『かぐや姫の物語』 12月18日
 『源氏物語』「絵合」巻で紫式部大先生は、「物語の出で来はじめの親なる竹取の翁(物語文学の一番最初の傑作は『竹取』)」と、『竹取物語』のことを評しています。もっともそのすぐ後で登場人物の言葉を借りて「をかしきふしもなけれど(大して面白い話じゃないけどね)」と腐している辺り、ブラック式部女史の面目躍如たる気がしないでもありませんね(笑)。

 たしかに、現存する『竹取』を読むと、おとぎばなしの域を出ないような、心もとない気持になります。「マンガ日本昔ばなし」を観れば充分だろう、と言われても仕方ないような…。

 ただ、かぐや姫の五人の求婚者のうち、三人は実在の人物名を拝借し、あと二人もどうやらモデルがいるよう、と言えば、ゆゆしき物語なのでは? と見直していただけるかもしれません。何故なら、五人の求婚者はかぐや姫にふっかけられた難題の、空想上の宝物を手に入れようとして、悲惨な運命をたどるからです。

 宮廷の藤原家支配が濃厚となった時代、それを不服に思う傍流貴族の誰かが書いたものか? 紀貫之、弘法大師、遍照僧正、菅原道真、源融などそうそうたるメンツが、作者名に仮定されています。

 そんな寓意に満ちた『竹取』が、この冬、偶然にもアニメと幻想文学として蘇りました。

 まずアニメ。ジブリの高畑勲監督の十数年ぶりの新作『かぐや姫の物語』。「姫の犯した罪と罰」という気になるキャッチフレーズで、世間の期待を一身に背負って公開されました。

 両親が宮崎駿監督の『風立ちぬ』に続いてこれを観たいと言うので、連れて行ったのです。私も王朝文学の講座のほうで生徒さんたちに、これを観ては如何かと薦めていた手前、どうしても観る必要がありましたし。

 高畑監督は前作の『となりの山田くん』の時もそうでしたが、CGアニメのかっちりとした描線を嫌って、筆で描くごとくゆらゆら揺れる頼りない描線で、ふわりとしたテクスチャーを作り出しています。そのふんわり感が王朝の雅やかな雰囲気とよく合って、絵を観るだけでも心洗われる作品でした。

 でも心洗われるのは描線だけではありません。ジブリの抒情路線(『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』など)を一手に引き受けてきた高畑さんらしい、みずみずしさで、野に育まれたかぐや姫の淡い恋心を描いて、涙を誘いました。かぐや姫は本当は、俗物の貴公子などと結婚などしたくなかったのですね。

 また、原作には出てこない流浪の民・木地師の一家を隣人として登場させ、宮崎駿監督が『もののけ姫』で描いた、反政府的なタタラ場の民を彷彿とさせました。もともと竹取の翁夫婦も、竹細工をあがなう底辺の民であり、そんな貧しい老夫婦が、小さい姫とともに天から授かった黄金で富裕層に成りあがるさまを、皮肉ではなく、あくまで共感的に描いていました。

 王朝時代の庶民の暮らしぶりから、王侯貴族の風俗まで、実に見事に調べてアニメ化しており、王朝文学を教える私の仕事でも充分教材として通用する傑作となっていました。このさりげない情報量のただならなさ、ふわふわとした絵に騙されてはいけませんぞ。

 そしてなんといっても、竹取の翁の声を演ずるのが昨年亡くなった俳優の地井武男さん、竹取の媼が朝ドラ『あまちゃん』で話題の宮本信子さんで、慈愛深くユーモラスな平安庶民となっていました。自然と共に生きる暮らしから、天から得た黄金で貴族の真似をして寝殿造りの豪邸に住むようになるとまどいようが見事でした。

