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ここは管理人が日ごろ思っていることを、思いついた時に取り留めもなく文章にまとめるページです。
なので話題に一貫性も脈絡も、また定期的な更新もございませんので、あらかじめご了承ください。
ついでに、近年はツイッターに書いてしまうため、ほとんど更新がありません。


6世紀のエリートパニック? それとも〜榛名山の噴火遺跡から  2017.10.15(土)
 久しぶりのコラムです。しばらく前から気になっている歴史上の話です。
 その気になっている話題というのは、6世紀(525年〜550年頃)に起きた榛名山の火山噴火で見つかった数々の遺跡の話題です。
 詳細については群馬県渋川市の金井東裏遺跡などの記録を調べてください。
 
 で、何が気になってるのかというと、次の点です。
  (1) 山道で鎧や槍などで武装した男が火山灰に埋もれて亡くなっていた。
     見つかったのは1体のみ。山の神を鎮める儀式に向かっている途中という説が有力。
     単純に家族が心配で、武装して山を見に行った男の最期という見方もあるが……。
  (2) 祭壇の前で祈祷した姿のまま亡くなった男がいた。
  (3) 豪族の屋敷から、母と子供と思われる人骨が屋内の離れた場所から見つかっている。
     屋内の安全な場所に隠れていたとは思えない。だったら母が子をかばって亡くなった人骨が見つかっても不思議ではない。
     ある屋敷では女が台所、子供が広い部屋から見つかっている。避難せず、日常生活をしていたらしい。
  (4) 豪族の屋敷とは反対に、庶民の家からは噴火で亡くなった人骨は見つかっていない。
     突然噴火に襲われたとは考えられない。老人の遺体すらないので、十分に逃げる余裕があったと思われる。
  (5) 火山灰に子供の足跡を囲むように、大勢の人が整然と歩いていた足跡が見つかっている。
     火山灰に残った足跡には乱れがないため、みんな落ち着いて歩いて避難したと考えられる。
 という記録です。
 
 まずは(5)の化石化した足跡の記録。2011.3.11の東日本大震災の時にできた行列を思い出します。あの頃から日本人は、災害に際して庶民はパニックを起こさず、整然と行動していたのがわかります。
 弱い子供を大人たちが囲み、安全な場所へ避難しようとしてたのでしょうね。向かう先は神社でしょうか。
 (4)では老いて寝たきりになった老人の遺骨も見つかってませんので、連れていく余裕もあったのでしょう。
 
 対象的なのが(3)の記録です。庶民たちは身の危険を感じて整然と避難したのに、どうして豪族たちは逃げなかったのでしょう。しかも安全な場所に隠れて震えてるでもなく、子供を離れた場所で遊ばせていたのでしょうか、日常を送っていたとしか思えない姿で亡くなってます。
 このあたりは抱き合ったり、寄り添い合って亡くなった人骨の多いローマ時代のポンペイ遺跡とは大きく異なります。
 
 そして気になるのが(1)の武装して山へ向かった男と、(2)の最期まで祈祷していた男です。
 (1)の山へ登ろうとした人は、(2)に祭壇を作って山の神を鎮める儀式をやってる人がいるので、何をしようとしてたのでしょう。豪族の代表として自分の職責を果たそうと、様子を見に向かっただけでしょうか。それで亡くなったとしたら殉職です。
 でも、同じ豪族の母子を避難させてないところから、殉職するような危険を感じてなかったのかもしれません。
 もしかしたら村を困らせる山の神を退治しようと、完全武装して向かっている途中でしょうか。現在までに見つかったのは1体ですが、他に仲間がいた可能性も考えられます。
 いずれも庶民とエリート層の行動の違いを見ると、東日本大震災の時にも見られたエリートパニックの証拠のようにも思えてきます。
 (2)の祈祷してる男は、まるで福島原発が事故を起こした時の、東電の幹部や通産省の原子力委員会の職員たち。カメラの前では偉そうに状況を語ってますが、不審に思った記者が部屋に乗り込んだら、独自に情報を集めるルートを持たず、ずっとテレビに張りついていた状況と似てるように感じます。とにかく何も知らないけど、神に祈ってるから安心してくれと言っているような……。
 で、のちに行われた裁判でも、「文系幹部は無知で何も知らないから無罪。技師は知識があるから何もできなかったのは有罪」と……。
 裁判所を含め社会全体がエリートパニックを起こしてました。だって、ここで有罪にしたら、文系エリート全員がいつ有罪にされるかわかりませんから。
 
