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◆平成家族考 43


最近の書店には、「国家の品格」、「企業の品格」、「人間の品格」、「女性の品格」など品格に関する本が沢山並んでいます。 また、テレビでも「ハケンの品格」が連続放映されて評判を呼びました。まさに品格ばやりです。 いずれも昔はあった(?)が今は喪われている品格を取り戻そうとか、あるいはどのような身分や仕事であっても、 それに見合った品格を持つべきだというようなもので、どうも日本はどこをとっても品格に欠けているようです。

品格とは、その人が身につけている品位、風格ということのようで、 気品、奥床しさ、厳かさ、矜持、潔癖さ、誇り、自尊心、責任感などがキーワードとなるようです。 品格の対極にあるもののキーワードは、下品、下劣、下種(げす)、恥知らず、卑しさ、汚さ、無責任などのようですが、 「偽」の年と締めくくられた昨年は、食品会社の偽装、有名老舗の偽装、政治家や官僚の汚職などがマスコミを賑わせ、 社会的責任のある地位にありながら、拝金主義に取り憑かれ、露見しなければ何でもありの恥知らずで、無責任な経営姿勢にうんざりさせられました。 これでは、改めて企業や官僚の品格を云々したくなります。 こうなったのは、人間関係が希薄化し、自分のことしか考えず、他人に迷惑をかけても少しも恥と思わない無責任な人々が多くなり、 日本が自己愛社会となりつつあるからだ言われています。 個人のレベルでは、早くから自己チュウ(自己中心的な性格)の大人が増え、団地のゴミ出しのルールを守らない、 電車や公共施設でのマナーを守らないなどは今に始まったことではないのですが、 子どもの問題で学校に呼ばれて時給を要求する親、子どもはまずい給食を食ってやっているのだから給食費は払わないという親など、 モンスター・ペアレントたちの出現には驚かされます。このままでは幼稚園や学校が崩壊すると警告する本も出版されています。

そこで今回は、自己愛と大人の品格の関係について考えてみたいと思います。

第1 品格

「品格」が「イナバウアー」とともに2006年の流行語大賞になるほど品格ばやりで、品格本がゾロゾロ出版されるようになりました。 それまでは、品格という言葉は死語に近いぐらい忘れられていたような気がします。 新しい車や家などが発売されるとき、「気品あふれる」とか、「品格のある」とかの宣伝がされることはありますが、 人については品格、気品などとは呼びづらい状況があるのかもしれません。 その代わり、エラい人たちが破廉恥なことをして捕まると、マスコミから一斉に「〜の品位をおとしめた」とか、「〜の品格を汚した」などと非難され、 ああ、あの人たちは品位、品格のあるべき人たちだったのかと、そして、謝罪会見の様子をテレビで見て、 品位も品格も感じられない人たちであることを知って、これでは悪いことをするだろうと納得します。 しかし、発覚して捕まることがなかったら、立志伝中の社長、あるいは伝統の老舗ののれんを守る女将として、品位や風格のある人と見られていたかもしれません。 品格とか品位は、本来は地位や身分を抜きにしても、その人から自ずとにじみ出てくるものなのでしょうが、 肩書きや地位に惑わされることが多いように思われます。

あるTV番組で、「品格のある有名人といえば?」という問いに対して、芸能人であるパネラーの答えは、 「イチロー、吉永小百合、王監督」だったとのことです。政治家や社長は危なくて選べないということかもしれません。

世界中からエコノミックアニマルと蔑称されるようになった日本人に、品格を求めることは無理かと思っていたら、 「エコノミックアニマルの品格」という本が出てびっくりしましたが、何にでも品格は求められるのだと感心もしました。

第2 自己愛

自己愛は、小此木啓吾著「自己愛人間―現代ナルシシズム論」(朝日出版社・昭和56年)の発刊以来、現代人の心理を語る重要なキーワードになってきました。 自己愛に関する本も、沢山書店に並べられています。 その中で、自己愛が学者や精神医学者等によってどのように説明されているかを、 大渕憲一著「満たされない自己愛―現代人の心理と対人葛藤」(ちくま新書・2003年)から借用して見てみましょう。

自己愛とは、自己にとらわれている心理を表すもので、程度の差はあれ誰にでもある普通の心理です。 学者たちは、自己愛が次のような心理と行動に偏るときの問題を論じていると大渕は整理しています。