 モノトーンで描かれる月の都の場面と、天人のお迎えの場面を観て、老母が「死んだ人たちがいる天国も、ああいう悩みも何もないかわりに、喜怒哀楽もない無機質なところなのねえ」と溜息をついていました。天の羽衣をまとった瞬間、地上の全ての意識が消えてしまうというくだりを、現実の死に重ねたのでしょう。それはとても正しい認識だと思いました。

 古典の『竹取』を読むと、あまりにもかぐや姫の内面が書かれなさ過ぎていて不満を感じてしまうし、やはり魔性の物としか言い様がない印象を抱くのに対し、『かぐや姫の物語』は徹頭徹尾、自然児として育ったかぐや姫の悲劇として作られていました。不老不死で喜怒哀楽と無縁の天人の世界は、まさに死後の世界そのものです。私はかねてから、死んでもそんな無感情の天国極楽になど行くものか、と言い放ってきましたので、お望み通り極彩色の地獄に行けると思います(苦笑)。

 自ら望んでこの貧しき地上に落とされた姫の、育ての親や初恋の人に対する人間らしい愛を、ぜひとも観ていただきたいと切に願うのであります。ヤフーシネマのユーザーレビューで、「『マンガ日本昔ばなし』レベルの駄作」などとしたり顔で書いてる人は、いったい二時間半何を観て来たのか。馬鹿は観るなと言いたくなるような…むにゃむにゃ…。間違って市○崑監督のスペクタクル(失敗)大作『竹取物語』のほうでも観ちゃったの?

 さてもうひとつの『竹取』インスパイアのほうは、幻想文学ブログのほうにでも近日アップいたします。私が愛してやまない歴史ファンタジー作家・宇月原晴明氏の七年ぶりの新作『かがやく月の宮』(新潮社)です。
中島みゆき『夜会工場vol.1』 11月27日
 みゆきさんのライヴなら何でもいいって仰る方いらっしゃいますよね。私もどちらかと言えばそんな無邪気なファンでした。でも今回のこの「夜会ガラ・コンサート」は、なかなか複雑なキモチになりました。ここからはネタバレ感想ですので、これからご覧になる方、内容を知りたくない方はお引き取り下さい。

 今回は東京が4日、大阪・名古屋・福岡がそれぞれ3日と、驚くべき公演数の少なさで、チケット奪取にファンを奔走させました。それでも結局手に入らず諦めた人、多数。当選して見ることが出来ただけでも、もっけの幸いかもしれませんが…。

 「ガラ・コンサート」と言われるとどうしても、本家本元オペラの「ガラ・コンサート」と比べてしまいがちですが、ハテ、今回の『夜会工場vol.1』は、当初予告されていた「夜会ガラ・コン」と言うよりは、「夜会カタログ・ツアー」と言うのが正しいです。今までの全夜会17演目からの場面を抜粋して、早変わりで見せたものです。

 ここは文字通り「夜会を作る工場」、舞台上には無機質の工場の壁がどーんと聳え、そこを見学用のトラムが走って行くうちに、全ての演目を体験できる、という設定で、みゆきさんはその案内人です。最初みゆきさんは案内人らしく、黒のツナギ姿で登場します。観客はトラムの乗客。ところがこのトラム、想像以上に展開スピードが早いのなんの…。

 今までの夜会は17回中映像化されたのが12回で、1989年の『vol.1』や、2000年&2002年の『ウィンター・ガーデン』のように全く映像化されていない作品もあるので、一部でも舞台で再現されるのは貴重でファンとして嬉しいイベントのはずですが、なんだか上記の如き慌ただしい。正味2時間足らずの時間に、17回分の場面再現を盛り込んで、最初と最後に『夜会工場』のオリジナル曲「産声」を歌うと言うせわしなさ。

