白峰山永福院の沿革

 沿革
 当山は福岡県糟屋郡新宮町夜臼六丁目二‐十四(平成16年11月からの新住居表示)にあります。京都の聖護院門跡を本山とし、天台修験 宝満山修験道の法灯を伝承する神仏習合の山伏の寺です。住職は、宝満山南ノ坊五十四世 橋信光が勤めております。
 伝教大師が入唐を前に、宝満山に登拝され、入唐求法の平安と航海安全を祈って薬師佛を刻まれ、帰朝後 天台宗六所宝塔の一つ筑前宝塔院(西の宝塔院)を宝満山に建立された史実があります。天台宗と宝満山は往古より深い繋がりがあります。当永福院(南ノ坊)は、鎮西竈門山天台修験の坊として、明治4年 宝満山下山後もその法脈を伝承しています。
 伝教大師最澄が、唐より帰朝の際当地区を通行され、庵をつくり白帆山と称したという古い言い伝えがありますが、そのいわれもあって、山号の白峰山の読み方もシラホサンとなっています。
 
  当山は開基以来、ながらく無住の庵でしたが、1745年(延享二年)、宝満山二十五坊のひとつ南の坊四十三世賢祐法印大和尚が入庵、堂宇を再建。その後しばらく無住の時期をはさみ、1871年(明治四年)、修験道廃止令により宝満山を下りた五十一世賢俊が信者をたよって入庵。爾来、当地で宝満山修験道山伏の寺として今日に至っています。
 明治政府の神仏分離令による山から仏教色を一掃しようとする指令は、勢いのおもむくまま廃仏毀釈にまで進み、全国各地の修験信仰の山を揺さぶりました。宝満山も例外ではなく、仏像は壊され、坊舎堂宇は焼かれ、山伏は神官になるか還俗するかを迫られる中、山の民族信仰、宗教文化は散逸しました。
 宝満山南ノ坊五十一世賢俊は、奉佛派の中心となって理不尽な修験廃止に激しく抵抗したようですが、衆寡敵せず法脈を伝える古文書を密かに携え下山。そして、当時無住であった賢祐法印大和尚 が留錫した南の坊ゆかりの庵に信者をたよって入庵。ここ筑前新宮を拠点に宝満山南ノ坊再興に取り組んだ大講師賢俊大和尚の困苦に耐えた厳しい歴史があります。
 入庵と南ノ坊再興に際しては、曹洞宗 興雲寺十三世 宜戒上人南ノ坊入庵への寛大なる思慮計らいがあり、更に古来よりの信者 新宮湊の萬屋本家、新宮金内屋はじめ、新宮村民による南ノ坊法灯護持への篤い願意があって、そのお蔭で、神仏習合の遠い時代の名残をとどめる、天台修験の数少ない山伏の寺として、今日まで存続しています。
 年中行事の千人参り、宝満山峰入りなどを通じ、菩薩の六波羅蜜行に励み、上求菩提 下化衆生の天台修験の精神を誓願し、社会人としても人本来の清浄な本心に立ち還ることをめざしています。

 本山聖護院と永福院
 宝満山に在った南ノ坊(永福院)は、寛文5年(1665年)本山聖護院(第39世天台座主増譽上人造立)を仰ぎ、本末関係にありました。仏教伝来の往古より、他宗教を排斥しない我が国固有の精神文化の伝統の中で、神仏が渾然と融け合っていました。しかし、この神仏混淆の修験道信仰は明治維新の嵐の中で激しく揺れました。
 王制復古思想が明治維新の発端でしたから、政府は神道の国教化を強制しました。
 1868年(明治元年)神仏分離令が発布され、廃仏毀釈(*末尾に注釈)の運動が高まりました。当時の人びとは、平城・平安の昔から、古人が本地垂迹説(*)をあみ出してまで神仏の融合をはかってきた智恵を忘れたのでしょうね。 なかでも、修験道は、山岳崇拝、神仏一体観の信仰でしたから、明治政府の方針に合わなかったのでしょう。1872年(明治五年)には太政官布告で廃止のうきめにあいます。
 やがて廃仏毀釈は行過ぎであったとして、佛教寺院の多くは元に戻りましたが、山岳信仰の修験道寺院は廃止になったままでした。
 困苦の中辛うじて生き残った全国の山伏は天台宗、真言宗のいずれかに所属するよう促され、南ノ坊は聖護院に従い、天台系修験の拠点天台宗寺門派(当時)三井寺に所属しました。此の事は、伝教大師が宝満山に入山(803年延暦二十二年)されて以来、智証大師・円珍(第五世天台座主.三井寺再興)の宝満山入山や、聖護院の増誉上人が天台座主(第39世)を歴任されるなど天台宗との歴史的繋がりが深かったことによります。
 その後、1950年(昭和二十五年)聖護院が本山派修験道の総本山を顕示し、本山修験宗聖護院門跡として独立した際、当永福院も行動を共にし、古来よりの本末関係を明確にし、聖護院の末寺として現在に至っています。 
 聖護院の開祖は、四天王寺、広隆寺の別当、三井寺(現天台寺門宗本山)の長吏をへて第39世天台座主になった増誉大僧正です。1090年(寛治四年)、白河上皇の熊野本宮ご参詣の際、増誉大僧正がその先達を務めました。上皇はその功により大僧正に一寺を賜り、聖体護持から二字を取り聖護院と勅称されました。
 聖護院は後白河天皇の皇子静恵法親王が宮門跡として入寺されて以来明治維新まで、門主を皇室か摂家が勤める、皇室と関係の深い門跡寺院です。
 そのような歴史から、菊の御紋と法螺貝(修験道の象徴)が聖護院の寺紋“菊法螺”(キクボラ)となっており、当永福院においても使用の認可を賜っております。右上の写真は永福院本堂内陣のもので、紺地五色散雲生地の水引、柱巻きに錦糸で織られた菊法螺紋です。