第1に、自己愛は、自己中心性という意味で使われています。自分の利益にしか関心がなく、他の人へのいたわりや同情の乏しい人を自己愛人間と呼んでいます。 他人のことよりも自分の都合を優先するといった利己性は、誰もが共通に持っている人間の本性ですが、社会生活をする上では、 マナーとかルールなど社会的約束事に従って、ときには利己心を抑えて他人を優先させたり、困った人に手を貸すとか、会社のために頑張るなど、 個人的利害を度外視して行動したりすることが必要で、ほとんどの人はそうしています。 しかし、一方では、徹頭徹尾、自己中心的に生きる人もおり、個人差がありますが、自己中心性の強さは自己愛の偏りの強さを反映していると言えます。

第2に、自己愛は、自己関心という意味で使われ、自分のことにしか関心がないという関心の狭さを指しています。 他の人たちや世の中がどうであろうと、自分には関係がないという社会的関心の低さです。

大渕は、どうして最近の人々が自己愛人間になったのかについて、『「自己チュー人間」の時代』を書いた町沢静夫の分析を次のように紹介しています。 つまり、「戦後、日本社会の価値観が一貫して個人の幸福こそ至上のものだという個人主義に傾斜した結果、自己チュー人間が増えた。 個人主義自体が悪いのではない。貧しい社会では、互いに助け合わないと生きていけないので、人々は否応なく他の人たちと関わりを持たざるを得ない。 やむを得ず関わりを持ってみると、人づき合いは一人では得られない様々な喜びや楽しみを与えてくれることに気づき、 それが生活に活力を与え、関心の幅を広げてくれる。 しかし、人づき合いには気疲れと多少のストレスはつきものなので、関わっていく必要がない、つまり社会が豊かになって助け合う必要がないとなると、 人間関係の幅を狭め、人間関係を希薄化させ、それが高じると自分のことだけにしか関心がない若者が出てくることになる」というものです。

第3に、自己愛は、自分に都合のよいように歪められた認知、つまり自益的認知の意味に使われています。 誰でも自分に都合の悪い情報は無視し、好都合な情報だけを取り上げ、主観的で歪んだものの見方をしますが、その傾向が強い人たちがいます。

このように、大渕は、自己愛について書かれた著述をもとに、自己愛で説明されている心理を自己中心性、自己関心及び自益的認知の3つに分析した上で、 これらは自己愛から派生したものであって、自己愛の本質ではないと断じています。 自己愛の本質は自尊心だと大渕は言います。

自己愛=ナルシシズムという言葉は、ナルキッソスという美少年が水に映る自分の姿に恋をして、水仙の花に姿を変えられたという神話に基づいています。 この神話からも「自分を愛する」ことの究極には、自己讃美と自己陶酔があることが分かりますが、自尊心の本質こそ自分に対する肯定的な自己評価であり、 それに伴う快適な感情です。 自己中心性も自己関心も自益的認知も、自己愛の本質である自尊心を満たすための歪んだ手段に過ぎないというのが大渕の考えです。 自己愛人間が富や栄誉にこだわるのは、富や栄誉が自分の自尊心を満たしてくれるのではないかと錯覚しているからだということになります。 自己中心性などの歪んだ手段によらずに、自尊心を高める方法はないのでしょうか。

第3 自己チュウとモンスターペアレントたち

若者たちが「あいつは自己チュウだから」と言うときは、人を押しのけても自分の利益を追求するといった積極的な利己性(いわゆるエゴイズム)よりも、 そもそも他人のことに関心がない、あるいは人との関わりが重要ではないと思っている人の自閉的な姿勢を指していることが多いようです。

しかし、一般的には、自己愛人間の中でも積極的に自己中心性を発揮する人を自己チュウと呼んでいるようです。 地域、職場あるいは家庭など集団生活、社会生活をする上で、常にトラブルメーカーとなりやすい人です。 なぜなら、自己チュウ人間は、次のような行動傾向を持っているからです。

@自己チュウは自分の子が一番という自子チュウでもある。 A独りよがり、身勝手、非常識である。 B他人の迷惑を考えない。 C共感性がない。 D特別扱いされるのを当然だと思っている。 E人の評価がころころ変わる。 F平気で人を利用する。