 やはりファンとしては、かつての夜会で感動を与えてくれたあの場面この場面が再現されるのでは、と色々憶測し期待をしていたのですが、まあ、ほとんど裏切られてしまったということでしょうか。今まで私が感涙した場面のあれもこれも、結局今回歌われることはありませんでした。実際に私が劇場で見て鳥肌が立った場面を三つ挙げると、『vol.3 KAN−TAN』の「I love him」、『vol.10 海嘯』の「紫の桜」、『vol.11 ウィンター・ガーデン』の「粉雪は忘れ薬」ですね。どれも涙腺大決壊場面です。うわー、もっと挙げたい場面沢山あるけど…。

 もちろん、それら感動場面はたいてい、メインの曲を十分以上にわたって歌い続ける壮大なものばかりで、全部の演目をカヴァーしきれないだろうことは承知の上でした。しかし、敢えて今回のみゆきさんは、全演目を超高速で見せると言う荒技に出たのです。なので、舞台上での早変わりや、コーラスの歌、共演者の演技の合間に舞台からはけることいくたび…。「あのー、これ歌舞伎ですか?歌を聞かせるのではないのですか?もしかして宙乗りとかしちゃうんですか?」という疑念が途中からむらむらと熾ってきました。もちろん宙乗りはないですよ、念のため(笑)。

 おそらく今の夜会のコンセプトは、ここ数回の夜会に如実に現れていたのですが、「みゆきさんの役割を減らす」ということなのでしょう。詞も書き曲も書き演出し演技するというひとり舞台の重荷を、少しでも減らすということ。夜会が初期の「言葉の実験劇場」から、子飼の役者さんやコーラス陣、ミュージシャンたちを巻き込んだ「中島みゆき一座」の公演になりつつあるということでしょう。確か『vol.15 元祖・今晩屋』の時に「大衆演劇のように見せたい」という発言もあったような…。それにしては難解なのは相変わらずですが。

 ただ大衆演劇的な定番を期待するとこれも裏切られます。「なんで今回、この演目からこの場面を選んだの?」とはなはだ疑問になるような、ストーリー的にどうでもよろしい場面が多々採用されていたからです。まあその言い訳てんでしょうか、みゆきさんの言い分が新曲「産声」の歌詞に盛り込まれています。「忘れていたもの何かある/捨て去ってきたもの何かある/どれも都合良く消え去りはしない/どれも都合良く呼び戻せるはずもなくて」という一節。

 みゆきさんにとって夜会で創られた歌はどれもひとしなみに「我が子」であって、ヒットしたしない・印象に残った残らない・見せ場で歌われた歌われない、という観客の勝手な都合で佳曲とされたり駄曲とされたりするのは、まっぴら御免だと言いたいのではないでしょうか。それだけ自分の作品に愛情を持っているのですね。そのような作り手のナルシズムも含めてアーティストの魅力なのは、重々承知の上でしたが、今回はやはりなんだか物足りなさを感じてしまいました。本家ガラ・コンで例えりゃ、有名なアリアをほとんど歌わず、レチタティーヴォばっかり歌われた気分です。これは辛い。

 でもこれもまた今のみゆきさんがやりたかったことと思えば、初のセルフ・カヴァー・アルバム『いまのきもち』を出した時とおんなじ、常人の発想の斜め上を行く「始末の付け方」が彼女にはあるのだと思います。埋もれていた歌にスポットを当て、もう二度と舞台では取り上げられないかもしれないので、ひそかに供養する、そんな意思を感じます。しかし本人曰く、「今回はあくまで初心者コース」だそうで、まだまだ埋もれていた歌にスポットを当てることがこれからあるのかもしれません。ファンはそれを覚悟で見に行かなきゃね。今回は外したけど、いずれ、私の愛する無名の名曲が取り上げられるやもしれません。

 ちなみにワタクシ、17回の夜会公演のうち、『vol.1』と『vol.9 2/2再演』以外は劇場とDVDで鑑賞済みです。「マニアック・コース」でも何でも来い!と意気盛んであります。というか、演目が忘却の彼方に逝ってしまわないうちに、次回を宜しくお願いいたします。その時は、あんまり超高速運転をされませぬよう。