 これと同じことが1500年も昔にあったのでしょうかね。その頃から日本人の本質は何一つ変わってないのかも……。
 
 余談ですが遺骨の成分分析から、山中で見つかった男と豪族の屋敷で見つかった女のうちの1人が、同じ長野県伊那地方の出身だと判明したそうです。兄妹(姉弟)なのか、それとも夫婦で榛名山へ移ってきたのか。今はそんなことまでわかる時代になってたんですね。

男が多く生まれる理由  2017.2.19(日)
 昔から「男は病気になりやすいから多く生まれる」という言説が、もっともらしく聞かされています。そのためすっかり刷り込まれ、その考えに疑問を持たずに来ました。
 この考え方の延長で「昭和の時代は医療レベルが低いので結婚適齢期には女が余る。でも、平成に入ったら医療レベルが上がって男が余るようになった」という説明も耳にします。
 でも、その考え方は本当に正しいのでしょうか。疑問を感じたので、少し触れてみます。
 
オスが死にやすいなら、他の動物もオスが多く生まれるはず
 科学に興味があると、つがいを作る多くの生き物は「オスとメスがほぼ同数」で生まれてくることをどこかで耳にしたでしょう。むしろ性別で出生数に差が出る人間は例外の側です。
 メスに比べてオスが死にやすいのは他の生き物も同じなので、「死にやすいから」という理由なら他の動物もオスが多く生まれてないと理屈が通りません。それなのに一夫多妻制でハーレムを作る動物でも、生まれる時はオスメスは同数です。ハーレムを作るのなら、メスは2倍、3倍多く生まれても、おかしくないはずねのに……。
 
昭和時代でも女が余るほど男は死んでない
 今よりも医療レベルは低くても、戦後昭和時代の日本では、20歳までに死ぬのは1%、40歳まででも2%です。
 仮に結婚適齢期までに男の2%が死んでいたとしても、男は女より5%多く生まれているはずなので、まだ3%も余るはずです。でも、実際には女性の方が余る社会でした。
 この矛盾は、いったいどこから生まれるのでしょうね?
 
人間のオスが多く生まれる理由は、女が年上の相手を選ぶため
 ほとんどの動物はつがいを作る時、同じ歳の相手を選びます。ですが、人間の女に限っては結婚相手として平均2歳半年上の相手を選びます。実はここに、人間が例外的に男を多く生むようになった原因が隠されています。
 さて、人間社会において、長い人口安定期にあっても、実は自然な人口増加速度は年率2%でした。たまに疫病や飢饉、自然災害、戦争などで大勢亡くなるため、長いスパンで見ると人口が安定してるように見えるわけです。
 ということで、人口が自然に年2%ずつ増える社会で女が2歳半年上の男を選ぶと、ちょうど男女の数が一致するわけですね。
 裏を返せば、その2%よりも人口増加が大きい時代では女が余り、反対にそれ以下だと男が余るとすぐわかるでしょう。
 
 実際に昭和の頃は子供の数が増え続けていた時代。一方で平成は少子化問題でもわかる通り、子供の数が減っていく時代。
 まさに人口が増える時代には女が余って、人口が減る時代には男が余っていたわけです。
 けっして医療レベルの問題ではなかったんですね。
 
 以上、常識とし教えられてた理由が、実はただの迷信だったという話でした。

また戦争の歴史が変わる  2017.2.16(木)
 アメリカの情報公開で、また戦前の新しい機密情報が出てきたようです。これでまた歴史が書き換わりますね。
 で、その機密情報というのは、太平洋戦争に関するもの。それもアメリカが、どのくらい軍事情報を手にしていたかというものです。
 
 そのアメリカは第1次世界大戦のあと、次の狙いを日本に絞って、1922年(大正11年)から機密書類や暗号の手引書などをせっせと盗み取って解読してたみたいですね。日本は太平洋戦争の10年近く前から、すでに情報戦で負けていたようです。
 で、その情報戦に拍車をかけたのは、日本人の気マジメさ。特にドイツ駐在武官(阿部中将〜米ニックネームは正直者アベ)があまりにも事細かにドイツ軍の作戦や配備、新兵器の情報を事細かに東京へ報告していたため、それを盗み見るアメリカにも情報がダダ漏れ。おかげでドイツまで危険にさらされたようです。
 ここまで情報を知ってしまうと、本来は「自分も死ぬかもしれない」ために戦争をしたがらないはずの軍人も、逆に血が騒いで「これなら勝てる」と思ってしまうでしょうね。アメリカが妙に好戦的なのは、こんな事情があるからかもしれません。
 
