やら暴風やら落雷やら雹やらの、ここしばらくの異常気象を思わせる一日となった。傘をさしても何故か濡れる一日。大安吉日に開業したはずのスカイツリーで、強風のため、一番高い展望台へのエレベータが停まる騒ぎになってしまった。
 つまり、5月22日に「ゆ〜らゆら」したのは、スカイツリーだったというオチ。なるほどね。ネットの噂にも一分の真実はあるか? いや、ないな(笑)。
 トリフィド侵略も直下型大地震も来なかった。よかったのだろうか。多分、よかったんであろう。6月6日には太陽面を金星が横切るのが見えると言うことで、また日食グラスが役に立つらしい。その日まで地球が平和であってほしいもんだ。
ポランスキー監督、笑撃の新作『おとなのけんか』 4月14日
 体調が良くなったので、日比谷でかかっている映画を観てきました。ロマン・ポランスキーの新作『おとなのけんか』です。つい昨年『ゴーストライター』を観たばかりですが、あれは監督自身の逮捕問題で日本上映が遅れていたので、今回はまじりけなしの新作。

 政治スリラーから一転。今度は、アパートの一室しか出てこない、シチュエイション・コメディ。 しかも、上映時間79分。短い? いえ、それがYahooシネマのユーザー評価で4.12を付けているからオドロキ。こういう地味目の西欧コメディにしては健闘です。
 原作は、劇作家ヤスミナ・レザの“God of Carnage(殺戮の神)”で各国で上演されて、笑いの渦を巻き起こしています(日本でも、大竹しのぶや高橋克実らで『大人はかく、戦えり』として上演。見てみたかった!)。それを舞台にほぼ忠実に映像化した、ポランスキーとしては異色の作品。

 お話は、子供同士のけんかから始まります。ブルックリンに住むロングストリート夫妻とカウアン夫妻の息子同士がけんか、片方が棒で相手の顔を殴り、歯をへし折っちゃいます。そして、親同士、話し合いをロングストリート家のリビングで、なごやかに始めるのですが…
 被害者側のロングストリート夫妻が、ジョン・C・ライリーとジョディ・フォスター、加害者側のカウアン夫妻が、クリストフ・ヴァルツとケイト・ウィスレット。それぞれ芸達者な役者さんで、最初は上品に取り繕っていた顔が、どんどん剥がれ落ちて行く笑劇をみごとに演じています。
 賠償の問題も済んで、なごやかにお開き、と思いきや、エレベーターの前まで行きながら、なぜか後戻り。それぞれの何気ない発言が、だんだんすれ違い始め、やがて美しく整えられたリビングは、○○まみれの戦場に…(^^;;)。でもポラさんとしては珍しく、血は一滴も出て来ません。

 いくら上映時間が短いとは言え、果たして、たったひと部屋で展開する物語がオモロイと思ってもらえるかどうか心配でしたが、けっこう場内爆笑でした。二組の夫婦が共闘するのではなく、時には被害者vs.加害者、時には男vs.女、こちらの夫とあちらの妻が共感したり、くるくると変わる口論のバリエーションは、面白いですねえ。ニューヨーカーの文化人づらをはぎ取って、内なる「破壊神」をあぶり出す、よく考え抜かれた脚本です。

 まあポランスキー監督にとって、「内なる暴力」というのは、処女作『水の中のナイフ』からの、いやもっとそれ以前の短編映画の時代からの、一貫したテーマなので、この劇を映画化したいと思ったのも当然ですが、今まではこんなにソフィスティケイテッドされてなかった気がします。ブラック・コメディ的なアプローチ(『吸血鬼』、『欲望の館』や『テナント』など)が多かったので、まさに79歳で新境地。まあ、今回も、ブラックになるスレスレのお下品な部分もあって、それはそれで笑えますな。

 いやー、それにしても、お客の夫妻の夫の方が持っていたアレに、妻がブチ切れた時の爽快感! 周囲の観客も腹を抱えて笑っていました。いつまでやっているかわかりませんが、シネ・シャンテ他で上映中です。拘束時間も短いし、傑作。もう、スカスカ・アクションだらけの大作は要らない?