「中村仲蔵」

                 栄楽江戸の三座を訪ねる!

              市村座跡   台東区浅草6−20
              

  落語はいろんな世界を題材にして作り上げられているが、芝居をとりあげたものを芝居噺と呼んでいる。この噺はその代表作といえる。この芝居噺の中で一番多く取り上げられているのは『仮名手本忠臣蔵』である。この狂言は江戸の頃から誰でも知っていて、人気があり、落語作者も落語に取り入れやすかったのであろう。他に『淀五郎』『七段目』『四段目』『五段目』などがある。

 この噺を演じたのが八代目林家正蔵、六代目三遊亭円生、古今亭志ん生などであるが、私栄楽の『中村仲蔵』は師円楽から受け継いだものであるが、師は正蔵師から教わったとのことである。円生師のものは中村仲蔵一代記風にまとめられ、仲蔵の生い立ちから始まり、五十分ほどの大作であるが、正蔵師のものは三十分ほどでコンパクトにまとめられ、それぞれオチも異なっている。

 登場人物は芝居の取り締まりであり、仲蔵を名題に抜擢した座頭の四代目市川団十郎、主役の仲蔵と妻吉、そして仲蔵の師匠中村伝九郎、その他大勢である。

 団十郎に名題にしてもらった仲蔵、昇進後初めての役が何か心待ちしているところへ来た役が、五段目斧定九郎一役だった。現在この役は名優が演じるものになっているが、当時はパッとしない、名題の役者が演じる役ではなかった。仲蔵はこれを見てがっくり、やる気を失い、この役を当てた団十郎を恨むのである。しかし妻お吉は「お前さん独自の、誰もやってない斧定九郎を拵えて」と叱咤激励はっぱをかけるのである。

仲蔵は女房の願いに答えようとこの役に取り組むがどうしてもいい物が出来ない。信心している柳島の妙見様に二十一日の願掛けをした。その後利益か、帰りにサムライに出会う・・・

 

●中村仲蔵の生い立ち!

初代中村仲蔵は元文元年(一七三六)生まれ、寛政二年(一七九〇)五十四歳で亡くなっている。

仲蔵の生い立ちは恵まれたものではない。元文元年(一七三六〜)ころ中村座に出ていた長唄の中山小十郎は子供がない、何とか子を授かりたいと平井村(江戸川区平井)の聖天さまに中川を渡ってお参りに行く。いつものように船に乗ろうと船着場に行くと三・四歳のぼろをまとった男の子がいる。聞いてみると船頭の妹の子供で、両親と死別したとのこと。この子を養子にし、芸を仕込む。しかし全く上達をしない。そこで役者はどうだろうと踊りを習わせると、水を得た魚のように馴染むのである。

 七歳の時に中村伝九郎の弟子になり、初代中村仲蔵が誕生した。子役の頃は重宝がられ忙しくしていたが、大人に近づくにしたがって役も無く一時廃業をした。十九歳の時に忘れられずに芝居の世界に戻っている。

●この噺に出てくる五段目の斧定九郎てどんな人物

 『仮名手本忠臣蔵』は元禄十五年十二月の十四日赤穂浪士の討ち入りを描いたものであるが、この討ち入りから四十六年後、寛延元年、竹田出雲・三好松洛・並木千柳の三人の合作で浄瑠璃本として誕生した。

登場人物、時代背景は幕府の干渉もあり、室町時代、名もその当時の高官、高師直、塩谷判官とし、大石蔵之助は大星由良ノ助 斧定九郎は実在の家老大野九郎兵衛の息子の名から取り、大野を斧に、早野勘平は菅野三平で、フィクションも加えて構成されている。

 早野勘平は腰元のおかると色恋沙汰の末、おかるの故郷山崎に落ち着き、猟師になっている。しかし噂に聞く主君の仇討ちに加わりたい。ある夜山崎街道で朋輩千崎弥五郎に出会い、仇討ちに加えてもらうように頼む。千崎は仇討ちの大事が漏れては大変と企てなどないと言うが、しかし亡君の石碑を建てるために御用金を集めているという。勘平はそれが仇討ちを示すことを悟る。

 おかると父与市兵衛は勘平の心を察し、相談のうえ、お金を作るために、おかるが祇園に身を売ることを決める。与市兵衛は娘を売り、五十両を縞の財布に入れ、帰ろうとするとお家滅亡後、追い剥ぎをしている斧九太夫の息子定九郎とであう。定九郎は与市兵衛を殺す。そこへ猪が登場する。

 千崎と別れた勘平は山越えする猪を追いかける。そして猪に向かって発砲する。当たったのが定九郎。勘平は猪ではなく人だったので、あわてる。薬はないかと懐に手を入れると五十両。このお金を千崎に渡すことになるのである。

 

●歌舞伎の階級はいくつある

噺家の階級は前座 二つ目 真打の三段階であるが、芝居のほうは多い。時代によって違ってくるのであるが、名題 相中 中通り 下立役(稲荷町)となっている。

 

●役者の屋号と俳名とは何だ

役者は屋号と俳名をつけるが、江戸の頃表通りに住む場合は屋号を掲げ、商売をしなければならなかった。その屋号が役者の屋号に使われるようになった。初代市川団十郎は白粉を売り、成田の不動尊を信心していたところから、屋号が成田屋となった。また、役者は俳句のたしなみがあり、俳名をつけた。市川団十郎は才牛(さいぎゅう)と名乗ったのであるが、後に俳句を作らなくても俳名を付けるようになった。



                     仲蔵が出た中村座地図

                     Hが猿若町の江戸の三座
              


                         仲蔵の住所  日本橋住吉町