 今回はセット・リストは敢えて省かせていただきました。そんなもん、ネットのどこにでも転がっていますしね。
『風立ちぬ』の凛とした美しさ 10月1日
 宮崎駿監督のどうやら引退興行であるらしい長編『風立ちぬ』を見てきた。

 老両親が観たいというので、あまり気乗りがしないが、行ったわけである。○ahooのユーザー評などさんざんな言われようだし、第一、今までの作品とずいぶん様子が違うようで、相方も行きたがらないので、今まで延び延びにしていたのだ。なので、予備知識もほとんどなし。YSの生みの親である人物を主人公にした伝記だと思っていた。

 しかし、これはいい意味で裏切られる作品だった。凛とした美しい作品で、さすがだなと思った。

 
(ネタばれを大いに含みますので、これからご覧になる予定で、かつ詳細を知って観たくない方は、ここから先はご遠慮ください)。

 時代は大正の大震災から、国土焼尽壊滅の敗戦に至るまでの、あの暗い時代だが、それをリアルには描くことを敢えて避けている。リアルに描かれるのは関東大震災の場面のみ。これは、主人公とヒロインの出逢いを描く必要と同時に、今現在の私たちもまた、まだ癒えぬ東日本大震災後を生きていることを如実に語っている。地震の場面は、実写では到底描き得ない恐怖を味わわせてくれる。こういう場合こそが、スクリーンを飛び出して生きる以外は何でも可能なアニメの特権だろう。

 前後したが、この作品は、夢の場面に始まり夢の場面に終わる。実在の堀越二郎氏がそのような夢生の罪を犯したわけもなかろうが、ひとりの人間の生き方の象徴として、この夢のイントロとアウトロは実に興味深い。作り手が、この作品はある種のファンタジーですよ、と親切に言ってくれているのである。でなければ、何かしら誤解を恐れたのであろう。本編はそういう誤解を招きやすいかもしれないような、高度のファンタジーである。馬鹿には用がないが、そういう手の込んだファンタジーを好む人には、是非とも見て戴きたい。

 と同時に、この映画が懐かしさを伴った瑞々しい青春映画としても作られていることを、もっと宣伝すべきだったかもしれない。宮崎作品はもともと恋愛要素を濃密に描かない。あくまで思春期的なあどけない恋愛しか取り上げなかった。しかしここで描かれるのは、ままごとのようながらもれっきとした夫婦として生きようとした一対の男女である。そして、その愛が難病によって裂かれて行く過程が、レトロスペクティヴな哀感を催させる。昭和の薫り、と言ってもよい。確かに…難病による悲恋は今でもケータイ小説などに時折見かけられるが、なんといっても、昭和の御代に、多くの読者や観客の紅涙を搾ったものである。

 そしてその恋愛のストーリーはこの作品のファンタジーとも大いに関わっている。何故なら、実在の堀越氏には死別した妻はいないからである(これはネットをちょっと検索すればすぐに判ることで、実在の奥様は須磨子夫人と言って、老年まで達者でいらっしゃったようである)。映画のヒロインの名は菜穂子。実はこの名は、堀辰雄の小説『菜穂子』に因むもので、結核による死別というシチュエーションは同じく堀の『風立ちぬ』を彷彿とさせる。しかし、これも、直接的に原作として映像化していない。あくまでシチュエーションや名前を拝借している。宮崎監督のファンタジストとしての創作の過程で揺曳した幻のようなものだ。

 映画の主眼はなんといっても、「美しい飛行機」を作りたい、という主人公の熱情である。それがたとい軍部によって忌わしい武器として使用されることがわかっていても作りたい気持を捨てられぬ、人間の業を描く。もとより反戦を強く唱えながらも、武器たる飛行機の美しいフォルムに魅せられてきた宮崎監督ならではのジレンマであろう。それをダブル・スタンダードだと言って批判する権利は我々にはない。私たちの日々の営みもまた、どこかの国の戦によって成り立ち、流される血で購われているからである。パソコンを使う時、いや四六時中電気を使う時、原発で故郷を追われた人の悲しみを思っているのは到底無理なことである。しかし私たちの日々の安寧は、誰かの痛み苦しみを犠牲として成り立っている。