 これらの情報戦が活かされた好例がミッドウェー海戦です。日本側の作戦にも数々の稚拙なところがありましたが、あまりにも米軍に幸運があったように見える戦争の流れも、実は事前情報がかなり詳しくわかっていたからでしょうね。
 たとえば米機動部隊の通ったコース。あれは日本軍がだいたいどのあたりにいて、偵察機をどのように飛ばしてくるのか事前に知っていたとわかっていたと考えると、筑摩機が索敵したあとに海域に入ってきたのは偶然ではないと思えてきます。
 ただ、利根機がカタパルト故障で発進が遅れ、それで機動部隊が見つかったのは日本側にとっての幸運でしょう。でも、それを50分に渡って無駄にしたのは、日本側司令部の完全な落ち度。本来なら空母2隻を失うだけで済んだ戦いを、空母全滅にするほどの大失態です。
 余談ですが、この時の南雲司令、すでに同じ間違いを開戦から何度も繰り返していて、現場から再三直しように陳情されてるんですよね。ミッドウェー海戦では、なんと5回目の繰り返し。そして、この海戦で負けたあともやり方を直さず、第2次ソロモン海戦では龍驤を失ってるんですよねぇ。他にも大事に至らなかったことがもう1回。困ったものです。
 
 このミッドウェー海戦の敗北以降、日本はずっと負け戦を続けるのですが、これには2つの理由があります。
 1つは勢力圏の外側で戦っていたこと。戦いでは本土から遠くで戦う方が不利ですから、むしろ開戦から2年間、勢力圏の外で戦い続けた方が脅威でしょう。太平洋戦争ではミッドウェー海戦以降は日本が劣勢だったと歴史で教えていますが、他の戦史では元の勢力圏より外で戦っている方が優勢と教えています。つまり視点をそろえると、日本はマリアナ沖海戦まで優勢だったことになります。実際に日米の戦力が互角になるのも、このマリアナ沖海戦の直前ですからね。これも自虐史観の一つでしょう。
 それと2つめ。ミッドウェー海戦の敗北で、軍上層部が攻勢から守勢に変わったのも影響するでしょう。責める側に対して、守る側は3倍の戦力が必要です。これは責める側は1点に絞れるのに、守る側は相手に備えて戦力を分散する必要があるからです。つまり、攻め続けていればまだ何とかなったのですが、気持ちが守りになったために見せかけの攻勢を仕掛けて勝手に戦力をすり減らしたんですね。実際に攻めた場所の7割以上は、その後の戦局にまったく影響を与えていません。
 
 とまあ日本側に数々のまずさがあったのは事実ですが……。
 アメリカ側の「これだけ情報が筒抜けで入ってくるのだから、継戦能力の保つ1年以内で楽に勝てる」という思惑に反して、日本とドイツには散々手こずらされたようですね。
 戦場では「戦闘で双方が受ける被害は、相手の戦力の2乗に比例する」というランチェスターの法則が働きます。この計算をする時、アメリカ兵1人の強さを1とした時、日本兵は10、ドイツ兵は12とすると、実際の戦闘における投入戦力と被害の関係がよく合うんですよね。
 つまりアメリカは情報を持っていてなお、物量がないと弱い国だったようで……。
 アメリカが戦後、日本やドイツに対して取っている反応はトラウマというより、こういう数字が表してるのかもしれません。
 それでも物量を活かせる国だからこそ、その後は超大国として君臨し続けてるのですけど……。
 
 
 この情報戦、一方の日本はと言うと……。 
 もちろん日本にも、情報分析に長けた優秀な人材はいました。中でも米軍の動きを正確に予測し、『マッカーサーの参謀』と揶揄された堀中佐のような若い参謀もいました。でも、台湾航空戦の戦果が間違ってると指摘したために「こいつはアメリカのスパイかもしれない」と左遷されて……。
 結果、その後はアメリカのお手伝い……ですか?

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