 
本山 聖護院門跡 宸殿での高祖会に参列 式衆として七条袈裟を装着した時の住職と副住職の写真です。


  ◎祈願、祈祷ご案内
   
*星祭り  一年の星吉凶による厄除け、開運招福 
   *水神上げ、地鎮祭、家祓い、三宝荒神祓い
   *心願成就の護摩祈願
   *開眼 新造仏像、堂宇などの入魂
   *撥遣(はっけん)=閉眼 不要になった古札、お守りや古い神棚などを天上界へ奉還(焼納処分)

  ◎供養回向ご案内
   *ご先祖への回向、法要 
   *葬儀、法事
     天台宗系修験(聖護院門跡)の無常作法でお勤めします。宗旨宗派は問いません
   








  


 
修験道は、役の行者によって開かれた教義ですが、詳細は「千人参りと修験道」のページ又は、リンク聖護院   ホームページをご覧下さい。

 本山聖護院の寒中托鉢行
 
住職信光が毎年出仕する年中行事の一つで、1月8日より1週間京都市内6,000軒の信徒の家々を、隊を組んで拝んで歩き 、1年間の家内安全、業運繁栄を祈願するものです。集まった浄財の一部が市の社会福祉事業団に寄付されます。本年も  開白より四日間托鉢に参加しました。    (この4枚の写真上をクリックされれば、拡大されたものと説明をご覧いただけま す。)




 千人参り120年祭 

 2000年10月14日、千人参り開創120年、役の行者千三百年御遠忌を記念し、聖護院ならびに宝満山修験会の方々のご助法を得て、山伏たちによる護摩供法要を営みました。左の写真はその折のものです。
  ちなみに、当地区は夜臼(ゆうす)とよばれていますが、これは、神功皇后が西征のみぎり当地に露営され、村民が兵糧米を中まででついている物音を不審に思われ 、お尋ねになったことに由来しています。
 また、この地で、昭和26年(1951年)、日本で初めて縄文晩期の土器が発掘されまし た。標式土器として夜臼式と呼ばれています。

 (注)
 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
 …仏法を廃し、釈迦の教えを棄却すること。1868年(明治元年)神仏分離令が出され 、神社と仏寺との間に争いが起こり、多くの寺院、仏具、経文などの破壊運動につながった。(岩波ー広辞苑) 平安時代以来 寺院と神社は神仏習合の永い歴史がありますが、明治政府によってとられた神仏分離政策に伴う争いで、寺院が焼かれたり、仏像仏具が破壊されたり、僧侶が還俗したり神官になることを強いられるなど仏教の排壊が行われたが、その運動の総称。のちに神仏分離は廃仏毀釈の意味ではないとの関連法令が出され、運動はおさまり寺院の復旧運動が展開された。
  本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)
 …絶対的な存在・仏陀(これを本地という)が、衆生を救済するために迹(あと)を諸方 に垂(た)れ、神となって現実の世界に形を現すという説。法華経に起因、現実の釈迦 を垂迹とする説を、日本の仏と神に応用したもの。神仏習合の試みと言える(角川ー  日本史小辞典)。
 神は仏の化身、権現であるとする平安時代に起こった垂迹思想で、宝満大菩薩、八幡大菩薩のように神に菩薩号をつけたり、神前での読経などの行法を指します。例えば、熊野山の本宮、新宮、那智の熊野三社(熊野権現)の本地仏は、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩とする神仏習合の信仰などがその例といえます。


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