「悩める教師を支える会」代表の諸富祥彦著「モンスター・ペアレント!?―親バカとバカ親は紙一重」(アスペクト・2008.1)が出版されました。 保護者からのクレームや教師攻撃により、うつ病になって休職したり、余儀なく退職したりする先生が急増しているとのことです。 30人ほどの親に囲まれて、すごい目つきでにらまれ、一斉に「あんたなんか教師失格だ!」、 「あんたのせいで、うちの子がダメになったらどうしてくれるんだ!」と何時間も罵声を浴びせられ続ける、まるで親集団による教師いじめであって、 しまいには、その場で「教師を辞めるという確約書を書け!」などとすごまれる。 「教師には何を言っても構わない。教師には人権など存在しない」と親たちは思っているかのようであると書かれています。 個人で荒れ狂う親もいるが、最も怖いのは、ファミリーレストランにたむろしたり、メールを交わしたりして特定の教師の悪口で「炎上」し、 暴走親集団が結成された場合で、自制心を失ったヒステリックな親集団により、精神的なリンチに遭わされることだとのことです。もちろん、 このような非常識な親はほんの一部で、9割以上の親は、学校とも常識的につき合えるのだが、一部の親があまりにひどいので学校現場は混乱し、 教師に大きな心の傷を負わせているとのことです。読売新聞が全国73主要都市の教育委員会に、公立小中学校における親のクレームについて調査したところ、 40の教育委員会が「親の身勝手な要求や問題行動に苦慮している」と回答したと紹介されています。 具体的な例では「ウチでは子どもに掃除させていないから学校でもさせないでほしい」とか、子どもが自転車で事故を起こすと「学校の指導が悪い」と言う親などです。

自子チュウの親からは「運動会でウチの子が1等になるはずだったのに2等になってしまった。何とかしてほしい」とか、 小学校の学芸会で「なんでウチの子を主人公にしないんだ。 ウチの子だって白雪姫のドレスが着たいんだ」と父親が騒ぎ立てて収拾がつかなくなり、教師の苦肉の策で全員が白雪姫になるという珍劇が上演されました。

学校でケガをした生徒を病院に連れて行ったところ、親から「あの病院はウチからちょっと遠いんです。 これから5回連れて行くのに、タクシーを使う必要があるんです。あの病院に勝手に連れて行ったのは先生ですよね。 悪いけど、タクシー代5回分、払っていただけますか?」と迫られたというのです。 著者は、困った親を次の4タイプに分けています。

  • @ 放任型の親で、子どもの面倒を見たくない、面倒くさいというタイプ。
  • A 支配型の親で、「ちゃんとしなさい」、「何度言ったらわかるの!」、「アンタ、バカじゃないの!」と叱り、教師にも態度から指導力まで、クレームをつけるタイプ。
  • B 家来型の親で、何でも子どもの言いなりで、子どもに嫌われたくなくて何でも買ってやり、先生より子どもの言い分を鵜呑みにするタイプ。
  • C 不平不満型の親で、ストレスのはけ口として教師を利用し、子どもにも教育にも熱心ではないのにクレームだけはつけにくるタイプ。

著者は、1995(平成7)年あたりを境に親が変わり始めたと言います。 「ウチの子が悪さをしたのは、あんたたちの態度が悪いからだ。あんたたちが謝れ」というような、「言いたい放題」という感じの親たちが出てきたとのことです。

この時期は、本誌第36号「戦後の若者群像を見る」の中で団塊ジュニア世代と呼んだ人たちが、親となって学校の先生たちと接するようになった時期です。 団塊ジュニア世代が中学、高校生になったころ、援助交際が横行し、「体を売って何が悪い」と開き直られ、大人たちは常識やタブーが通じない世代が出てきたことに驚きました。 その世代の一部の人たちがモンスター・ペアレントとなっているのでしょう。

第4 大人の品格

阪神淡路や新潟の大震災のとき、全国から若者たちがボランティアに駆けつけました。 今にして思えば、あの若者たちが示した凛とした健気さこそ大人の品格だったのではないかと思います。 それは自己チュウとは対極にあるものでした。 そして、ボランティア活動を終えて帰って行くときの若者たちの顔は、人の役に立つことができたという実感で自尊心が高まり、 自信と矜持に満ちた人の顔になっていました。 これこそ、大渕が言うように、自己中心性、自己関心、自益的認知などの歪んだ手段なしで自己愛の本質である自尊心を手にしたからでしょう。

地位や富はなくても、他人を思いやり、弱いものをいたわり、困っている人に手を差し伸べる勇気があれば、品格は自ずとにじみ出てくると思います。 東洋大学が募った第21回「現代学生百人一首」の入選作には、弱いものへのいたわりと温かいまなざしがあふれています。

「おばあちゃんさっきも言ったよその話忍び寄る影そっと肩抱く」(高3・関口亜沙実)

この人たちがこれからの高齢社会を支えるために、お互いに助け合うとき、そこは、今言われているような自己愛社会ではなく、 博愛と相互扶助の気風に満ち、自尊心と品格を持った大人の多い社会となっていると期待したいものです。


【「ふぁみりお」43号の記事・その他】

「戦前の子どもにもかなりのワルがいたー管賀江留郎著「戦前の少年犯罪」を読んで」 

海外トピックス43 「デートDVの撲滅をめざして―DVの悪循環を止めよう」
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