 この映画では、零戦の特攻も米軍の空襲も原爆も何も描かれてはいない。ただひとつの夢に懸命に生きた青春を、苦みをたたえて描くのみ。その生き方に、今の世にない「ノブリス・オブリージュ」をひしひしと感じる。かつてエリート=選良と呼ばれる人たちは、無償の努力で国を支え社会を支えたものだが、今の官僚どもはどうであろうか。ただの無駄飯喰いが、ちょいと自分の職業的立場を鼻に掛けて名誉欲や金銭欲を満たしてふんぞり返っているだけならば、この国に未来はない。かつてのエリートが高給を貰ったのは、その「ノブリス・オブリージュ」の故である。いい大学を出ていい肩書を持ち高給取りをもってエラくなったと、勘違いしてはならない。

 しかし、こんな説教を垂れるためにこの作品を引き合いに出すのは、無粋だ。愚かな戦いの戦中、一人のエリート技術者が歩まざるを得なかった道を、見守るだけ。そしてすべてを失っても、心折れてしまわなかったことを喜ぶのだ。「風立ちぬ、いざ生きめやも(風が立ったようだ、さあ生きるべきか、そうだ生きるのだ)」というヴァレリーの詩の一節は、ここで痛切に響く。風に吹かれて逝ってしまった人たちを悼み、今を生きよと言う。これは長らく自信を失くして萎縮していた21世紀の日本人が忘れていた感覚ではあるまいか。

 ついでに言うと、避暑地の場面で、現れる謎の外国人「カストルプ氏」は、トーマス・マンの『魔の山』の主人公ハンス・カストルプからこれまた拝借したものである。『魔の山』のカストルプはあくまで青年として登場し、アルプス山中のサナトリウムで色んな人物と出会い成長するが、ここで現れるのはおそらく初老となったカストルプの姿である。預言的人物として登場し、主人公が特高警察に狙われる端緒ともなる。しかし、彼の語る「預言」はあの戦争の起こる前に心ある人ならば誰しも抱いた危惧かもしれない。「愚かな戦で国がハレツします」という言葉を、今の日本人も、そして洋の東西を問わず、色んな国の人々も、もっと真摯に受け止めるべきだ。

 かくも様々な要素を備えた本作品、子供に見せて容易に理解出来る作品ではない。宮崎監督の持論に「アニメは子供に楽しんでもらえるよう作るべき」というのがあるらしいが、今回ばかりは、その持論を覆している。でも見ていけないのではなく、この日本に不幸な時代があって、その中で人々が懸命に生きたこと、そしてその愚行を繰り返してはならないことを理解出来るようになってから子供に観せてやるべき傑作だと思う。特に今のようなややこしい時代には絶対必要だ。

 この映画は宮崎駿氏の遺言なのだと思う。もちろんまだまだ健在で後進の育成や新たな作品の制作はすべきだが、今これを言いたかった気持はよくわかるので、こちらもそれをしかと受け止めたつもりだ。とにかくなんだか泣けてしょうがない作品だった。戦中に幼年時代を送った昭和ヒトケタの両親もたいそう感動していたが、私はむしろノスタルジーよりも今の時代にリンクする部分で、切実な気持にさせられた。私は宮崎作品の全部に目を通しているわけではないし、アニメ的技巧を云々出来る立場でもないので、こうして語っていても批評するツールを持たず歯がゆいが、今までの宮崎作品のエッセンスもよく盛り込まれていて、私よりもっと知っている人は百倍千倍楽しめるのではないだろうか。観ないのはもったいない。